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日蓮大聖人・池田大作

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第十五章 ストレスと「衆生所遊楽」の境…  

「生命と仏法を語る」(池田大作全集第11)

前後
2  現実社会を変革しゆく本源の「法」
 ―― 「日本経済新聞」の今年(一九八六年)の元旦号にも、「ストレスと上手につきあう」という特集が出ておりました。今年は、カナダのセリエ博士がストレス学説を世に問うてから、ちょうど五十年目になるそうですが。
 屋嘉比 セリエ博士の論文は一九三六年ですから、そうなりますか。これは、イギリスの科学雑誌『ネイチャー』に掲載された、わずか七十四行の論文だったのです。
 池田 前の章で、ストレスは病気の大きな要因であると言われてましたが。
 屋嘉比 アメリカのある調査では、家庭医に相談に来る人の症状の三分の二はストレスが関係する、というデータもあるほどです。
 池田 セリエ博士が、のちのち有名になったこのストレス学説の着想をはじめたのは、弱冠十八歳のときであったと聞きましたが。
 屋嘉比 おっしゃるとおりです。彼は、教授や先輩たちが関心を示さなかった、《まさに病気である》という身体の共通の反応に着眼したわけです。
 池田 素晴らしいことです。何事にあっても、若い新鮮な感覚、意見を常に大切にしなくてはならない。その一つの証左ですね。ともかく若い人の成長は早い――。
 余談になりますが、先日たまたま、私が創立した創価学園出身の二人の医師が、私のことを心配してくれて、「先生、その後、お体の具合はどうですか」と訪ねてきてくれました。うれしかったですね。
 ―― どこの病院の方ですか。
 池田 一人は成見君といって、慶応のお医者さんです。もう一人は藤乗君といって、東大です。二人とも本当に立派に成長し、驚いたんですよ。
 ―― 若い人にとって、自分の人生を本当に見守ってくれる人がいることは幸せですね。いまはそういう人が少ない……。
 池田 ところで、これは聞いた話ですが、ちょうど五年前(一九八一年)の二月、ギリシャでマグニチュード六・六の大地震があり、首都アテネではパニック状態になった。その直後から心臓病の発作発生率が急激に上昇したというんですが、こういうことは本当にありえるんですか。
 屋嘉比 考えられます。地震や戦争などの「死」の恐怖の下では、さまざまなストレス症状がおこるという報告が、現にいろいろあるんです。
 アメリカの『タイム』誌に載っていた例では、南北戦争当時、兵士のなかに、原因不明の動悸が頻繁におきたことが伝えられています。
 これは、あまりに多いので、“兵士の心臓”とよばれていたようです。
 また、別の研究書によれば、第二次大戦のとき、ドイツ軍の激しい空襲がはじまると、ロンドンの十六の病院で、消化性潰瘍が著しく増加したそうです。
 池田 たいへんな精神的重圧だったのでしょう。仏法では、その生命観のうえから、より深く、「軍起れば其の国修羅道と変ず」ととらえた御文があるほどです。
 ―― 戦時下でなくても、現代のようなストレス社会では、夜空を見ていると、ストレスのない宇宙空間に飛んでいきたい気持ちになるときもあります。(笑い)
 屋嘉比 いや、残念ながら、心身医学で有名であった、東大の故・石川中博士も言っているように、“孤独な宇宙飛行も、これまたストレス”なんですね。(笑い)
 池田 仏法ではこの私どもの世界を、「娑婆とは堪忍世界と云うなり」と説かれた御文もあります。
 「堪忍」とは、あらゆる苦難を堪え忍ばねばならない世界ということでしょう。
 その意味からもストレスということが、私は理解できる気がするんです。
