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日蓮大聖人・池田大作

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1 釈尊の青春  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

前後
2  名前の呼び方
 野崎 最初に名前ですが、一般的には「釈迦」とも呼ばれていますが、じつは、これは釈尊が生まれた部族の名前ですね。
 池田 そうです。釈尊は、シャーキャ(釈迦)族という部族国家の王子として生まれたというのが定説だね。ですから、正確には「釈迦」よりも「釈尊」のほうが適切ということになる。釈尊となると「釈迦族の聖者」という意味になりますから、より具体的に仏教の開祖の名をさしていることになります。
 野崎 そのほか「ブッダ」(仏陀)と呼ぶこともありますね。古くからインドでそう呼ばれていた事実がありますし、また南アジアや西欧諸国でも使われています。
 池田 わが国ではそれを「仏陀」と書いているが、これは、中国に仏教が伝わったとき、「ブッダ」をそのまま音写して漢字を当てはめたものでしょう。ただ、この仏陀の意味は「覚者」「真理を悟った人」ということで、仏教の理想的な存在を示す尊称として用いられた傾向が強く、固有名調ではないという説もある。それから、「ゴータマ・ブッダ」という名もかなり使われている。
 野崎 これも古い仏典にみられるほか、今日のスリランカやタイ、インドネシア等に伝わった南方仏教では、一般に釈尊のことを、こういっているそうです。
 池田 ゴータマというのは釈尊の姓でしょう。
 野崎 そうです。漢字では「瞿曇」と書きますが、これは釈尊の生まれた釈迦族を構成していた一つの氏族の名というのが定説のようです。
 池田 よく歴史の教科書などに出てくる「シッダールタ」(悉達多)というのは、幼名とか個人名とかいわれているが、これも意味は「目的を達成せる」とか「義を成ぜる」ということであるようだ。馬鳴の『ブッダ・チャリタ』では、釈尊が生まれてからは父、シュッドーダナ(浄飯)王の願いがことごとく達成し、国も豊かになったことから、このように名づけられたとされている。また岩本裕氏は『悌教入門』(中公新書)のなかで、釈尊の実名ではなく、むしろ釈尊が成道し、その人格の偉大さを慕う尊称として、後代の人が仮託したのではないかともいわれていますね。
 野崎 そのほか釈尊のことを「シャーキャムニ(釈迦牟尼)」とも言いますが、この牟尼とは聖者の意味で、釈尊と同じ言い方だと思います。ですから、われわれが呼ぶ場合は釈尊もしくは釈迦牟尼が一番妥当ということになりますが、特別に学術的に限らない場合は、通称として「釈迦」または「釈尊」でもいいのではないかと思われます。
 (以下、本文はとの通称「釈迦」または「釈尊」を使用する)
3  釈迦族について
 野崎 ところで、釈尊の生まれた釈迦族についてですが、よくカピラヴァストゥ(迦毘羅衛)が出てきます。それがどのあたりに位置していたか、一つ
 の問題になります。ヒマラヤの南麓で、その南にガンジス河流域のデルタが開けていたとよくいわれていますが……。
 池田 それについて最新の考古学的研究では、今のネパール国のタライ地方だという見方をしているね。ただ、釈尊の生誕地はカピラヴァストゥではなく、ルンビニー(藍毘尼)ですね。
 野崎 ええ、カピラヴァストゥから二十四キロほど離れていたといわれています。ところで釈尊が生まれた当時は、すでに各地に都市があったといわれています。それがカピラヴァストゥの場合、町であったということから、あまり大きな都市ではなかったという説があります。
 池田 なるほど。王舎城はマガダ(摩訶陀)国の首都だね。それらと比較すると、やはり小規模であったのかもしれない。当時の生計はやはり農業でしょう。七世紀に唐の玄奘がとの地を訪れたときの訪問記『大唐西域記』では、釈尊の生国である劫比羅カピラ伐堵ヴァストウ国の気候は温暖で土地もやや肥沃であったという記録がある。経典等にはお米の話がよく出てくるので、多分、農耕を主体とした生活を営んでいたのでしょう。ともあれ、かなり平和で穏やかな田舎町であったと推測される。人口はどのくらいだったのかね?
 野崎 それが少し意外なのですが、釈迦族とコーリヤ(拘利クリ)族全体を合わせて百万ほどだと伝えられています。町自体の人口についての資料はありません。もっとも、百万という数も正確な人口調査をしたわけではないでしょうけれども……。
 池田 百万というと、かなりの数になる。小さな氏族ということから考えて、少し多過ぎる数のようにも思える。それはいいとして、釈迦族の人種は何系だったか、これがまた一つの問題ですね。西洋の学者の中にはモンゴル(蒙ず)系という説を唱えた人もいたようだが……。
 野崎 人種が何系だったか、諸説紛々としてはっきりしていません。モンゴル系という説は、中村元氏が『ゴータマ・ブッダ』(法蔵館)の中で「イギリスの歴史学者ヴィンセント・スミスが、『釈尊は生れは蒙古人であったらしい、すなわち蒙古人の特徴を具えチベット人に似たグールカ*Gurkha*のような山岳民であったらしい』」と紹介されているように、そこから生まれた説であるようです。これは、ヒマラヤ山脈の麓一帯にかつてチベット=ビルマ語族系の民族が居住していたことから言われだした見解のようです。
 池田 でも実際に釈迦族等にまつわる話などを総合てみると、やはりインド・アーリア人であったのではないかという説も多いようだ。
 野崎 ええ、それは、一つには釈迦族が自らを「太陽のすえ」といって自負していたと伝えられていますが、この太陽の裔ということを誇りにする習慣は、インド・アーリア人に非常に強い。ヴェーダなどをみても、彼らの信仰は、最初は太陽神であったようです。漢訳では釈迦族のことを「日種」族とも表現していますが、釈迦族がこれを自負していたことから考えて、多分にインド・アーリア人種に近かったのではないかと推定されています。
 池田 太陽を崇める信仰というだけではインド・アーリア人とはいえないと思うが……。当時はインドだけではなく古代人の一般の習慣とされていたからね。たとえば日本でも天照大神があるが、このように特定の王家が太陽の子孫という説き方が昔は多い。いわば、太陽は古代人の等しく尊敬する対象だったわけだ。釈迦族が「太陽の裔」を誇りにしていたというのも、そういった時代で最も畏敬されているものを自らの祖先としたとも考えられるのではないだろうか。
 野崎 そうとも思われます。また経典で釈迦の先祖とされているオッカーカ王もしくはイクシュヴァーク(甘庶)王は、プール族の王家の祖であり、ヴェーダでは、そのプール族はインド・アーリア人の敵とされていることから、もしオッカーカ王が本当に釈迦の先祖であれば、釈迦はインド・アーリア人ではないという人もいます。
 池田 二千数百年前の種族の人種がどうであったかということは、よくわからないのが本当だと思う。日本人にしても、祖先が何であったかいまだに判明していない点が多い。しかし仏法のいろんな物の考え方などにかなりアーリア系の特色が強くあらわれているのは否定できないと思えるし、その意味では、仏教もインド・アーリア文化圏で育ったといっても間違いないのではないだろうか。
 それから、古代インドの情勢だけれども、一般に「十六大国」とあるように、いろいろな部族国家が競合していたと考えられるね。
