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日蓮大聖人・池田大作

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6 教団の拡大  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

前後
2  シュラーヴァスティー布教――舎衛の三億
 野崎 ところで、今論じてきた三人は、いずれもシュラーヴァスティーにおいて、釈尊の教化をうけ、帰依しています。このうち、スブーティは、シュラーヴァスティーに住んでいたわけですが、あとの二人は、わざわざ遠くから、シュラーヴァスティーで説法する釈尊のことを聞いて、訪れています。
 ということは、このシュラーヴァスティーでの釈尊の布教活動が、きわめて活発であったことを示していると思われます。
 池田 そう。シュラヴァスティーは、釈迦族の宗主国コーサラの首都で、漢訳では舎衛城と訳されている。舎衛城ということで、われわれがすぐ思い浮かべるのは、”舎衛の三
 億”で、この舎衛国の三分の一が仏の教えをうけ、三分の一が聞いただけで仏を見ていない、そしてあとの三分の一が聞くことも見ることもなかった層であったことが、各所に綴られている。このことは、さらに論ずれば、シュラーヴァスティーの市民のうち三分の二が、仏法の帰依者、もしくは賛同者であったということですね。
 野崎 三億とあるのは、人口をさしているのかどうか、種々調べてみたのですが、どのくらいの人口であったか、明確ではありません。一説によれば、当時の計算法では「万」の十倍が「億」となるので、三憶は現在の三十万にあたるともいわれています。ただ、どのような記録を読んでみても、シュラーヴァスティー市民のほとんどが、仏法の理解者や帰依者になったという事実が挙げられていますから、当時の釈尊の、この地での教化活動が、いかに大きな影響をもったかが推察できます。
 池田 どうして、シュラーヴアスティーにおいてそれだけ仏法が流布されていったのか、これは興味ある問題です。なぜなら、釈尊の仏法は、当初、中インドの強国マガダのラージャグリハ(王舎城)を中心に弘められて、北方のコーサラ国のシュラーヴァスティーは、釈尊自身も、かなり後になって足を踏み入れた地であるともいわれている。
 一説によると、さきに出てきたスダッタ(須達)が、ラージャグリハで釈尊に帰依し、シュラーヴァスティーに戻ったのが、この都市での仏教信徒の第一号であったといわれています。
 ところが、このシュラーヴァスティーの一粒の種が、じつに大きな影響を及ぼした。彼は、釈尊の教団のために、太子から土地を買って、祇園精舎を寄進し、そこで釈尊をはじめ仏弟子が雨期を過ごせるように配慮したのです。
 インドは、周知のとおり、雨期、乾期がはっきり分かれた気候で有名だが、精舎は、その雨期を安らかに過ごす格好の安息所ともなったのです。
 野崎 話は、少し余談になりますが、インドでは、そうした雨期、乾期が、非常に明確に分かれていますので、その雨期を、何回過ごしたかで、年の経過をはかる習慣があったようです。現在でも、記録に残っている「雨安居」で歳月を知るということも、そのことにほかなりません。
 池田 それで、釈尊をはじめ教団は、祇園精舎建立後は、ずっとこの精舎で雨期を過ごしたといわれている。その意味では、スダッタの寄進により、釈尊は後半生を、このシュ
 ラーヴァスティーを中心に弘教を進めたということができます。
 野崎 しかし、後に”舎衛の三億”といわれるほど、シュラーヴァスティーにあって仏教が支配的な宗教になるまでには、幾多の曲折があったことも、種々の文献に見うけられます。
 釈尊在世中の、釈尊一身に起こってきた周囲の迫害の数々は、枚挙に遑がない。しかし、そのなかでも、有名なものとして、いわゆる”九横の大難”が挙げられますが、これには後述するデーヴァダッタの叛逆もかなり含まれているけれども、このシュラーヴァスティー布教の最初期における迫害も入っています。
 すなわち、若い遊女を使った二つの姦策、チンチャー(旋遮女)の偽装妊娠、スンダリー(孫陀利)殺害事件等は、釈尊の、シュラーヴァスティー布教の最初期に起こってきた難ですね。
 池田 釈尊は何故、シュラーヴァスティーにあって、当初、迫害にあったのか。これには幾多の観点があるが、総じてコーサラ国の宗教事情が働いていたことは疑う余地のないことです。
 というのは、コーサラ国は、マガダ国と並んで、釈尊時代の少し以前から、急速に勢力を伸ばしてきた新興国といわれます。シュラーヴァスティーは、その首都であったわけだが、宗教のほうも、当時の新興思想であった六師外道をはじめ新しい沙門の流行が支配的であったようだ。それに加えて、国王からも、旧来のバラモンが形式的ではあれ、重用されていたようですね。
