Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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7 釈尊の入滅  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

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2  最後の遊行地――クシナガラ
 野崎 釈迦族滅亡のあと、釈尊は一度、マガダ国のラージャグリハ(王舎城)に戻り、そこにしばらく滞在しています。ラージャグリハにいるあいだは、竹林精舎等を根拠地としていたようですが、雨期でない場合は、しばしば郊外のグリドゥフラクータ(霊鷲山)に登り、そこで過ごしたことも記録されています。そして、釈尊最後の遊行も、このグリドゥフラータから出発しています。
 池田 グリドゥフラクータは、法華経の会座の一つとなっているが、このような山で、説法をしたこともあったのだろうか。
 野崎 ええ、いろいろな文献から判断しますと、釈尊は、マガダ国にあっては、このグリドゥフラクータが好きであったのではないでしょうか。それでよく多数の比丘と連れ立って、霊鷲山に登ったといったことが伝えられています。
 ですから、そこで機に応じ、時に感じて、法を説いたという事実も、十分あったと思われます。
 池田 グリドゥフラクータそのものは、そんなに高い山ではなく、だれでも登ることができたようだ。全体に岩山で、『大智度論』によれば、その頂上の岩の形が鷲の形に似ているところから、霊鷲山とつけられたようです。近くには、インドでは珍しく湯も出ており、頂上から見下ろすと、眼下にうっそうとした森林が広がっているそうですね。
 そんなところから出家者にとっては、理想的な場所であったのであろう。そして、ここでも、多数の弟子が釈尊の教えをうけ、それらが後年、数々の経典としてまとめられていったのでしょうね。
 野崎 ええ、最後の遊行のときも、釈尊は、このグリドゥフラクータで疲れをいやし、それから北の方向をめざして、進もうとしています。当時、すでに八十歳。
 しかし、なお民衆化導のため、高齢を顧みず、遊行の旅に出た、その姿は、後人の感動を呼んでいます。
 池田 真の殉教者の実践です。最後の瞬間まで、民衆を忘れず、法のために、布教を貫き通していますね。そして自身の生命も躍動させきっている。精神的には、依然若々しい、清水のような清浄で闊達な境地に住している。
 しかし、肉体的には、かなり衰弱のあとがみられたのはやむをえません。旅の道中に、おいて、侍者アーナンダに、次のように語ったことが『大般涅槃経』には説かれていますね。
 「わたしはもう老い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。わが齢は八十となった。譬えば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いて行くように、恐らくわたしの身体も革紐の助けによってもっているのだ」(『ブッダ最後の旅』中村元訳、岩波文庫)
 これで見る限り、釈尊は、肉体の衰えをはっきりと自覚している。それで、最後の遊行はクシナガラで終わっているが、地図をみると、ガンジス河を渡って、自身の故郷であるカピラヴァストゥの方向をめざして進んでいったのではないかと想像されます。
 老衰した自己を振り返って、もう一度、故郷の土を踏もうという心境が起こってきたのかもしれませんね。しかし、事実は、その途中のクシナガラで入滅したわけであるが……。
 野崎 最後の遊行の進路は、まずマガダ国のパータリ村からガンジスを渡って、ヴァッジ国に入っています。その途中で、例によって、さまざまな人に、さまざまな説法をしながら進んでいったことは、いうまでもありません。そして、そのつど、法を聞いた人びとに深い感銘を与えている。
 それは、これらの説法が、経典に数多く残されていることから明らかなのですが、いまさらながら、一瞬一瞬に全力を尽くして、人びとの心に覚醒の火を点じていった、この巨大な宗教者の、広く豊かな魂に、心を洗われる思いがしてきます。それはさておき、ヴァッジ国の首都ヴァイシャーリー(毘舎離)の郊外の林に、釈尊が着いたとき、有名な話が残っています。
 その林は、アームラリーという娼婦の所有する林であった。この娼婦は、かねてから釈尊に帰依しており、釈尊が自分の林圏に来ると聞いて、さっそく、釈尊のもとに駆けつけた。そして、そこで法話を聞いた感謝の意として、食事に、釈尊を招待することを申し出た。
