Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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2 釈尊の修行過程  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

前後
2  バラモンの二仙人
 野崎 文献上の資料によれば、ラージャグリハ(王舎城)西の山麓でビンビサーラ王に会見したあと、釈迦は、数多くの出家者のなかからバラモンの二人の仙人につき、そのもとで修行したということになっています。
 その二人とは、アーラーダ・カーラーマ(阿羅茶迦蘭摩)とウドラカ・ラーマプトラ(欝陀羅迦羅摩子)の二人です。
 池田 そう、仙人というのは、わが国では久米の仙人などがよく知られているが(笑い)、まあ非常に東洋的な風土から生まれたものですね。中国では道教における理想的人間像とされているし、インドでも、バラモン以来、人里離れた山林、森林で、道を究め、ある程度の徳を有したものを「仙人」といっていたようだ。
 インドにあっては、バラモンの修行者のなかで、かなりの境地に達した者に名づけられていたと思われる。
 野崎 つまり、バラモンの最高の権威者ですね。釈迦は、その、いわば当時のオーソリティーに師事したわけですが、この二人をよくみてみますと、さきに出てきた六師外道などとは、たいへん違ったタイプの修行者ですね。釈迦はなぜ、この二人を選んだのか……。
 池田 その理由は、あまり明確ではないようだ。ただマガダ国に入って、六師外道などのことについては、釈迦は十分耳にしていたにちがいない。しかし、どうも、その極端な思想と修行の実践に、なじめなかったのではないだろうか。
 そこで、さまざまな出家者の様子をまのあたりにした。そのなかから、この二人が浮かび上がってきたと想像される。何故に釈迦が師事してみようと思ったかは、今ではまったく推測するしかないが、この二人は、禅定の大家だね。
 野崎 ええ、そうです。アーラーダ・カーラーマは「無所有処」という禅定の境地、ウドラカ・ラーマプトラは「非想非非想処」という境涯を得たということで知られていた禅定家です。
 池田 その禅定ということだが、これは、苦行とともに、当時の出家修行のなかで、とくに優れた修行法と考えられていた。この禅定が、いつごろから始まったか……。おそらく当初は、バラモンの、例の四期の林棲期にあたる人の修行法であったようだが、釈迦の時代に下ると、もっと哲学的な意味から、禅定が考えられるようになってくる。
 野崎 哲学的な意味といいますと、心を統一するとか、自己の内面を省察するとか……。
 池田 そういうこともあるが、精神の作用、働きによって、肉体の束縛を離脱するというような考え方が生まれてくる。つまりバラモンの哲学、とくにウパニシャツドの哲学では、精神と物質・肉体とは相対立するものとみられていた。そして、この物心の二つの対立から、幸・不幸が生ずるという思想がある。
 それを解決するのは、人間の本来のものである精神の無垢清浄な働きを促進し、物質的なものを、このもとに包摂する以外にないというような考え方が出てきたのだね。それがヨーガといわれる禅定で、釈迦時代の出家者に流行していた修行法であった。
 野崎 現代の先進文明圏でヨーガや禅に関心が寄せられているのは、精神の荒廃という現実に対する一種の反省からですが、やはりこれと共通する背景が当時もあったわけですね。
 池田 そうですね。それと、釈迦の時代において禅定が流行したのは、この現実の人間存在にともなう苦悩からの解脱ということが、根本的な考え方としてあった。
 解脱ということは東洋独特の言葉で、西洋で、しいてこれに類似する用語を探し出せば「自由」ということになるが、やはり解脱と自由とは違う。これは、換言すれば東西の「自由観」の相違ともいえるが、西洋流の「自由」という言葉は、制度的な社会