 野崎 もちろん、これは釈尊の生きた年代にもよるわけですが、仏伝などによると、その十六の大国が互いに覇を競っていた時代だったのではないでしょうか。その十六の国のなかでも有名なのはマガダ国、コーサラ(拘薩羅)国、ヴァッジ国、ヴァンサ国、アヴァンティ国で、十六大国以外の部族としては、バッガ族、ブリ族、モーリア族、マッラ族、コーリヤ族、シャーキャー(釈迦)族等の名がみえます。
 池田 これらの中で、プラセーナジット(波斯匿はしのく)王のコーサラ国とビンビサーラ(頻婆娑羅)王のマガダ国が強固だったようだ。このマガダ国が将来マウリヤ王朝を築き、その第三代に有名なアショーカ(阿育)王が出現し、古代インドを統一する……。
 野崎 ええ、ただ釈尊の当時は、どちらかといえば新興勢力で、ビンビサーラ王の即位以後、急激に力を増した形跡があるようです。マガダ国はガンジス河中流に位置し、ガンダク河、ソン河の三つの河が合流する一帯に勢力を張っていたようです。
 池田 そういう十六大国の時代で、釈迦族の位置はかなり弱かった。もちろん、カピラヴァストゥを独自でもっていたわけだが、これも現在でいう城のようなものではないともいわれている。西隣のコーサラ国の属国のような立場で、自立の部族国家とは少しニュアンスが違うようだといわれているね。
 野崎 それは原初の経典である『スッタニパータ』(経集)によれば、釈尊がガンジス河を南下し、マガダ国のビンビサーラ王に会ったとき、王の質問に「(ゴータマが言った、〕『王よ、あちらの雪山(=ヒマーラヤ)の中腹に、一つの民族がいます。昔からコーサラ国の住民であり、富と勇気を具えています。姓に関しては〈太陽の裔〉といい、種族に関しては〈サーキヤ族〉(釈迦族)といいます。王よ、わたしはその家から出家したのです』」(『仏典1』中村元編、筑摩書房)と答えたことによるものでしょう。これらから考えるに、釈迦族は弱小部族の一つで、当時コーサラ国の属国であったといってよいのではないでしょうか。
 池田 コーサラ国の都はシュラーヴァスティー(舎衛城)であるが、釈迦族がここの属国のような存在でありながらカピラヴァストゥをもっていたということは、今でいえば自治領のようになっていたのかもしれない。
 それから、よく釈迦族では十人の指導者のなかから一人を互選し、それを長に立てて政治を運営していたといわれるが、そうなると一種の共和制のようだったということになる。
 野崎 当時の部族国家の政治体制がどのようなものであったか、これも学者によって種々の見解が述べられています。たとえば赤沼智善氏などによると、釈迦族は貴族的共和制で、少数の支配者による合議で統治していたとあります。しかし、これも異説があって、岩本裕氏は、当時は諸々の部族国家を強大な専制国家が統一し支配しようとする過程であり、専制政治の少数寡頭の政治支配であったろうと推定しています。
 池田 いずれにしてもここで大事な点は、釈迦族はそうしたなかで弱小部族として、いずれ強大国に併合される運命にあったということだ。ともかく厳しい四面楚歌の運命の国であったことは確かです。釈迦は、その斜陽部族の王子として生まれた。弱小部族の暗い前途を背負って立つ薄運にあったわけだね。だから、逆に釈迦に大きな期待がかけられたということもあるだろう。
 こうした彼の立場に対して釈迦自身がいかに考えていたか。それが、後に彼が、城も太子の地位も捨てて、出家する背景の伏線になったとは十分考えられる。
4  釈尊の父と母
 野崎 学者の間でも、そういう見解をとる人が多いようです。ところで出家の動機や理由はあとにして、次に一応釈尊の全体像をつかむために、彼の家族に移りたいと思います。釈迦の父は「浄飯王」と呼ばれていますが、この浄飯王がどういう人物であったか、あまりよくわかりません。しかし浄飯王という名の由来については、興味ぶかい話があります。それは浄飯王というのは、もちろん漢訳されたものですが、梵語のシュッーダナという名の意味は「清らかな飯」ということらしい。
 なぜこのような妙な名がつけられていたのかというと、古代インドで飯というと、米を牛乳で炊き、そこに豆やゴマ、バターなどを入れたらしいのです。それが当時にあっては最も美味な食事であったといわれています。浄飯王という漢訳は、その意をとったもののようですが、結局、これも釈迦族の長にふさわしい名として冠されたものではないかと思うのですが……。
 池田 なるほど。すでに、そのころからバターがあったというのも面白いが、釈迦族が農牧民族であったということを示しているともみられる。中村元民によると、釈迦の父が「浄飯王」とだけなっていて、大王になっていないのは、それだけをとってみても部族の支配者であって、大国の王と呼ばれる存在ではなかったと述べている。一方、母は俗にマーヤー(摩耶)夫人といわれているが、釈迦を産むと、通説では一週間で亡くなっている。
 野崎 この摩耶夫人がどんな女性であったか、経典では「偉大なマーヤー」と呼んでさまざまに形容しているが、これも実際はよくわからない。釈迦族の有力者の娘ではなかったかと推測されているだけです。また摩耶夫人の母方にあたる人が、さきほど出てきたコーリヤ族の出身であったという伝説もあります。
 このコーリヤ族というのは、多分、釈迦族の近くにいたと思われます。というのは、古い経典に、釈迦族とコーリヤ族が水を争ったことが残されており、ヒマラヤ南麓に流れるローヒニー河を互いの境としていたのではないかともいわれます。
 池田 生母摩耶は里帰りの途中のルンビニーで出産したということになっている……。そして釈迦を産んだ後に、まもなく死んでいますね。
 それで釈迦は、叔母のマハープラジャーパティー(摩訶波闍波提)に養育されたということになっているる。一部には釈迦が生まれてまもなく母を失ったということが、成長し青年期になって、非常に精神的な面で生死という問題に影響を与えたという説もあり、そこから出家を決意するということになったともいわれている。
 野崎 生命のはかなさ、つまり無常といったことですね……。
 池田 そう。釈迦は、生後まもなく実母を失い、叔母に育てられたのだから、それを知らされたからといっても、それが動機で人生の大きな動揺があったか否かは疑問と思うが……。しかし、世間にも、そういう事実をあとになってあらためて思い起こし、物の考え方が大きく変わるということはよくあることです。それに、これはもちろん私の想像だけれども、釈迦は感覚的に非常に鋭敏な青年ではなかったかと思うのです。そうした鋭いセンシティブ(感受性の強い)な若者にとって、肉親の死というものが、何かのきっかけで、全生命の痛みを呼び醒ましていくことは、十分に考えられる。
5  釈尊の青年期
 野崎 たしかに釈迦は、内省的な傾向が強かったようです。古い経典のなかで、釈尊の回想として、次のような個所があります。
 「わたくしはこのように裕福で、このように極めて快くあったけれども、このような思いが起った、――無学なる凡夫は、みずから老いゆくもので、同様に老いるのを免れないのに、老衰した他人を見て、考え込んでは、悩み、恥じ、嫌悪している。われもまた老いゆくもので、老いるのを免れない。自分こそ老いゆくもので、同様に老いるのを免れないのに、老衰した他人を見ては、悩み、恥じ、嫌悪するであろう、――このことはわたくしにはふさわしくない、と言って。わたくしがこのように観察したとき、青年時における青年の意気は全く消え失せてしまった」(前出)
 これらの文は、むろん後年、出家して悟りを開いた釈尊の立場から述べられたものですが、釈尊が感受性の鋭い青年であったことを裏付けているようですね。
 池田 いったい釈迦は、どんな風貌だったのだろうか。後年、「三十二相八十種好」を具えた仏として崇められたが、それは釈尊が、すべてを具えた円融の全体人間であったことを象徴しようとしたものと考えたいが……。