 林では、このあと釈尊の来臨を聞き、駆けつけた貴公子たちで賑わった。釈尊は、これらの高貴な人びとにも、心から法を説き、彼らを感激させた。釈尊の説法を聞き、喜んだ彼らは、アームラパーリーと同じく、食事に釈尊を招待することを申し出た。しかし、この申し出に対し、釈尊は、すでに娼婦アームラパーリーとの先約があることを告げ、丁重に断ったといわれている。これは、釈尊が、どんな人にも、身分の隔でなく平等に対したことをあらわす有名な美談の一つですが、先約を守るという世俗のルールも、尊重していたことをあらわしています。こんなことは当然のように思われますが、釈尊は、社会人としては、ある意味では、最も常識的であり、人間的であったことを示す例ともいえると思います。
 池田 釈尊には、超人格的な形容がつけられて、われわれも、そうしたイメージでみがちですが、実際の釈尊は、一般的な次元においては、きわめて常識的で、温和な人格であったといってよいでしょう。
 「一切世間の善論は皆この経による」とか「一切世間の治生産業は、皆実相と相違背せず」等の経文がある。これらの意味するところは、仏法とは、最高の人倫の基となるべき道である。故に、俗世間の事柄とまったく相反するものではない。否、最高の社会での振る舞いや行動、態度というものをつきつめていけば、仏法の精神のなかに包含されてしまうということだ。
 このことは逆にいえば、信仰者は、その時代の最もよき社会人であり、常識人であり、見識をもった人でなければならないことも示しています。
 野崎 さて、貴族たちの申し出を断り、翌日、娼婦アームラパーリーの家に招待された釈尊は、そこで食事したあと、彼女のために法を説き、諭し、深い感銘を与えて、立ち去ったとあります。
 そして、このあと釈尊は、アーナンダと二人で、竹林村に止まり、最後の雨安居に入った。それまで従っていた弟子は、雨期をしのぐため、いずれも縁故を求めて四散した。
 池田 この最後の雨安居のときに、釈尊は大病を患うわけですね。その病名は定かでないが、相当激しい痛みをともなう病であったといわれる。しかし、ここでの病は、一応、釈尊は、自身の力によって克服し、苦痛を打開したことになっている。
 側に付き添っていたアーナンダは、釈尊の病苦になす術を知らなかった。しかし、釈尊が、われわれ弟子をおいて死ぬわけがないと思い、それほど憂慮していなかったとも伝えられていますね。
 いわば、弟子たちは、完全に釈尊に依存していたわけですね。安心して頼り切っている。このアーナンダの姿勢をみた釈尊は、言うべき時がきたことを知って、次のように述べたとされている。
 「アーナンダよ。修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか? わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。まったき人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳にぎりこぶしは、存在しない」(前出)
 つまり自身は、すでに一切の法を説いている。自分の説いた法以外に、自分に何かを求めても無駄である。あとは、その法をもとに進んでいけばよいのである。このような意味あいが、この言葉には感じられるね。
 そして、さらに言葉を続けて、教団において自分がとってきた姿勢を次のように述べたといわれる。
 「『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とこのように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。しかし向上につとめた人は『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とか思うことがない」(前出)
 すなわち、ここでは、釈尊は、教団の指導者であることを否定して、自分もまた、ともに法を求める人びとのなかの一人であったことを宣言しているわけです。釈尊が、いかに謙虚であったか、その人生のすべてをあらわしている言葉であるといっても過言ではない。
 つねに弟子に対しては、真実の人生を求めて、同じ思想と目的のもとに集まった同志として、法友として遇していたことを物語っている。この態度と姿勢が、じつは最も強い姿勢であるともいえますね。
 野崎 また、アーナンダらをはじめ、依然として釈尊に頼っている姿勢を、それによって打ち破ってもいるのですね。釈尊自身を頼るのではなく、釈尊が弟子とともに励み、説いてきた法をもとに、生きていくのだという教誠が、ここにも出ていますね。
 池田 そう。釈尊は、自身の入滅の近きを知って、入滅後の教団のあり方、弟子のあり方を、このあと、遺言している。
 「この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」(前出)
 これが「法に依って人に依らざれ」をはじめ、有名な自帰依、法帰依の説法ですね。釈尊入滅後、頼るべきものは、何か。それは、己れ自身であり、釈尊の説いた法そのものである。それ以外にはない。
