Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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1 釈尊の青春  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

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9  六師外道
 野崎 ここで、沙門といわれた当時の思想家たちが、何をめざし、思考していたか、このことについて考察を加えてみたいと思います。ただ「沙門」が何をめざしたかといっても、かなりの異なった思想家がいて、その思想もまったく統一された体系があったわけではありませんが、仏教の経典には、そうした沙門のなかでも、六人の有力な指導的立場の思想家がいたと記録されています。
 それは、マッカリ・ゴーサーラ、プーラナ・カーシヤパ、アジタ・ケーサカンバリン、パクダ・カッチャーヤナ、サンジャヤ・ベーラッティプトラ、ニガンタ・ナータプトラの六人ですね。これが有名な六師外道です。
 池田 これは『沙門果経』という原初の経典に出てくる。外道というのは、仏法からみて、他の立場に立つという意味です。だから沙門のなかで、その精神的リーダーというか、哲学指導者となる六人がいたということです。
 そのなかでも有名なのは、ニガンタ・ナータプトラ(マハーヴィーラ)だったようだ。彼はジャイナ教の教祖になっている。高貴な民族として誉れの高かったリッチャヴィ族出身のクシャトリヤであったといわれるが、彼は志を立て出家し、極端な禁欲主義と戒律主義を立て、苦行することによって解脱をはかろうとしたといわれている。
 野崎 このジャイナ教の苦行というのは、非常に苛烈なものだといわれていますね。当時の出家者が何故苦行したのかは、釈尊の修行過程で詳しくみていきたいと思いますが、ジャイナ教の苦行では、不殺生というのが最も大きな特徴で、それは、虫一匹さえ殺してはならないという厳しいものですね。
 池田 その不殺生という掟などが、仏教の五戒とよく似ている。しかし、仏教の精神というものは、そうした極端な苦行にはなかったと思う。釈迦自身も出家して苦行したが、肉体を苦しめるだけでは、何の悟りも得られないことを知り、これを捨てているわけだから……。それはともかく、このジャイナ教の教祖に加え、当時、知識人に人気のあった思想家とされるのが、アジタ・ケーサカンバリンであったようだ。この人物は、万物の要素を地水火風の四大に分解し、すべてを唯物的にみたといわれる。いわば、徹底した唯物論者であったわけだ。それで、世の中は、すべて、こうした物質で構成されているのだから、人間が何を為そうと、肉体の死滅とともに、何も残らない……。
 野崎 今様の言葉でいえば「神も仏もあるものか」「死んでしまえば、それまで」(笑い)という考え方ですね。
 池田 だから、この考え方によれば、善も悪も、たいして人間に影響を及ぼさないことになる。こういう思想が人気の的であったということに、当時の時代の影が落ちている感がする。
 野崎 つまり、絶対神聖と考えられていたバラモンを地上に引きずりおろした。その結果、神秘のベールははがされたが、その反動として、道徳自体にも否定的になる……。
 池田 そう。そうしたリアクション(反動)というものが、たしかに、六師外道にはあったようだ。それは一面、非常に大きな進歩であるといってよいだろう。神の呪縛やカーストの柵から人間を解放しようとした点は、評価される。しかし、その反面、頽廃的、虚無的なものに傾斜していったことも見逃せないと思う。
 野崎 ですから、釈迦は同じく、「沙門」とみられていたが、そうした反社会的なものになじめなかったわけですね。虚無的といえば、サンジャヤ・べーラッティプトラが、そうしたニヒリズム(虚無主義)思想の代表的存在といわれていますが……。
 池田 うむ。懐疑論者だね。
 野崎 釈尊の十大弟子として有名な智慧第一のシャーリプトラ(舎利弗)、神通第一のマウドガルヤーヤナ(目連)が、最初に師事していた人物ですね。
 池田 そう、このサンジャヤの懐疑論は、ウパニシャツドで説くアートマン(我)の常住や、プラフマン(梵)という原理の設定自体に懐疑を抱き、世に不変の原理などはないとしていたと伝えられている。
 シャーリプトラ、マウドガルヤーヤナは、この門下の中でも傑出した弟子だったが、虚無的で消極的な師の教えに満足できないでいるところへ、釈尊の
 弟子に会い、その清廉な姿に心をひかれた。そして二人して門下二百五十人を引き連れ、釈尊の弟子になったといわれる。
 サンジャヤは、両腕とも思えた二人が去ると聞いて、ショックで血を吐いたという伝説があるね。もっとも、もともと懐疑論が持論だから、自分の持論にますます自信をもったかもしれないが……。(笑い)
 野崎 道徳否定的な要素は、他の人物にもいえますね。たとえばマッカリ・ゴーサーラは、徹底的な宿命論を唱えたとされています。この世のすべてのものは、自然の必然の因果のままに生滅していくのであり、人間の精進などは、なんらこの厳格な因果の宿命に作用することはできないと説いたといわれ
 る。したがって、乙こからは、ウパニシャツドで説いた輪廻転生をそのまま認め、否、それに身を任せる以外にないという処世訓が生み出されてくる。これは現代でいえば「ケ・セラ・セラ」(笑い)、どんなにあがいても、人間はなるようにしかならないという思想の原型のように思えます。