 しかし「娑婆即寂光」というがごとく、この厳しき現実社会をば、変革しゆく本源の「法」を明かしたところに、仏法の仏法たる所以があると私は思っております。
 屋嘉比 「娑婆即寂光」とは、深義はわかりませんが、文相からでも、発想の大転換がせまられる気がしますね。
 池田 生きていれば必ずストレスはある。しかし、反対に、ストレスのない環境では、生命は十全には生きられないとも、読んだことがありますが。
 屋嘉比 おっしゃるとおりです。セリエ博士も、“すべてのストレスからの解放は死である”というとらえ方をしていたと思います。
 ですから博士は“ストレスを人生のスパイスに”と言っておりましたね(笑い)。広義のストレスは、適当な刺激という意味で重要です。
 池田 よくわかります。しかし、人間の宿命、運命といった次元は、また別問題でしょうね。
 ところで、ストレスを解明していくと、人間の脳の働きと密接に関係してくるといわれますが。
 屋嘉比 そうです。たとえば、ストレスがおこると、脳の内臓中枢の働きに“歪み”が生じ、自律神経の働きやホルモン分泌に変調をきたします。その結果、胃酸過多や高血圧などが生じるわけです。
 池田 すると、おおまかに言うと、人間の脳の働きはどうなっているんですか。
 屋嘉比 脳を系統的に大きく分けると、脳幹部と、左右の大脳半球に分かれます。
 大脳半球の表面はほとんど「新しい皮質」で覆われ、「古皮質」はその内部に押しこめられ、「旧皮質」はさらに「古皮質」の底へと閉じこめられています。
 それぞれの働きを一応、分類すると次のようになります。
 脳幹――呼吸、心拍、血圧、ホルモンの分泌等の、無意識に行われている生きるために必要な働き。(植物的生)
 旧・古皮質――本能的な欲求、情動などの座。(動物的生)
 新しい皮質――他の領域の働きを統合し、人間的な「知」「情」「意」にわたる創造性をもたらす精神活動。(人間的生)
 池田 よくわかります。この人間の脳の構造は、生物進化の歴史が刻まれているといいますからね。
 とくに「旧・古皮質」の“古い脳”に対して、「新しい皮質」の“新しい脳”は、過去五十万年に、爆発的なスピードで発達したともいわれますが。
 屋嘉比 そのとおりです。脳進化の研究で世界的に有名なポール・マクリーン博士は、人間の脳を比喩的に表現しております。
 それによりますと、「旧皮質」を“ワニ”(爬虫類)、その上に「古皮質」の“ウマ”(哺乳類)が重なっている。そして、その二匹に象徴される本能的な心の働きを、上位に位置する「新しい皮質」の“ヒト”がたづなをもって、暴走をコントロールしている姿になっております。(笑い)
3  「九識論」と大脳生理学の成果
 池田 素晴らしい科学の発見です。この大脳生理学は、客観的に大脳の仕組みや働き方を分析して、人間の感覚、感情、意識、記憶などの心の領域までも探っていくものである。
 それに対し、仏法は、どこまでも主体的に自己の内奥へ、内奥へと探究の視線を伸ばしていった、といえるかもしれませんね。
 しかし、その発想の基盤は異なっていても、また、その客観的分析と主体的探究の成果はただちに一致しないにしても、相互に連関しあうということは、当然いえると思います。
 その意味で、仏法で説く「九識論」などは、大脳生理学の成果をも大きく包み込んでいく、壮大な体系といえるのではないでしょうか。
 ―― 「九識論」については、『「仏法と宇宙」を語る』でも種々、論じていただきましたが。
 屋嘉比 私もたいへん勉強になりました。
 池田 これまでもさまざまなところで論じてきましたので、ここでは簡単に触れさせていただきますが、「九識論」は、私たちの物事を識別する心の作用を、仏法の生命観から掘り下げたものと思います。つまり、
 五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)
 ――感覚器官である五官にともなう識。
 第六識(意識)
