Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第十二章 現代語のルーツ「法華経」  

「生命と仏法を語る」(池田大作全集第11)

前後
1  人間のための宗教
 ―― まず、前章のつづきである、「宗教」の意義からお願いできればと思いますが。
 屋嘉比 私もちょっと、うかがいたいことがあったのです。この「宗教」という意義について、ヨーロッパなんかでは、どうとらえられてきたのでしょうか。
 池田 英語の「宗教」(リリジョン)という言葉は、もともとはラテン語の“Religio^”が原語となっている。このラテン語は「畏怖」の念をさしていた、という学説があります。
 屋嘉比 すると、仏法上の「宗教」の意義とは異なるわけですか。
 その人間が抱く「畏怖」のなかでも、根本は「死」という問題なんでしょうね。
 池田 そう思います。
 ―― 英語の「宗教」の語源は、神と人間を「再び結びつける」ことだと、なにかで読んだ記憶がありますが。
 池田 一般的には、そういわれてきたようです。ただ、これはどうも、後代のキリスト教的解釈であるというのが、現在の通説となっているようです。
 屋嘉比 しかし、このヨーロッパの“神と人間の結合”という宗教観も、時代とともに変遷してきているようですが……。
 池田 ヨーロッパの宗教観は、どうやら近代になって、キリスト教神学から離れ、どんどん開かれ、深められていったようです。
 屋嘉比 だれか、そうしたことについて、はっきり指摘している人物はおりますか。
 池田 その有名な先駆者がカントでしょう。
 ―― カントこそ、独立した自由な人間を志向した、近代哲学の祖といわれますからね。
 屋嘉比 まえに先生が、カントは法華経の存在に注目していたと言われましたが。
 「宗教」について、たとえば、カントは、どんなことを言っておりますか。
 池田 有名な著作である『宗教論』のなかでは、彼は、「理性に対して無思慮に戦いを宣する宗教は、長くはそれに対抗し続けるわけにはいかない」というのです。
 つまり、真実の信仰というものは、理性を否定しない。また、そうでなくてはならないということでしょう。
 屋嘉比 ほかにもおりますか。
 池田 有名な言葉ですが、「信仰は理性の延長である」。これは、十九世紀のアメリカの作家ウィリアム・アダムスです。
 私は、青春時代、この言葉がたいへんに好きでした。
 ―― 私も好きです。初めは信仰と理性は別個のものと思っていたが、たしかに、このとおりですね。また、そうでなければならないと思います。
 池田 また、いわゆるマルクス、エンゲルスに最大の影響をあたえたといわれるドイツの哲学者、フォイエルバッハも有名ですね。
 彼の宗教観は、唯物史観を台頭させる引き金にもなっている。
 屋嘉比 たとえばどんな考え方がありますか。私は、そちらのほうはあまり強くないもので。(笑い)
 池田 たとえば、「人間が宗教の始めであり、人間が宗教の中心点であり、人間が宗教の終わりである」(『宗教の本質』)と、人間のための宗教という視点を打ち出している。
 仏法を基準としてみれば、たしかに正しいと私は思います。
 屋嘉比 当時としては、革命的な発言だったのでしょうね。
 池田 時代環境からいえば、そうなるでしょう。ですから私たちは幸せです。日蓮大聖人の教義、学会の理念というものは、人間から出発し、人間に帰着していることが最大の強みです。
 ―― 彼は人間を、神への服従者と位置づける宗教観から、解放しようとしたのでしょうね。
 屋嘉比 ヨーロッパはキリスト教の独壇場でしたからね。
 ―― 宗教ほど、わかったようでわからないものはない。宗教ほど、人を救うと同時に、人々を現実から遊離させ、盲目的にさせるものはない。であるけれども、宗教は存在する。
 池田 歴史的にみても、人間を軸にすえることによって、より柔軟な、より本質を突いたものの見方、価値観が展開されていったのは事実でしょう。
2  仏教は「唯心」「唯物」を超克
 屋嘉比 そこで、まえからうかがいたいと思っていたのですが、仏法は「唯物論」と「唯心論」をどうみますか。
 池田 大乗仏法の極理は、「唯心論」でもない。また、いわゆる「唯物論」でもありません。
 結論から言えば、そのどちらにも偏せず、両面を止揚し、「中道法性」という、生命の真実にして、不変の実相を明かしているということです。ただ、そうした次元にいたる過程では、当然、さまざまな価値観の展開をふまえているわけですが。
