Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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4 釈尊の教化活動  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

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2  初転法輪
 野崎 それが結局、悟達後、初説法をヴァーラーナシー(植民地時代、英語流に「ベナレス」と呼ばれた)の北六キロにあるサールナート(梵語ムリガダーヴァ、漢訳して鹿野苑)でおこなうまで、かなりの期間を要したともいわれる背景でしょうね。だいたい、釈迦が悟りを得て後、初説法まで一カ月余りが経過しているともいわれますから……。
 池田 なるほど。ウルヴィルヴァーのブッダガヤーからウァーラーナシー(ベナレス)のサールナートまでは、どれくらいの距離ですか。
 野崎 約二百十キロといわれており、現在、列車で行けば四時間かかるそうです。徒歩だと、十日間は優にかかると考えられます。
 池田 釈尊が、マガダ国ではなく、そこからかなり離れたヴァーラーナシーを初めての説法の地に選んだのは、一般に、彼の苦行期間中にともに生活した五人の比丘がそこにいると聞いて赴いたといわれているが……。
 野崎 ええ。ウルヴィルヴアーのセーナー村の苦行林で修行に打ち込んでいたとき、その苦行の真剣さに感動した五人の比丘がいた。彼らは釈迦の、あまりにも厳格な苦行の姿を見て、きっと釈迦がその苦行のなかから悟りを得るにちがいないと確信して、釈迦とともに修行していた。
 ところが実際の釈迦は、苦行の無益を知って放棄し、体力を回復しようとして乳糜をとった。この釈迦の転向を見て五人の比丘は失望し「釈迦は贅沢になった」といって、セーナーの苦行林を去っていった。
 池田 五人の氏名や人物がいかなるものであったかは詳らかではないようだが、そのなかにはわれわれも知っているアージュニャータ・カウンディニヤ(阿若陳如)が入っていたことは事実であるようだ。その五人の比丘は、苦行林を離れてヴァーラーナシーに行った。それが説法を決意した釈尊の耳に入った。そこで釈尊は、彼の人生においても、また世界の思想史においても、非常に重要な意味をもつ初めての説法の対告衆として、その五人の比丘を考え、ヴァーラーナシーに赴いたのであろう。
 ところで五人の比丘がヴァーラーナシーに行ったということは、マガダ国が新興思想家のアジトであったように、やはり古来からそういう宗教的、思想的な雰囲気をもっ聖地と考えられていたからでしようね。
 野崎 ええ。釈尊が初めて説法したサールナートというところはヴァーラーナシーの郊外といわれていますが、そこは漢訳で、「鹿野苑」とあるように、釈尊在世当時は鹿が自由に遊んでいたところであったといわれています。そして「鹿野苑」は一般に「仙人が集まるところ」とも呼称されていたといわれるところからみても、当時にあって、名だたる宗教家が一度は集まってきた場所であったと想像されます。
 池田 なるほど。五人の比丘がサールナートへ行ったのも、そこで修行者の現状をつかみに行ったのかもしれない。また釈尊がそうした聖地で弘法の第一歩を踏み出したのも、意味が深いことだね。
 ところで釈尊が五人の比丘を初説法の対告衆にしたのは、曲がりなりにも旧友であり、釈尊にとっては思想を語る相手としては身近であったからとも考えられます。――かつては自分とともに苦行をした修行者たちに、まず彼自身が開いた正覚をわからせよう。そこから出発しよう。どんなに壮大な構想をもっても、身近な人を納得させずして弘教の輪は拡大できない。その身近な人物の認識転換の波動が次の波動を呼び起こしていく――これはあくまでも想像ですが、かつての法友であった五人の比丘を対告衆に選んだことに、釈尊の冷静な人間性がにじみ出ているように私には感じられます。