 ――  外界の情報を総合し、記憶とも比べあわせながら判断する思慮。
 第七識(末那識)
 ――「末那」とは“思い量る”という意。
  意識の奥で絶えず活動しつづけ、強く深く自我に執着する心の作用。
  また“真理”とか“美”の探究のような、人間の高度な精神活動の範疇。
 第八識(阿頼耶識)
 ――  “一切法”を含蔵するので「蔵識」ともいう。
 前七識の根底・基盤となる深層の心。
 「染浄の二法」を含む。
 第九識(阿摩羅識)
 ――「根本浄識」ともいう。
  生命の最も奥底にあって、一切の汚れに染まることのない常住不変の究極的実在。と一応、申しあげておきます。
 ―― そうしますと、「第六識」までは私どももよくわかりますが(笑い)、「第七識」のあたりは、脳のどの部分の働きになるんですか。
 池田 いや、大脳皮質の働きについては、種々の学説があるようです。一応、仏法で説く「第七識」の働きは、たとえば、「新しい皮質」のなかでも、主に前頭葉の働きとして顕れるとも考えられます。
 また、いわゆる右脳と左脳でいえば、無意識の深層から顕在化してくるので、右脳を場としても働くと考えられないこともないわけです。
 ―― 屋嘉比さん、最近では、脳は各部分が相互作用しながら全体として働くととらえる“ホログラフィ理論”というものが、注目されているようですが。
 屋嘉比 ええ、スタンフォード大学の神経科学者、カール・プリブラム(アメリカ)の提唱した理論ですね。
 これは、脳の一個の細胞にも全体の働きが備わり、“ミクロの脳とマクロの宇宙は同調する”ととらえてもいます。ですから、“星が爆発すれば、心は震える”と詩的にたとえられてもいるんですよ。(笑い)
 池田 このへんはじつにおもしろいところですね。
 今後も脳科学の発展につれて、ますます多くの理論が提出されることを期待したいですね。
 ―― そうすると、「第八識」というのは……。もちろん、こううかがうのは、あまりにも図式的すぎるかもしれませんが……。
 池田 おっしゃるとおりです。ですから、大脳生理学の成果と仏法の洞察は、それぞれの次元は異なってはいても、ともに「心」、つきつめれば「生命」というものが、表層から深層へ、さらに重層的かつ立体的な構造を成すことをとらえているといえる気がするんです。
 ただそれは、部分と部分とが一対一で、直接的に対応するということではないわけです。その点をご了解願いたいのです。
 それであってなお、両者が相互に連関することは、さきほど申しあげたとおりです。
 この点からすれば、「第八識」は生命全体を支えているといってもよいでしょう。
 屋嘉比 わかります。ともかく人間も、その大脳に、いわゆる本能的衝動が主体となる“ワニ”と“ウマ”がおり、“ヒト”との力関係の微妙なバランスによって、支えられている。このバランスはたいへんに崩れやすく、ここに、今日の人類の解決すべき最大の問題があると指摘する学者もいるくらいです。
 ―― しかし屋嘉比さん、いかに脳の構造がわかっても、肝心要の自分自身の「心」の苦悩や葛藤をどうするかという問題とは、別なのではないでしょうか。(笑い)
 屋嘉比 おっしゃるとおりです。それが、じつはいちばん問題なんです。(笑い)
 池田 ですから私は、屋嘉比さんのおっしゃる“ワニ”“ウマ”をコントロールしていくというのでしょうか(笑い)、四聖(声聞・縁覚・菩薩・仏)へ、とくに菩薩界へ、仏界へといかに上昇するか。さらにその菩薩界、仏界の境涯によって、いかに本能的衝動や情動を生かし、昇華しゆくかという哲理と実践とを完璧に明かしたところにも、仏法の卓越性の一端があると思っているんです。
 屋嘉比 その理論と実践の一つに「九識論」があるということですか。
 池田 そうとらえていただいてもよいと思います。
 さきほど屋嘉比さんも、“人間の脳は宇宙と同調する”とおっしゃっておられた。