 己れ自身というのは、少し頼りにならないのではないかと思いがちだが、そうではない。ここに、釈尊が弟子に望んだ、最も厳しい修行者のあり方、主体的な責任というものが、よくあらわれているのです。
 ここにいう己れ自身とは、縁によって、すぐ改変してしまう自己ではなく、法によって、いつも不壊なるをめざす自己自身ですね。それが確立されれば、仏法の一つの本義は具現したことになる。あとは、民衆救済のための実践と、法の久住のための努力のみである。
 仏法の求めるものは、他者の依存でもなければ、他者からの救済を待ちうけることでもない。己れ自身に、曇りなき鏡を確立し、それを、一切の伴侶として進んでいくところにある。法とは、まさに、そうした自己を構築せんがための、拠り所である。しかも、その法とは、また自己の外に存在するのではなく、自身の生命の内にあるものなのです。
 野崎 後年、中国の天台大師の『摩訶止観』中にある「己心の中に行ずる所の法門を説く」(大正四十六巻1㌻)という言葉も、このことですね。
 池田 そうです。こういう仏法のあり方は、最も個人の尊厳と主体性を重んじた宗教であるといいたい。他の、いかなる宗教とも異なる点ですね。他の宗教では、自己の外に絶対者を設定する。
 しかし、仏法では、そうした絶対者の存在はない。絶対なるものは何かといえば、生命の法であり、その法は、自己自身の内にあるものそのものですね。
 あとは、それを個人が、いかに自覚して、引き出すかの問題である。法と冥合した、あるべき自己に信をおき、その昇華された次元から現実の自己を変革していく。そこに、人間主義、人間変革の宗教の真髄があらわれています。
3  鍛冶工チュンダ
 野崎 この雨安居うあんご期が明けて、チャーパーラという霊樹の下に休んでいたとき、釈尊は「この世界は美しく、この世に生きることは楽しいことだ」という感懐をもらしたことが伝えられていますね。
 池田 これは、いささか文学者的な眼があるようにも思えるが、釈尊の生涯を振り返っての、偽らざる実感として、滋味あふれる言葉ですね。人間、死期を感じたとき、この世界を、どのような心境でみられるか、これは芥川龍之介が、自殺の直前に「自然はかう云ふ僕にはいつもよりも一層美しい。(中略)僕の末期の目に映るからである」(『芥川龍之介全集』8、筑摩書房)と言い残しているが、おそらく釈尊の、この言葉には、惜別する現世への感傷ではなく、所願満足の、充実した自己の境涯への感慨が込められていると私には感ぜられます。
 野崎 美しい眺めのヴァイシャーリ(毘舎離)に別れを告げ、釈尊は、アーナンダ(阿難)と連れ立って、なお、法の旅を続ける。その間、いくつかの村を皆、その場所ごとに、法を説いたあとで訪れた先は、パーヴァー村であった。ここで釈尊は、この町の鍛冶工チュンダ(純陀)から手厚いもてなしをうけ、チュンダの所有するマンゴー林に、しばし滞在した。
 池田 チュンダというのは、まったく名もなき鍛冶工であるが、この人物が、釈尊の入滅に直接かかわることとなってしまった。チュンダは、釈尊から種々の説法を聞き、また自らも質問して、数々の教えをうけた。
 それで感動したチュンダは、釈尊に、真心からの食事の供養をした。この食物は、きのこ料理であったといわれるが、おそらく喜びに打ちふるえたチュンダの、誠心誠意の供養であったのであろう。
 釈尊も、このチュンダの純粋な心をうけ、彼に、王族やバラモンたちと何ら変わることのない丁寧な言葉と礼儀をもって接した、といわれる。
 野崎 しかし、不幸なことに、身体の衰弱していた釈尊にとって、チュンダの捧げた食物が、かえって病を誘発する原因になってしまった。釈尊は、食事後、ふたたび激しい苦痛を覚え、重い病にかかってしまった。
 ここでも、病名は明らかでないのですが、赤い血のまじった下痢といわれているところからみても、赤痢では、なかったかと考えられています。
 池田 しかし、釈尊は、けっしてチュンダをとがめることはなかった。否、むしろアーナンダに、チュンダを恨んではならないことを述べ、彼の真心の供養の姿勢を、称賛したとされています。、おそらく、これは、本当の釈尊の気持ちであったにちがいない。
 名もなき庶民が、純粋一途の気持ちから、供養したのです。それがもとで、病気が再発したとはいえ、それは一つの縁であってチュンダ自身に責任があるのでは、もとよりない。ともすれば、チュンダを責めようとする人間の心の機徴をとらえて、釈尊は、このように諭したのでしょう。
4  入涅槃
 野崎 釈尊は、激しい苦痛にもかかわらず、アーナンダ(阿難)をともなって、ふたたび弘教の旅に出ます。しかし、すでに八十を過ぎた高齢の肉体は、急速な衰えをみせ、病の再発は、その旅の前途をさえぎってしまった。
 それでも、ようやく着いたのが、クシナガラです。そして、ここが釈尊の最期の地となってしまった。