 詳しく論ずるには、時間がかかってしまいますので、これも結論から申しあげますと、小乗教においては、「物」と「心」の現象論が説かれております。
 また大乗教にも、「心法」を中心に立てる経典もあります。
 屋嘉比 重層的な法門の展開がなされているわけですね。
 池田 しかし、大乗仏教の真髄たる法華経に入ってからは、「色心不二」という生命の実相を明かしているわけです。
 ―― すると、「唯物論」は小乗教の部分観となりますか。
 池田 多くの場合、宗教は「唯心」中心であり、科学は「唯物」から出発していると思われてきた。
 しかし生命は、「唯物」でもなければ「唯心」でもない。「色心不二」が生命の実相である。
 要するに、偏った思想、哲学であっては、「生命」の全体観はとらえきれない。
 また、正しき人間観、社会観も確立できない。必ず行き詰まりがあるものです。
 それに対し、「中道一実」の妙法とは、生命を「一念三千」として完璧にとらえた「法」である。ゆえに、善の価値、幸の価値を無限につくりゆくことができると、私は思います。
 ―― トインビー博士も、“人類は自己を見つめ制御する知恵を獲得しなければならない。そのためには「中道」を歩む以外にない”と、名誉会長との対談で論じておりましたね。私はたいへんに印象的でした。
 そこで、こうした宗教観の変遷とともに、西欧の「生命観」も、大きく変化していったわけですが。
 池田 そうです。こうした、人間へ、生命へという、新しき時代の勢いを大きくとらえていった一人に、十八世紀のドイツの大文豪ゲーテがいるでしょう。
 屋嘉比 たとえば、彼はどんなことを……。
 池田 ゲーテは、「なぜ、人間こそ宇宙の究極目的だと考えてはいけないのか」(『形態学』)という鋭い問題提起をしている。
 屋嘉比 「神の意志」という大義名分から、ようやく解放された自由な人間の叫びが、私にも感じられますね。
 池田 そのとおりです。いわゆる近代西欧における生命観の淵源は、十七世紀のデカルトから始まったという説があります。さらにその後、唯物的な立場を徹底したラ・メトリー、ラボアジエなどがこれを受け継いでいます。
 これは人間を“動く機械”と同じような存在とみなす考え方です。
 ―― そうですね。しかし、これにはどうしても矛盾がある……。これらと対峙したのが、十九世紀末の生物学者、ハンス・ドリューシュの「新生気論」です。
 彼は、人間には“機械論”では説明しえない生命力があると考えたわけです。
 このへんは、池田先生の『生命を語る』に詳しく述べられていますので、省略させていただきますが、これらが出発点であったことは事実と思います。
 池田 まあ、むずかしくなるから、この論議はこのへんにさせていただきますが、やはり、十九世紀後半から二十世紀初頭にかけて新たな生命観の展開がなされております。
 屋嘉比 この時期、微生物研究草分けのパスツール、“生の飛翔”のベルクソン、深層心理学のフロイト、ユングが登場しています。
 池田 おもしろいことに、これは仏教がヨーロッパに影響を与えた時期と相前後しておりますね。このへんは、今後の興味深い研究課題のひとつと私は思っております。
3  現代科学も「生命」に接近
 ―― 現代科学の最高峰といわれるアインシュタインも、仏教に深い関心を示していましたね。
 池田 そう思います。彼の仏教観は有名です。彼は、「宇宙そのものの理性的構造に対する、なんという深い信仰」(『宇宙的宗教』)という次元を志向していたわけでしょう。
 ―― ただ、彼らと仏法の出合いは、まだ入口みたいなものだった。大乗教もあったが、いわゆる小乗教を中心とした“ロンドン仏教”の限界もあるのではないでしょうか。
 そうした事実に気づいていた人はおりますか。
 池田 大乗仏教に着眼したトインビー博士はその一人でしょう。
 屋嘉比 ほかにはだれか有名な……。
 池田 イギリスの世界的文明批評家、H・G・ウェルズもそういっていいと、私は思います。
 彼は、二十世紀に原子爆弾が出現することを予言したことでもよく知られている。
 ―― 日本でも全集が出ています。「E.T.」の映画を作ったアメリカの監督が、最近、彼の名著『タイム・マシン』を、再び映画化したようです。
 池田 じつは、このウェルズにも、「仏教論」があるんです。
 ―― それは知りませんでした。
 池田 私も最近知りました。さっそく英文を訳してもらいました。
 屋嘉比 学生のころ、ウェルズの『生命の科学』という論文を読んだことがありますが、仏教については彼は、どんな……。