 いわば「九識論」の要は、われわれ人間は本来、「宇宙即我」の巨大な領域(第九識)をみずからの心身のなかに有している。にもかかわらず、いまだ狭小というか、低い境涯というか、そうした自我意識(第七識)によって、自己を小さく限定して生きてしまうという点を鋭く指摘したところに、その一つの特質があるといえるのではないでしょうか。
4  「宇宙即我」の次元まで広がる境涯
 池田 少々、寒くて本調子でないもので(笑い)、うまく表現できなくて申しわけないのですが……。
 「第七識」の領域は、深い理性の座であるとともに、常に煩悩に汚されている。
 そのために自己を狭く限定し、エゴイスティックになっていると思われるのです。ですから、これを「汚染識」とも呼びます。仏法的に言いますと、「我癡」「我見」「我慢」「我愛」の四煩悩が渦まいているということになるわけです。
 屋嘉比 鋭い洞察ですね。大脳生理学の知見でも、理性の座ともいえる前頭葉には、同時に“殺しの血潮”も脈打っているととらえています。このことと、見事に一致しますね。
 ―― するとわれわれの社会の危機とは、まさにこの理性と“殺しの衝動”がともに渦まく前頭葉の産物ともいえますか。(笑い)
 池田 まったくそのとおりです。ある経文では、「我等衆生の一日一夜に作す所の罪業・八億四千の念慮を起す」とあります。
 つまり、人間はより多くの知識を得ても、それがゆえに傲慢であれば、自分自身はじつはなにも見えなくなる。
 仏法は、この煩悩に汚され、本来の自己を狭く限定する自我意識(第七識)が、一体どこから生ずるかを追究しているわけです。そこにさらに奥の、第八・「阿頼耶識」を見いだしたともいえると思います。
 この「アラヤ」とは、“住居”という意味です。
 つまり、五識、六識、七識での体験がことごとく潜在エネルギーとなり、種子として蓄えられるとでもいうのでしょうか。また、この「第八識」が、第七の自我意識や六識、五識を生じるとも思われるんです。
 ―― なるほど。
 池田 また、少々むずかしくなってすみません。(笑い)
 ですから、「第七識」(自我)、そして五識、六識と、この「第八識」は宿命的な循環を繰りかえしていくというのでしょうか。
 この、だれもがほとんど意識していない、しかし、自身を縛りつけている“自己限定の枠”を突き破って、本来の「宇宙即我」という次元にまで広がりゆく力強い大境涯、とでもいうのでしょうか。これを「九識心王真如の都」と、仏法ではいうのです。
 「心王」とは、心の作用の根本。
 「真如」とは、虚妄を離れ、不変、不改ということです。
 そして「都」とは、「心王」の住処。つまり、広大にして無辺なる境界世界です。
 屋嘉比 驚きです。じつに、人間の生き方を根源まで掘り下げた仏法の理論といえますね。
 池田 この「九識」を「本覚」とも「仏性」ともいいます。
 このへんが仏法の難解中の難解なところで、釈尊も、衆生が誤解を生じないように、ある場合は「六識」まで、またある場合は「八識」までという法門の説き方をしております。
 しかし、最高峰の「法華経」にいたって「九識」が完結しております。
 屋嘉比 たしかにそのとおりでしょうね。
 それにしても、論理的かつ否定しようのない明快さを仏法はもっておりますね。
 ―― するとその「九識」とは具体的には……。
 池田 結論から申しあげれば、御文には、「只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり」と明快に説かれております。
 末法における「法華経」とは、もうおわかりのように「南無妙法蓮華経」即「御本尊」であられる。この御本尊に南無しゆくことにより、私どもの生命それ自体が即「九識心王真如の都」とあらわれ、人間最高の英知を輝かせていくことができるというのです。