 池田 クシナガラは地図でみると、釈尊の故郷カピラヴァストゥ(迦毘羅衛)から、東南方にある町ですね。かなり距離はあるようだが、一歩一歩、カピラヴァストゥに近づいていたことは間違いない。
 しかし釈尊は、ついに、ここで動けなくなってしまった。
 野崎 クシナガラに到着すると、釈尊は、すぐシャーラ(沙羅)の双樹の間に赴き、そこに床を設けさせ、横たわったと記されています。シャーラの双樹というのは、わが国では、『平家物語』などで「沙羅双樹」と訳されて知られている樹ですが、クシナガラの一帯は、このシャーラ樹が、数多く繁っていたといわれます。現在でも、シャーラ樹は、このあたりの樹木として残っているそうですが、それが釈尊時代のものと関係があるのかどうか、不明です。
 いずれにしても、釈尊は、そのシャーラ双樹の間に、アーナンダに命じて床をつくらせ、そこに臥した。すでに確実に、死が近づいていることを自覚してのことであった。
 しかし、そういうなかでも、釈尊は説法したと伝えられています。シャーラ双樹に横たわっているとき、釈尊の滞在を聞きつけた行者スパドラが、一度、法を聞いておきたいと思って、たずねてきた。
 侍者アーナンダは、師の病を気づかつて、断ろうとし、二人のあいだで押し問答が続いた。
 それを聞いていた釈尊は、アーナンダを制止し、その行者を招いて質問を許した。そして、スパドラを心から歓喜させ、出家の決意を固めさせた。これが、釈尊最後の説法であったようです。
 池田 釈尊は、臨終の間際まで、説法をし続けていたということですね。使命と法に生きるものの、崇高にして偉大な人生を、みる思いがする。
 野崎 そして、その日の深更にいたって、八十年間の、純粋な魂の人生の幕を閉じたと伝えられています。亡くなった日は、わが国では二月十五日とされている。これは、インドで、成道のときにも出てきたヴァイシャーカ月の満月が、釈尊入滅とされているところに、由来しているようですね。
 仏伝では、釈尊の入滅の描写を、きわめて劇的に扱っている。
 「沙羅双樹が、時ならぬのに花が咲き、満開となった。それらは、修行完成者に供養するために、修行完成者の体にふりかかり、降り注ぎ、散り注いだ。また天のマンダーラヴァ華は虚空から降って来て、修行完成者に供養するために、修行完成者の体にふりかかり、降り注ぎ、散り注いだ」(前出『ブッダ最後の旅』)
 いずれにしても、平穏と安定と調和と平和を、終始、自己の行動にあらわした釈尊にとって、その逝去の姿は、その生涯を閉じるにふさわしいものであったにちがいありません。
5  おもな参考文献一覧
 〈古代インドに関するもの〉
 コーサンビー著『インド古代史』(山崎利男訳)岩波書居
 中村元著『インド古代史』上下春秋社
 字井伯寿著『印度哲学研究』一〜六巻 富山房
 木村泰賢著『木村泰賢全集』一〜六巻 大法輪閣
 講座『東洋思想』一、五、六巻 東京大学出版会
 増谷文雄著『東洋思想の形成』富山
 河田清史著『ラーマーナヤ』上下 第三文明社
 〈釈尊の伝記に関するもの〉
 梵詩邦訳『仏陀の生涯』全二篇(平等遍昭訳)印度学研究所
 赤沼智善著『釈尊』法蔵館
 中村元著『ゴータマ・ブッダ』法蔵館
 増谷文雄著『仏陀』角川書店
 増谷文雄著『アーガマ資料による仏伝の研究』在家仏教協会
 渡辺照宏著『新釈尊伝』大法輪閣
 水野弘元著『釈尊の生涯』春秋社
 ヤスパース著『仏陀と龍樹』(峰島旭雄訳)理想社
 増谷文雄著『ブッダ・ゴータマの弟子たち』講談社
 中村元訳『ブッダ最後の旅』岩波文庫
 〈仏教経典に関するもの〉
 『新編日蓮大聖人御書全集』創価学会版
 中村元編『仏典』筑摩書房
 『大正新脩大蔵経』大正新脩大蔵経刊行会
 『南伝大蔵経』大正新脩大蔵経刊行会
 字井伯寿著『仏教経典史』東成出版社
 岩野真雄編『国訳一切経・印度撰述部・阿含部』大東出版社
 世界の名著『原始仏典』中央公論社
 世界の名著『大乗仏典』中央公論社
 『妙法蓮華経並開結』
 坂本幸男・岩本裕訳注『法華経』三巻 岩波文庫
 中村元訳『ブッダのことばスッタニパータ』岩波文庫
 〈仏教思想一般に関するもの〉
 仏誕二千五百年記念会著『仏教学の諸問題』岩波書店
 全集『仏教の思想』全十二巻角川書店
 渡辺照宏著『仏教』岩波新書
 岩本裕著『佛教入門』中公新書
 田村芳朗著『法華経』中公新書
 中村元著『原始仏教』NHKブックス
 末木剛博著『東洋の合理思想』現代新書
 〈インドに関する紀行・評論等〉
 J・ネルー著『インドの発見』上下(辻直四郎・飯塚浩二・蝋山芳郎訳)岩波書店
 森本哲郎著『文明への旅』新潮選書
 中根千枝著『未聞の顔・文明の顔』中央公論社
 中村元著『東洋人の思惟方法』春秋社
 『タゴール著作集』第八巻 第三文明社
 『芥川龍之介全集』8 筑摩書房

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