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日蓮大聖人・池田大作

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第十六章 「宇宙即我」と「一念三千」の…  

「生命と仏法を語る」(池田大作全集第11)

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7  西欧の学者が迫った生命の「我」
 池田 私が感心したのは、西欧の学者のなかにも部分観であっても、仏法の生命観に迫っていった学者がいるということです。
 たとえばイギリスの生物学者、ジュリアン・ハクスリーは「死」について、「あらゆる働きが非物質エネルギーとして精神的実在の貯蔵庫へと戻っていく」といったことを述べておりますね。
 ―― ハクスリーには、仏教の「業」についての著述がありますからね。
 ドイツの作家、ヘルマン・ヘッセは、「死ぬことは、一人の人間を超えた集合的な無の一部である」とも言っておりますが。
 池田 そのとおりです。けれども、スイスのユング博士などは、一歩進んで、「肉体的な死を超えて、心のなかのなにものかがつづいていく可能性がある」と主張していたのではないでしょうか。
 私は、たいへんに鋭い洞察と思ったことがあるんです。
 屋嘉比 ユング博士は、生命の「我」の存在をすでに信じていたと言われておりますね。
 池田 ロンドン大学のリス・デービッズ教授は、「われわれは、エネルギー不滅の法則を熟知している。ゆえに仏教の教理をも容易に了解することができる」と言っている。
 まあ、「了解」という言葉の意義が西洋流でおもしろい。(笑い)
 ―― 信ずると言わないのが学者らしいですね。(笑い)
 池田 まだまだいろいろあると思いますが、長くなりますので、なにかの機会にお話ししたいと思います。
 屋嘉比 じつは私も、たいへんに興味をもったことがあります。それは、東大附属病院の院長であった方が、親友の医師の死について語っていた一言なんです。
 “自分も彼も、無宗教である。霊魂も、肉体を離れた精神も信じない。しかし、じつをいうと私は、彼個人とはまったく別の彼の「我」が存在すると考えている”と話していたのです。
 ―― なにか経験と思索のうえから、直観的なものがあったのでしょうか。
 池田 それにしても、かつてトインビー博士が私に言われていたことを思い出しますね。
 それは、「社会の指導者たちは、生死の問題を真正面から解決しようとせず、すべて避けてとおっている。ゆえに、社会と世界の未来の根本的解決法は見いだせない。私はこの道を高等宗教、なかんずく大乗仏教に求めてきた」と――。
 この言葉は、終生忘れることができませんね。その課題に真正面から取り組んでいるのが、私たちであると思えば、無量の誇りがわいてきます。
 屋嘉比 わかりました。
 池田 三世の永遠の生命の探究と、その大法を弘めていくことに生命を捧げていることを思えば、現世の無認識な批判とか中傷などは、まったく小さなことと私は思っております。なんとも思っておりません。
 ―― 二十数年間ずっとお姿を拝見して、よくわかります。
 池田 この大法を、日本はもとより、世界百十五カ国以上の何十万、何百万という青年が受け継いでくれることを考えれば、私の胸中は所願満足の日々なのです。

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