 池田 たとえば、「世界が始まって以来、仏教が最も深遠な倫理であることはだれも異存がない。釈尊の滅後、その教えは、精密巧緻な思弁哲学になり、煩瑣哲学という安価な地上の電灯のために、肝心な釈尊の教えという星の光は、おおい消されてしまった」というような内容も、論じていたと思います。
 ―― 釈迦仏法を「星の光」にたとえるなんて、なかなか的を射ている。(笑い)
 池田 ともかく仏法は、「大乗」と「小乗」、「実教」と「権教」、「本門」と「迹門」、そして「下種」と「脱益」、「文底」と「文上」という相対の規範のうえから、厳密にみていくことが肝要であることだけは、申しあげておきたいですね。
 ―― わかります。
 屋嘉比 すると、法華経以外の経典は、完全に否定されるわけでしょうか。
 池田 いや、そうではありません。その点についても、明快に御文にあります。
 「所詮しょせん成仏の大綱を法華に之を説き其の余の網目は衆典に之を明す、法華の為の網目なるが故に法華の証文に之を引き用ゆ可きなり」と説かれているとおりです。
 「大綱」とは、根本、基本となるもの。「一切経の根本」という意義です。
 「網目」とは、いわゆる細事網目ということでしょう。妙楽大師はこれを、「円教(法華経)の行理骨目自ら成ず、皮膚毛綵衆典に出在せり」(『法華文句記』)と論じています。
 つまり、「生命」の全体観、「成仏」の法門は法華経である。文底から拝すれば、「事の一念三千」の法門である。
 こんどは、その文底の法華経からみれば、すべての衆典は、その法門の証明としての「序分」「流通分」となり、分々の理が明かされている、というわけです。
 屋嘉比 仏法は広い……。ある物理学者が言っていた。それは、“現代科学の進歩以前に、宗教の直観は「生命」の本質に関して、重要な点を洞察していた”と……。
 この学者は、とくに仏教について詳しく考察しておりました。
 池田 謙虚な言葉です。しかし、実感でしょうね。
4  あこがれの地「敦煌」
 ―― まったく話が前後して申しわけありませんが、世界初公開の「中国敦煌展」が開幕され、おめでとうございます。私は、まだ行っていませんけれど、この点について、ぜひ少々、おうかがいしたいのです。
 屋嘉比 本当に素晴らしいことです。私は初日に行ってきました(笑い)。本当に見ごたえある展示内容で感銘しました。
 池田 敦煌は、私にとっても、少年時代からのあこがれでした。
 屋嘉比さんは、実際に敦煌に行かれたことがあるんでしょう。
 屋嘉比 ええ、恥ずかしい話ですが、最初はよく知りませんでした。しかし、影響をうけて(笑い)、二年前に行きました。
 池田 どういう目的で……。
 屋嘉比 北京と蘭州の医学院視察団の一員としてです。
 池田 北京からどのくらいかかるんですか。
 屋嘉比 飛行機を乗り継いで、約七時間です。
 遠かったけれど、敦煌の空港に着いたときは、感動がこみあげて……。(笑い)
 池田 とくに印象に残ったことは……。
 屋嘉比 そうですね。たくさんありますが、私は医師ですから、莫高窟の一五八窟だったと思いますが、釈尊の涅槃像はたいへんに興味をもちました。
 池田 どんな像……。
 屋嘉比 その涅槃像の背景には、釈尊の死を悲しむ各国の王侯、貴族などの姿が描かれているわけです。ところが、そこにいる菩薩たちは泰然自若として描かれているのです。
 池田 それは有名ですね。
 屋嘉比 案内をしてくれた研究員の方に、「なぜ悲しんでいないのか」とたずねたところ、「菩薩は、永遠の生命を知っているからです」と説明してくれました。
 ―― ほかにもなにかありましたか。
 屋嘉比 じつは、敦煌の行く先々で中国の方々が、池田先生のことをご存じでした。
 「ぜひ一度、先生に敦煌に来ていただきたい」と話していました。
 ―― そういえば、日本の敦煌研究の権威といわれるある教授が、“敦煌に行っても、写経などはなかなか見せてもらえない。前代未聞といえる今回の敦煌展は、池田名誉会長と中国との強い信頼関係のひとつの証である”と語っておりましたね。
 池田 それは、どうも(笑い)。私のことはともかく(笑い)、なにかほかにもありますか。
 屋嘉比 敦煌へ行く途中の蘭州では、水虫がまったくないそうです。(笑い)
 どうも私はこういうことについ目がいってしまって……。(笑い)
 池田 水虫の人は多いですからね。(笑い)
 屋嘉比 この話は蘭州の医学院の教授が教えてくれました。その教授の説によると、蘭州は砂漠のオアシスで乾燥しているからだ、ということでした。