 また、プーラナ・カーシャパは、このゴーサーラとは逆に、まったく因果を否定しさり、一切の現象は、なんらの意義、意味をもたないという、無因果
 論を展開していたという。これは「すべてのものにわけなどあるはずはない」という論理であり、結局、人間の社会性も否定してしまうことになる。完
 全な無道徳論です。
 池田 ただ、これらの虚無的な思想と若干異なっていたのが、パクダ・カッチャーヤナであったようだ。彼は、さきのアジタの唱えた四大に、苦・楽・霊魂などの精神原理を加え、そこから霊魂の常住、不変なることを説き、魂の安定を第一義とする人生観を樹立したといわれる。
 彼らはこうした諸思想をもとに実践したが、思想自体が歴史の反動的な要素の強い極端なものであったため、その実践修行も、裸になって炎熱の酷暑の
 太陽を浴びたり、身体に泥をぬったり(笑い〉、森林に生えている雑草を食べたり、随分、原始的な自然生活を求めたとも記されている。
 野崎 なにか、このような記述をみていますと、現代の思想的状況ともよく似ていると実感するのです。ヒッピーとかアングラといった……。
 池田 たしかに、体制からドロップアウト(はみ出すこと)して、そとで自分たちの共同生活を希求する、しかも、その背景にはたしかな哲学の手応えを求めたいとする心情と、日常の常識を破る行動には、非常に共通した点がみられて、興味ぶかい。
 野崎 しかも、現代のヒッピーとか禅といった、東洋の生んだ瞑想の哲学に心をひかれているというのも、心情的に共通した部分があるからかもしれませんね。
 それから、この六師外道の思想が、かなりの人気があった。しかもその、どことなくニヒルな要素のある唯物論や無道徳論に人気があったということも、現代という時代に対比して面白いと思います。
 池田 そういう意味からすれば、六師外道の出た時代は、社会的にも新階級が擡頭し、大きく変動した時代であった。それにともない、価値観自体も激変してくる。こうした価値観の転換の渦の中にいて、六師外道は、既成のバラモンの価値体系を徹底的に破壊する旗手となってあらわれた、と私は考えたい。
 彼らにニヒリズム的な「否定の哲学」が強かったのは、そうした時代の風潮の反映であったのだろう。しかし「否定の哲学」だけでは、新しい文化を築く精神は構築できない。そこに彼らの限界があったにちがいない。
 そして私は、その「否定の哲学」を乗り越えた「止揚の哲学」としてあらわれたのが釈尊の仏教であったと思う。
 野崎 そうみていくと、この古代インドに六師外道があらわれ、その止揚として釈尊が出現した背景というものは、けっして単なる過去のことではありませんね。同じように、快楽主義やニヒリズム、デカダン的な風潮の強い現代社会に対する、重要な歴史の証言とも受け取れますね。
 このことで思い出したのですが、哲学者の梅原猛氏が西洋の哲学者ヤスパースの言を挙げ、この釈迦時代のことに触れていました。
 そのヤスパースの指摘というのは、釈尊が生まれたのとほぼ同時代に、ギリシアにはソクラテス、中国には孔子、そしてユダヤにはキリスト教に大きな
 影響を与えたといわれる第二イザヤ等が、符節を合わせるように、相前後して登場した。これは、人類の文明にとっての、第一の黎明期である。それで、彼はこの時代を人間精神にとっての第一の枢軸時代と呼んでいるのです。こうした優れた思想が一挙にあらわれたのは、やはり古代社会が変動し、一応古代の物質社会が生まれてきたときに呼応したのだといっている。
 そして、人間の歴史は、この第一の枢軸時代で得た精神原理で十九世紀まできた。しかし、二十世紀に入って、人間の築いた物質文明は、まったく予想
 もできない速度で展開した。
 この段階にあっては、この巨大な物質文明に対応できる第二の枢軸となる思想、宗教が必要であるという見解なのですが、まさに現代という時代を洞察した鋭い見方だと思いました。
 池田 その通りです。したがって、今、釈尊の時代に焦点を当てて論じているわけだが、けっしてそは現代と無関係ではない。否むしろ、その淵源を深くたどることによって、いかにみずみずしい精神の泉を発掘するか、それが非常に大事なのです。最近、仏教に対する識者の関心が高まってきているのも、私はそうした期待が込められているように感ずるのだが……。
 野崎 ところで、六師外道と釈尊の関係について、仏教学者の増谷文雄氏の『東洋思想の形成』(富山房)によれば、ちょうど古代ギリシアのソクラテスとソフィストの関係に似ているという。つまりソフイストと呼ばれた多士済々な哲学者たちが六師外道にあたり、そのソフィスト群のなかから、それを止揚した立場としてソクラテスがいる、それが釈尊にあたるというわけです。ソクラテスが出現したギリシアは、周知のように、アテネを中心としたポリス(都市国家)の時代です。それと同じように、この当時のインド社会も、ラージャグリハ(王舎城)やシュラーヴァスティ(舎衛城)等の、いわゆる都市国家が共存した時代であったわけです。
 池田 たしかに思想というもの、とくに偉大な哲学や宗教が生まれる背景というものには、なにか同じような共通点があるものだ。釈尊の場合も、六師外
 道、九十五派のバラモンといわれる、いわば思想界の乱世において、それらをすべて止揚していく形であらわれているし、ソクラテスもその例にもれな
 い、といえるでしょう。

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