 この「第九識」の英知に基づいてこそ、第七の自我意識を自在にコントロールし、自我の“囚われ”を排することもできる。そして理性の働きも十全に発揮される、ということでしょうか。人生と世界をありのままに見ていくことができる境涯とでもいいますか。
 この法則を知ったがゆえに、またさらに深く、より確かに自分自身のものにしたいがために、私どもは信仰しているわけです。
 ですから、そのための「信」と「行」と「学」がどれほど大切か、ということもおわかりいただけると思います。
 屋嘉比 まことに深い哲理と裏づけがあることがわかります。
 池田 現代的に言うならば(笑い)、生命は、常に外境と因縁和合しながら、「六根」をとおし、それぞれの情報を受けている。そのなかには、ストレスの苦悩を生むものも少なくない。
 しかし妙法によって、「九識」の太陽が胸中に輝きわたれば、それらの苦はすべて霜露のごとく消え去っていく、ともいえるかもしれませんね。
 要するに、人はいくら社会的な地位や名誉があっても満足しない。いくら財産があっても、それだけでは本当の心の充実はない。
 このわが胸中の「宮殿」というか、広々とした境界世界を開ききっていってこそ、真実の人生の価値も、幸福感もあるのではないでしょうか。
 この自己変革即社会の変革をめざしゆく運動を、私どもは「人間革命」といっております。
 ―― 池田先生の小説『人間革命』は有名ですが、最近、学術書などでも「人間革命」という言葉をたびたび見かけますね。
 池田 私はあまり意識したことはありませんが、「人間革命」というのは、いまから三十数年前、私の恩師である戸田先生が使われた言葉です。
 当時は聞きなれないせいもあってか、「人間改造」と間違えた人もいるくらいで(笑い)、なかなか理解されなかった時代でした。
 屋嘉比 「人間革命」なら、私もついこの間、ハイデルベルク大学の神経・精神医学の権威であるH・シッペルゲス教授(西ドイツ)が書いた医学史の本でも、目にしました。
 池田 そうですか。言葉の多少のニュアンスの違いはあるんでしょうが。しかし、私はうれしく思いますね。(笑い)
 ―― 有名なのは東大の伊東俊太郎教授です。教授は、文明論的な次元から「人間革命」ということを主張されていますね。
 屋嘉比 私も、お名前はうかがっております。教授はどんな……。
 ―― 切り文で失礼ですが(笑い)、メモを持ってきましたので……。
 氏は、「今日要求されているこの変革期の性格についていろいろと論じられていますが、それは結局『科学革命』に対する『人間革命』という言葉でしめくくりうるかと思います。それは、人間中心というのではなく、生きとし生ける人間の生、つまりわれわれの『生ける生活世界』を根底に据えた新しい思考をつくってゆくということです」(『ライフサイエンスと文化』所収「西洋文化と生命」、共立出版)と語っておりますね。
 屋嘉比 そういえば、毎日新聞社の昨年(一九八五年)の読書調査で、“この一年間に読んで、よいと思った本”のトップに、小説『人間革命』があげられておりましたね。
 ―― 本当にまじめに人生を考える人は、やはりその一点を志向していくのではないでしょうか。
5  胎児の最大のストレスは「家庭環境」
 ―― もう少々、ストレスについてうかがいたいのですが、人間はすでに胎児のときからストレスははじまっていると聞きましたが。厳しいものですね。(笑い)
 屋嘉比 そうです。
 池田 では、屋嘉比さん、胎児にとって最大のストレスとは……。
 屋嘉比 やはり「家庭環境」のようです。これは「朝日新聞」でも紹介されておりましたが、カナダの心理学者の調査では、母親のストレスが胎児に及ぼす影響を点数で表すと、貧血や高血圧を「一」とすると、なんと夫婦げんかは「六」となるそうです。
 ―― 不思議なものですね。
 屋嘉比 胎児が母親の愛情を感じとれれば、自分の周りに一種の防護壁ができて、外部のストレスから受ける衝撃は和らげられるともいわれているんです。これは出生してからも変わりませんね。