 野崎 釈尊が苦行時代の仲間を化導しようとしたことに対して、仏教というものが、いきなり全民衆に拡大されたというより、むしろ道を志す修行者のあいだに根をおろし、広まっていったという説もあるようです。
 さて、釈尊が五人を追ってサールナートに近づいてくるのを見たアージュニャータ・カウンディニヤ(阿若陳如)らの比正たちはどう思ったか。これについては、仏典には、大要、次のような叙述が出ています。
 それによれば、五人は釈尊が近づくのを見て「聖者よ、道の人ゴータマがあそこにやってくる。贅沢で、つとめはげむのを捨て、贅沢に赴いた。かれに挨拶すべきではない。起って迎えてはならない。かれの衣鉢を受けてはならない。しかし座を設けてやらねばなるまい。もしもかれが欲する、ならば、坐し得るであろう」(『仏典』中村元編、筑摩書房)と述べたとあります。
 これからみると、明らかに五人の比丘たちは、意識的に釈尊を冷淡に扱おうとしたことがうかがわれます。
 しかし経典の記すところによれば、実際、釈尊が近づいてみると、彼らは当初の態度を貫くことができず、結果的には釈尊をかなり丁重に迎えたようです。
 だが、釈尊が悟りを得ているなどとは、もとより思っていない。だから釈尊を呼ぶ場合にも、日本でいえば「君」ぐらいに呼んだのでしょう。それに対して釈尊は、正覚を得た覚者、如来を呼ぶのに「君」とは、なんだ(笑い)、ふさわしくない、自分は正しく悟りを得たのだから私の教えに耳を傾けよと、かなり高姿勢(笑い)で、自信に満ちた言い方で述べたとあります。
 池田 実際の説法で釈尊がそのように高飛車に出たかどうかは疑問だが、確信をもって五人に接したことは十分想像できますね。
 野崎 しかし比丘たちは、釈尊が悟りを得たと高言しても、なかなか納得しない。それどころか、以前、釈尊は苦行を捨て、贅沢になってしまったではないか、その堕落した修行者に、どうして悟りが得られるかということで反詰したとあります。
 この詰問に対し釈尊は、自分は正覚を得た、そしてその教えを説く、とさらに述べます。仏伝ではこんなやりとりがかなり続いたあとで、釈尊はその両者の平行線に終止符を打つべく、自分がかつてこのように光輝な姿であるのを見たことがあるかと問い、ついに五人も納得し、教えを聞くことになったとあります。
 池田 五人は、色心ともに確信と自信に満ちた釈尊の現実の振る舞いに、最終的には心を動かされたということでしょう。ところで、この五人に対する説法だけれども、釈尊の教えを聞いて即座に納得したわけではないといわれているのが興味ぶかい。
 かつて読んだことがあるが、釈尊を含めた六人はサールナートで一種の共同生活を営み、釈尊が二人の比丘に説法するあいだ、他の三人は托鉢に出かけたりして、互いに共同生活を支えたという話があるね。
 野崎 ええ、釈尊の説法を聞こうということで、彼らはかなり腰を落ち着けて取り組もうとしたといわれています。それが、三人が説法を聞いて、あとの二人は六人の生活を支える托鉢、次は二人が受講し三人が托鉢した、というエピソードになっているのではないでしょうか。
 池田 こうしてかなり長いあいだ、釈尊と共同生活をし説法を聞いているうちに、まず仲間のカウンディニヤが悟りを開き、次々に釈尊の説くところを領解し、彼らは全員釈尊の門人となり、弟子の第一号となった。
 ところで、このとき釈尊が説いた法の内容について、普通一般には阿含部の四諦の理、八正道を説いたといわれているが……。
 野崎 まず自分の説こうとする仏法の立場が快楽主義と苦行主義の両極端を離れた中道の立場であることを明かしたあと、四諦もしくは八正道を説いたとなっています。しかしこれらについては、研究者のあいだでもかなり異論があって、単に八正道だけだと考える人、また中道や八正道は後年整えられたものであって、このときはただ生老病死を克服する智と見が生じたとする説、さらには四諦の理であるなどと、さまざまな見解があります。