 風土と病気も大切な問題です。
 池田 水虫は世界各国にあるのですか。(笑い)
 屋嘉比 専門家によると、菌は、アジア、アフリカに分布するものと、欧米に分布するものがあるようです。
 この菌を中国では、人間が半分しか理解できないので、謙虚に「半知菌」と呼んできました。
 ところがヨーロッパでは、人間が解明できないようなものは、「不完全菌」であるといわれてきた。(笑い)
 ―― おもしろいもんですね。同じ水虫にも、東洋と西洋の見方がある。(笑い)
 屋嘉比 砂漠といえば、大砂丘の鳴沙山からは、地平線のかなたに広がるゴビ砂漠が一望できます。私はそこでラクダに乗ってみました。(笑い)
 池田 感想はどうでしたか。(笑い)
 屋嘉比 こわかったですね。揺れるんです。(笑い)
 大月氏のガンダーラから敦煌まで約三千キロ……。仏法伝来のため、昔の人々は険難の道をこうして越えて行った。
 仏法がいかに人々に重みをもっていたかと──、私は思いを馳せました。
 ―― そこで、敦煌は古来から、日本においても憧憬の地であった。
 それが身近に見られることは、夢のような気がします。
 屋嘉比 敦煌の壁画には、当時の医者の姿が描かれているものもあるんですね。
 池田 そうなんです。屋嘉比さんが興味をもたれたのは、「諸徳福田経」という経文を描いた風俗絵巻になるでしょうね。
 横になった病人を、一生懸命に介抱する医者。また、弱ったラクダに薬をあげている獣医など、当時がしのばれる壁画なんですね。
 ―― 私もアフガニスタンの砂漠の村々で、いまの壁画そのままの姿を、目にしたことがあります。
 池田 それは素晴らしい体験でしたね。
 ともかく敦煌は、仏法東漸の中継地として有名です。
 私ども仏法者にとっても、たいへんに興味をひきます。
 ―― まだいくつもの街が埋まっていると、なにかで読みましたが。
 池田 そうです。まだまだ、埋まっていることは事実のようです。これから発掘し、研究していけば、たいへんなことです。おおげさに言えば、歴史を一変させるほどの発見も期待できるような気がします。
 屋嘉比 まったく、敦煌にはたくさんのロマンがありますね。
 池田 そのとおりです。
 屋嘉比 そこで先生、一言で言って、敦煌をどうとらえておけばいいのでしょうか。
 池田 詳しいことは、『敦煌を語る』(角川書店刊)をお読みいただきたいと思います。(大笑い)
 インドで誕生した仏法の正統が、西域をへて中国へ、朝鮮へ、そして日本へと伝来した事実を明確に示す仏教遺跡ということになる。
 またそこに、あの「大きく(敦)輝く(煌)」人間文化が興隆したという事実を、見逃してはならないでしょう。
 屋嘉比 仏法の正統とは、法華経を中心とした流れととらえてよろしいのですか。
 池田 そう思います。
 今回も、有名な莫高窟から発見された、古代法華経の写本が三十五点ほど、出品されている。それらを見ても、古来、大乗仏教が仏法東漸の主流であり、法華経が最勝経として人々の間にいきわたり、いかに尊重されていたかが、私はよくわかります。
 屋嘉比 今回の招来品も、法華経から題材をとったものが、じつに多いですね。
 池田 そうです。いわゆるシルクロードの文化はもちろんと思いますが、当時の、ギリシャやローマなどの世界文明にも、滔々たる法華経信仰の潮流が押し寄せていったように思えてならないんです。
 屋嘉比 日蓮大聖人が、シルクロードについて、なにか述べられたものはございますか。
 池田 あります。「シルクロード」とは、ドイツの地理学者が命名したもので、古くは「西域」とよばれていました。
 そこで大聖人は、漢の時代からの西域にまつわる故事を、しばしば御書に引かれております。
 これらの故事は、孫悟空の物語でも有名な玄奘三蔵の『大唐西域記』にもある。また、この西域を探検した班超の兄である班固の『漢書』、さらに司馬遷の『史記』にも記録されておりますね。
 屋嘉比 わかりました。
 池田 ですから大聖人が、そうした書物を通じて、遙か東西文明の接点となった仏法揺籃の地について、たいへんに関心をもたれていたことが、私にはうかがえるのです。
5  大英博物館で「ブッダ展」
 ―― そこで、ちょっと紹介したい話があるんですが、よろしいでしょうか。(笑い)
 池田 どうぞ、どうぞ。(笑い)
 ―― じつは先日、友人のジャーナリストが、いま、ロンドンの大英博物館で開かれている「ブッダ展」を見に行き、その内容を電話してきてくれました。
 屋嘉比 たしかにニューサイエンスにもみられるように、仏教は世界的に関心が高まっておりますね。
