Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第十六章 「宇宙即我」と「一念三千」の…  

「生命と仏法を語る」(池田大作全集第11)

前後
2  「信仰」と「理性」の関係
 屋嘉比 仏法は、「信仰」と「理性」の関係についてなにか説かれたものはございますか。インテリはどうしても「信仰」というと抵抗があるのです。(笑い)
 池田 いろいろあると思いますが、法華経に「信解品」という経文があります。
 この「信解」ということについて、「御義口伝」には、「信の外に解無く解の外に信無し」という関係にあると説かれておりますね。また、「解とは智慧の異名なり」とありますから、この「解」のなかには、いわゆる理性の働きも含まれてくると考えてもよいと思います。
 屋嘉比 すると、一般的に「信」は「解」をもたらす、そのまた「解」は「信」を深める、と考えてもよろしいのでしょうか。
 ―― 薬も、医師から、これはよく効くと言われ、信じて飲むと、本当によく効く。(大笑い)
 屋嘉比 いや、それは本当にあるんですよ(笑い)。さらに、その薬についていろいろ説明すれば、患者さんはいっそう安心してくださるわけです。
 ―― なにごとにおいてもいえますね。電車に乗るにも、ご飯を食べるのも。また、飛行機に乗るにも……、最近はいろいろありますが。(笑い)
 お医者さんに注射を打ってもらうのも、手術を受けるのも……。みんな同じ方程式ですね。
 池田 一つの次元ではそう言っても間違いではないと思います。
 要するに、人は何かを信じて生きている。また、信じなければ生きられない。しかし、それが不完全であったり、偏頗であったときに不幸を感じるのではないでしょうか。
 屋嘉比 道理です。
 池田 仏法は、万人が信ずるに足る、生命と人生と社会への「法則」を明かし、「仏界」という人間の最高最善の英知を顕現しゆく具体的方途を提示しております。
 結論から申しあげれば、御本尊への「信」それ自体がその極理となるわけです。
 それを知ったがゆえに、またさらに深めたいがゆえに、私どもが日夜「信」じ「行」じているのはご存じのとおりです。
 しかし、「信心の厚薄によるべきなり」が大前提となるのは言うまでもありません。
 ―― 当然です。なんでもそうです。
 池田 最近の医学でも、人間の脳が最高に進化した結果として、「信ずる」とか「信念」といった機能が強まってきたという説があるようですが。
 屋嘉比 ええ、イギリス医学界の権威、ヤング博士(神経生物学、解剖学)の研究なんかもそうですね。
 ―― 博士は、医学界のトインビーといわれる方です。博士にも、なにかそうした研究がありますか。  
 池田 博士の理論を簡単に申しあげれば、脳には「感情」つまり感じること、また「ひらめき」の働き、というものがある。
 それはさらに、「理解」や「納得」、また、価値や意味の「分析」という働きに高められる。
 ―― このへんが人間の人間たる所以ですね。
 池田 しかし、こうした働きは、さらに「決断」へ、「創造」へ、「感動」へと、より高度な段階にまで高められる。
 そして最終的には、自己の「信念」を形成していくのではないかというのが、どうも博士の結論のようです。
 つまり博士は、「“うたがわしさ”を超えて“確実さ”をみつけ出してゆくという人間の脳の働き」(『人間はどこまで機械か』岡本彰祐訳、白揚社)に注目しているわけでしょう。
 ―― すると、信念をもち行動することが、つきつめれば、正しき宗教をもつことがいかに大切かが、脳の働きからも結論されますか。
 池田 そう思います。博士は、「脳の知識がすぐれていれば、それだけすぐれた信仰を私たちはあたえられる」と言っておりますからね。
 ―― 余談ですが、最近の心理学では、赤ちゃんも、生後一年間に母親との信頼関係ができないと、その後の発育が妨げられると聞きましたが。
 屋嘉比 そのとおりです。言葉が覚えられなかったり、反応がにぶくなったりします。
 人間は、生まれたときから「信」がないと生きていけないことがわかっています。(笑い)
 池田 最近、日本で翻訳された本でも、物理化学者で“知識の源泉に信念がある”とハッキリ主張して、注目されている人がいたようですが。
 ―― マイケル・ポラニーです。彼は哲学者でもあります。