 池田 どれが真実であるか推測のほかはないわけだが、ただいえることは、彼の得た菩提樹下での悟りというものと、この最初の説法のあいだには、かなり釈尊自身が、具体的に説法をする段になって論を周到に組み立てていたであろうことは推察できます。彼の知悉した秘奥の境地を実際に理解させるためには、かなり一般化した次元で話を進めないと、容易に理解できないからです。
 そこで当然、彼の生命に刻印された原点の悟りを、一般的に納得させる論理の組み立てがおこなわれたにちがいない。
 たとえば苦集滅道のいわゆる四諦の理が初説法の内容であったと仮定しても、この四諦の理というものは、人間が何故に苦悩するかの原因は欲望にあるとして、それを滅するところに真の解脱があるというきわめて実践的な説き方をしている。また八正道にしても、解脱するためには何をなすべきかの、きわめて具体的にして平易な実践項目を立てています。
 だから、比較的容易に五人の比正が釈尊の教えを納得できたといえるわけですが、ここに後年、大乗仏教の側から、阿含部や初説法の内容が人びとに仏法を理解させるための誘引として、かなり民衆の機根に合わせた随他意の説法であったとされる所以も潜んでいるといわねばなりません。
 そして私個人も、おそらくこの最初の説法は、悟りの本質そのものに肉薄した内容というより、そこへ人びとを入らしめるために、かなり平易な実践論を説いたのではないかと推察しているのです。
 野崎 いずれにしても釈尊は、このサールナートで弘教の第一歩を示した。振り返って考えると、この釈尊の初説法は仏教の誕生を世界に告げる意義をもったわけで、その意味を含めてこの初説法は「初転法輪」といわれています。
 池田 古代インドにおいては、理想の人格者たる聖者が宇宙の輪円を回して最高の法を説くという思想があったようだ。転法輪というのも、このインドの故事にならって、最高の覚者が宇宙、人生の真理を説くことをあらわしているのでしょう。
 話は変わるが、転輪聖王というのも、このインド的な発想から生まれた言葉ですね。
 野崎 「輪を回す」ということは、それによって時代も社会も新しく変わるという意味があったのでしょうか。事実、人間の真理の法を説いた釈尊の出現によって、新しい時代の思想が高まっていきます。
3  弟子の帰依
 池田 この第一回の説法以後、釈尊の教化活動はどのように進められていったのであろうか。記録を読むと、初説法後数年のうちに弟子が千人以上に達したとあるが、これによれば、かなり急テンポの伸び方だけれども……。
 野崎 ええ。釈尊の弟子がかなり急速に増えていったのは事実であるようです。それで、釈尊の弟子の系譜で特徴的と思われるのは、当時のインドは現代社会のように個人主義ではないですから、一家の息子や主人が帰依すると、それを契機にその一家中がこぞって帰依するというケースが多かったのではないかということです。
 また、かなり宗教や思想に強い関心を示していた独特の風土から、一人の青年が仏法に帰依すると、その青年を取り巻く友人たちもともに釈尊の説法を聞きに行き、そして門人になるというケースも少なくなかったと思われます。おそらくそんな具合で、弟子の数が増えていったのではないでしょうか。
 池田 王族、家族一同というケースも多かったのだろう。だからこそビンビサーラなどの国王、スダッタ(須達)長者などの富豪階級の人たちも、かなり初期に釈尊に帰依しているわけだ。
 ところで初説法の後、釈尊は、しばらくその鹿野苑にとどまって法を説いたわけだね。
 野崎 五人の比丘が釈尊の弟子となって、しばらくのあいだは、ヴァーラーナシーに根拠を定めて化導していたようです。
 さきほど出てきましたが、ヴアーラーナシーはマガダ国よりさらに西北、インド全体からみれば中インドにあたりますが、この付近は、やはり強国で有名であったカーシー(迦戸)国に属します。ヴァーラーナシーはその首都で、経済活動もかなり盛んで、当時にあっては水陸交通路の要衝地にあり、他国との貿易も活発におこなわれていたようです。
 だからマガダ国のラージャグリハ(王舎城)と同じように、富裕な長者階級も出現していた形跡がある。釈尊の初説法後、最初に弟子となったのが、やはりとの富豪の息子であったという記録が残っています。