 ―― この展覧会の特徴は、大英博物館の所蔵品を中心に、仏法の流れがよくわかるように構成されているそうです。
 池田 大英博物館には世界中の文化財が収められている。なかなか充実した展示になっているのでしょうね。
 ―― 注目すべきは、仏法も時代が経つにつれ、法華経に関係した流れに集約された構成になっているそうです。
 池田 具体的にはどんな……。
 ―― たとえば、展示の終わりのほうには、鎌倉時代の仏法が考証されています。
 それについて大英博物館が解説した文章は、“現代においては、宗教グループである創価学会によって、受け継がれ広められている”というような趣旨であったそうです。
 池田 そうですか。その「ブッダ展」については、私どもはなにも関係しておりませんが……。
 屋嘉比 すると、仏法志向というものは、世界的に広がっているともいえるわけですね。
 それについても、その歴史的淵源はどういう流れになっておりますか。
 池田 時間がかかるので、若干飛躍的になると思いますが……。十九世紀に、法華経が、フランス語に翻訳されております。いまから約百三十年前になるでしょう。
 ―― 幕末のころです。
 池田 そうなりますか。
 ヨーロッパでは、ルイ・ナポレオンの時代でしょう。
 ―― たくさんの仏典のなかから、法華経を選び出したのは、ビュルヌフという教授です。
 池田 たしかその教授は、コレージュ・ド・フランスで梵語の講座を担当していたのではないでしょうか。
 屋嘉比 コレージュ・ド・フランスは私も知っています。いまでも権威あるアカデミーのひとつです。
 池田 教授は、法華経を読みこんで、その真理の深い洞察に驚嘆したようですね。
 よく、「驚きは哲学のはじめなり」というが、教授は、驚いたその心の響きをもちながら、すぐ翻訳にとりかかったという話がありますね。
 ―― 素晴らしい心の出発だ。
 屋嘉比 いや、その心境は学者としてわかります。
 池田 そこで教授は、法華経の翻訳のために下準備を始める。具体的には、他の数多くの仏典を一つひとつ通読し、その内容をつかみ、その筋道を把握しながら、各仏典の精髄を抜き出す作業から進めたようです。
 その労苦は、有名な『インド仏教史序説』に結晶されている。
 屋嘉比 大学者のもつ基本です。
 それから何年後に、法華経の全訳は完成しておりますか。
 池田 七年後になります。教授の訳した「妙法蓮華経」(Lotus de la Bonne Loi)が、当時の欧米にあたえた影響は計り知れないものがあったようだ。
 また、そうした教授の厳しき研鑚の姿を見て、すぐれた弟子が巣立っていったようですね。
 屋嘉比 たとえばどんな人物が……。
 池田 有名なオックスフォード大学の梵語学の大権威者といわれた、マックス・ミュラー博士などはその一人です。
 屋嘉比 法華経の翻訳の影響は、どんなだったのでしょうか。
 池田 まあ、いろいろあるようです。たとえば、このフランス語訳は、その後、英訳され、ドイツ語訳されていることからもおわかりいただけると思います。
 当時のヨーロッパにおける、仏法志向のひとつの例として、おもしろいエピソードがあります。それは、法華経が翻訳された約二十年後に、明治政府の遣欧使節(明治四年)として、岩倉具視がイギリスに行っている。
 彼は、そのお土産として「一切経」を持参し、大歓迎されている。
 屋嘉比 驚きです。たいへんなエピソードです。初めて知りました。
 池田 そうです。ところが、そのころの日本は、廃仏毀釈で仏教弾圧事件がつづいていたわけです。
 ―― それらは一部の国学者などが、政治と結託しておこした運動なんですね。しかし当時の仏教界も、幕府の庇護や特権をあたえられ、ずいぶん堕落していたのも歴史的事実だったようです。
 池田 たしかにそうした面もあった。だが、岩倉のような維新の元勲が、それらに付和雷同せず、時代の流れと物事に対する本質を見失わなかったことが、いまでもうれしいと私は思っている。
 ―― なにかで読んだのですが、徳川家の菩提所である芝の増上寺は、廃仏毀釈の運動がおこるとすかさず門前に鳥居を立て、本尊をわきにずらして神鏡を置いたそうです。(笑い)
 屋嘉比 いつの時代でも、毀誉褒貶にとらわれるものは信念なく、見境がないもんですね。
 ―― いまの時代も、あちらこちらにありますね。(笑い)
6  「法華経」を志向した明治の文人
 屋嘉比 日本ではどういう人々が、法華経を志向していますか。
 池田 有名なのは宮沢賢治でしょう。