 池田 私はいつも思うのです。西洋のこうしたすぐれた科学者、哲学者たちは、真実の仏法は知らない。かりに知りえたならば、彼らはいったいなんというであろうかと――。
 ―― まったくそう思います。ヨーロッパはキリスト教の独壇場でしたからね。
 池田 ある学者が生物の進化において、「動物」と「人間」の境目は、道具をもったことと、宗教心をもったことだと言っていたが、私は、科学の進歩とともに、いかに正しい宗教観をもつかが、人間の人間たる証になると考えている一人です。
3  仏教が与えたキリスト教への影響
 ―― 本当に仏法は知れば知るほど、深いものだと思います。
 というのは、先日、ヨーロッパへ行ったときに、大英博物館で、たいへんに興味ぶかい資料のコピーを手に入れてきました。
 それは、「カトリック」という言葉の成立についてなんです。
 池田 以前、私が調べてもらったのでは、カトリックという言葉の語源は、ギリシャ語の「普遍的」とか「万人の」「全体的」という意味の「καθο´λον」がラテン語に入ったことに由来する、となっていたと思いますが。
 ―― ええ、たしかに医学者のヒポクラテスや、哲学者のアリストテレス、ゼノンなどは、著書のなかで、先生がいま言われた意味で使っているようです。
 ところが、私が調べたギリシャ語の語源辞典では、どうやら、このギリシャ語の「καθο´λον」の「καθ」は「~に従って」という意味の前置詞です。「ο´λον」のほうは「全部」「全体」「総体」を意味するサンスクリット語――インドの仏典を記述した言葉――の「Sarvas」から由来しているとなっていました。
 池田 たしかに、アリストテレスは仏教の教えを初めて東ヨーロッパに伝えた、という学者の研究もあるらしいからね。
 ―― え、アリストテレスですか。それは初耳です。(笑い)
 池田 百年ぐらい前、アメリカの科学者が書いた『宗教と科学の闘争史』(ジョン・W・ドレイパー著、平田寛訳、社会思想社)という本に出ているようだから、いちど読んでみてください。この人は、ニューヨーク大学の化学と生理学の教授をやり、医学部長もやったらしいよ。
 ともかくこのへんの問題は、今後の解明を待ちたいですね。
 私の友人であるフランス屈指の美術史家、ルネ・ユイグ氏も、「地中海文明には東洋の仏教の影響がある」と言っていたことがあるそうです。
 屋嘉比 すると、紀元前の当時、すでに、アジアとヨーロッパは交流がかなりあったのですかね。そういう話は本当に胸躍りますね。(大笑い)
 池田 いや、キリスト教は仏教から影響を受けたとする、ヨーロッパの学者は意外と多いことも事実なんです。
 ―― ええ、今回、私もいろいろ調べたのですが、イギリスのケンブリッジ大学のマックス・ミュラー博士、またH・C・ウォーレン博士の『翻訳の仏教』、ドイツのS・ハルデ博士の『仏教概論』。ほかにも、R・ザイデルの『イエスの福音と仏陀伝説および仏陀の教義に対する関係』、G・エイシンガの『福音書の物語に対するインドの影響』、A・エドマンズの『仏教とキリスト教の福音』、G・グリムの『仏陀とキリスト』などがあります。
 屋嘉比 日本で翻訳されたものはありますか。
 ―― 私の調べたかぎりでは、残念ながらあまりないようです。
 池田 ドイツのH・L・ヘルドという研究者も、「イエスの伝記が、仏伝の影響を受けたことはまず疑いない」と言っておりますね。たしか、この人は神学者だったのではないでしょうか。
 大げさに言えば(笑い)、このへんは人類の歴史観を一変し、新しい東西両文明の融合をもたらす一つの手がかりとなるようにも、私には思えるんです。
4  仏典に説かれた「死」の姿
 ―― 先日(一九八六年二月十一日)も、静岡県熱川温泉のホテルで痛ましい火災事故がありました。新聞の社会面では、連日そうした記事がつづいています。
 屋嘉比 交通事故、火災、病死、殺人、自殺、またさまざまな不慮の死等々……。本当にきりがないですね。
 ―― 以前ある学者が、夕方以降のアニメやドラマなどのテレビ番組で、一週間に出てくる「死者」を数えたら、五百五十七人も出たと言ってましたが。(笑い)
 現代人は「死」を直視するより、客観視することにあまりにも慣れてしまったともいえるのでしょうね。その意味では不幸な時代です……。
 屋嘉比 「死」の姿について説いた仏典はございますか。
 池田 あります。「時節死」「不時節死」とあります。
 屋嘉比 それは……。
 池田 「時節死」とは、「寿命尽き乃至老死す」。