 原理として考えられている。それに対して、解脱という東洋的な自由観は、どのような社会、体制にあっても、本年的につきまとう人間の生死の苦悩をつきつめて考えてい。そして、その根源の事実からの解放を強く希求していますね。
 野崎 それが、あまりにその根源の深みに沈潜しすぎて、つい現実の社会の問題を等閑視してしまった(笑い)。その点、西洋の「自由」観は、人間の社会的権利としての側面の追求であったため、社会制度上の数々の進展と変革がおこなわれましたね
 池田 それが、近代に入って東洋精神文明が、西洋文明に支配されていく一要因となったとも考えられる。これは、どちらがいいという問題ではなく、両面を考えていかなければいけないが、現代という時代のおかれた状況からみれば、東洋的な解脱観が、今こそ必要だといえるのではないだろうか。
 野崎 話がだいぶ飛びましたが、その解脱を図る修行として、禅定があったということですか。
 池田 そうです。だから、人間の「生老病死」という、生死の問題の大いなる解決のために出家した釈迦が、その禅定に心をひかれたのは、むしろ当然であったといってよい。
 野崎 ところで、釈迦が師事した二人の仙人をみていきますと、まず最初についたといわれるアーラーダ・カーラーマは、マガダ国から少し離れた都市ヴァイシャーリー(毘舎離)にいたとも、またヴィンディヤ山脈に住んでいたともいわれて、居住地が明らかでないのですが、約三百人ぐらいの弟子をもっていたと伝えられています。そして体得した境地が、「無所有処」であることを宣言していた人物といわれています。この「無所有処」が、どのような悟りなのか。文字どおりいえば「所有がない境地」ということですが……。
 池田 この「無所有処」だけでなく、ウドラカ仙人の「非想非非想処」、つまり「想うに非ず、想わざるに非ずという境地」のいずれも、後年、仏教の境涯論のなかに組み入れられているものだ。「無所有処」というのは、すべて自身の執着を離れた境涯ということになるのだろうけれども、釈尊が、このバラモンの理想の境地を、自己の教義のなかで位置づけているのは、釈尊の悟りからみれば、天界の一つで、声聞、独覚にも及ばない、いわんや菩薩、仏界からみれば、はるかに低い、三界流転の境地ということになる。
 野崎 つまり、打ち破ったうえで、十界の境涯論の中に位置づけているわけですね。
 池田 そういうことです。釈尊は即座に「無所有処」は、めざすべき目的にはなりえないことを見破ったと思われる。
 野崎 アーラーダ・カーラーマにあっては、それ自体が目的であった。釈迦は、このアーラーダについて師事し、たちまちのうちに、このアーラーダが体得したという「無所有処」という禅定の境地に達したが、それではとうてい満足することができなかった。この間の事情について、経典では、アーラーダを訪れ、その実践法を聞いた釈迦が、即座にアーラーダと同じ境涯を得たため、アーラーダが驚き、そして「この門下にとどまって、二人で弟子を統率しよう」と呼びかけたのに対し、釈迦は「この法は厭離に赴かず、離欲に赴かず、止滅に赴かず、平安に赴かず、知に赴かず、正覚に赴かず、安らぎに赴かない。ただ無所有処を獲得し得るのみ」(前出)と述べ、そのもとを立ち去ったと記しています。
 池田 釈尊にあっては、正覚、つまり人間の生死の苦悩を解決する悟りが目的であった。しかし、バラモンのアーラーダの説く「無所有処」は、その悟りにいたる段階の境涯である。「何物にも執着しない」といったところで、現実の人間の苦悩は解決でき
 ない。故に釈迦は、それに満足できないで立ち去ったと、私は考えたいのだが……。
 野崎 これは、釈尊の悟りの内容と関連してくるわけですが、釈尊の悟りは、万物の生滅の真相を直覚したものですね。そういう釈尊の悟達からみると「無所有処」ということは、たしかに一分の真理ではあっても、それ以上のものではないということになりますが……。
 池田 このことはアーラーダを去って、次のウドラカ・ラーマプトラのもとを訪れたときにも共通することです。