 野崎 三十二相のなかには、指が長く、立ったままで手が膝につくとか、歯が四十もあるとか、文字どりそのまま受け取ると、まったく一種の怪物になりますが、それはおそらく釈尊入滅後、仏を慕う弟子たちが釈尊が俗人ではないことを強調するために用いたものと考えられます。
 池田 そうですね。それに三十二相というのは、当時のインドの支配的な宗教であるバラモン教でもおなじく説いていたといわれる。たとえば、バラモンでの一つの理想とされた「転輪聖王」などにも三十二の吉相があるということの論述があるそうだ。だから三十二相というのは多分、弟子が、偉大である師の釈尊を、当時の既成概念であったバラモンの言葉を用いて宣揚したとも考えられる。
 野崎 それで実際の釈尊の風貌がどんなものであったかですが、釈尊の回想のなかに次のような注目すべき個所があります。「わたしは身体が優形で、非常に華著で、きわめて慎重に育てられた」(岩本裕著『悌教入門』中公新書)
 あくまでも青年時代ですが、この文から推し測ると、やせ形で鋭敏な感覚の姿であったと思えば、実像に近いのではないでしょうか。
 池田 おそらく青年期はそうだつたと想像できる。壮年期以後は多少変化があったとも考えられるでしよう。でも、腺病質で文弱なタイプ、今でいえば青白い文学青年であったかというと、けっしてそうではないように思える。やはり王子だから、王位を継承するための武道の訓練も十分に受けている。釈迦族の命運を担う太子を、父の浄飯王も、文武両面にわたって訓練したという伝説がそれを証明している。それに、とくに浄飯王は、釈迦がそういう、どちらかといえば内面的な哲学青年であったため、色心ともに健全な人物に育てるように随分と心を砕いていたことがうかがえる。それが「慎重に育てられた」という回想の一節にもなったのでしょう。
 野崎 回想では、このほか、釈迦がいかに厚遇されたかが記されています。それによれば、肌着や下着、上着は全部絹、一日中、頭上には傘蓋がかざされていた。
 そして、釈迦のために、夏、冬、雨期と、季節ごとに別の宮殿があてがわれ、宮廷内では侍女の舞踊や音楽に囲まれていたというようなことまで述べられています。これらの全部が真実ではないにしても、釈迦が王子として周囲から手厚く育てられていたことがうかがえると思います。
 それに、青年釈迦の風貌をあらわすエピソードとして、釈迦が出家し、マガダ国を訪問し、ビンビサーラ王に会ったとき、王が釈迦の端正な姿にうたれて、あなたのような人に、ぜひ自国の軍隊を指揮してほしいと懇願したということが経文に残っています。これに対して釈迦は断ったということが出ていますが、この伝説からいえば、釈迦の武術のほどはわからないにしても、容姿、風貌からいって、指導者としての風格がにじみ出ていたような気がします。
 池田 立派な指導者だったとみてよい。その優れた資質は十分あったと思う。だから釈尊という歴史上の一個の偉人も、自らの部族が弱小部族だし、悲哀の部族であることを察知し、それを鋭い感覚と正義感で、なんとか打開したいと、日夜思っていたにちがいない。いろいろ周囲の温かな恵まれた環境にあっても、内面で思索に耽ることが多かったのは、結局、指導者として育つべき運命を課せられた青年の苦悩のようなものだろう。つまり釈迦の青年時代
 は、正義感に燃えた求道者、ヒューマニストだったと一応、結論しておきたい。
 野崎 人間的といえば、釈迦の青春を彩る話題として、ヤショーダラー(耶輸陀羅)姫との結婚があります。それも伝説ではデーヴァダッタ(提婆達多)と争ったということですが……。
 池田 さあ、それはどうかね。たしかに種々の仏伝には、ヤショーダラー妃をデーヴァダッタと争ったということはある。たとえば釈尊が悟りを得た後に、各地を遊歴教化していた留守を狙って、提婆達多がカピラヴァストゥに赴き、ヤショーダラー妃を誘惑しようとしたという話がある。しかし、釈迦と提婆とは従兄弟だが、年齢的にかなりの開きが予想され、この伝説は事実ではないという説が有力だね。ところで、そのヤショーダラー妃は釈迦の従妹ともいわれている。
 野崎 一般的にはそういわれています。ただ、このヤショーダラー妃についても、ほとんど語られていないのです。これは後世、とくに釈尊の弟子たちには、出家して悟りを開いた釈尊の生涯が関心事であって、それ以前の結婚生活などは、あまりかえりみられなかったからだとも思われます。ただ一部には、そういったことから、あまり釈尊に決定的な影響をもつほどの女性ではなく、むしろ淑やかなインドの貴婦人で、表面的には目立たなかったのではないかともいわれていますが……。
 池田 ソクラテスの妻のように、悪妻で有名であれば、後世までも残るけれども(笑い)。一般に思想家や哲学者の場合は、そういう例でもないかぎり、あまり表面には出てこないのが普通でしょう。ヤショーダラー妃の場合も、そういうことではなかったかと考えられる。ところで、結婚した年齢だが、釈迦十六歳とも、また、それ以上であったという説もある。ヤショーダラー妃とのあいだには一子が生まれた。
 それが後に密行第一といわれた、ラーフラ(羅羅)ですね。有名な釈尊の声聞十大弟子の一人です。
 野崎 これらの事実だけは、ほとんど一致しています。ただ二人の結婚生活については明らかではない。
 まあ、十六歳で結婚したという説をとると、釈迦が内省的な息子であったため、それを心配した浄飯王が妃をもらって身を固めさせ、王位を継がせる基礎を固めようと配慮したとも考えられますが……。
 池田 しかし、釈迦自身についていえば、華やかな結婚をしても、心中深くくすぶる生老病死の苦悶は、晴れなかったにちがいない。そのうちに、ラーフラが生まれ、自分の後継ぎができたことを契機に、王位を捨てて出家しようということになったのではないだろうか。
6  出家の背景
 そこで、いよいよ、釈迦の人生を大きく変えるのみならず、その後の世界の精神史をも塗り替えるほどの意味をもつ「出家」の問題に入りたいと思います。
 池田 釈迦が何歳で出家したのか、これも十九歳とする説、二十九歳とする説等、いろいろ議論がある。十九歳出家説をとれば、十六で結婚し、一子羅喉羅をもうけた後、すぐ決意をしたということになる。
 それから、まずバラモンの二人の仙人に師事するが、それにあきたらず、自ら求めて苦行に励む。しかし、それでも自身で満足がいかず、苦行を捨て、ついにブッダガヤー(仏陀伽耶)の菩提樹の下で、独り膜想に耽って悟りを得る。これが通説によれば、釈迦三十歳となる。したがって、出家してから十二年間、釈迦は道を求めていた計算になる。
 しかし、初期の経典などには、釈尊自身の言葉の伝承として、二十九歳で出家したということが載っている。これが二十九歳出家説の根拠だろうが、この説では、以後七年間、道を求めて遊歴し、三十五歳(または三十六歳)で成道したといっている……。
 野崎 そのどちらが正しいかということは、もちろん推定の域を出ず、定められませんけれども、一般の学者の多くは、この二十九歳出家説をとっているようですね。それは、出家の動機をどうみるかという問題にも関連してきますが、釈迦族を取り巻く当時の社会情勢から推測しているようです。
 たとえば、釈迦の出家の動機として、釈迦族が絶えず強大国の勢力による侵害に脅かされ、その自らの部族の衰退に心を痛めた結果として、釈迦が出家したという説をとる人は、マガダ国との関連から釈迦の出家は三十歳近いときだと考えているようです。