 「不時節死」とは、「あるいは自殺、あるいは他殺、あるいは病死をもって、あるいは関係なくして中間に死す」とありますね。
 ―― すると、やはり「時節死」が望ましいことになりますか。
 池田 一般的には、そう思います。また、寿命をまっとうした場合には、多少の病気があっても、やはり「時節死」といえる気が私はしますね。
 屋嘉比 そうでしょうね。
 池田 ただ、信仰しても、さまざまな姿があることも事実でしょう。
 しかし、「法華経」の流通分である「涅槃経」には、「横に死殃に羅り(中略)是くの如き等の現世の軽報を受けて地獄に堕ちず」とありますね。
 「死殃」とは死の禍のことです。つまり、それらは「転重軽受」という深き意義があるというのです。ですから、妙法を持ち、貫いていった場合、「一念」の方向が定まっているがゆえに、安心、安全なんです。
 第二十六世日寛上人は、たとえ重病であっても、また不善相であっても、「法華本門の行者は不善相なれども成仏疑ひ無き事」(「臨終用心抄」)と明快におっしゃっておられます。
 さらに、「追善」という仏法上の深き方軌の意義もここにあるわけです。
 ―― 幸福になるためのものが、反対に一次元の姿をもって心が縛られるのでは、なんの意味もない。これは一生を通してみなければわからないと思いますね。
 池田 当然です。日寛上人は、亡くなる半年前、「予平日蕎麦を好む正に臨終の期に及びて蕎麦を食し一声大に笑つて題目を唱えて死すべきなり」(『富士宗学要集』)と言われ、そのとおりのお姿で亡くなられたのは有名な史実です。
 屋嘉比 不思議なお姿ですね。
 池田 それとは次元が違いますが、あるとき戸田先生は、「人間は、なにかの病気で死なないと都合が悪いんです。私は肺病であったが治った。だから肺病ではもう死ねない。心臓も悪かったけれども、丈夫になって心臓病でももう死なないだろう。そうなると、何の病気で死ぬか考えねばならない。私はお酒をよく飲むから、寿屋のウイスキーででも死のうかと思っている」(爆笑)と呵々大笑されながら語っておられたことがあった。私はいまでも鮮明に思い出すんです。
 屋嘉比 すごい先生ですね。
 池田 ですからたとえば、大聖人の門下においても、さまざまな「生」と「死」の姿があった。そのなかで、夫に先立たれ、幼い娘一人をかかえた女性がいた。
 大聖人は、その方へのお手紙のなかで、「故入道殿も仏にならせ給うべし、又一人をはする・ひめ御前も・いのちもながく・さひわひもありて・さる人の・むすめなりと・きこえさせ給うべし」とおっしゃっております。
 この意味は、あなたは常に変わらず正法への信仰を、健気に貫きとおされている。ゆえに、ご主人の成仏は間違いない。また可愛いお嬢さんも、きっとお父さまの分まで幸せで長生きをされることでしょう。「さすがはあの方のお子さんだ」とみんなから言われるような、立派な人に育つことは間違いありませんよ、とおっしゃっておられると私は思います。
 屋嘉比 人というのは、いざというときにわかりますからね。
 池田 私はこうした姿を数多く知っております。
 いかに幸福そうに見えても、人生の「諸行無常」はだれびとも避けられない……。
 反対に、いかに不幸に見えても、そこから築きあげた自分自身の幸福観は絶対に壊れない。
 一歩深く見れば、そこに幸福の「実像」があるのではないでしょうか。
 屋嘉比 そのとおりです。
5  子供は何歳から「死」を意識するか
 ―― 屋嘉比さんは肉親の死に立ちあったことはありますか。
 屋嘉比 私の母は十一年前、四十五歳で亡くなりました。
 池田 ああ、そうでしたか。ご病気ですか。
 屋嘉比 胃ガンです。当時、私は東大の五年生でした。知らせを受け、急遽、大阪の病院に駆けつけた夜は一睡もできませんでした。私はそれが契機で、専門に胃腸科を選んだのです。
 池田 いいお母さんだったのでしょうね。
 屋嘉比 先生のご両親は……。
 池田 父は六十八歳で亡くなりました。心臓が弱ったためのようです。
 母は、十年前の九月、八十歳で老衰で亡くなりました。忙しくて親孝行らしいこともできなかったけれど、母は会えば、病弱だった私のことを気づかって「体だけは丈夫にね」とだけ言ってました……。母親はいつまでたっても母親でしたね。
 ―― ところで最近は、小児医学、周産期医学が、めざましい発展を遂げていると聞いています。
 そこでうかがいたいのですが、いったい、子供というのは何歳ぐらいから、死を意識するのか……。
