Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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5 弟子の群像
「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)
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ウパーリ、アニルッダ
野崎
このほか、釈尊の生国出身の仏弟子で忘れられないのが、ウパーリ(優波離)、アニルッダ(阿楼駄)の二人です。二人とも十大弟子のなかに入っており、ウパーリは持律第一、アニルッダは天眼第一と目されている。
このうち、ウパーリは十大弟子のなかで異色の存在であったようです。というのは、この釈迦族で帰依したラーフラ、アーナンダ、アニルッダにせよ、また他の十大弟子にせよ、ほとんどが、経歴的にはバラモンの門弟か、王族の出身であるのに、このウパーリだけは王宮で働く理髪師でした。いわば庶民階級の出身です。
池田
釈尊が、何故、ウパーリを重視したか、ここは大切な点だね。私は思うのだが、これは、仏教教団の内では、一般のカーストからなる階層を認めない。すべての点で平等に取り扱った。そういう仏法の基本的な考えからいって、庶民出身のウパーリを、釈尊が擁護したのではないだろうか。
野崎
ええ。水野弘元氏なども、釈尊がウパーリを重用したのは、旧来の秩序観に固執する釈迦族の悪弊を打破するため、仏教教団にあっては、そうした世俗的階級制度は通用しないことを示す象徴としたと論じています。(『釈尊の生涯』春秋社)
とくに、釈尊の教団にあって、弟子の上下を決めるのは、出家の順であるという考えが用いられていたようです。つまり、先輩・後輩の関係ですね。ですから、ウパーリ、アニルッダ、アーナンダ、デーヴァダッタ等は、釈尊成道後、かなり経たときに、一挙に帰依したグループですが、それらのうち一番最初にウパーリを出家させ、その下に、アニルッダ、アーナンダ等を位置させたといわれています。
池田
当時の時代の様相、また釈尊の生国の伝統的風俗を十分考えたうえで、釈尊は、自らの教団の構成について、じつに細心な配慮をしていたことが、その話からうかがえますね。
ところで、ウパーリ自身だが、彼は釈尊の、この配慮に応えて、見事、頭角をあらわしていった。そして、後には、仏教教団内部で、戒律についてはだれも及ばないエキスパートになったといわれる。持律第一のゆえんです。
野崎
このウパーリと並んで、天眼第一といわれたアニルッダも、面白い存在ですね。彼が天眼第一と称された理由は、目が不自由であるにもかかわらず、通常人を上回る判断力を得ていたというところからきていると思われます。
彼の目が見えなくなった原因もたいへん興味ぶかく、彼は釈尊の従弟として、釈尊を慕い出家したものの、説法を聞きながら居眠りをした。それを釈尊から厳しく叱責され、以後、居眠りは絶対しないという決意を固めた。
この決意は、その後、瞬時も怠らず実行に移されたため、その無理が昂じて、彼の目が見えなくなったといわれる。これが、どこまで真実であるかわかりませんが、これらのエピソードからみるかぎり、アニルッダの仏法に対する姿勢が、決意以後、きわめて厳格であったことが知られます。
池田
このほか、釈迦族出身の弟子の話題としては、婦人の出家者の先駆者となった、マハープラジャーパティ(摩訶波闍波提)や、後年、釈尊に敵対したデーヴァダッタ(提婆達多)などがいるが、これらについては、次に教団の様子などとも関連して、みていくことにしたい。
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