 なぜかというと、マガダ国はさきほども出てきましたけれども、当時の新興勢力であった。とくにビンビサーラ王が即位して以後、強大固にのしあがりつつあった。ところで、この王の即位の年齢は十五歳であったとされている。そして釈迦は、この王より五歳年上であったといわれているのです。すると釈迦は当時二十歳になるわけで、その後のマガダ国の進撃に自らの生命を痛めたとすれば、やはり二十歳以後「出家」ということになってきます。
 しかし、これはもとより決め手があるわけではありません。五歳年上であったかということも不確定です。したがって、出家についてはどちらを使ってもよいのではないでしょうか。
 さて、釈迦が何故に出家したのか、その背景と動機という核心に入りたいと思います。これは釈尊の悟りの内容とともに、仏教というものが何であったか、その本質を知るうえできわめて重要なポイントになる問題です。
 釈迦の出家の動機として、伝説ではいわゆる「四門遊観」があります。すなわち、釈迦が宮廷にいたとき、城から遊びに出ようとしたが、東門から出たときには老人の姿を見、南門に病人を見、西門に死人を見た。ところが北門では出家した者が歩いている姿を見、それに心をうたれ、自身の出家を決意するという話です。
 これはもちろん歴史的な叙述とはおのずから異なるでしょうが、こういった話が釈迦の出家にまつわるものとして象徴されているところに、釈迦が、出家以前からすでに、生老病死という人生の本源的な苦悩というものをみつめ、問題としており、そしてその本源的苦悩を解決する道を密かに求めていたのではないかと思うのですが……。
 池田 それは、最も大事なところです。仏教というものの出発点が何であるかを示しているからです。
 たしかに釈迦は哲学青年であったのだから、青年時代に人生の本質というものを独自の立場で思索し、それを知りたいと考えていたことは間違いない。それが生老病死という、人間存在の根源にある苦悩であったことも、その後の仏教の内容から考え、十分うなずけるととだと思う。
 野崎 とすると、仏教が問題としたのは、最初から種々の人間の苦悩のなかで、時代を超えて人間存在自体に深くかかわりをもち、その苦悩を克服する意識をもっていたといえますね。
 池田 そうです。釈迦は人間とは何か、人生とは何かと自身に問いかけた。その本質を把握するため、その人間、人生の根底の基盤である生命をみつめようとしたといえる。人間、人生といっても、所詮、生命の瞬間瞬間の起伏であり、哀歓にほかならない。また、仏教がその根本的な問題から入ったが故に、時代を超えて思想の光を放ち続けることができるのだと思う。
 野崎 ところで、釈迦の出家の背景として、そうした根本的な生命の解決という、思想的な問題意識とは別に、さきほども挙げた、釈迦の先天的な内省的特質、それに釈迦族のおかれた社会的状況といったものが強いともいわれています。
 池田 たしかに釈迦は弱小部族を継ぐ最高指導者として、いかにこの苦境を打開していこうかと煩悶していたことは間違いない。しかし、それは出家以外に道がないということではない。むしろ、自身が王を継ぐ立場なのだから、武力を興して挑戦するという方途もあったのではないか。
 ところが所詮、釈迦はその道をとらなかった。それはやはり釈迦の人間性によるのであると私は思いたい。当時のインドの青年たち、とくに良家の青年たちの夢は、大きく分けて二つあったといわれる。一つは転輪聖王という、社会の指導者になること、他の一つは仏陀、つまり聖者として精神的な師になることであった。釈迦はそのうちの後者の道を選んだといってよい。
 私は、それについては結局、釈迦は華麗な環境のなかの生活であったが、日々、彼が宮廷以外で目にするものは、弱小部族のなかで苦しみ悩んでいる民衆の姿ではなかったかと思うのです。周囲は、できるだけそうした現実を釈迦に見せないように気を配ったにちがいない。しかし、そうすればするほ
 ど、感受性の強い釈迦は、その真実の人間の姿というものを鋭く、深く、見つめていとうと考えたのであろう。さきほどの四門遊観の話も、こうした釈迦の当時の心の動きをあらわしていると思う。
 ですから、人間真実の姿、苦悩の解決を図るためには、武力では永遠の解決にはならないと知って、聖者の道に突き進んでいったのではないだろうか。武力主義の覇道より人間主義の王道に入ったのです。権力主義すなわち形而下の世界の王より、哲学の王すなわち形而上の世界の次元を選んだといってよい。時の流れに移ろい変わる一時的な栄華より永劫不壊の、真実根本の歓喜を民衆に与える道を、彼は断固として選んだと私はみたい。
 野崎 転輪聖王ということが出てきましたが、そのことで岩本氏は、仏典に後世の弟子たちが釈尊のことを、しばしば転輪聖王にたとえている事実から、釈尊も仏弟子たちも、政治的に劣等感をもっていたのではないかという説を述べています(前出『佛教入門』)。転輪聖王というのは本来、社会的、政治的指導者であるにもかかわらず、それを釈尊に冠して精神界の王者を表現しようとしていることに、その劣等感があらわれているというわけですが……。
 池田 それは劣等感というより、仏教がしばしばバラモンの内容、言葉を用いて、自らの思想を表現しているように、当時の人びとの権威や理想を用いて、仏教そのものが普遍的なものであることを強調したのではないだろうか。
 ところで、忘れてならないことは、出家ということが、当時はけっして厭世的なものではなかったということだ。今日では、出家というと、なにか世を捨てて、特殊な世界に身を入れることのように思われているが、当時は知識人にとって人生の真実を知るための当然の行為であった。まあ、インドではそういった哲学、思想を求める風土と、伝統が幅広くあったわけですね。ただ、釈迦の場合はかなり早い年齢でそれをおこなっている。これはやはり、釈迦自身が人一倍、真理を体得したいという希求をもっていた、そのあらわれと考えたい。ですから、単に時代の風潮にならったというよりも、もっと生命の奥から主体的に決意したと、私は考察したい。
 野崎 たしかに、出家というのは、哲学、思想を求め、真実を究めたいという理想を追求する人たちの一方法であったわけですね。したがって、それは、一応は既存の体制、文化を拒否し、体制の外に出ながら、そこで得た新しい哲理と思想をもとに、もう一度、体制の中にいる人びとを、その新しい次元からリードしていくという、反省的な生き方になると思います。
 池田 そう。だから、釈尊に始まる仏教というものは、当初から社会、時代と遊離したものでは絶対になかった。独自の思想的立場から、社会、時代の苦悩をも、根底で克服していこうとする意識があったといえるのではないだろうか。
 野崎 ところが、古代インド社会において、この出家ということが、いつごろから始まったのか、釈迦時代のインドの精神的風土を理解するうえで、やはり大事な問題と思います。
 これについて、今世紀の生んだインドの碩哲タゴールの言葉のなかに、「古代ギリシャの文明は都市の城壁の内側で育てられた。事実、すべての近代文明は煉瓦とモルタルの中で生まれている。(中略)インドにおけるわれわれの文明は森林の中で生まれた」(『タゴール著作集』第八巻所収、「サーダナ――生の実現」美田稔訳、第三文明社)という言葉があったのが印象に残っているのです。森林で思索をめぐらし、自己の思想、英知を錬磨した、それが出家の始まりではなかったか。それがいつごろであったか。
 池田 たしかに奥深い森の茂みの中で、思想を鍛え、哲学するということは、インドの伝統のようだ。ガンジス河流域にも、今なお、うっそうとしたジャングルがあるが、そのなかでは、現在でも、哲学を求める人の群れが、一種の共同生活をおこなっているといわれる。だから、タゴールのいうように、森の中で、インドの哲学、思想が生まれ、文化の源流になったということは、十分うなずける。