 そのような事情から、釈尊の仏法が流布されるには、さまざまな障害を乗り越えなければならなかったのではないでしょうか。
 野崎 祇園精舎に根拠地を定めたものの、そうした周囲の状況が、なかなか釈尊の仏法を受け入れようとしない。むしろ、種々の謀略をめぐらせて、釈尊をおとしいれようとした。さきほどのチンチャーという遊女の偽装妊娠事件も、結局、背後に古い権威にしがみつくバラモンの徒の計略がひそんでいるし、またスンダリーという遊女を、釈尊に関係があるようにみせかけ、殺害し、その罪を仏教教団に負わせようとしたのも、これらのバラモンの仕業であった。しかし、釈尊は、それらの妨害の一つ一つを、忍耐強く、道理のうえから、実証のうえから退け、布教の道を開いていったのです。
 池田 勇敢にして、粘り強い挑戦なくして、希望の前途を開くことはできません。シュ
 ラーヴァスティー布教の姿は、それを示していますね。
 革命には、反革命が必ずつきまとう。新しい人間原点の宗教には、必ず古い権威からの、きわめて非人間的な反撃が待ちうけているものです。その、ゆえなき批判と中傷の嵐を踏み越え、難をしのいで、未来を確信して進むところに、仏法者の道がある。後に大半の帰依者をみたシュラーヴァスティーの結実は、まさに、その因として、こうした厳しい殉教の実践があったことを物語っていると思いますね。
 野崎 いま、お話の出た、人間原点の仏法の勃興にあたり、既成権威からの、きわめて非人間的な反撃があるということについて、それをいみじくも象徴する事件として、仏伝では、釈尊と、このシュラーヴァスティーに住むバラモンとの対決が挙げられています。
 そのバラモンは、火神アグニを祭る伝統的なバラモンであったが、これがきわめて独断的な人物であった。というのは、人の姿を見て、すぐ「賎民」とか「卑しい者」とかの判断を下し、罵倒するのが常であったからです。あるとき、釈尊が托鉢している姿を見て、このバラモンは例によって、釈尊を卑しい坊主と嘲った。とれに対して釈尊は、人間にとって、何が卑しいのかと諭したあとで「生れによって賎しい人となるのではない。生れによってバラモンとなるのではない。行為によって賎しい人ともなり、行為によってバラモンともなる」(『ブッダのことば――スッタニパータ』中村元訳、岩波文庫)と答えたといわれる。
 この節を読んでいて、これはバラモンに対するだけでなく、仏教というものが、当時のバラモン社会、カースト制度に、いかなる見解と態度をもっていたかを、見事にいいあらわしていると実感したのですが……。
 池田 人間が、卑しいか、高貴かは、ア・プリオリ(先天的)に定まっているのではありません。また、社会制度として、決まっているのでもない。「行為によって賎民にもなり、バラモンにもなる」という、この主張は、結局、真の人間の価値を決めるのは、その人の歩んだ人生そのものであるという、きわめて主体的な実践倫理を含んでいますね。こういった、主体的な人間の実践倫理が、紀元前において、すでにあらわれているということは、じつに注目に値することではないだろうか。
 仏法というものが、人間としての生き方を社会制度や社会秩序観等の一切に優先して考えていたことを表明するものとして大事なところですね。
 野崎 ただ、一般の学者のなかには、釈尊のカーストに対する態度は、このように否定的であったが、けっしてカースト制そのものの打開をめざしたわけではないとして、この点で、釈尊の不徹底さを指摘するものもありますが……。
 池田 それは釈尊が不徹底であったというより、宗教者の立場からいえば、法を遺すことに力点をおいていたともいえるのではないだろうか。というのは、釈尊は、いわゆる社会運動家や、社会変革者ではなく、社会、体制の、もっと奥底で悩んでいる人間そのものを、温かく、かつシビアに観察し、その根底からの解放をめざした精神界の王者であったといえるからです。むしろ、そこのところに、彼の独自性があることを忘れてはならないでしょう。
 故に、いかに人間は、人間として生きればよいかを、時代、社会を超えた普遍的な人倫の道として示そうとしたのであると私はみたいのです。ですから、そこで説かれる人倫の道は、普遍的であると同時に、その時代、社会における価値観と対抗するものを必然的にはらんでいることは、いうまでもありません。
 しかし、その人倫の基を感じて、それを否定するような状況におかれた現実の社会を、どのように変革していくかは、まさに、その時代、社会に生きる信仰者が考えるべき問題であって、釈尊自身が、宗教者の立場から、そこまで具体的に述べる必要はないのではないだろうか。彼は、その原理、原論、つまり、人間としての生き方を示して、あとは、それを後年の弟子が、いかようにも創造、展開できるようにしたのであると、私は、釈尊を弁護する言い方になるけれども(笑い)、考察したいのです。