 しかし賢治は、むしろ石川啄木が法華経に傾倒した影響をうけたような面もあるようです。
 啄木にも、青春のさすらいのなかで、「真の宗教とは何か」、また「信仰とは何か」を考え、苦しんだ時期がありましたね。
 屋嘉比 私はあまり文学は得意ではないのですが、賢治は有名ですね。啄木のことは、知りませんでした。
 池田 啄木は、友人たちにも、「法華経を読み給え」と説得までした文が残っていたと、記憶している。
 しかし、法華経といっても、彼らの場合はいわゆる「文上」の法華経である。
 何回も申しあげたとおり、仏法上、「文底秘沈」の法華経と優劣があることを前提とさせてください。
 屋嘉比 よくわかります。しかし、法華経までいくということは、思想遍歴として偉いと思います。
 池田 彼の場合は、とくに「一念三千」論に触れ、驚嘆したようです。
 直接的にはまあ、高山樗牛の影響をうけたのではないかと、私は考えています。
 屋嘉比 なにか石川啄木のなかで、宗教に関して書いた文がありますか。
 池田 「真の宗教とは、説教や教論の意味ではなくて、その人の人格に体現せられたる表示の謂である」(『啄木全集』第七巻、筑摩書房)といった文があったようです。
 屋嘉比 まだなにか記憶にある文がありますか。
 池田 「宇宙の中に我の遍満するを見、若しくは我の中に宇宙の呼吸を聞きて、人と宇宙の融合する境地、之れを信仰とは云ふ」(『啄木全集』第四巻、筑摩書房)というような文章もありました。
 屋嘉比 おもしろいですね。ちょっとヨーロッパの学者からみれば小型ですが。(笑い)
 池田 最近は、石川啄木を読む若い人も、少なくなったようですね。
 ―― 高山樗牛の法華経研究は有名ですが。
 池田 そうですね。戦後すぐのころ、私も神田の古本屋で、『樗牛全集』を安く手に入れた思い出があります。
 屋嘉比 私は名前ぐらいしか知りませんが……。
 池田 当時は一世を風靡した感があったね。いまの人は、もう読まなくなったのでしょうね。
 ―― 文庫本にも、たしか『滝口入道』ぐらいしか入っていないと思います。
 屋嘉比 樗牛は、若くして死んだのではないでしょうか。
 池田 たしか三十一歳でしたね。たいへんな勉強家であったようです。彼の生涯を彗星のごとき一生であったと評する学者もおります。
 私の恩師である戸田第二代会長は、よく私に「樗牛のように、書いて書いて書きまくれ」と厳しく言われたことを、いまもって覚えております。
 しかし、戸田先生は、彼の生命観は、“人が偉大な仕事をする。その偉大な仕事は後世にも残る。その後世に残した偉大な仕事に自分は生きている”というところまでしか言えなかった。法華経に説かれた究極の「法」、すなわち永遠の生命の実相には、ついに迫ることはできなかったと、よく話されていた。
 そこがじつはむずかしいのです。
 ―― 樗牛の友人であった姉崎嘲風(正治)博士も、日蓮研究の先駆者の一人ではないでしょうか。
 池田 姉崎博士は、樗牛の影響でしょう。
 博士は「日本宗教学会」を創設したことで知られている。
 ―― 博士の学問のバックボーンは、日蓮大聖人の御書を綿密に研究したところにあると、読んだことがありますが。
 池田 私も聞いたことがあります。いまから約七十年ほど前、博士は、アメリカのハーバード大学から招聘されている。
 そのとき、日本文化の講座で、そのへんについて講義したようですが。
 ―― 博士は、その講義を『日蓮伝』(Nichiren,the Buddhist Prophet)と題し、英文でハーバード大学から出版していますね。
 池田 博士については、このくらいでどうですか。
 私は、こうした学術的な仏法への志向も大切であると思いますが……。
 しかし、もっともっと大切なことは、法華経「法師功徳品」に「於大衆中(中略)説是法華経」(大衆の中に於いて……是の法華経を説かん)とある。
 その意義からいうならば、厳しきドロドロとした現実社会、生活のなかに、この法華経を説き、広めていくことは最大に重要であり、誇りとすべきでしょう。
 ―― そこでいわゆる、日本の古代においても、法華経の影響があったことは、歴史的事実のようです。
 たとえば、『古事記』『万葉集』『源氏物語』等も、たいへんに法華経の影響があったととらえられていますが。
 池田 そう思います。たしかに、著名な古典文学に対する法華経の影響は大きい。
 法華経が、幾重にも、文化の層をつくったことも、これまた事実でしょう。
 ―― 「能」や「狂言」なんかにも、法華経の影響があるという説もありますが。