 それで、このような森林に立てこもって、思索するという風習が、いつから始まったかだが、このあいだ、古代インドの通史を読んでいたときに、森林書時代(アーラニヤカ時代)というのがあった。これは釈尊の時代より、約三百年、ぐらい前といわれるが、おそらく、このあたりに淵源をもっているのではないだろうか。
 野崎 そうすると、ウパニシャッド時代(奥義書時代)よりも、少し以前になりますね。たしか、林の中で、人生を省察し、真実を把握するというようなことは、釈尊の時代になると、上流階級の一つの慣習になっていますから……。
 池田 そう。当時のインドの、主にバラモン階級ですね。この階級に属する人たちには、己れの人生コースについて、四つの時期に分けて考えていた形跡がある。
 これは、一般に四期といわれているが、第一に学生期(党行期)、第二に家長期(家住期)、第三に林棲期(林住期)、第四に遊行期(遁世期)。
 学生期というのは、七、八歳になると、当時の最高の学問であったバラモンを、師匠について学ぶ時期で、普通、これは十二年間ぐらいといわれる。そして一通り修学すると、今度は家に戻り、結婚して、家長としての務めを果たす。
 ここでは先祖の霊を祀るなどの祭祀をおこない、家族を養育する。この期間が最も長くて、二十歳から五十歳までの約三十年間ぐらいといわれる。
 それで、無事、家長の任を終え、家の後継者もできると、今度は、林棲期に入り、静かな森林にこもって、五十年の人生を省察するとともに、余生を、自然風物と同座しながら、自己の思想を完成する。そして修行を終えると、林を出て、各地を、無一物となって、托鉢遊歴する。これが遊行期といわれていますね。
 野崎 なんとも哲学的な人生コースが考えられていたのですね。
 今のわが国では、第一の学生期にあたるものが、小学校入学から高校、大学進学までですね。そして、まあ、家長期にあたるのが、学校を卒業して、就職し、定年まで(笑い)。しかし定年になって以後は、第三、第四のような人生の省察期、遊行期のようなものは明確にはありませんね。
 池田 まあ、現代ほど、忙しくはなかったろうし、社会も複雑ではなかった。また、こうした四期が確立していたのは、当時の最上層階級であったバラモンについてであったといわれている。
 彼らは安定した生活基盤に支えられているから、一見、どちらかといえば、余裕のある生き方ができたといえなくもない。
 ただそういう条件があったにせよ、哲学することが慣習化されていたということは、それだけ、思想、哲学を大事にするインド固有の特徴であったと私はみたい。そして、そういった、与えられた短い人生のなかで、自己自身の存在をみつめ、確固とした自身の思想を把もうとする姿勢、態度というものは、人間として、いつの時代にあっても忘れたくないものだ。
 野崎 四期を釈迦にあてはめて考えた場合、釈迦は、第二の家長期の中途で、すでに出家を決意した。この点からいっても、釈迦の出家が、いかに真剣なもので、強い内発的なものであったかうかがわれますね。
 池田 そう。よく釈迦の出家は、当時の風習にならっただけという説があるが、出家の行為そのものは、いま述べてきたように、風習化したものであったけれども、彼の決意には、普通一般の出家者とは違った、独自の主体性があったことはいうまでもないでしょう。
7  出家の旅
 野崎 さて、釈迦は、華やかな王宮生活に訣別を告げ、出家の旅路につくことになります。種々の伝説では、この釈迦出城の模様を、ドラマチックに記しています。そのなかでほぼ真実ではないかと思われる線をたぐっていくと、釈迦は、出家を決意すると、まずその意志を、父王のシユツドlダナ(浄飯)王に打ち明けた……。
 池田 それは当然だろうね。父シュッドーダナは、前々から釈迦の瞑想癖に気を配っていたし、王宮を出て、出家するのではないかと危慎を抱いていたであろうから……。このことは、さきにも、シュッドーダナが釈迦の内省的な性質を心配して、慎重に育てたということが出てきたが、仏伝では、すでに釈迦が出家の意志を固めるだいぶ以前に、シュッドーダナは、その日の来るのを予感していたと思われる個所がでてくる。
 野崎 たとえば、アシタ(阿私陀)仙人などの話ですね。ルンビニーで釈迦が生まれると、すぐカピラヴァストゥに戻し、当時、占相で誉れの高かったアシタ仙人を、宮廷に呼んだ。すると、アシタ仙人が、生誕まもない釈迦の相を見て「三十二相をそなえているから、在家のままであれば二十九年にして転輪聖王となり、出家すれば一切種智を悟って仏になるだろう」(『大正新脩大蔵経』三巻626㌻、参照。以下、大正と略記)と予言したという伝説がありますね。
 池田 その伝説が真実であるかどうか、私は疑問に思う。というのは、釈迦が「仏陀」になって以後、その威徳を慕う人びとが、誕生時にまで話をさかのぼらせ、神格化の要素を付加したとも考えられるからだ。
 でも、ただ当時、占相ということは、よくおこなわれていたのではないだろうか。古代社会にあっては、占星術をはじめ、この占相な、どのように現象や姿、表情を見て、それを貫く本質を洞察しようとする思考が多い。そういうことからいえば、アシタ仙人の占相というのは、特別に珍しいことではないのではないか、とも私には思える。だから、その部分は、予言のすべての言葉が事実であったかどうかは別として、やはり釈迦という覚者の出現が、普通一般の人びとと違っていたということを表現したのではないかと推察したい。
 これは他の歴史上の偉人の伝記などにもよく出てくる。生まれたときから、高貴な表情、温和な姿、精惇な顔立ち、というものはある。釈迦の場合も、そうした人びとを魅きつける輝きが、幼いときからあった。それをアシタという仙人が気づいたということは、けっしてあり得ないこことではない。だから、シュッドlダナ玉も、釈迦が成人して、宮中を出るのではないかと一面、非常に心配したのではないかと思われる。
 野崎 その父親の心情も、釈迦は、十分知悉していたのでしょう。だから、いよいよ出家を決意すると、すぐ父親に、自分の志を告げた。それを聞いたシュッドーダナ王は、来るべきものが来たとはいうものの、やはり衝撃であったにちがいない。そこで、思いとどまらせようとしたが、釈迦の心は、すでに動かない。シユツドlダナ王としては、最後の手段として、釈迦の出城を阻止する方法を策した。そのあたりが、劇的な釈迦出城の物語になっているわけですが、ここでは、話を次に進めますと、釈迦は、そうした厳重な周囲の警戒の網の目をくぐり、ある夜、チャンダカ(車匿)という従者とともに、愛馬力ンタカ(陟)に乗って、カピラヴァストゥ(迦毘羅衛)をあとにしたことになっています。そして、まずコーリヤに入り、そこから南へ下って、アノーマ河を渡った。そこで、自らの刀で髪を切り、従者に一切の装飾具を預け、出家の目的を果たすまでは、カピラヴァストゥには戻らないことを伝えさせた。それ以降は、一人で、托鉢の姿で、マッラ国、ヴァッジ国を南下し、マガダ国をめざしたといわれています。
 池田 カピラヴァストゥと、マガダ国の首都ラージャグリハ(王舎城)とは、相当な距離でしょう。
 野崎 ええ、およそ六百四十キロといわれていますから、日本でいえば、東京から神戸の先、姫路あたりに相当するのではないでしょうか。
 池田 なるほど。当時は、かなり商業貿易も活発であったと伝えられているから、おそらく、そこにできた通商路をたどって行ったのかもしれない。
 野崎 ええ、そう考えられます。これは釈尊の成道以後の布教活動とも関連してくるわけですが、釈尊の化導や遊行は、隊商と一緒におこなわれたという記録もあるところからみて、ほぼ、そうした通商路を利用したと想像されます。