 野崎 そうですね。現代の風潮として、すぐわれわれは、社会、体制というものから人間を観ていこうとする逆転した考え方がありますね。ですから、釈尊の場合でも、すぐ社会の矛盾や体制に対する彼の態度から、すべてを推し測ろうとしてしまう。しかし、釈尊の立場、いや、もっと広くいえば宗教の立場からみていけば、こうした見方の、さらに根本となるべき人間の問題を、まず直視して、そこから、社会、時代を見直していくべきはずの問題であるわけですね。
 そして、その道を発見した人は、その原論を残すことに重きをおくのであって、その原論のはらむ既存の体制へのかかわりの問題は、後の問題として弟子に託す、後代の実践者に託すのが、自然でもあるわけですね。また、そこまで開祖が断言してしまえば、それが時代、社会の変化に対応できない、硬直化した体系になってしまうことにもなりかねません。
 その意味で、釈尊のとった態度と言動は、そこに立ち還れば、大地から草木が繁茂するように、根本の原理の把握のうえから、社会、時代も見直せるということで、つねに発展創造が可能な、きわめて合理的な方法ともいえると思われます。
 池田 とともに忘れてはなら・ないのは、現実の釈尊は、カーストにそういう態度と見解をもっていたというだけではなく、その自己の信条を、自分の教団においては、具体化しているということです。これは、釈尊の教団の運営というところで詳しく展開たい問題ですが、教団内にあっては、すでに何回となく触れてきたように、社会的身分の差は、少しも考慮せず、人間としてまったく平等に扱い、運営しています。
 いわば釈尊の教団は、既存のカーストから脱皮しょうとして、信仰を絆につくられた、四姓平等の共和組織であったといえるでしょう。こうした教団の特徴のなかには、釈尊自身のカースト否定の態度が、具現化されているといっても過言ではないと思います。
 野崎 少し話が横道にそれましたので、もう一度、シュラーヴァスティー(舎衛城)の布教に戻しますと、ここに祇園精舎とともに、もう一つ仏教の根拠地が出てきます。それは鹿子母講堂という精舎で、シュラーヴァスティー郊外に建てられたものです。
 この講堂の寄進者が、ムリガーラ(鹿子)家の嫁ヴィシャーカーという女性であったというのも、注目されます。彼女は、長者の子女として育てられたが、幼いとき、すでに仏法の話を聞いて、熱心な帰依者となっていた。幼少のころはアンガ国にいたが、成人して、シュラーヴァスティーの豪商ムリガーラの家に嫁ぐこととなった。
 そのとき、新郎の親は、式を祝うべく、裸形バラモン五百人を招待したところ、彼女は決然として、それを拒み、かえって親に釈尊の話をして感動せしめ、その結果、その豪商一族すべてが、仏教に改宗したと伝えられています。
 池田 ヴィシャーカーという人は、なかなか芯の強い女性であったようだ。たとえ嫁ぐ先の信仰が違っていても、いささかも臆することなく、逆に、全員の認識を変えさせてしまったということは、当時にあって、画期的なことであったといわねばなりません。主体的な女性信仰者の範ともいうべきですね。
 野崎 ええ、彼女が寄進した精舎が「鹿子母」と称されたのは、あまりに彼女の信仰の姿勢が純粋で、そのことに嫁いだ先の父親が感銘し、以後、嫁である彼女を、信仰のうえからは、母として尊崇するようになったところからきているようです。鹿子とは、ムリガーラの訳といわれ、彼女が嫁いだ家の親の名です。つまり、ムリガーラの母が、鹿子母というわけで、この名称は一般の市民も用いて、彼女を尊敬していたという、エピソードまで残っています。
 池田 熱意と聡明な実相のあらわれている信仰は、必ず、周囲の偏見を、尊敬に変えていくという代表例ですね。その鹿子母講堂も、彼女の真心からの寄進であったのでしょう。いずれにしても、新たな精舎の寄進を得て、教団は、このシュラーヴァスティーで、さらに発展していく基盤を得たにちがいない。ヴィシャーカーは、シュラーヴァスティー広布における大功労者の一人ですね。
 それに、最初、種々の迫害と非難があったにもかかわらず、燎原の火のごとく、シュラーヴァスティーで、仏法が流布していった経過のなかで、この国の国王、プラセーナジット(波斯匿)王の帰依も大きな影響をもったといわねばならないでしょう。
 とくにこの王が、仏法の保護者になった経緯は、現代からみても、考えさせられるものをもっている。プラセーナジットは、比較的初期において、仏法の帰依者になったが、この王が、釈尊の偉大さを知るにいたり、熱心な保護者に変わった契機は、民衆の釈尊に対する態度と姿をみたからであったといわれている。
 つまり、古代インドにあっては、バラモンもしくは国王への畏敬は、強固なものであったにもかかわらず、釈尊の信奉者のなかには世上の王よりも、仏陀に最高の尊崇を置くものの姿が目立っていた。これは世俗の王権よりも、もっと深い信仰に、人びとの心が魅かれたことを物語っているが、このように民衆から絶対の信頼をうけている釈尊を知って、プラセーナジット王は、自身も釈尊に尊敬を払うようになり、仏教の熱心な保護者になっていったにちがいありません。