 野崎 そのウドラカ・ラーマプトラですが、この人物は、マガダ国にいた仙人とされています。彼は「非想非非想処」という境涯を得て、ラージャグリハの近くに七百人の門人を従えていたといわれています。
 さきほどの経典では、アーラーダのときと同じように、釈迦がウドラカ仙人を訪れ、たちまちのうちに、「非想非非想処」なる境涯に達したけれども、正覚におもむかない故に立ち去ったと叙述されています。「想うに非ず、想わざるに非ざる境涯」というのは、なんとなく抽象的で、つかみにくいのですが、思惟や理性をこえた生命の実感というか、そのようにも受け取れるのですが。
 池田 そうですね。一概には断言できないが、想念とか、思惟というのは、まだ観念の範疇といえる。真の悟りというものは、そうした観念の殻をこえた、生命に刻印された実体です。しかして、その実体をつかんでいる自己自身は、やはり思惟する自身であるというような意味のようにも解釈できる。
 野崎 話がかなり難しくなってきましたが、ここで大事なことは、いずれにしても、出家者・釈迦は、当時の最高の禅定家二人に師事し、その禅定の理想を体現したが、自らの出家の目的を満足することはできなかったという点にあると思います。そこで釈迦は禅定を捨て、次に苦行に入っていく……。
 池田 結局、それは当時の禅定家は、禅定それ自体が目的であった。禅のための禅であった。何故に禅定に入るかの第一義の命題を忘却していたともいえよう。
 野崎 このような傾向は、現在の安易な禅ブームにも、見受けられますね。ただ坐禅を組んで思いを凝らすだけでいい(笑い)というような姿勢も、一部にはみられるようです。
 また意地悪な見方をする人からいえば、その禅だけを目的にすると、たとえ、そこで得た境地といっても、ただ精神が朦朧とした状態が(笑い)高い境涯であったりされかねない。
 池田 そうだね。ヨーガや禅定は、東洋哲学の優れた実践法であるが、それは、真実妙なる「法」を把むための修行法であって、それ自体が目的ではないことを、釈尊が自身の体験を通して、後世に残しているとも、私は受け取りたい……。
3  苦行との対決
 野崎 マガダ国で当代一流の禅定家に師事したものの、そこで自身の求める悟りに達することのできなかった釈迦は、次に意を決して苦行に入ります。この苦行の期間が、六年とも、あるいは十年に達するともいわれるほどかなりの長年月になっています。
 釈迦が苦行した場所は、マガダ国のラージャグリハから少し西方のウルヴイルヴァー(パーリ語はウルヴェーラー)地方のセーナー村の近くの林であったとされています。この村は、ナイランジャナー河(尼連禅河、パーリ語はネーランジャラー)という河に沿った村であったといわれている。ナイランジャナー河は、ガンジス河の支流で、釈尊が悟りを開いたブッダガヤー(仏陀伽耶)もこの河の流域になっています。
 経典では、釈尊がいかなる環境のなかで修行に励んだか、次のような生き生きした筆致で、釈尊の回想として綴られています。
 「かくてわたくしは善なるものを求め、無上の絶妙なる静寂の境地を求めて、マガダ国の中を遊歩しつつ、ウルヴェーラーのセーナー聚落に入った。そこに愛ずべき地域、うるわしの森林、流れ行く(ネーランジャラー)河、よく設けられた美しい堤、四囲豊かな村落を見た。そのときわたくしはこう考えた――実にこの地域は愛ずべく、森林はうるわしく、河は流れ行き、堤はよく設けられて美しい。実にこれはつとめはげもうと欲する良家の子が修学するのに適している。そこでわたくしはそこに坐した――『ここは修学に適する』と考えて」(前出)
 ところで、このセーナー村の林というのは、一種の苦行林といわれ、バラモンたちが集まって苦行に励んだ村であったと伝えられています。このようなところからみますと、苦行というのも、当時出家修行者に、たいへん広く実践されていたということですね。