 池田 ところで、いま出てきたなかに、釈迦が髪を切ったとあったが、当時の出家者の風習として、剃髪ということは、一般的な風潮だったかどうかということだが、とれは釈尊以前にも、おこなわれていたという説があるね。たとえばバラモンの出家者のなかにも、剃髪した者がいたようだ。ただ釈尊の剃髪以後、剃髪ということは、仏教教団の著しい特徴となったらしいそれは釈尊教団をさして、バラモンたちが「ムンダ」といったという記録が残っているそうですが、このムンダというのは、剃髪した人たちということであるようだ。また、ある学者によれば、釈迦以前の他の出家者では、剃髪というのはあまり目立たず、むしろ、バラモンなどでは、結髪外道といって、髪を結たり、またジャイナ教などのように、苦行の一環として、髪の毛や者を一本一本抜いたり(笑い)するようなものが目立っていたということですね。それらを総合してみると、剃髪は、釈迦以前にもあったと考えられるが、釈迦以後は、仏教徒を象徴する風習となったと推察できる。したがって、剃髪が、仏教徒の特徴であったことは事実と考えていいのではないか。
 野崎 剃髪の問題は、それくらいにして、さきにあった托鉢のことですが、これは当時にあっては、出家者の修行の代表的なもので、たいへん貴い行為とされていたようですね。
 池田 そう。インドでは托鉢という風習は、釈迦よりかなり以前から、出家の風習が始まるとともにあったらしい。出家し、一応修行を完成した者のことを「比丘」(梵語「ビクシユ」の音写、乞土などと訳す)と呼ぶが、この「比丘」というのは「食を乞う者」という意味であるといわれる。したがって古代のインドにあっては、一応修行をおさめた出家者が遊行してくると、人びとは尊敬の眼で、この出家者に喜んで食を与えたということになる。とともに、托鉢する者は、けっして卑屈になどなってはいない。否、堂々とおこなっていたようだ(笑い)。それは、どういうところからきているかといえば、どうも、出家者に食を与えることによって善根を積ませるというか、そういう考え方があったように思う。
 だから出家者は、托鉢をするとき、衣を整え、威風堂々と道を潤歩したと伝えられている。そして訪れた家から供物をうけても、礼など言わず、きびすを返して立ち去っていく。もし家人が気づかない場合は、錫杖を鳴らして気づかせる(笑い)。このようなことからいうと、托鉢自体に、大きな宗教的意義があったのだろう。ただ、食物の布施をうけても、たとえ、それが気味の悪いものであったとしても、感謝して食べなければならないとされていたようだ。
 野崎 しかし、この托鉢は当時のインド社会にあっては、どうも一つのタブーへの挑戦ではないかと思われるのですが……。というのは、インドは、カーストの国として有名ですが、これはたいへん厳格な身分制度ですね。たとえば最上位のバラモン(祭祀階級)は他のクシャトリヤ(武族・王族階級)やヴァイシャ(商・農業従事者)やシュードラ(隷属民)とは結婚してはならない。これは他のカーストにも規定されており、身分、階級の違う者同士は、結婚はおろか、部屋も同じではいけないとか、食事についても、一緒に食べてはいけないとか、そのために、料理人でさえ、自分のカーストと違う者は選ばない、といわれるほど厳格なものです。
 この点について、こうしたカーストの柵が今なおインドに横たわっている例として、一つのエピソードを紹介しますと、戦争で、インドの民衆がカーストの別なく、あるとき一つの避難所に集められたことがあった。われわれ日本人の感覚からいうと、戦争という非常事態にあっては、何はさておき、まず当面の危難を乗り越えることにともに専念するでしょうが、インド人は、そうではない。
 そういうときにも、カーストのことが頭から離れない。それでそのときも各カーストごとに、部屋割りをどうするか、食事の仕方をどうするか、すったもんだの会議が、各所でおこなわれたというのです。そして、その結果として、上流階級に属するグループは、食事は絶対に他のカーストとおこなわない、また料理人も、自分たちと同じカーストに属する人物でなければだめだという決定をしたということです。
 これなどは、いかにカーストというものが、日常生活の瑣事にいたるまで、厳しい規定をしているかを示していると思うのですが、その点からいうと、どうも、この出家者の托鉢ということが、理解できない。やはり、一つのバラモン社会の規定への挑戦のような気がするのですが……。
 池田 たしかに、カースト制下にある掟は、われわれの想像を絶するものだ。身分の下の者からの食事は不浄で、それを食べるよりは、空腹のまま死んだほうがまだよい、とする感覚が強いようだ。だから、その点からみれば、たしかに古代バラモン社会とは異質なものが入っているように思えるね。
 事実、托鉢といっても、釈迦時代やその直前の時代まで下ると、当初の、修行を完成した比丘に対する尊敬という念から、一般民衆が与えていた段階をすぎて、修行そのものを托鉢においた出家者もあらわれている。それらのなかには、たしかにバラモンの伝統的社会を認めない立場の思想家もいたのだから、意識として、旧来の秩序体制に挑戦したという人物も少なくないだろう。たしか『インド古代史』(山崎利男訳、岩波書店)の著者、コーサンビー氏なども、そういった説を展開していたように記憶している。
 それと、私が感ずるのは、托鉢がどうして尊ばれたかの背景に、出家者を非常に尊重するインドの考え方があるのではないだろうか。このように出家者が何故尊ばれたかというと、結局、伝統的にインドでは、さきほどのアシタ仙人の予言ではないが、転輪聖王と聖者というものが、最高の理想とされていた。
 だから、一応の修行を完成した者に会うと、その聖者という理想的存在に対する期待と畏敬の念から、喜んで食を与えると同時に、それによって、自己の業も転換できるという考え方があったのではないかとも考えられる。つまり、伝統的に、宗教者に対する尊敬の念が強かった。だから宗教者に会うと、カーストの別なく、一切、供養していくという感覚があったのではないか。その宗教者に対する畏敬の念の底には、法というものを大事にしていこうとする思想があったとみてよい
8  新文化の興隆
 野崎 さて、釈迦は出城して、最終的にマガダ国に行ったわけですが、何故マガダを選んだのか、これが、また一つの問題になります。これについては、やはり、諸々の説があります。たとえば、当時の強大国は、やはりマガダとコーサラであったが、釈迦族の宗主国たるコーサラだと、距離的にも近いし、まして属国の王子が出家したとあっては、コーサラでも騒ぐであろうし、その風聞は、すぐカビラヴァストゥに伝わる。せっかく出城に成功しても、すぐ引き戻される可能性がある。それを釈迦があらかじめ含んでいて、あえて、すぐ引き返せそうにないマガダを選んだ……。
 池田 そういう事情も、たしかにあったとは考えられるが、そうした外的事情だけではないのではないだろうか。
 野崎 ええ、それで、マガダを選んだ背景として考えられるのは、釈迦在世当時、このマガダが新しい文化の中心地であった。これは、この当時の社会的変化をみなければならないわけですが、釈迦時代になると、いわゆる伝統的なバラモン社会の権威が失墜してきでいる。
 たとえば、それまで絶対神聖とされていたバラモン階級が、このころになると、著しく権威がおちてきた。それには、バラモン内部の腐敗堕落があるのですが、それとともに、社会全体も、アーリア人の侵入が拡大するにつれて、変化してきた。その代表的なものに、商業の発達によって、商業貿易を営む者があらわれ、それで巨万の富をもっ富裕家が出現した。そして、もう一つは、領土の拡大という戦いを通し、祭祀のみのバラモンに代わって実質的な軍事力を指揮する王族、武族、つまりクシャトリヤですね、このクシャトリヤの権威が高まってきた。