 仏法というものが、権力でも財力でもとらえることのできない人間の心を、見事に動かしていった証拠としても、示唆に富んだ話です。
 野崎 このほか、シュラーヴァスティーの布教においては、さまざまな話題が残っています。なにしろ、国中の三分の二までが、釈尊信奉者であったわけですから、そこから生まれたエピソードが多種多様であることも当然のことといえましょう。
 それらのなかでとくに有名な挿話とされているのが、凶賊アングリマーラ(央掘摩羅おうくつまら)の帰依です。アングリマーラというのは、指鬘と訳され、指の首飾りをもった者という意味であるようです。何故、こんな名がつけられたのかというと、人びとを殺害し、その指を切って首飾りを作っていたからだそうです。
 彼はバラモンの学徒であったが、師と師の妻に裏切られ、その計略にのせられて、このような残忍な行為をして、人びとから恐れられていた。仏伝では、それを釈尊が救おうとして、凶暴になっている彼のところに敢えて赴き、彼が釈尊を襲おうとしたのを神通力によって防ぎ、ついに帰依せしめたことが、劇的な物語として綴られています。
 池田 どんな悪人も、仏の大慈悲によって救われたことをあらわす物語であろうが、宗教というものが、単なる気休めのものではなく、現実にどろどろとした生活のなかで、苦悩に沈んでいる民衆のために、救済の運動を展開するものであり、釈尊の教団も、そうした民衆救済を旗印に布教していったことをあらわす一例でしょう。
3  教団の運営
 野崎 こうして釈尊の教団は、シュラーヴァスティーを根拠地として、急速に発展拡大していきますが、その仏法流布の範囲は、全インドとまではいかなくても、かなり広範な地域に浸透していったことがうかがわれます。
 池田 そうですね。仏教の文献によれば、これまで出てきたシュラーヴァスティー(舎衛城)、ラージャグリハ(王舎城)の他に、ヴァーラーナシー(波羅捺斯)、ヴァイシャーリー(毘舎離)、サーケータ(沙計多)、コーサンビー(賞弥)、ウッジェーニー(烏惹多)等が記されている。これらは、ほぼガンジス河の中流地域にあたる各国の都市であろうが、そうしたことから推察すると、釈尊ならびに教団の活躍した地域は、その中インド地方であったと考えられますね。
 ほぼ、シュラーヴァスティーとラージャグリハを二大拠点として、釈尊は、当時、商業の発達によって開かれた陸路を、隊商などとともに歩き、各都市へ弘教していった、と推測できるのではないだろうか。
 野崎 そしてそれらの都市にあっては、シュラーヴァスティーほどではないにしても、仏教は民衆に支持され、各都市に精舎的な建物が寄進された形跡があります。
 ラージャグリハの竹林精舎、シュラーヴァスティーの祇園精舎、鹿子母講堂は、これまでも出てきましたが、この他、有名な建物としては、仏滅後の第一回仏典結集の地とされる、ラージヤグリハのサッタパンニグハー(七葉窟)や、ヴァイシャーリーの重閣講堂、さらには、ヴァーラーナシーのムリガダーヴァ(鹿野苑)の大精舎などがあります。これらの資料から判断すると、たしかに仏教は、中インドの都市を中心に流布されていったことは、ほぼ間違いないと考えられます。
 さて、活動の舞台の拡大とともに、出家僧もまた各地で増加の一途をたどっています。それにつれて、当初は釈尊中心にまとまっていた教団も、教団自体の法によって運営していく必然性が生じてきたわけです。
 少ないころは、ただ釈尊につき従って行動し、修行に励んでいるだけでよかったけれども、教団が大きくなり、各都市に出家僧が出てくると、それら全体を統括していくことが考えられていくのは、当然の帰趨でもあります。ここに、仏教の出家者特有の集団ができてくることになった。この集団は、サンガ(僧伽)と呼ばれて、他の修行者の集団とはまったく違った団体として、映るようになっていきます。
 釈尊も後年、法の流布とともに、折にふれ、機をみて、この教団の運営に心を砕いたことが知られています。
 池田 釈尊の教団は、最初は、男子の出家者のみであった。いわゆるビクシュ(比丘)ですね。ところが、アーナンダ(阿難)のはからいで、初めて、マハープラジャーパティー(摩訶波闍波提)が、女性出家者第一号として認められ、それ以後、次第にビクシュニー(比丘尼)も増え、ここに比丘尼教団が生まれるにいたった。それと、あとは、出家者でない信奉者、つまり在俗信者が、膨大な数にのぼっている。在俗信者のなかで、男子がウパーサカ(優婆塞)、女子がウパーシカー(優婆夷)と呼ばれ、比丘、比丘尼と合わせ、これが仏法を支える四衆といわれることは、よく知られているとおりです。
 このうち、比丘尼については、あとで述べるとして、これらの多数の信奉者を、いかに修行させていくかが、きわめて大事になってきます。