 池田 苦行も、さきほどの禅定と同じように、インド哲学の修得法として、よく用いられたものです。ここにも物心二元論ならびに解脱の思想が流れている。つまり、何故に苦行するかというと、肉体を苦しめ、苦しめ抜くことによって、精神の自由を獲得しようとする思想があるわけだ。
 野崎 苦行には、いろいろの種類があるそうですが、いま、それらの一端を水野弘元氏が『釈尊の生涯』(春秋社)で記された分類によって並べてみますと、心を制御するもの、呼吸を止めるもの、断食によるもの、食を減ずるものなどに分かれています。
 そして、それらの苦行の一つ一つに、じつに詳細なパターンが挙げられています。たとえば、心を制御する苦行についていえば、端座して上下の歯を合わせ、舌を上顎につけ、その姿勢のままで、じっとわが心を統制する。
 これだけ読めば、なんでもない行にも思えますが(笑い)、実際やってみると、短時間ならたいしたことはないのですが、長時間やっていると、次第に呼吸が苦しくなり(笑い)、両脇から汗が出てくるといわれています。いってみれば、頭の上に、何か重しをのせられて、じっと歯を食いしばって頑張る(笑い)というような修行ですね。
 また、呼吸を止める苦行などになると、これは大変で、まず最初に、鼻や口から息が通るのを止めることに専心するのだそうです。鼻や口から息を止めると窒息するのではないか(笑い)とわれわれは思うわけですが、そういう鼻や口の呼吸が止まると、実際は耳から息が出入りするようになるらしい。しかし、それは激しい耳鳴りがして、その苦痛は耐えがたいものだといわれています。
 それで、この呼吸を止める苦行は、次いでその耳から出入りする呼吸も止める修行に入るらしいのです。すると今度は、頭に響いてきて、頭が砕かれるような苦痛が生ずる。それから、やがて下腹部へと続けられ、最後に全身に進むという次第が決められているようです。
 このほか、断食のほうでは、一昼夜や一週間などは、まだまだ序の口で(笑い)、一カ月、二カ月、場合によっては六カ月に及ぶといわれている。とくにジャイナ教の断食行は有名で、これを苛酷なまでに実践したため、ジャイナ教の教祖マハーヴィーラ(ニガンタ・ナータプトラ)の弟子の十一人のうち、九人までが断食により、生命を絶ってしまった。しかし、それが解脱とされていたようですね。
 このような記述をみていますと、なんと残酷で非人間的な宗教かとも思えるとともに、宗教、思想は、徹底して実践すると、きわめて恐ろしい結果を生む場合があることを、改めて思い知らされた気がします。
 池田 まったく、今日のわれわれでは、考えられないことだね。宗教、思想というのは、それを実践すれば、その一念によって、必ず結果が生ずるから、ある意味では、非常にこわいといえる。
 まあ、ジャイナ教の場合は、極端で徹底した苦行主義を貫いたわけであるが、苦行そのものの本意、真意というものは、けっして哲学的な意味がないわけではない。
 苦行という言葉は、原語でいえば「タパス」ということで、その文字どおりの意味は「熱」ということだといわれる。すなわち、炎熱、酷暑の太陽熱を裸身に受け、身、つまり肉体を焼け焦がすという修行だね。
 そんな修行が何故あったかは、さきほども述べた、肉体は汚れあるものであり、精神こそ清浄なものだという根強い思想がある。だから、肉体をいじめ抜いたその地平の彼方に精神の安らぎがあり、それを解脱とする思想があるのだろう。
 したがって、苦行は、当時にあっては、悟りを得るための、重要な修行法であったわけだろう。どのような出家者も、一度は、その苦行の体験の門をくぐらないと、真に事象の真相に迫っていけないという伝統的考え方があったとみていいのではないか。
 野崎 釈尊も禅定で得られなかった悟りを得るためには、やはりその道をとらざるをえなかった……。
 池田 それと、釈尊の姿勢のなかには透徹した悟達を得るためには、やはり自己自身との厳しい対決がなければならない。だれびとも、その時代の外には出られない。だから、釈尊もその苦闘、葛藤を経ずして、地についた自身の悟達は望めないという信念
