Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

4 釈尊の教化活動  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

前後
4  ウルヴィルヴァーでの説法
 野崎 さて、ヴァーラナシーで帰依した弟子六十余人と別れた釈尊は、本格的な弘教の旅に一人たち、正覚の地ウルヴィルヴァーへ赴いたとあります。
 そしてこのウルヴィルヴァーの教化では、後年の仏教教団に大きな影響を与える有力な信者があらわれてまいります。そのなかの代表的な人物を挙げてみますと、まずマガダ国王のビンビサーラ、さらには釈尊十大弟子のシャーリプトラ(舎利弗)、マウドガルヤーナ(目連)、マハーカーシャパ(摩訶迦葉)、その他カーシャパ(迦葉)三兄弟等、今日なお仏弟子として有名なメンバーが交じっています。
 こうしたことをみますと、このウルヴィルヴァーの釈尊の教化活動はきわめて順調であるとともに、仏教という新しい宗教の流れが、旧来思想に飽き足りず道を求める多くの修行者、出家者、有力者に急速に受け入れられ始めたことを物語っているともいえましょう。そこでこのウルヴィルヴァーでの釈尊の化導を概括的にみていきたいと思います。
 仏伝『四分律』『五分律』によれば釈尊は、ウルヴィルヴーへ向かう途中、約三十組の男女カップルを帰依させたというエピソードもみられます。
 それは、釈尊が、とある密林の樹の下で禅定に入っていたとき、その密林に遊んでいた若い男女三十組のカップルだといわれている。
 ことのキツカケは、その三十組は一人を除いて夫婦であったが、その未婚の一人が遊女にだまされて盗難にあう。そこで、逃げた遊女を全員で捜し求めているうちに釈尊に出会ったというわけです。
 ことのなりゆきを聞いた釈尊は「遊女を尋ねるより自己を尋ねることのほうが優れているではないか」(大正二十二巻793㌻、参照)と述べて、そこで全員に法を説いたといわれる。そして、そのカップル全員が釈尊の門人となったと伝えられています。
 池田 ヤサの場合といい、その密林のエピソードといい、いかにもインド的な感じがする話だが(笑い)、ちょっとした契機をとらえて仏法の話に導く釈尊の化導は、おそらくじつに見事であったのでしょう。また、宗教家、思想家を尊敬する当時のインド一般の風習からみて、仏伝のようなエピソードは珍しいことではないにせよ、そのように一様に感動し、出家まで決意するというからには、よほど最初に出会った釈尊の人間性に魅力があったからではないだろうか。
 それは、ヤサ青年にしても、この若者たちにしても、けっして生活に苦労して信仰に入ったというタイプではない。また、これから出てくるでしょうが、釈尊の弟子には、経済的にも思想的にも、かなり一般の水準を抜いている人たちが多い。
 もちろん、貧しき庶民も釈尊の門下としてまったく平等な扱いをうけたけれども、当時にあって知名人も非常に多かった。これらからみると、やはり釈尊自身の全体からにじみ出る人間性の輝きが、彼らをして仏道の門に入らしめたということも、随分あったのではないだろうか。
 野崎 そのようなエピソードを生んだ旅のあと、釈尊はいよいよ目的地であるウルヴィルヴァーに到着します。そこでまず第一に、バラモン信奉者との対決をおこなったと伝えられています。
 このバラモン信奉者は結髪外道といわれ、ウルヴィルヴァー・カーシャパ、ナディ・カーシャパ、ガヤー・カーシャパの三人。いずれも髪を結ってバラモンの儀礼をおこない、付近に相当影響力をもっていたようです。弟子もそれぞれ五百人、三百人、二百人といわれています。
 池田 釈尊は、どうしてその三人のバラモンと対決しようと考えたのであろうか。そのバラモンたちはウルヴィルヴァーで相当影響力をもっていたのだから、おそらく、かつて修行期間中にその存在を耳にしていたとも思えますね。
 野崎 ええ、多分そのバラモンたちはウルヴィルヴァーで尊敬を集めていたでしょうから、苦行林に釈尊が入ろうとしたとき、すでに風聞は入っていたのでしょう。
 ただとのバラモンたちはバラモン固有の火の神(アグニ)を祀る人びとで、釈尊は自分の修行目的からいって、彼らには師事しなかったのではないでしょうか。
 池田 なるほど。しかし今度は、まさしく覚者になった立場から、そのバラモンを仏法のうえから打ち破っておこうと考えたのかもしれない。
 野崎 そのことについては、釈尊がマガダ国での布教を推進するにあたり、まず既成のバラモン外道を仏教に導き、その門下を釈尊に帰依させることが、やはり大きな源泉になるという考えが釈尊にあったのではないかとも推測されています。