 池田 長者の息子ヤサが帰依した話だね。この話は、物質的環境がいかに恵まれていても、人間は精神的に充足しなければいかに空しいものであるかを示唆する話として興味ぶかい。現代にも通ずる側面がありますね。
 仏伝では、このヤサにまつわるエピソードは、釈尊の出家前と同じような象徴的な形で綴られています。ヤサは、商業都市ヴァーラーナシーのなかで富を貯えた資産家の息子であった。彼を取り巻く環境は雨期、寒期、暑期と気候の変化に合わせて作られた三つの立派な家に住み、物質的にはまったく何不自由ない環境であった。侍女もたくさん控えて、なにかあると歌舞音曲の宴が設けられ、歓楽の極にあった。
 しかしそのなかにあって、ヤサの心は一向に晴れない。歓楽の生活に、いつしか空虚を感ずるようになっていたからです。周囲の賑いが続けば続くほど、彼の心に鬱積された憂いと悶えは深まる一方であった。
 それで、ある夜こっそりと家を抜け出し、精神的な安らぎを求めて、さまよい歩いていた。このときに釈尊に会った……。
 野崎 釈尊がちょうどサールナートで安息しているときだったのでしょう。向こうから「心苦しい。つらい」といって叫んでくる若者がいた。
 そこで釈尊は、その若者すなわちヤサを呼び止め、自分のいるところは悩ましいことはないからきなさいといってそばにすわらせ、法を説いた。精神的に空虚を感じていたヤサは、この釈尊の言葉に喜んで、法を聞いたとなっています。
 池田 このときヤサのために説いた法は、当時のインドにあって常識的な通念となっていた業報思想を引いて、仏法の因果律、出離生死の必然性などを説いたとなっています。
 これらから判断すると釈尊の説法は、その人に合わせてかなりインドで育った哲学を用いながら、因果の理法から人生の生き方を教えたという感じが強い。非常に穏当で妥当な一般論を用いて、仏法に入らしめる門としたようだ。
 野崎 釈尊は一般思想、とくに当時の思想界にあって支配的な哲学であったウパニシャッドの哲学に対し、それを全面的に否定するという立場はとらなかったようですね。できるだけその哲学の成果として一般化された理念や思想を論証の根拠として、それを仏法への接点として説き起こそうとしたところに特徴があるようです。
 池田 もちろんそれだけではなく、自ら一般思想との根本的な立場の違いを明らかにして、独自に説いたこともあるだろう。それは、後でナーガールジュナ(龍樹)によって、仏の説法は四つの方式、すなわち四悉檀があると定式化されて整理分類されたわけですが……。第一義悉檀、対治悉檀というのは仏法独自の思想を第一義に、また他の思想を破折して説いた方式ですね。それに対して世界悉檀、為人悉檀は相手の立場、思想、心情を理解し、一般論を用いて仏法へ入らしめる説き方であった。
 釈尊の四十五年あるいは五十年といわれる説法、教化活動は、この四悉檀を奔放に駆使したといってよい。ヤサなどへの説法は為人、世界悉檀的な説き方であったと考えられる。
 野崎 それでヤサは、この釈尊の教えを聞いて自分自身の人生を強く反省したのでしょう。心が洗われる気持ちになり、ついに釈尊の弟子になり、出家することを決意したといわれています。これで釈尊の門人は先の五人と合わせて六人となった……。
 池田 ヤサにまつわるエピソードは、これだけにとどまらない。このあと出家した息子の安否を気づかった父親が、やはり釈尊のところへきて法を聞き、在俗信者として信仰に励むことを決意するとともに、釈尊もヤサ家へ招かれて、そこでヤサの母と妻が帰依するようになる。
 さらにそれだけでなく、聡明の誉れの高かった青年ヤサが釈尊のもとで出家したことを聞いた友人が、次々と釈尊の教えに感嘆して出家した。この友人の数は五十四人を数えたといわれる。
 一人の英知ある青年の信仰が、家族に、また同時代の若者にいかに大きな影響を与えるか、ヤサの出家はそれを物語って余りあるね。
 野崎 そうですね。こうしてともかく、釈尊の弟子は五人の比丘に加え、ヴァーラーナシーの豪商の息子ヤサの帰依を契機として、一挙に五十人以上の出家者が加わり、小さいけれども一つの教団を形成するにいたった。