 当初は、全部、釈尊が手をとり足をとって教示し、それをうけて開眼すればよかったわけですが、人数が多くなると、そのなかには、釈尊に会えない信者も多数出てくる。
 そのような人びとを含めて、どのような修行をしていくかを明確にしなければならなくなるのは、当然のことです。こうして、仏道修行のための基というものが、初めて教団内にあって、策定されることになっていくわけです。
 ただ、わが国に伝えられている比丘二百五十戒、比丘尼三百四十八戒とか五百戒というのは、釈尊入滅後かなり後になって、まとめられたものといわれでいます。おそらく釈尊在世中は、そんなに煩瑣な戒律はなかったようで、ただ、出家僧の受戒の手続きとか、儀式の作法等で、徐々に細かくなっていった傾向があるくらいですね。
 そして修行のほうも、戒とともに定、慧の錬磨に努めることが強調されるにいたり、一般の在俗信者等には、仏法僧の三宝を尊崇することなどを教示していたという記録もあります。
 野崎 たしかに、二百五十戒、五百戒というのは、どちらかというと、出家者自身の守るべき禁止条項などが、たくさん並べてあるところからみても、今でいえば、教団内の規定や会員規則(笑い)のような感じもうけますね。もし、それが仏法の修行だとすれば、非常に頑なものになってしまいます。
 池田 そう。釈尊自身の説き方からいっても、そんなに堅苦しい戒律を、細かく作ったとは、考えにくい。もっと人びとを包容した説き方をしていたのではないだろうか。
 ただ、大きくなってきた教団を維持、運営するうえからいって、最低限、比丘、比丘尼が守らなければならない条項等については、折にふれ指示したものがあったということは考えられますね。
 しかし、かなり微細な戒律が、後年策定されているのをもって、仏教が戒律主義であるかのような判断をくだすことは、誤りではないかと思う。
 野崎 出家僧の二百五十戒等と比較し、一般在俗信徒には、いわゆる五戒が強調されています。不殺生戒、不倫盗戒、不妄語戒、不邪淫戒、不飲酒戒がそれですが、これも、こうした戒を守ることが修行というのではなく、仏法をたもった人の心得なければならない生活倫理としていわれたのではないでしょうか。むしろ修行の本質は、仏の教法を思い浮かべて知恵を磨き、自身を錬磨し、人間変革をおこなっていくところに重点がおかれていたのではないかと推測するのですが……。
 池田 そう考えるほうが妥当だろうね。仏法が一面、極端な戒律主義や禁欲主義的なものに思われている背景には、仏滅後、教団を統括していかなければならないという当時の要請が多分に働いていたことが挙げられるでしょう。
 現実の釈尊自身は、少欲知足の覚者であったけれども、極端な苦行を斥け、放逸な快楽を斥けた中庸の人間生活を志向し、また人びとにも、そうした人生であってほしいと強調していたのではないかと想像される。
 野崎 ところで、釈尊の教団で問題になるのは、婦人出家者の扱いですね。女性の出家希望者は、かなり初期のとろからあったけれども、なかなか許されず、かなり晩年にいたって認められている。
 では、何故、釈尊が、女性について、かなり厳しい姿勢で臨んだのか。一切衆生の平等なるを説き、カースト制の考え方そのものを排斥してきた釈尊として、これは、非常に不思議なことのようにも思われますが……。
 池田 これは、なかなか難しい問題で、研究を要するテーマですね。ただ私は、釈尊が極端な女性蔑視の思想をもっていたとか、女性を軽視していたのではないと思う。なんとなれば、釈尊の言説のなかには、女性一般論としては、何ら男性と区別していないところがみられるからです。
 それは、岩本裕氏などが指摘しているところですが、家庭における妻に対する釈尊の指導として、そこでは、妻は家事によく励み、夫の知縁者を大事に扱い、自らは貞節で、財産の管理にも配慮し、すべての労働に勤勉であることなどが大切であると、その心構えを示している。しかし、これは、同じく夫たるものにも、妻に対して、礼儀をもって接するとともに、侮辱してはならない、また浮気をしてはいけない、権威を与え、服飾品も買ってあげよ等、細かく注意しているということです。
 これらの配慮からみると、釈尊が女性について、とくに厳しい差別をしていたとはいえないと思う。
 野崎 今の夫婦のあり方についての教えをみますと、釈尊は、女性にとって、けっして話のわからない(笑い)相手ではない。むしろ、妻の立場をよく理解していたのではないかという印象もうけますね。
 池田 そう。総じて古代インドにあっては、女性の立場は、きわめて低かった。富裕な家に嫁いでも、子供を産むと、あとは、ただ使用人のように、その家に仕えるだけの存在であったようにもいわれている。また、男児を産まなければ、離婚されても、何の抗議もできない。まあ、男尊女卑の典型的な社会といえるでしょう。そんななかにあって、釈尊の女性観は、かなり進歩的であったとすら思える。