 池田 古代インド社会の変動期だね。たしかに釈迦ならびに、その少し以前になると、バラモンに代わって、クシャトリヤが表面に出てきている。それは、社会的力関係という面からもそうであるが、哲学、宗教という面でも、クシャトリヤが進出してきた形跡がある。
 さきほどの森林書時代のすぐあとに、奥義書時代・ウパニシャツド時代というのが続くが、この時代の文献には、クシャトリヤが、バラモンに哲学論争を挑んで、打ち勝ったというような記録があるようだ。
 たとえば、国王じきじきに、時のバラモンと渡り合い、バラモンの教義を打ち破り、それに対しバラモンが敗北を認め、逆に王に教えを乞うというようなことが綴られている。こういう記録からいうと、社会的にも、また思想的にも、クシャトリヤがバラモンを凌いだといってよいのではないだろうか。また、インド哲学の源流といわれるウパニシャツドの哲学、思想も、こうした勃興せる勢力を代表したものともいわれている。
 野崎 それで、そのクシャトリヤと、新たな経済活動で富を得た経済人、これはシュレーシュテイン(長者)と呼ばれていますが、この新興勢力をもとにして、旧来のバラモン部族社会から、違った王族社会というものがめざされた。釈迦の生まれた時代は、そういう激動の時代であり、その新社会、新文化の中心拠点が、マガダ国であったと指摘されています。
 池田 なるほど。それは深い意味があるね。釈迦が、自分の出家地として、その文化的、しかも政治的な中心地でもあったマガダ国を選んだのは、けっして理由のないことではない。どのような時代にあっても、歴史を画する哲学者や思想家、さらに革命家というものは、当時の社会にあって、最も優れた文化、思想を吸収し、それを乗り越えて、独自の哲学を打ち立てているものだ。
 釈迦が、マガダ国を選んだというのも、その当時の新文化、思想と本格的に対決してみようとしたからである、と考察できる。
 野崎 そのことで興味ぶかいのは、釈尊はマガダ国で修行し、そこで悟りを得て、仏教を創始するわけですが、この釈尊の教えに、このマガダ国の王ビンビサーラ(頻婆娑羅)も、またその新経済人である長者も、帰依しているのですね。
 池田 そう。コーサラのプラセーナジット(波斯匿)王も、釈尊を尊敬した。そういうことからいえば、仏教は、新文化の芽ばえ、機運というものを、十分含みながら、後に、それらの代表思想となっていったことは事実であろう。もっとも仏教は、こうした階級だけでなく、一般の庶民も、カーストの別なく包含した四姓平等の哲理であったことはいうまでもない。
 これについては、後ほどあらためて述べたいと考えているが、シュレーシュテイン(長者)についても、よく経典に出てくる。たとえば、マガダ国の首都、ラージャグリハ(王舎城)の竹林精舎であるとか、コーサラ国のシュラーヴァスティ(舎衛城)の祇園精舎であるといった、仏教徒のための安息所は、こうした長者も積極的に寄進したものとされている。
 なかでも、われわれにもよく知られているのは、スダッタ(須達)ですね。彼は当時コーサラの最大の富裕家であったようだが、またの名をアナータピンダダ、つまり「給孤独ぎっこどく」(身寄りのない人たちに食事を給与する人)と呼ばれていたようだ。巨万の富を貧民に分配した慈善家だったようだね。
 野崎 当時の新文化がどのようなものであったかに焦点をあててみたいと思いますが、このマガダ国を根拠とする新しい文化の基本的な特徴として、はっきりと既成のバラモンの権威を認めない立場の思想家があらわれてきています。これは大事なところと思われます。バラモン教義から、まったく解放された、自由な思想家があらわれたこと自体、一つの、大きな時代の変革を意味しているからです。
 そして、これらの自由思想家群といいますか、彼らのことを、従来までのバラモンと違うという意味から、シュラマナ、つまり「沙門」という名で呼んでいますね。
 池田 そう、沙門というのは、昔の時代と異なるタイプの思想家、哲学者が出現してきたことを物語るものだと考えてよい。この「沙門」という言葉は、もともとは「精進する者」という意味で、出家者全般をさしていたようだ。さきほど述べた四期でいえば、林棲期にあたる人をいっていたわけだが、釈尊のころになると、バラモンと比較して、使用されるようになったといわれる。だから「沙門」といえば、既成のバラモン社会を認めない側に立つ出家者ということになる。
 野崎 マガダ国は、当時、そうした沙門と称される新思想家の、一種のアジトであったようですね。ところが、後年、釈尊のことを「瞿曇沙門」とあるのは、釈尊も、そうした革新的な思想家群のなかにいたといえるわけですね。
 池田 そうです。当初の出発は、新思想の潮流のなかに身を投じていたことは事実でしょう。ただ彼の得た悟りは、当時の沙門とは、厳然と一線を画す、独自の次元のものであったが……。
9  六師外道
 野崎 ここで、沙門といわれた当時の思想家たちが、何をめざし、思考していたか、このことについて考察を加えてみたいと思います。ただ「沙門」が何をめざしたかといっても、かなりの異なった思想家がいて、その思想もまったく統一された体系があったわけではありませんが、仏教の経典には、そうした沙門のなかでも、六人の有力な指導的立場の思想家がいたと記録されています。
 それは、マッカリ・ゴーサーラ、プーラナ・カーシヤパ、アジタ・ケーサカンバリン、パクダ・カッチャーヤナ、サンジャヤ・ベーラッティプトラ、ニガンタ・ナータプトラの六人ですね。これが有名な六師外道です。
 池田 これは『沙門果経』という原初の経典に出てくる。外道というのは、仏法からみて、他の立場に立つという意味です。だから沙門のなかで、その精神的リーダーというか、哲学指導者となる六人がいたということです。
 そのなかでも有名なのは、ニガンタ・ナータプトラ(マハーヴィーラ)だったようだ。彼はジャイナ教の教祖になっている。高貴な民族として誉れの高かったリッチャヴィ族出身のクシャトリヤであったといわれるが、彼は志を立て出家し、極端な禁欲主義と戒律主義を立て、苦行することによって解脱をはかろうとしたといわれている。
 野崎 このジャイナ教の苦行というのは、非常に苛烈なものだといわれていますね。当時の出家者が何故苦行したのかは、釈尊の修行過程で詳しくみていきたいと思いますが、ジャイナ教の苦行では、不殺生というのが最も大きな特徴で、それは、虫一匹さえ殺してはならないという厳しいものですね。
 池田 その不殺生という掟などが、仏教の五戒とよく似ている。しかし、仏教の精神というものは、そうした極端な苦行にはなかったと思う。釈迦自身も出家して苦行したが、肉体を苦しめるだけでは、何の悟りも得られないことを知り、これを捨てているわけだから……。それはともかく、このジャイナ教の教祖に加え、当時、知識人に人気のあった思想家とされるのが、アジタ・ケーサカンバリンであったようだ。この人物は、万物の要素を地水火風の四大に分解し、すべてを唯物的にみたといわれる。いわば、徹底した唯物論者であったわけだ。それで、世の中は、すべて、こうした物質で構成されているのだから、人間が何を為そうと、肉体の死滅とともに、何も残らない……。
 野崎 今様の言葉でいえば「神も仏もあるものか」「死んでしまえば、それまで」(笑い)という考え方ですね。
 池田 だから、この考え方によれば、善も悪も、たいして人間に影響を及ぼさないことになる。こういう思想が人気の的であったということに、当時の時代の影が落ちている感がする。
 野崎 つまり、絶対神聖と考えられていたバラモンを地上に引きずりおろした。その結果、神秘のベールははがされたが、その反動として、道徳自体にも否定的になる……。