 池田 よくわかりませんが、文上の法華経の「七譬」なんかが入っていることは事実です。
 ―― いわゆる有名な後白河法皇が選んだ『梁塵秘抄』なんかは、法華経の影響があると聞いたことがあります。
 池田 私はよくわかりません。ただ、『梁塵秘抄』は、日本の童謡や謡の原型ではないかといわれております。
 屋嘉比 これは……、『梁塵秘抄』は、受験のときに勉強したんですよ。(笑い)
 ここで話が出るとは驚きました。(大笑い)
 池田 その『梁塵秘抄』は、平安時代、広く貴族、さらに庶民の間で歌われていたものを、後白河法皇が選し、収録したものといわれている。そのなかに「法華経二十八品歌」と名づけられた百十五首の歌があるともいわれてきています。あまり、突っこんで意識したことはありませんが。
7  日常化している仏教用語
 ―― 文上、文相とはいえ、調べれば調べるほど、聞けば聞くほど、この法華経の影響は大きいような気がします。
 池田 それは、確かです。文上においても、時代とともに、それなりの影響があった。いわんや、文底の法華経の全世界に対する影響が、どれほど大きいかは確信できますね。
 屋嘉比 医学に関してありますか。
 池田 屋嘉比さんは医学博士ですが、「医」という言葉や、また「患者」の「患」という言葉も、もともと仏教用語という学者もおります。これは法華経「寿量品」にもあります。
 屋嘉比 すると「薬」は……。
 池田 それこそ有名な法華経「寿量品」の「此薬」「良薬」とあるとおりです。
 また、「病」も「救護」もみな、「寿量品」にあります。
 ―― たしか『広辞苑』を編まれた新村出博士が、その出典を法華経に求められている言葉として、考証しています。
 池田 それは知りませんでした。
 ただ、日常なにげなく使っている言葉が、ずいぶん経典にあることは確かです。
 屋嘉比 どんな言葉がありますか。
 池田 よく使われている、「疾病」「代謝」「人民」「国民」「大衆」「自由」「頂戴」「迷惑」「根性」「意識」は、法華経の開経である「無量義経」にあります。
 「見聞」とか「演説」という言葉は、法華経の「序品」にあります。
 「平等」「我慢」「正直」「一大事」は、私どもと関係の深い、法華経の「方便品」にあります(笑い)。「人間」とか「娯楽」とか「宣伝」とか「堕落」は、「譬喩品」にあります。
 屋嘉比 多いですね。
 池田 「大志」「志願」「宣言」「財産」「計算」は「信解品」。
 「道楽」「差別」は、「薬草喩品」にあります。
 また、「親友」「言論」という言葉は「五百弟子受記品」。
 「過失」「嫉妬」は「安楽行品」。
 「世間」「出世」「寿命」「一心」は、さきほどの「寿量品」にあります。
 「重病」は「普賢品」。「機関」は、法華経の結経である「普賢経」にあります。
 まだまだありますが、また、いつかの機会に……。(笑い)
 屋嘉比 いやよくわかりました。たいへんなものですね。
 ところで、そうした言葉の意味は、いま、使われている意味と同じだったのですか。
 池田 ほとんど同じでしょう。多少、その真意とニュアンスが違う場合もあるようです。
 たとえば、「大衆」という言葉は仏法上、国王であろうが、庶民であろうが、万人万物すべて平等である、という意義になります。
 また、「道楽」とは、現代の意味とは違い、仏道修行のなかから生まれた喜び、楽しみを意味しております。
 屋嘉比 言葉というものは、時代の流れとともに、意味も変わることは当然でしょう。
 ―― フランスの哲学者アランが、「言葉は社会の子供である」と言っていますが。
 池田 そうです。言葉は、社会と融合したところから生まれる。そして広く、万人に使われ、伝えられていくものですね。
 ですから、仏典の用語がこれほど日常化していることをみても、いかに法華経が人々の生活や心に入っていったかがうかがえる、と私は強く思っております。
 屋嘉比 たしか、ガリレオだったと思いますが、「最初に事物が存在し、言葉はその後に従うものだ」と言っていたと思いますが……。
 池田 それは有名な言葉ですね。科学者としての実証精神をあらわしたものでしょう。
 ですから、法華経の文々句々も、生活の実感や日々の行動のなかで、納得性が生まれていったのではないかと、私はいつも考えております。
 屋嘉比 そうでしょうね。私にも、よくわかります。
 日蓮大聖人は、「言葉」については、どう説かれておりますか。
 池田 いくつかの御文があります。
 なかでも、「総勘文抄」では、「ことばと云うは心の思いを響かして声を顕すを云うなり」とあります。