 しかし、そうした釈尊も、一歩自己の教団のことになると、女性については非常に厳格な態度を示している。それについて、私は、一つには、出家者の日常の修行というものを守ろうとしたのではないかと考えるのです。
 一度出家を決意し、修行に励む以上は、自分と同じ境涯にまで高めなければならない。いかに崇高な目的観を掲げても、つまらないことで、途中で挫折してしまっては、なにもならない。そういう意味で、釈尊は、自分の弟子の修行の妨げとなることについては、かなり厳格に除こうとしたのではないだろうか。
 せっかく、日常性を脱却し、哲理の王道に足を踏み入れている出家者が、異性に迷って、当初の目的を忘却するようなことがあってはならない。それを釈尊は憂慮したように思えるのです。
 野崎 仏教の文献にしばしば出てくる、女性には五つの障りがあるとか、女性は畜生の化身であるとかの表現の裏には、女性の存在を恐ろしくみせかけて(笑い)、修行者を女性問題に迷わせまいとした配慮も感じられますね。
 池田 そう。弟子たちを正しく導くためにとられた措置とも考えられる。それと、女性について、そのような表現を用いているのは、生命の本質的洞察にもとづいているとも考えられます。
 釈尊は、人間生命の奥にある傾向性、そこに潜む宿命的な業、性を鋭く見破った覚者だから、社会における、現実の女性の生き方をつぶさに観察し、そこに女性に内在する、固有の社会的傾向を看取していたにちがいない。そして、それを女性自身が、厳しくみつめ、本格的に、その変革のために立ち上がらなければ、女性の幸せはあり得ないという見方をもっていたのではないかと、私は感ずるのです。
 野崎 たとえていえば、不良息子とか薄幸の子供ほど、親が心配するのと同じく、釈尊の慈眼からみると、女性は、薄幸の子供のようにみえてくる。であるが故に、その子供に対して、厳しい愛の鞭をうった……。(笑い)
 池田 うむ。そういえば、釈尊の女性に対する言説を、少し好意的にみすぎているかもしれないが(笑い)、その他のことでは、平等思想を強調した釈尊の姿をみると、私には、案外、そのへんに仏法の女性観を解くカギがあるようにも思えるね。
 したがって、後年の大乗経典、とくに『法華経』においては、女人成仏の原理が説かれたのであり、その発想の素地は、釈尊自身の教説のなかに一貫しであったと考えたいですね。
4  デーヴァダッタの叛逆
 野崎 いずれにしても、教団の基礎が固まるまで、釈尊は、女性の出家を許しませんでしたが、マハープラジャーパティー(摩訶波闍波提)以後、比丘尼は公式に認められ、教団は、僧と尼で構成されるようになり、釈尊の晩年には、比丘尼も、かなりの人数になっています。
 そのなかには、マガダ国ビンビサーラ王の妃で、出家後、比丘尼中で知恵第一といわれた
 ケーマーや、シュラーヴァスティー(舎衛城)の商家の娘であったウッパジヴンナー、比丘尼のなかで説法第一といわれたダンマディンナーなど、後世までも語り継がれる有名な仏弟子が育っています。
 さて、このように、教団内の整備のための教戒の策定も整えられ、拡大発展していった僧伽のなかで、一つの重要な事件が起こってまいります。
 これが、デーヴァダッタ(提婆達多)の叛逆で、釈尊は、晩年近いころ、この問題にかなり辛労を尽くすことになります。そこで、このデーヴァダッタの叛逆の契機とその経過などについて、考察してみたいと思います。
 池田 デーヴァダッタは、釈尊が故郷カピラヴァストゥを訪問した際、アニルッダ(阿菟楼駄)、ウパーリ(優波離)、アーナンダ(阿難)らとともに釈尊の門に投じた一人であったといわれている。とくにアーナンダとは兄弟ともいわれ、釈尊の従弟という親族である。
 アーナンダが釈尊の門に入ったのは、成道後二十年ごろといわれているから、ほぼアーナンダと同じ年齢と考えられるデーヴァダッタは、当時、二十代の若者と推測される。釈尊とは、約三十歳の開きがあることになります。
 釈尊の弟子になった当初は、けっして造反分子ではなかったようで、むしろ釈迦族の青年たちとともに、新進気鋭の息吹を、教団に吹き込んでいた存在でもあったらしい。
 野崎 ええ、デーヴァダッタの叛逆が顕著になるのは、釈尊の西方遊歴、つまりコーサンビーを訪れた直後からであったといわれています。釈尊はコーサンビーを何度か訪問していますが、デーヴァダッタの叛逆が著しくなったときの西方遊歴は、成道後三十数年を経ていたと推定されています。
 したがって、デーヴァダッタは、入門した最初期は、教団のなかで、純真に修行に励んでいたと思われます。しかし、次第に名利の心が、彼を狂わせ、その結果、彼は、マガダ国王子アジャータシャトル(阿闍世)に近づき、王子から厚いもてなしをうけるようになっていった。