 があったのではないかと思う。
 それは、歴史を変革する発見や、真理を体得したすべての人物に、いい得るのではないかと思う。安易な実践の中には、大衆をリードし時代を先取りする思想や知恵は、けっして生まれてこないものです。だから、釈尊も、苦行を自身の体験の年輪に加えることにより、また、それと真っ向から対決することにより、独自のものを把もうとしたと、私は考えたいのです。
 野崎 そうでなければ、釈尊の修行の過程の大半が苦行で占められていたということが、納得できませんね。『大智度論』にいう、十九出家の説をとれば、十一年間、原始経典の説をふまえても、六年の長きにわたり苦行していたという真意は、そこにあるとみていいですね。
 池田 今の言葉でいえば、その時代の思想と本格的に、そのなかに入って実践、対決したということになる。何事も、とくに宗教や思想というものは、その内に入っておこなわなければ、真髄は体得できない一面がある。
 現代は、科学精神という客観的尺度ですべてを外側からみる傾向が強いので、こうした考えは、なじめないかもしれないが、大悟に通ずる道というもの
 は、けっして冷ややかな傍観の態度ではなく「そのもののなかに入る」ことによって達する場合が多いことも、忘れてはならないと思うのです。
 野崎 それで、セーナーの苦行林に入った釈迦は、おそらく当時のそうした苦行の数々に取り組んだ。それもかなり徹底して……・
 池田 その通りだと思う。けっして中途半端ではすませていないだろう。だから経文にも、釈迦があまりに激しい苦行をおこない、周囲の人は、その激烈
 さに驚き、釈迦は死んだのではないかと思うところがあるでしょう。
 野崎 ええ、それは後年、釈尊が自分の修行中の体験を回顧して語る一節に出ています。
 「、およそ過去の沙門あるいは婆羅門の中で、どれほど激しい苦痛を受けた者があったとしても、自分が受けたものほど最高の、これ以上のものはなく、未来の沙門、婆羅門で激しい苦痛を受ける者があったとしても、自分が受けたものほど最高の、これ以上のものはない。現在の沙門、婆羅門で、激しい苦痛を受ける者があっても、自分以上の者はない。しかしながら自分はこのような酷しい苦行をなしても、いまだ人法を越えた最高の悟りに到達し得なかった」(『南伝大蔵経』第九巻下、参照)
 池田 そう。これは堂々たる釈尊の確信だね。つまり、釈尊は、当時にあってはいかなるものよりも、苦行の極致を実践した自負がある。その自負のうえ
 から、苦行ではダメだという結論が生まれている。これは非常に強い……。
 釈尊には、過去、現在、未来の、いかなる修行者よりも、自分は、徹底的に苦行を実践したという自負があるのです。いわば、苦行の真髄まで体験した。しかし、それでもなおかつ、自身の目的とする悟りが得られなかった。ですから、最終的に、釈迦は苦行を放棄するわけですが、その放棄は、途中の挫折ではなく、真髄を把んだうえでの放棄であるわけです。
 ここのところは、仏教の悟りというものが、いかに道を求め抜いた者の、厳しい体験の試練のうえに得られるかを示している点で、ふまえなければならない個所ですね。
4  苦行の放棄とその意味
 野崎 禅定といい、苦行といい、けっして釈迦は、安易な姿勢で取り組んだのではない。禅定の場合は、当時の禅定家の最高の境涯まで得ながら、なおかつ放棄している。苦行でも、周囲が死んだのではないかと思えるほど、徹底しておこない、最極の線まで探究していった。でも、やはり自身の悟りは得られない。そこで、釈迦は苦行を捨てて、新たな悟達の道に入っていくわけですが、この禅定、苦行を放棄したという意味は、たいへん大きいですね。
 池田 それは、結論的にいって、仏教の、その後の立場を鮮明にする端緒になっているのではないかと私は考える。つまり、仏教の教えは、けっして人びとに極端な実践を強要するものでもなければ、かといって、単なる膜想、観念の哲学でもない。人びとにとって、また一個の人間として、きわめて常識的で、かつ根本的な道理を説く基盤を可能にしたということになる。