 そして釈尊は、この意義あるヴァーラーナシーの教化を終えて、次に悟りを開いたウルヴィルヴァーへ向かい、本格的な布教を展開するようになります。
 ところで、ここで注目すべきことは、教団を形成したからといって、この六十余名が一群となってウルヴィルヴァーへ向かったということではない。むしろ出家者一人一人が、互いに各地で民衆を独自に化導することを命じていたということです。
 池田 なるほど。すると釈尊も、弟子をもっていたが、連れ立って行ったのではなく、一人で向かったわけだね。
 野崎 ええ。その点について仏典『マハーヴァッカ』では、諸君も最高の悟りを得たのだから世の人びとの平和のため、幸福のため、諸地域を遊歴し、優れた教えを説き、実践法を示すがよい。……自分はウルヴィルヴァーのセーナー村に行く。諸君も思い思いに遊歴しなさい。二人いっしょに連れ立つのではなく、必ず一人ずつで歩き、なるべく多くの人びとを指導教化しなさいと命じた、とあります。
 池田 それは非常に興味あるところですね。釈尊の教えを聞き、そこで仏教の理を獲得し、出家するとすぐ人びとを教化させた。それが出家者の実践であり、使命であったことがうかがわれる。「世の平和のため、人の幸福のため」仏法を説き、民衆を指導教化せよ、というのが、やはり仏教の根本的な実践の精神であったことを、それは物語っている。
 考えようによっては、出家すると、釈尊とともにというより一人で巡教するのだから、これは随分厳しいもののようにも思えるが、おそらく釈尊は、自分の弟子には、仏教者としての厳格な指導と教育を施したのでしょう。
 この仏教の出家者に対する厳格な指導と実践への教示は、今日、われわれが、仏教の精神はいずこにあるかを知るうえで貴重な手掛かりと考えねばなりません。
 所詮、仏教とは、単なる哲学でもなければ、瞑想の世界に静かに身を横たえることでもない。道を求めてその理を体得したならば、自己の人生の使命を、その法の流布と弘通にかけて衆生を教化していく、その実践のなかにあることを忘れてはならないし、それが釈尊から現代にいたるまで、一貫して続いているということです。
 野崎 「連れ立たずに、必ず一人で遊歴教化せよ」というところは、またある意味では、仏教が信仰者一人一人の自律性と主体的な実践を、なによりも大切にしたということもあらわしているのではないでしようか。
 池田 そうです。出家者は、単に仏教を与えられたものという受動的な受け止め方ではなく、教示された法を今度は一人で、自身が主体的に友に語りかける実践という場を通して把握させるという、能動的な受け止め方をさせようと、釈尊は考えたともいえるのではないだろうか。
 ともかく、帰依した一人一人に独自に法を説かせて民衆のなかへ入らしめた釈尊の教育は、実践宗教としての仏教の特色を、じつに鮮明に示しているでしよう。
4  ウルヴィルヴァーでの説法
 野崎 さて、ヴァーラナシーで帰依した弟子六十余人と別れた釈尊は、本格的な弘教の旅に一人たち、正覚の地ウルヴィルヴァーへ赴いたとあります。
 そしてこのウルヴィルヴァーの教化では、後年の仏教教団に大きな影響を与える有力な信者があらわれてまいります。そのなかの代表的な人物を挙げてみますと、まずマガダ国王のビンビサーラ、さらには釈尊十大弟子のシャーリプトラ(舎利弗)、マウドガルヤーナ(目連)、マハーカーシャパ(摩訶迦葉)、その他カーシャパ(迦葉)三兄弟等、今日なお仏弟子として有名なメンバーが交じっています。
 こうしたことをみますと、このウルヴィルヴァーの釈尊の教化活動はきわめて順調であるとともに、仏教という新しい宗教の流れが、旧来思想に飽き足りず道を求める多くの修行者、出家者、有力者に急速に受け入れられ始めたことを物語っているともいえましょう。そこでこのウルヴィルヴァーでの釈尊の化導を概括的にみていきたいと思います。
 仏伝『四分律』『五分律』によれば釈尊は、ウルヴィルヴーへ向かう途中、約三十組の男女カップルを帰依させたというエピソードもみられます。