 池田 人間の心を狂わせてしまうものは、名聞名利であり、野心である。デーヴァダッタの例は、そのことを最も象徴的に、われわれに示してくれています。青年時代の彼は、釈尊門下にあって、当初は、けっして修行を怠っていたり、怠惰な青年であったとはみえません。しかし、そのうちに、名利の嵐が彼の生命に急速に突き上げてきた。それを彼は抑えることができなかったのでしょう。そして、その名利から、教団の統率権を得ようと、あらゆる奸策をめぐらすことになった。
 マガダ国の王子アジャータシャトルに近づいていったのも、そのあらわれの一つといえますね。当時、マガダ国の王ビンビサーラ(頻婆裟羅)は名君の誉れも高い人で、依然王位についていた。そのもとにあって、アジャータシャトルは、なかなか王位を継げやす、不満に思っている。その、ちょっとした心の間隙をデーヴァダッタは狙ったにちがいない。これが見事に功を奏し、デーヴァダッタは、まず王子を手中におさめた。
 野崎 それで、王子は、デーヴァダッタに種々の供養をするようになった。これを見た他の仏弟子たちは、それを羨むようになっていった。それに対し釈尊は、ラージャグリハ(王舎城)の竹林精舎で、弟子たちの羨望の心を打ち破り、王子からの供養が、デーヴァダッタの破滅になることを説き、名利が、仏道修行の妨害の根本原因であると戒めたのです。
 池田 釈尊は、デーヴァダッタの心の動きを、十分、見破っていたことがわかる。デーヴァダッタの目的は、明確であった。それは、自分が教団の統率者になり、仏陀として、尊敬されることにあった。
 これは、釈尊が各地で、圧倒的な民衆の信頼を得、厚く尊敬されている姿を、羨んだのでしょう。その羨望は、やがて嫉妬につながり、ついに自分の野心を抑えることができなくなってしまったのではないだろうか。
 野崎 そうですね。デーヴァダッタが、教団の後継者になることを強く望んでいた証拠として、彼が、並みいる弟子の前で、釈尊に自分に教団を任せてほしい、と申し出ていることが挙げられています。
 それに対して釈尊は、厳しい口調で、彼を叱責した。自分は、シャーリプトラやマウドガルヤーヤナなどのような優れた弟子であっても、教団の統率は任せていない。いわんや、汝のような垂涎すいぜんの者に、どうして任せられるか、というのが、その内容です。この言葉は、野心渦巻くデーヴァダッタの自尊心を著しく傷つけた。彼にとって、最も耐えられないのは、シャーリプトラ、マウドガルヤーヤナと比較され、自分は足元にも及ばないと評価されたことであったようです。これ以来、彼は、理性を失った野獣のように、釈尊追い落としのため、あらゆる策略を弄するにいたります。
 池田 デーヴァダッタが企てた計略は、かなり多方面にわたっていますね。まず、彼は自分の後楯として、アジャータシャトルを頼み、彼にマガダ国王になるため、父王を殺害する一計を授けている。
 これをうけて、アジャータシャトルは、父ビンビサーラを幽閉し、ついに餓死せしめ、王位を継いだ。ただ、これには異説があって、父王殺害の謀略が事前に発覚し、アジャータシャトルは捕らえられたが、ビンビサーラは、息子の気持ちを察して王位を譲ったという説もある。
 しかし、いずれにしても、デーヴァダッタのはからいで、アジャータシャトルは、マガダ国王につき、以後、デーヴァダッタを支援する側に回ることになった。ひとまず、第一の計画は実を結んだわけです。
 次に、彼はアジャータシャトルに頼んで、王の臣下を使って釈尊の殺害を狙った。しかし、これは、釈尊の姿に暗殺者がいずれもたじろいで失敗した。そこでデーヴァダッタは、次の策略を思い立った。
 それが、「出仏身血」の罪となったもので、釈尊がグリドゥフラクータ(霊鷲山)にいるのをみはからって、デーヴァダッタは山の頂から、自身で石を落とそうとした。その石は、結局、破片のみが釈尊の足にあたり、軽い傷ですんだわけだが、釈尊自身の身に及ぶ危害が加えられたのは、これが初めてであったわけです。
 野崎 仏伝では、このほか、釈尊がラージャグリハを托鉢しているとき、デーヴァダッタが、凶暴な象を放って殺害しようとしたが、これも失敗したことなどが綴られています。
 しかし、デーヴァダッタの叛逆のなかで、最も大きな罪とされているものは、いわゆる「破和合僧」ですね。
 池田 そう。それまで釈尊を中心に、一糸乱れず、清浄な修行に励んでいた教団を、デーヴァダッタが分裂させようとした。それは、いわゆる”五法の行”もしくは”五事”の遵守ということから起こったものでしたね。
 五法の行とは、一に、比丘は人里離れた所に住むこと、二に、托鉢のみで生活し、供養招待を受けてはならないこと、三に、糞掃衣のみを着て、施衣を用いないこと、四に、樹下のみに坐し、屋内に入らないこと、五に、魚肉、鳥獣類を食しないこと、など五箇条にわたる教団に対する要求である。
 デーヴァダッタが示したこういう要求を裏返してみると、当時の釈尊の教団が、けっして極端な禁欲主義や戒律主義をとったものでないことがわかる。