 池田 私が聞いたのは、五歳から九歳であるという説がありましたが、屋嘉比さん、どうでしょうか。
 屋嘉比 だいたい、そのくらいの説が強いようです。
 アメリカのA・バーゼルという社会学者の調査では、五歳ぐらいですと、親しい人が亡くなっても、その意味がよくわからず、「また帰ってくる」と思うらしいのです。
 池田 すると六歳以上では……。
 屋嘉比 六歳では悲しみの反応はある。しかし病気とか老齢とか、具体的原因と結びつけることはまだできないらしいのです。
 七歳になると、自分を含め、すべての人がいつかは死ぬという自覚があらわれ、ハッキリ自覚するのは八歳から九歳となっています。
 池田 私の次男坊は一昨年急死しました。四歳と二歳の二人の子供がいましたが、たしかにその子供たちは、父親が寝ているととったように、私はうけました。
 五歳以下の幼児では、他人の死を眠りととらえることはあるようですね。
 屋嘉比 ええ、アメリカのある報告では、三歳の幼女の母親が心臓の発作をおこし死んでしまう。ところが、それを見ていた幼女は、ベッドに横たわった母親のとなりに横になったというのです。その子は、保母さんかだれかに、“お母さんが眠ったので、自分もその横で眠ったの”と幸せそうに話したそうです。
 池田 その世代の幼児にとっては、「死」とはまだ白紙の状態なんでしょうね。
 ある人が言っていた。「普通の子供は死を病気や老衰が原因だと思う。しかし、社会に暴力、殺人、自殺、事故などが増えてくれば、幼い子供の心には、それが『死』というものだと知らずしらず潜在化してしまう」と――。
 ―― 恐ろしいことです。純粋な子供の心に、深い傷を残してしまうのでしょうね。大人は、もっともっと考えねばならないと思いますね。
 屋嘉比 ちょっとうかがいたいのですが、今年(一九八六年)は、ハレー彗星が再び接近しますが、彗星を仏法上どうみますか。(笑い)
 ―― 東洋では陰陽道。西洋では“剣が飛ぶ姿”“戦乱の兆”とも見ていたようですが。
 池田 現代では、科学的また文明史的にとらえておりますが、前時代にあっては“凶”、“吉瑞”というよりは、当然“凶瑞”ととらえられてきたわけです。仏法のなかにも、そうした例証はあります。また、「大法興廃の大瑞」ともとらえられているわけです。
 屋嘉比 地球の公転、自転。また月との関係をみても、宇宙の運行と人間とが、なんらかの深い因果関係にあることは、当然でしょうね。
 とくに医学では、「脳」の分野でこの点が着目されているわけです。
 池田 日蓮大聖人御聖誕の年(一二二二年)の秋も、ハレー彗星が接近したようです。
 今回は、それから十回目の回帰になると思います。
 ま、これは『「仏法と宇宙」を語る』のほうだったのですが。(大笑い)
6  仏法は「三世の生命観」が大前提
 屋嘉比 ところで最近の医学界でも、高齢化社会を迎え、「人間いかに老い、死ぬか」ということが、大きなテーマになっています。
 池田 屋嘉比さん、日常の老化の目安なんかありますか。(笑い)
 屋嘉比 研究した人がいます(笑い)。たとえば、
 一、最近のことを忘れやすい
 二、急ぐときイライラしてくる
 三、自己中心的に考える
 四、昔のことをよくしゃべる
 五、愚痴っぽい(笑い)
 まだほかにもあると思いますが。(大笑い)
 池田 いや、お年寄りでなくとも、ときどき見かけますね。(笑い)
 あるフランスの作家が、
 人生を川の流れに譬えるなら――
 青年時代は「ほとばしる急流」のごときものである
 中年は、「滔々とした流れ」になる
 そして老年は、すべてを包みこみ、悠々と景色を川面に映しゆく「鏡のような大河」となり、“大海”へそそぎ込むようなものだ
 と言っていた。
 私はたいへんに感銘を受けた言葉です。
 ―― 本当にそうした充実した一生を歩みたいものですね。
 池田 御文に、「法華経の功力を思ひやり候へば不老不死・目前にあり」とあります。これは身体が「不老不死」ということではありません。(笑い)
 ともかく人生は限りがある。この限りある一生を瞬間、瞬間、いかに楽しみながら、いかに価値あるものにしゆくかが人生の目的といえるのではないでしょうか。
 さらに、その瞬間、瞬間のなかに、永遠をもはらみゆく自分自身を覚知しながら、この人生を満喫していくことができるのが、「妙法」なんです。
 ―― ある著名な学者は、「各人が非常に平静な気持ちで死を迎えられるような社会をつくりあげていくことも必要である」と語っていましたね。