 野崎 いわゆる”中道”の立場ですね……。
 池田 そうです。この”中道”ということについては、もっと釈尊の悟りの内容から説かねばならないが、たしか、釈尊が中道について語るときに、一方の苦行主義と、他方の快楽主義の、いずれも偏見であると斥けている個所があるでしょう……。
 野崎 それは『転法輪経』という経典のなかで、釈尊が自身の反省を含めて次のように述べているところです。
 「修行者らよ。出家者が実践してはならない二つの極端がある。その二つとは何であるか? 一つはもろもろの欲望において欲楽に耽ることであって、下劣・野卑で凡愚の行ないであり、高尚ならず、ためにならぬものであり、他の一つはみずから苦しめることであって、苦しみであり、高尚ならず、ためにならぬものである。真理の体現者はこの両極端に近づかないで、中道をさとったのである。それは眼を生じ、平安・超人知・正しい覚り・安らぎ(ニルヴァーナ)に向かうものである」(前出『仏典』)
 池田 その部分は、悟りを得た釈尊が、出家前、修行中の自己の人生を、総括した記録と受け取れるね。すなわち、出家前のきらびやかな王宮生活での快楽的人生、出家後の厳しい苦行の実践を、いずれをも極端として排斥し、自己の悟りの立場を述べている。とともに、これを普遍的にいえば、釈尊の思
 想的、実践的な立場を、見事に言いつくしていると思われる。
 というのは、快楽主義というのも、また苦行主義というのも、まったく対極にありながら、双方共通している点がある。それは物の見方、考え方の二元論的な思考が働いているからです。
 野崎 つまり、精神か肉体か、善か悪か、天国か地獄か、浄土か穢土かという二元的見方ということですね。
 池田 そう。いま精神か肉体かということで問題にすれば、苦行主義というのは、明らかに両者を相対立するものとみ、とくに肉体は不浄、悪とみなし、それを滅尽もしくは苦しめることによって、精神が自由になるという思想がある。
 ジャイナ教などは、その典型的な例で、そのために、肉体を滅ぼし、死んでも、涅槃を得たいというところまでいっている。そこにはまた、善と悪が両極にあって、善が精神、悪が肉体という関係の図式もあてはめられている。だから、そうした思想に忠実であり、殉じようとするならば、悪の根源である肉体を抹殺する以外にない。事実、こういうことから人間がのろわしい肉体をもって生きているかぎり、この現世は不浄であり、死ぬことによって初めて浄土、天国に{付けるという「天上思想」が生まれてくる。
 だいたいにおいて、天国思想であるとか、浄土信仰が生まれてくる背景には、このような精神と肉体、色心の二元論があるようです。キリスト教も、この例にもれない。
 ところが、色心の二元論に立つもののうちで、精神の清浄とか、天上思想といったものを観念の産物にすぎないとして拒否する者は、結局、たしかなものは、肉体と物質のみであり、肉体に感ずることのできる快楽の追求に身を委ねるほかはなくなってしまう。
 そういう意味で、快楽主義と苦行主義とは、一見、まったく相反するようでありながら、物事のニ元的な捉え方において共通しており、ともに、それは、仏教の醒めた眼からみるならば偏見であり、極端ということになるわけです。
 野崎 苦行という考え方の原点をそこまで掘り下げていきますと、たしかに、苦行そのものは、インドに、おいて、最も体系だてて展開されたものであったにせよ、その苦行的考え方のあらわれは、いつの時代においても、みつけることができますね。
 たとえば、現代においては人間の「エゴ」という問題に焦点が当てられてきている。これは、人間のもつエゴにより、いわゆる文明全体が死滅に向かいつつあるという側面がみられます。公害であるとか、あるいは核兵器であるとかいった問題ですね。そこから、人間のエゴをすべて悪とみなす傾向があり、それを否定しなければならないという機運も一部にみられます。