 ―― 家庭が大事だという点について、仏法にもなにか説かれたものはございますか。
 池田 私がいま思い出すのには、法華経に「田宅」とあります。
 これについて大聖人は、深き生命観のうえから、「田は米なり、米は命をつぐ、宅は身をやどす是は家なり、身命の二を安穏にするより外に財宝は無きなり」とおっしゃっておられますね。
 ―― 「宅」には、「やすらか」「やすんずる」という字義もありますね。
 屋嘉比 「家貧しくして孝子あらわる」ともいわれますが、ある研究者は、一般的には、「平穏」「信頼」「安定」という雰囲気の家庭で育った子供は、その後の人生のストレスに対して、比較的強くなれるといっておりますね。
 池田 これは、子供も大人の世界も同じです。(笑い)
 ドイツの著名な教育学者のボルノーでしたか、「広い世界から自分の仕事を果たした後に、いつもまた自分の家の平和に戻っていって、そこで新たな力を集めることのできる者だけが、おそらくは広い世界のなかに住むことができるのである」(『人間学的に見た教育学』浜田正秀訳、玉川大学出版部)と言っていたのを記憶しておりますが。
 屋嘉比 実感としてよくわかりますね。(笑い)
 池田 そこで、私も立場上、それこそ多くの青少年を知っております。なかには、ご両親を若くして亡くした人もいる。片親の人もいる。またさまざまな家庭状況の人もいる。
 そうであっても、立派に成長した人を数多く私は知っております。
 要するに、いかなる困難な環境であっても、それを乗り越え、その環境をも変える自分自身をつくりゆくことができるのが、信仰の真髄と思っております。
 ―― まったくそのとおりですね。
 池田 それから、法華経「法師功徳品」に、まえにも申しあげた、「安楽にして福子を産まん」という経文があります。
 晩婚で、高齢出産であっても、立派な子を産み、立派な家庭を築いている女性は数多くいる。外見的な尺度で幸福は測れないものです。幸福は、統計ではない。(笑い)
 ゆえに、一切を転換しゆく、信仰の力があるということほど強いことはないと、私どもはいつも主張しているわけです。
 屋嘉比 若くして幸せそうな結婚をしても、そのまま幸福がつづくとはかぎらない場合もありますからね。
 池田 また、子供のないご夫婦もいる。しかし、いつも円満で、生きいきと活躍されている方々も多い。
 ―― たしかにそうですね。
 池田 大聖人の門下にも、池上という兄弟の弟夫婦は、子供がいなかったといわれています。その夫人に対し、あるとき大聖人はお手紙の中で、「御子どもはなし・よにせけんふつふつと・をはすると申され候こそなげかしく候へどもさりともとをぼしめし候へ」と激励されております。
 これは、子供がいないので、さびしく過ごしていらっしゃると聞きましたが、この信心を貫きとおせば、絶対に幸せになるのであるから、少しも嘆く必要はない。自分らしく、この一生を生きぬきなさい、と言われたと私は拝します。
 屋嘉比 本当に、細かなところへ心くばりをされておられる。これが大事なんですね。
6  人生を楽しむために生まれてきた
 ―― 適度なストレスがないと子供の知能も発達しない――とも聞いたことがありますが、屋嘉比さん、どうなんですか。
 屋嘉比 そういわれておりますね。動物社会でも、一人ぼっちで育てたものよりも、仲間も多く、変化に富む環境で育てたほうが、知能の発達もいいことがわかっています。
 ですから、一面ではストレスがあると、感受性や興奮性など生体の適応力が発達強化し、ダイナミックに恒常性を維持する能力が増大するのでしょう。まさに、それが「生」でもあるわけです。
 ―― 親の過保護は、子供にとってプラスにはならないということですね。
 池田 ところである統計調査には、人間の寿命も、適度な刺激が絶えずあるほうが長生きする、とはっきり出ているようですが。