 一の項目などは、竹林精舎や祇園精舎を根拠地とし、そこを安息所としている教団に対する批判であり、二の項目などは、釈尊の名声の高まりとともに、在俗信者のなかの有力者から、教団への供養がかなり多かったことに対する非難である。
 この五箇条の要求それ自体をみるかぎり、デーヴァダッタは、きわめて純粋な修行者を装っているといえる。彼は、謀略がことごとく失敗に帰したので、最後の手段として、教団に最も純粋な出家者、厳格な修行のあるべき姿を提示することによって、内部の分裂をはかろうとしたわけでしょう。
 ある意味では、非常に手の込んだ策略である。むろん釈尊が、こうした極端な戒律主義を採るはずがなく、この五法の行は、即座に却下されたわけですが、これを予め計算に入れていたデーヴァダッタは、この機会に、弟子のなかで、自己の主張に従う者をつのった。
 要求それ自体は、きわめて真面目な出家者の態度を装っているので、釈尊の弟子中でも新しいものは、それに魅かれ、ついに新参弟子五百人が、デーヴァダッタとともに、ガャーシー(象頭山)に去ってしまった。教団にとって、初めての分裂が起こったわけです
 野崎 私は、デーヴァダッタの、この五法の行を通して感ずるのは、信仰の純粋を装った行為というのは、その底意がわからない間は人びとの心を動かしやすいということですね。ですから、野心を懐いた人間ほど、表面的には、建て前を重んじ、純粋主義を誇示することによって、人心を魅こうと企てるのは、歴史の一つの定理ですね。
 池田 そう。その点は、非常に大切なポイントですね。いかに表面的に、純粋な言辞が並べられていても、その底流に何があるか、根底は何かを、つねに見ていかなければ、真意はつかめないものです。ですから、日々の行動、実践、諸法実相というものを、鋭く見抜いて、全体的、総合的な見地に立たないと、正確な判断が下せない場合が多い。
 とくに、不幸なことに、人類の歴史にあっては、純粋主義、教条主義というものが、その本来の、ナイーブな動機を利用されて、謀略や策略の道具にされた事例が少なくないことです。
 野崎 デーヴァダッタは、巧みに、この人間心理のアヤをついて、ひとまず教団の分裂に成功したわけですが、それを防ごうとして後を追ったシャーリプトラ、マウドガルヤーヤナの献身的な努力で、去った五百人の比丘たちも、釈尊の真意がわかり、ふたたび教団に戻ってまいります。
 これを聞いたデーヴァダッタは、仏伝では、悲憤慷慨のあまり、熱血を吐いたとあり、それがもとで一命を落としたとなっています。
 さしものデーヴァダッタも、ついに仏には打ち勝つことはできなかったとして、この叛逆事件は、仏伝にも大きく取り上げられ、伝えられているわけですが、『法華経』提婆達多品では、こうした叛逆者も成仏の記別をうけ、救われる、いわゆる”悪人成仏”の原理が示されています。
 池田 歴史的実在のデーヴァダッタは、ついに叛逆者で終わったわけであるが、振り返って省察してみるならば、われわれ自身の生命にも、デーヴァダッタの生命が含まれている。すぐ名利と野心に心が動き、理性と自制心を失い、大目的を見失ってしまう。それどころか、叛逆し、謀略をめぐらせて、自己の野心を実現しようとする。
 考えてみれば、これはけっしてデーヴァダッタのみのことではない。『法華経』では、史的人物のデーヴァダッタが、人間の普遍的な傾向性として位置づけられている。してみれば、その己が生命を観照し、大目的、大使命に殉ずる崇高な強き一念を確立していけば、成仏間違いないという原理が説かれているのです。
 これは現在のわれわれ自身の問題でもあります。つねに、われわれの身の上に起こってくる、わが内なるデーヴァダッタを、いかに冥伏し、それを克服し、わが内なる仏を呼びさまさせていくか、これが仏道修行の過程なのです。
 仏道修行のうえからいうならば、また、そうした迫害や批判、さらには苦難こそ、仏法の善知識と自覚すれば、ますます強固な自身の確立がなされていくという法理を示しているともいえましょう。
 いずれにしても、デーヴァダッタの叛逆事件は、今日からみても、さまざまな教訓を含んでおり、信仰というもの、己が生命というものを考えさせてくれる契機になりますね。
 野崎 デーヴァダッタの叛逆は、結局、彼自身の破減で終末をみたわけですが、一方、彼とともに行動し、父王を殺害して王位についたアジャータシャトルは、五逆罪の行為の結果として、重い病につき、ついに自身の浅はかな挙動を深く反省し、以後、熱心な仏教徒に改心する。釈尊亡きあと、仏典結集等の協力をするなど、仏教の興隆に尽力し、その名をとどめています。
 このアジャータシャトル王についての物語も『涅槃経』をはじめ、多くのところで綴られ、波澗の人生がドラマチックに述べられていますが、今はこれを省略して、次に話題を進め、いよいよ釈尊の晩年から入滅に入りたいと思います。

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