 池田 私は、その問題意識自体は正しい標的を射ていると思うが、人間のもつエゴ自体まで否定するということは、やはり極端であると思う。人間全体の生命のうえからエゴなる実体を位置づけ、これをいかに正しくリードしていくかを探究しなければならないのではないか。それを、エゴはすべて否定し去るという考え方は、一種の苦行主義のあらわれとなってくる。
 たしかに、自己否定という考え方の動機は、多くは純粋で、道を志すものが、一度は自身に与えなければならない課題であると思う。仏教の出家も、自己否定といえなくもない。ただ、それはあるべき自己を透視しての、現在の自己の否定です。人間革命も、常にこの峻厳な自己への挑戦と対決の過程でおこなわれていくものだ。ただ、それが自己否定だけを目的とするようになると、なにも得られず、なにも建設できないままに終わってしまう。
 野崎 結局、さきほどから指摘されているように、苦行というものが、何故極端になるかは、やはり、その根底とする思考の二元論性にあるわけですね。すなわち、生命に対する偏った見方が根本の因になっている。釈迦は、それを自ら苦行する過程で、はっきりと把みとったのでしょう。故に長年月の修
 行を総括して決然と苦行を捨てた。
 そして、そこに仏教という、既成の宗教思想とは、まったく別の宗教が樹立されるレールが敷かれた。その意味で、これは釈迦の人生の転換期のうちで、出家とともに、重大な意味をもっ事柄といえると思われますが……。
 池田 そう。釈尊が悟りを聞いたのは、その苦行を捨ててから、まもなくということになっている。ほぼ一カ月ぐらいですか……。
 野崎 それについては、明確に苦行を捨ててから何日ということは残っていませんが、苦行林を去ってから、いずれにしても、短時日のうちに正覚を得たとされています。
 池田 その時の悟りの様子、内容については、次に詳細に展開するとして、釈尊は、そのセーナーで、一人で苦行に励んでいたのかどうか。
 野崎 セーナーは、さきほどもあったように、バラモン村ともいわれたほど、バラモンが集まり、苦行していたことが指摘されています。おそらく釈迦は、その苦行者の仲間から苦行の方法を教わったと推定されますが、特定の苦行者について実践したということは、叙述されていません。
 ただ、釈迦が、あまりに激烈に苦行するのを見て、釈迦は、この苦行で必ず悟りを得るにちがいないと感心し、期待した五人の比丘がいたという伝説があります。
 池田 後に、釈尊が成道後、初めておこなった説法の対告衆となった五人のととだね……。
 野崎 ええ、この五人の比丘がどういう経過から釈尊に随順するようになったか、これにはいろいろの説があります。
 出家した釈迦の様子を心配した父シュッドーダナから、すぐ派遣されたカピラヴアストゥのバラモンの子弟五人であるというのもあれば、釈迦族とは関係なく、苦行林での釈迦の厳格な修行を見て感動した者であるとか、苦行によって死ぬのではないかと噂が流れ、シュッドーダナが、釈迦の身を保護するために遣わした五人であるとか、いわれています。
 ただ、その五人の比丘の名前から、一人が釈迦族出身であることがわかり、やはり釈迦族と関係の深いバラモンではなかったかという意見があります。
 それで興味ぶかいのは、その五人の比丘が、せっかく釈迦が苦行によって悟りを得ると期待したにもかかわらず、釈迦が苦行を捨てたので「修行者ゴータマは貪るたちで、つとめはげむのを捨てて、贅沢になった」(前出)と失望し、釈迦のもとを立ち去ったという話が残っています。
 その話は、いかに苦行というものが当時の出家修行者のあいだに尊ばれ、また、それを捨てるということが、出家者として、いかに勇気のいることであったかを示しているとも受け取れる。
 しかし、釈迦は、強い自負と信念のもとに、あえて周囲の誹謗をものともせず、苦行を捨てる。そしてただ一人、悠然と大悟の道程に歩み寄ろうとした
 のです。

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