 それとともに、なんらかの知識を常に吸収し、社会的活動に積極的にかかわっていく人のほうが、記憶力も落ちないとよく聞きますが。
 屋嘉比 これも医学的見地から立証されつつあります。
 とくに女性も、活動的な人のほうが記憶力が落ちないようです。
 ―― あるアンケート調査では、“マメに掃除する主婦は健康”とありました。(笑い)
 池田 屋嘉比さん、他にもストレスのいい解消法はありますか。(笑い)
 屋嘉比 これは人それぞれでしょうね。(笑い)
 ただ、フロイトは、「夢は願望の達成である」と言ってますね。
 大脳生理学の権威であった故・時実利彦博士は、人が睡眠中、夢を見ることは、「『新しい皮質』の眠りのすきに乗じて、『古い皮質』にひしめくもろもろの欲情が代償的に満足されている」(『生命の尊厳を求めて』みすず書房)と夢の効用を語っています。
 ―― しかし、同じ夢を見るなら、本当にいい夢を見たいものですね。(大笑い)
 屋嘉比 いずれにせよ、お酒や趣味などによる解消は一時的なものでしかないことは、私どもがよく経験するところです。根本的な解決はその人の生き方の問題であり、どんなに外界の変化やショックがあっても、希望や生きがいを見いだしていけるような人生の姿勢が大切になるわけです。
 ―― だからでしょうか。最近、サラリーマンも仕事以外の生きがいをもつべきだという、“二つの生き方論”が盛んにいわれますが。
 池田 よく聞きますね。ある評論家も言っていたが、これからの社会は、仕事だけでなく、自分自身を向上させる、もう一つの生き方が必要といわれる。
 しかしまた、その生き方の内容が何であるか、ということが問題になるでしょう。
 その意味で、最高に価値ある生き方を知りえた私どもは幸せです。
 ―― まったくそのとおりですね。
 池田 有名な法華経「如来寿量品」には、「衆生所遊楽」とあります。
 「所」とは「娑婆世界」であり、この現実社会のことです。
 つまり私どもは、この地球上に「遊楽」するためにきたというんでしょうか。生きていくことそれ自体が楽しい境涯とでもいうんでしょうか。生きて、生きて、生きぬいて、なんらかの自分なりの価値をつくっていくという意義にもとれましょうか。
 よく戸田先生が、「とにもかくにも、瞬間、瞬間の生きていく人生が楽しいことが、この『衆生所遊楽』の意義に通ずるかもしれない」と言われていた言葉が、私は忘れられません。
 屋嘉比 まったく人生の真髄を一言で述べられておりますね。
 池田 何回も申しあげますが、そのために、私どもがみずからを苦しめる宿命を打開しながら、永遠にわたる幸福境涯を築きゆく源泉として、大聖人は「御本尊」を御図顕くださったわけです。
 屋嘉比 なるほど。
 池田 また「遊楽」の「遊」の字には、いわゆる“遊ぶ”の意義のほかに、「ほしいまま」「心にかなう」、また「高く飛ぶ」「ひろがり」といった意義もあります。
 ―― 字音の「ユウ」には、水の波が進行するように、「前に進む」という意味があると聞いたことがありますが。
 池田 そうです。とともに「楽」とは、「楽法」ともいうがごとく「法」を楽(ねが)う、すなわち“願う”という意義もある。
 この“願う”の根本義とは、最高最善、無量無辺の崩れざる境涯を感得するために、御本尊に祈っていくことと私は思います。
 ですから「遊楽」とは、なんの障りもなき自在の生命の力といいましょうか。また、満足しきった広々とした境涯ということになりましょうか。
 むずかしい言い方になりますが、これを仏法上では「一念三千・自受用身」といいます。
 まあ、ここにも、御本仏としての別しての次元と、私ども信仰するものの総じての次元からとのとらえ方があるわけなんです。

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