 池田 そう。そうしたリアクション(反動)というものが、たしかに、六師外道にはあったようだ。それは一面、非常に大きな進歩であるといってよいだろう。神の呪縛やカーストの柵から人間を解放しようとした点は、評価される。しかし、その反面、頽廃的、虚無的なものに傾斜していったことも見逃せないと思う。
 野崎 ですから、釈迦は同じく、「沙門」とみられていたが、そうした反社会的なものになじめなかったわけですね。虚無的といえば、サンジャヤ・べーラッティプトラが、そうしたニヒリズム(虚無主義)思想の代表的存在といわれていますが……。
 池田 うむ。懐疑論者だね。
 野崎 釈尊の十大弟子として有名な智慧第一のシャーリプトラ(舎利弗)、神通第一のマウドガルヤーヤナ(目連)が、最初に師事していた人物ですね。
 池田 そう、このサンジャヤの懐疑論は、ウパニシャツドで説くアートマン(我)の常住や、プラフマン(梵)という原理の設定自体に懐疑を抱き、世に不変の原理などはないとしていたと伝えられている。
 シャーリプトラ、マウドガルヤーヤナは、この門下の中でも傑出した弟子だったが、虚無的で消極的な師の教えに満足できないでいるところへ、釈尊の
 弟子に会い、その清廉な姿に心をひかれた。そして二人して門下二百五十人を引き連れ、釈尊の弟子になったといわれる。
 サンジャヤは、両腕とも思えた二人が去ると聞いて、ショックで血を吐いたという伝説があるね。もっとも、もともと懐疑論が持論だから、自分の持論にますます自信をもったかもしれないが……。(笑い)
 野崎 道徳否定的な要素は、他の人物にもいえますね。たとえばマッカリ・ゴーサーラは、徹底的な宿命論を唱えたとされています。この世のすべてのものは、自然の必然の因果のままに生滅していくのであり、人間の精進などは、なんらこの厳格な因果の宿命に作用することはできないと説いたといわれ
 る。したがって、乙こからは、ウパニシャツドで説いた輪廻転生をそのまま認め、否、それに身を任せる以外にないという処世訓が生み出されてくる。これは現代でいえば「ケ・セラ・セラ」(笑い)、どんなにあがいても、人間はなるようにしかならないという思想の原型のように思えます。
 また、プーラナ・カーシャパは、このゴーサーラとは逆に、まったく因果を否定しさり、一切の現象は、なんらの意義、意味をもたないという、無因果
 論を展開していたという。これは「すべてのものにわけなどあるはずはない」という論理であり、結局、人間の社会性も否定してしまうことになる。完
 全な無道徳論です。
 池田 ただ、これらの虚無的な思想と若干異なっていたのが、パクダ・カッチャーヤナであったようだ。彼は、さきのアジタの唱えた四大に、苦・楽・霊魂などの精神原理を加え、そこから霊魂の常住、不変なることを説き、魂の安定を第一義とする人生観を樹立したといわれる。
 彼らはこうした諸思想をもとに実践したが、思想自体が歴史の反動的な要素の強い極端なものであったため、その実践修行も、裸になって炎熱の酷暑の
 太陽を浴びたり、身体に泥をぬったり(笑い〉、森林に生えている雑草を食べたり、随分、原始的な自然生活を求めたとも記されている。
 野崎 なにか、このような記述をみていますと、現代の思想的状況ともよく似ていると実感するのです。ヒッピーとかアングラといった……。
 池田 たしかに、体制からドロップアウト(はみ出すこと)して、そとで自分たちの共同生活を希求する、しかも、その背景にはたしかな哲学の手応えを求めたいとする心情と、日常の常識を破る行動には、非常に共通した点がみられて、興味ぶかい。
 野崎 しかも、現代のヒッピーとか禅といった、東洋の生んだ瞑想の哲学に心をひかれているというのも、心情的に共通した部分があるからかもしれませんね。
 それから、この六師外道の思想が、かなりの人気があった。しかもその、どことなくニヒルな要素のある唯物論や無道徳論に人気があったということも、現代という時代に対比して面白いと思います。
 池田 そういう意味からすれば、六師外道の出た時代は、社会的にも新階級が擡頭し、大きく変動した時代であった。それにともない、価値観自体も激変してくる。こうした価値観の転換の渦の中にいて、六師外道は、既成のバラモンの価値体系を徹底的に破壊する旗手となってあらわれた、と私は考えたい。
 彼らにニヒリズム的な「否定の哲学」が強かったのは、そうした時代の風潮の反映であったのだろう。しかし「否定の哲学」だけでは、新しい文化を築く精神は構築できない。そこに彼らの限界があったにちがいない。
 そして私は、その「否定の哲学」を乗り越えた「止揚の哲学」としてあらわれたのが釈尊の仏教であったと思う。
 野崎 そうみていくと、この古代インドに六師外道があらわれ、その止揚として釈尊が出現した背景というものは、けっして単なる過去のことではありませんね。同じように、快楽主義やニヒリズム、デカダン的な風潮の強い現代社会に対する、重要な歴史の証言とも受け取れますね。
 このことで思い出したのですが、哲学者の梅原猛氏が西洋の哲学者ヤスパースの言を挙げ、この釈迦時代のことに触れていました。
 そのヤスパースの指摘というのは、釈尊が生まれたのとほぼ同時代に、ギリシアにはソクラテス、中国には孔子、そしてユダヤにはキリスト教に大きな
 影響を与えたといわれる第二イザヤ等が、符節を合わせるように、相前後して登場した。これは、人類の文明にとっての、第一の黎明期である。それで、彼はこの時代を人間精神にとっての第一の枢軸時代と呼んでいるのです。こうした優れた思想が一挙にあらわれたのは、やはり古代社会が変動し、一応古代の物質社会が生まれてきたときに呼応したのだといっている。
 そして、人間の歴史は、この第一の枢軸時代で得た精神原理で十九世紀まできた。しかし、二十世紀に入って、人間の築いた物質文明は、まったく予想
 もできない速度で展開した。
 この段階にあっては、この巨大な物質文明に対応できる第二の枢軸となる思想、宗教が必要であるという見解なのですが、まさに現代という時代を洞察した鋭い見方だと思いました。
 池田 その通りです。したがって、今、釈尊の時代に焦点を当てて論じているわけだが、けっしてそは現代と無関係ではない。否むしろ、その淵源を深くたどることによって、いかにみずみずしい精神の泉を発掘するか、それが非常に大事なのです。最近、仏教に対する識者の関心が高まってきているのも、私はそうした期待が込められているように感ずるのだが……。
 野崎 ところで、六師外道と釈尊の関係について、仏教学者の増谷文雄氏の『東洋思想の形成』(富山房)によれば、ちょうど古代ギリシアのソクラテスとソフィストの関係に似ているという。つまりソフイストと呼ばれた多士済々な哲学者たちが六師外道にあたり、そのソフィスト群のなかから、それを止揚した立場としてソクラテスがいる、それが釈尊にあたるというわけです。ソクラテスが出現したギリシアは、周知のように、アテネを中心としたポリス(都市国家)の時代です。それと同じように、この当時のインド社会も、ラージャグリハ(王舎城)やシュラーヴァスティ(舎衛城)等の、いわゆる都市国家が共存した時代であったわけです。
 池田 たしかに思想というもの、とくに偉大な哲学や宗教が生まれる背景というものには、なにか同じような共通点があるものだ。釈尊の場合も、六師外
 道、九十五派のバラモンといわれる、いわば思想界の乱世において、それらをすべて止揚していく形であらわれているし、ソクラテスもその例にもれな
 い、といえるでしょう。

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