 池田 思想の対決だから、あるいは、そういう意図があったのかもしれない。もちろん、それを最初から計算していたわけではないでしょうが……。
 野崎 この結髪外道との対決が面白く、仏典などではさまざまに劇的な場面が展開されています。釈尊はこの三人のなかでも最も力のあるウルヴィルヴァー・カーシャパを帰依させようと、彼の家を訪問した。
 そこで、カーシャパの聖火堂に泊まらせてくれるよう懇望した。それに対してカーシャパは、その聖火堂には悪龍がいて釈尊を害すると述べた。
 しかし釈尊はそれでもなお要望し、その聖火堂で一泊した。はたして聖火堂には悪龍がいて釈尊に襲いかかろうとしたが、釈尊は広い慈悲の姿でこれを調伏してしまった。
 これを翌日知ったカーシャパは釈尊の威徳に感服するが、まだ自分のほうが偉いと思い込んでいる。そこで釈尊は、さまざまな神通力を発揮して、このカーシャパを屈服させたというわけです。
 池田 神通力というと、なにか神秘的なように聞こえるが、おそらく哲学論争を挑むよりも、宗教者としての事実の力のうえで承服させようと釈尊が考えたことを示しているのではないだろうか。
 この既成バラモンと仏教との対決で、カーシャパが釈尊の門に下った事実の与えた意味は、大きかっただろうね。
 野崎 ええ。事実、この対決で釈尊に屈服したウルヴィルヴァー・カーシャパは、即座に釈尊の弟子になることを申し出た。これに対して釈尊は、五百人の弟子の長が軽々しく改宗してはならぬ(笑い)と戒めたけれども、弟子との協議の末、ついに五百人全員、釈尊の弟子となった。そして旧来のバラモンの祭杷の器具や毛髪、結髪を、全部水に流してしまった。
 これを見て、あとのナディー・カーシャパ、ガヤー・カーシャパも相次いで釈尊の弟子になることを決意し、じつにウルヴィルヴァー地方一帯に強固な勢力を誇っていた結髪外道のカーシャパ三兄弟のバラモン千人が、ここに一挙に釈尊の門人になったわけです。
 池田 ほう、一度に千人ね。力ある思想家に的をしぼって法を説いた釈尊の実践は、見事に実ったわけだ。それにしても、一度の対決で打ち破られたとみてすぐその門人になるというのは、日本では少し考えられないね(笑い)。それだけ当時のインドにあっては思想が尊重され、思想戦で敗れることがいかに大きいかを裏付けている。
 野崎 このウルヴィルヴァーの教化で、一挙に千人もの帰依者をみて、釈尊の教団は完全に一つの宗教団体へと発展したわけです。その意味でこのバラモンとの対決は、仏教教団の歴史において一つの重要な意味をもっていたとみることができます。
 それと、これらカーシャパらの帰依は、その後に釈尊がマガダ国で布教するうえで、大きな影響を及ぼしたとされています。というのは、マガダ国で釈尊の帰依者になった人びとのなかには、カーシャパが帰依したことで釈尊を尊敬するようになった人も、多くいたといわれているからです。
 池田 それは十分考えられる。マガダ国でかなり有力な信徒が続々生まれたのも、そうしたことも影響しているとみてもよいのではないか。
 野崎 ところで、マガダ国のビンビサーラ王が仏法の帰依者になったいきさつですが、ビンビサーラ王についてはまえにも出てまいりましたが、最初、釈尊がマガダ国に入ったときから関心があった。――彼は出家者釈尊の気高い姿にうたれ、自国の軍隊の指揮まで懇望したが、釈尊の出家の意思の固いことを知ると、悟りを得たら真っ先に教示願いたいと申し出ています。
 その再会が、おそらくカーシャパらの帰依のあと、あったのでしょう。伝説では、釈尊がカーシャパら新しい弟子千人を連れてマガダ国の首都ラージャグリハ(王舎城)に入ったことを聞いたビンビサーラ王は、すぐ群臣を引き連れて釈尊のもとに走ったとなっています。
 池田 そのときは、ビンビサーラ王も、釈尊が仏陀になったことをすでに耳にしていたにちがいない。以前の約束が実現する機会に巡り会った喜びもあったであろう。覚者となった釈尊から直接教えを聞いて信徒になったといわれている。
 そしてすでに千人にものぼる弟子を抱える教団に対し、自己所有の領地である竹林を精舎として教団に寄進している。
 もっとも精舎といっても、この当時はまだ、後の寺院というような形式ではなく、釈尊や仏弟子が雨露をしのぐ程度のものであったようです。
 釈尊をはじめ弟子たちの活動の舞台は、ほとんど遊歴と托鉢であったわけですから。このビンビサーラ王から寄進をうけた竹林精舎も、少しのあいだの休息所、また雨期における弟子の瞑想の場として設けられたと考えられます。
 それはともあれ、マガダ国王ビンビサーラが仏教の帰依者になったということは、釈尊の教団にとっては非常に有力な支援者を得たことになり、さきのバラモンの大家の帰依とはまた違った意味で、いやそれ以上に、仏教の発展に大きい影響を与えたことは間違いない事実ですね。

1
4