 それは、釈尊が、とある密林の樹の下で禅定に入っていたとき、その密林に遊んでいた若い男女三十組のカップルだといわれている。
 ことのキツカケは、その三十組は一人を除いて夫婦であったが、その未婚の一人が遊女にだまされて盗難にあう。そこで、逃げた遊女を全員で捜し求めているうちに釈尊に出会ったというわけです。
 ことのなりゆきを聞いた釈尊は「遊女を尋ねるより自己を尋ねることのほうが優れているではないか」(大正二十二巻793㌻、参照)と述べて、そこで全員に法を説いたといわれる。そして、そのカップル全員が釈尊の門人となったと伝えられています。
 池田 ヤサの場合といい、その密林のエピソードといい、いかにもインド的な感じがする話だが(笑い)、ちょっとした契機をとらえて仏法の話に導く釈尊の化導は、おそらくじつに見事であったのでしょう。また、宗教家、思想家を尊敬する当時のインド一般の風習からみて、仏伝のようなエピソードは珍しいことではないにせよ、そのように一様に感動し、出家まで決意するというからには、よほど最初に出会った釈尊の人間性に魅力があったからではないだろうか。
 それは、ヤサ青年にしても、この若者たちにしても、けっして生活に苦労して信仰に入ったというタイプではない。また、これから出てくるでしょうが、釈尊の弟子には、経済的にも思想的にも、かなり一般の水準を抜いている人たちが多い。
 もちろん、貧しき庶民も釈尊の門下としてまったく平等な扱いをうけたけれども、当時にあって知名人も非常に多かった。これらからみると、やはり釈尊自身の全体からにじみ出る人間性の輝きが、彼らをして仏道の門に入らしめたということも、随分あったのではないだろうか。
 野崎 そのようなエピソードを生んだ旅のあと、釈尊はいよいよ目的地であるウルヴィルヴァーに到着します。そこでまず第一に、バラモン信奉者との対決をおこなったと伝えられています。
 このバラモン信奉者は結髪外道といわれ、ウルヴィルヴァー・カーシャパ、ナディ・カーシャパ、ガヤー・カーシャパの三人。いずれも髪を結ってバラモンの儀礼をおこない、付近に相当影響力をもっていたようです。弟子もそれぞれ五百人、三百人、二百人といわれています。
 池田 釈尊は、どうしてその三人のバラモンと対決しようと考えたのであろうか。そのバラモンたちはウルヴィルヴァーで相当影響力をもっていたのだから、おそらく、かつて修行期間中にその存在を耳にしていたとも思えますね。
 野崎 ええ、多分そのバラモンたちはウルヴィルヴァーで尊敬を集めていたでしょうから、苦行林に釈尊が入ろうとしたとき、すでに風聞は入っていたのでしょう。
 ただとのバラモンたちはバラモン固有の火の神(アグニ)を祀る人びとで、釈尊は自分の修行目的からいって、彼らには師事しなかったのではないでしょうか。
 池田 なるほど。しかし今度は、まさしく覚者になった立場から、そのバラモンを仏法のうえから打ち破っておこうと考えたのかもしれない。
 野崎 そのことについては、釈尊がマガダ国での布教を推進するにあたり、まず既成のバラモン外道を仏教に導き、その門下を釈尊に帰依させることが、やはり大きな源泉になるという考えが釈尊にあったのではないかとも推測されています。
 池田 思想の対決だから、あるいは、そういう意図があったのかもしれない。もちろん、それを最初から計算していたわけではないでしょうが……。
 野崎 この結髪外道との対決が面白く、仏典などではさまざまに劇的な場面が展開されています。釈尊はこの三人のなかでも最も力のあるウルヴィルヴァー・カーシャパを帰依させようと、彼の家を訪問した。
 そこで、カーシャパの聖火堂に泊まらせてくれるよう懇望した。それに対してカーシャパは、その聖火堂には悪龍がいて釈尊を害すると述べた。
 しかし釈尊はそれでもなお要望し、その聖火堂で一泊した。はたして聖火堂には悪龍がいて釈尊に襲いかかろうとしたが、釈尊は広い慈悲の姿でこれを調伏してしまった。
 これを翌日知ったカーシャパは釈尊の威徳に感服するが、まだ自分のほうが偉いと思い込んでいる。そこで釈尊は、さまざまな神通力を発揮して、このカーシャパを屈服させたというわけです。