 屋嘉比 どちらかというといまの社会は、ますます逆行している感がある。人を人とみない経済優先、利害優先の弊害でしょう。
 池田 重大問題です。当然、それは政治・経済次元の問題でもある……。
 しかし、一歩つきつめてみれば、哲学、宗教の問題ではないでしょうか。
 なぜならば、生死を直視しないことは、ほかならぬ自分自身を直視しないことになる。
 それでは、確固たる自分観の確立も、心広々とした生き方もなしえなくなってしまうからです。またそれは、その人自身の人間観、社会観と表裏一体の問題であることを、人は知らねばならないでしょう。
 仏法では、「生死を見て厭離するを迷と云い始覚と云うなりさて本有の生死と知見するを悟と云い」と、人生の根本問題として説かれているわけです。
 屋嘉比 鋭いです。すると、仏法は「三世の生命観」を大前提としていると考えてよろしいのでしょうか。
 池田 そのとおりです。この「三世」という生命観を、見事にとらえ、宇宙と生命の完璧なる法理・法則を打ち立てたのが「妙法」と私は思います。
 このへんはまたいつかお話ししたいと思いますが、つまり、人間も、動物も、植物も、地球も、さらに宇宙もが「成」「住」「壊」「空」の法理に則り、永久に流転している……。
 しかし人は、物質の世界の法則はわかっても、根本の生命の「因果の法」はわからない。
 そこに明確なる解答と、人生の生きゆく指標とを提示しているわけです。
7  西欧の学者が迫った生命の「我」
 池田 私が感心したのは、西欧の学者のなかにも部分観であっても、仏法の生命観に迫っていった学者がいるということです。
 たとえばイギリスの生物学者、ジュリアン・ハクスリーは「死」について、「あらゆる働きが非物質エネルギーとして精神的実在の貯蔵庫へと戻っていく」といったことを述べておりますね。
 ―― ハクスリーには、仏教の「業」についての著述がありますからね。
 ドイツの作家、ヘルマン・ヘッセは、「死ぬことは、一人の人間を超えた集合的な無の一部である」とも言っておりますが。
 池田 そのとおりです。けれども、スイスのユング博士などは、一歩進んで、「肉体的な死を超えて、心のなかのなにものかがつづいていく可能性がある」と主張していたのではないでしょうか。
 私は、たいへんに鋭い洞察と思ったことがあるんです。
 屋嘉比 ユング博士は、生命の「我」の存在をすでに信じていたと言われておりますね。
 池田 ロンドン大学のリス・デービッズ教授は、「われわれは、エネルギー不滅の法則を熟知している。ゆえに仏教の教理をも容易に了解することができる」と言っている。
 まあ、「了解」という言葉の意義が西洋流でおもしろい。(笑い)
 ―― 信ずると言わないのが学者らしいですね。(笑い)
 池田 まだまだいろいろあると思いますが、長くなりますので、なにかの機会にお話ししたいと思います。
 屋嘉比 じつは私も、たいへんに興味をもったことがあります。それは、東大附属病院の院長であった方が、親友の医師の死について語っていた一言なんです。
 “自分も彼も、無宗教である。霊魂も、肉体を離れた精神も信じない。しかし、じつをいうと私は、彼個人とはまったく別の彼の「我」が存在すると考えている”と話していたのです。
 ―― なにか経験と思索のうえから、直観的なものがあったのでしょうか。
 池田 それにしても、かつてトインビー博士が私に言われていたことを思い出しますね。
 それは、「社会の指導者たちは、生死の問題を真正面から解決しようとせず、すべて避けてとおっている。ゆえに、社会と世界の未来の根本的解決法は見いだせない。私はこの道を高等宗教、なかんずく大乗仏教に求めてきた」と――。
 この言葉は、終生忘れることができませんね。その課題に真正面から取り組んでいるのが、私たちであると思えば、無量の誇りがわいてきます。
 屋嘉比 わかりました。
 池田 三世の永遠の生命の探究と、その大法を弘めていくことに生命を捧げていることを思えば、現世の無認識な批判とか中傷などは、まったく小さなことと私は思っております。なんとも思っておりません。
 ―― 二十数年間ずっとお姿を拝見して、よくわかります。
 池田 この大法を、日本はもとより、世界百十五カ国以上の何十万、何百万という青年が受け継いでくれることを考えれば、私の胸中は所願満足の日々なのです。

1
2