 私は、この一節を拝するたびに、どれほど私どもの日常の「言語」「音声」が、大切な「心」の発露となっていることか。またその「心」、ひいては「一念」をどうもつかが重要かと感じます。
 ―― たしかに言葉というのは大切ですね。人によっては地獄の声のような人もいたり(笑い)、春風のような爽やかな、生きいきとした声であり行動でありたいものです。私なんか反省ばかりですが。(大笑い)
 屋嘉比 短い言葉のなかに深い真理を突いた一節と思います。その他にもございますか。
 池田 「書は言を尽さず言は心を尽さず事事見参の時を期せん」と、より意思の疎通をはかり、万事をつまびらかにするには、直接の交流対話がいかに重要であるかも、説かれているんです。
 屋嘉比 よくわかります。次元は違いますが、医者も問診が大事です。
8  最先端の学問を修学された大聖人
 ―― ところで、これもいつかおうかがいしたいと思っていたのですが、大聖人の御書には、いたる個所で、当時の学問上の文献を引用されていますが……。
 池田 大聖人が、当時の最先端の学問を修学されたことは、歴史的にも、よく知られるところです。
 また、御文にも、「鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国国・寺寺あらあら習い回り候し程に」と、そのご様子を述べておられる。
 ―― これは有名な史実ですね。当時は、いまのような印刷技術も発達していなかった。各地の寺院を訪ねて、古今の蔵書を閲覧する以外なかったわけでしょう。
 池田 当時の名刹・古刹といわれた寺院は、いまの大学のような役割を果たしておりましたからね。大聖人は、貴重な文献は、書写もされているようです。
 屋嘉比 どんな書物を読まれていたのでしょうか。
 池田 ひとつの例を申しあげると、佐渡の地で、「外典書の貞観政要すべて外典の物語八宗の相伝等此等がなくしては」とおっしゃっておられる。
 ―― 『貞観政要』は、当時の指導者が読んだ、中国の政治書であり、歴史書です。
 屋嘉比 ほかには具体的には、どんな……。
 池田 いま、思いつくものだけでも、御書に引用されているものでは、『孝経』『春秋左氏伝』『易経』『史記』などもありますね。
 屋嘉比 『史記』は読んだことがありますが、あとは馴染みのない書名ばかりです。(笑い)
 ―― いや、私も専門的な文献のように思います。
 屋嘉比 ほかにもございますか。
 池田 出典は明記されておりませんが、その文献をふまえておられると推察されるものをあげれば、たいへんな数になるでしょう。
 屋嘉比 たとえば……。
 池田 私がちょっと調べてもらっただけでも、『論語』『韓詩外伝』『文選』『尚書』『周礼』『礼記』『漢書』『後漢書』『唐書』『中記』『列子』『韓非子』『淮南子』『牟子』『神僊伝』『老子』『荘子』『晋書』『孔子家語』『礼記集説』『顔氏家訓』『荀子』『孫子』『管子』などがあります。
 まだまだあると思いますが、いま、全部は思い出せませんので、ご了承ください。(笑い)
 屋嘉比 壮観です。当時は、中国の文献が、いまでいう貴重な学問書だったのでしょうね。
 池田 そう思います。万般の哲学、道理、そして現実の社会の動向をいかに大聖人が重視されたか。そのひとつの証左と私は推察します。
 ―― 日寛上人の著作にも『徒然草』『水戸光圀』、また中国の『白楽天』などを引かれた個所がありますね。
 池田 「仏法は道理」です。秀でたものとは、不思議に相通ずるんです。
 それにつけても、私が青年時代に読んだ、第六十五世日淳上人の論文のなかに、たいへんに思索しなくてはならないお言葉があった。
 それは、「宗教が一切世間を対象とするといふのは生命そのものを対象とするが故である。(中略)『寿量品なくしては一切経徒事なるべし根なき草は久しからず』と仰せられしは、強ちに一切経のみに区切られたことではない。ありとあらゆる教法も学問も此のうちに包含さるべきである。世人は従来の偏見を捨て宗教を見なほす必要がある」(『日淳上人全集』上巻)という一節でした。
 これこそ、仏法の宗教観の真髄のうえからのお言葉と、私は思ってきた。
 屋嘉比 それこそいわゆる「宗教」と「学問」、また「宗教」と「科学」の明確なる位置づけのうえからも、仏法で説く「宗教」が“根本”という意義であるということが私にも納得できます。

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