 池田 神通力というと、なにか神秘的なように聞こえるが、おそらく哲学論争を挑むよりも、宗教者としての事実の力のうえで承服させようと釈尊が考えたことを示しているのではないだろうか。
 この既成バラモンと仏教との対決で、カーシャパが釈尊の門に下った事実の与えた意味は、大きかっただろうね。
 野崎 ええ。事実、この対決で釈尊に屈服したウルヴィルヴァー・カーシャパは、即座に釈尊の弟子になることを申し出た。これに対して釈尊は、五百人の弟子の長が軽々しく改宗してはならぬ(笑い)と戒めたけれども、弟子との協議の末、ついに五百人全員、釈尊の弟子となった。そして旧来のバラモンの祭杷の器具や毛髪、結髪を、全部水に流してしまった。
 これを見て、あとのナディー・カーシャパ、ガヤー・カーシャパも相次いで釈尊の弟子になることを決意し、じつにウルヴィルヴァー地方一帯に強固な勢力を誇っていた結髪外道のカーシャパ三兄弟のバラモン千人が、ここに一挙に釈尊の門人になったわけです。
 池田 ほう、一度に千人ね。力ある思想家に的をしぼって法を説いた釈尊の実践は、見事に実ったわけだ。それにしても、一度の対決で打ち破られたとみてすぐその門人になるというのは、日本では少し考えられないね(笑い)。それだけ当時のインドにあっては思想が尊重され、思想戦で敗れることがいかに大きいかを裏付けている。
 野崎 このウルヴィルヴァーの教化で、一挙に千人もの帰依者をみて、釈尊の教団は完全に一つの宗教団体へと発展したわけです。その意味でこのバラモンとの対決は、仏教教団の歴史において一つの重要な意味をもっていたとみることができます。
 それと、これらカーシャパらの帰依は、その後に釈尊がマガダ国で布教するうえで、大きな影響を及ぼしたとされています。というのは、マガダ国で釈尊の帰依者になった人びとのなかには、カーシャパが帰依したことで釈尊を尊敬するようになった人も、多くいたといわれているからです。
 池田 それは十分考えられる。マガダ国でかなり有力な信徒が続々生まれたのも、そうしたことも影響しているとみてもよいのではないか。
 野崎 ところで、マガダ国のビンビサーラ王が仏法の帰依者になったいきさつですが、ビンビサーラ王についてはまえにも出てまいりましたが、最初、釈尊がマガダ国に入ったときから関心があった。――彼は出家者釈尊の気高い姿にうたれ、自国の軍隊の指揮まで懇望したが、釈尊の出家の意思の固いことを知ると、悟りを得たら真っ先に教示願いたいと申し出ています。
 その再会が、おそらくカーシャパらの帰依のあと、あったのでしょう。伝説では、釈尊がカーシャパら新しい弟子千人を連れてマガダ国の首都ラージャグリハ(王舎城)に入ったことを聞いたビンビサーラ王は、すぐ群臣を引き連れて釈尊のもとに走ったとなっています。
 池田 そのときは、ビンビサーラ王も、釈尊が仏陀になったことをすでに耳にしていたにちがいない。以前の約束が実現する機会に巡り会った喜びもあったであろう。覚者となった釈尊から直接教えを聞いて信徒になったといわれている。
 そしてすでに千人にものぼる弟子を抱える教団に対し、自己所有の領地である竹林を精舎として教団に寄進している。
 もっとも精舎といっても、この当時はまだ、後の寺院というような形式ではなく、釈尊や仏弟子が雨露をしのぐ程度のものであったようです。
 釈尊をはじめ弟子たちの活動の舞台は、ほとんど遊歴と托鉢であったわけですから。このビンビサーラ王から寄進をうけた竹林精舎も、少しのあいだの休息所、また雨期における弟子の瞑想の場として設けられたと考えられます。
 それはともあれ、マガダ国王ビンビサーラが仏教の帰依者になったということは、釈尊の教団にとっては非常に有力な支援者を得たことになり、さきのバラモンの大家の帰依とはまた違った意味で、いやそれ以上に、仏教の発展に大きい影響を与えたことは間違いない事実ですね。

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