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日蓮大聖人・池田大作

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第十章 「生命」と「環境」を考える  

「生命と仏法を語る」(池田大作全集第11)

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1  環境世界と人体の関係
 池田 それにしても暑い日がつづきますね。東大病院は、夏休みがあるんですか。(笑い)
 屋嘉比 ええ、交代で休みます。ただ例年、この時期は研究会がいくつかあります。そのための実験もあり、休暇はなかなかとれません。(笑い)
 池田 診療は毎日されるんですか。
 屋嘉比 一週間のうち、だいたい三日は、外来や入院している患者さんを診ます。
 池田 その他の日は、何をするんですか。
 屋嘉比 レントゲンや、内視鏡検査(胃カメラなど)を担当し、臨床検討会をやっています。
 池田 夜中でも、病院に呼ばれることはありますか。
 屋嘉比 担当している患者さんに急変があった場合、自分の車で駆けつけます。
 池田 たいへんですね。すると、その合間に、研究の時間を見つけるわけですか。
 屋嘉比 そうです。私はおもに、胃酸が分泌されるメカニズムの解明に取り組んでいます。
 池田 どういう実験をするんですか。
 屋嘉比 試験管の中で、胃の細胞を培養し、いろいろな実験を繰りかえします。
 池田 根気がいるんでしょうね。
 屋嘉比 ええ。失敗の連続ですから(笑い)、ヘタをすると、自分の胃がやられます。(笑い)
 池田 まえにも、人間の心と身体は密接不可分である、というお話をされておりましたね。
 屋嘉比 おっしゃるとおりです。
 池田 それと環境の問題も、たいへんに関連性があるようですが。
 屋嘉比 当然あると思います。ですから、天候や季節、また社会環境などが人体におよぼす影響もいろいろと研究されています。
 池田 そうでしょうね。そこでまず、この章では、環境世界と人体の関係を、医学ではどうとらえているか、ということから入りたいと思うのですが。
 屋嘉比 たいへんに重要な問題です。
 ただ結論して言えることは、これも密接不可分という考え方が確立しつつあることです。
 ―― 「気象医学」という分野もあると聞いたことがありますが、その点どうでしょうか。
 屋嘉比 ええ、すでに九州大学の研究所には、「気候内科」ができています。
 池田 よく新聞の天気予報のコラムにもありますね。
 「曇天の日が多いと、紫外線の刺激が少なくなり、気分がめいる」とか(笑い)、「低気圧が近づいてくると、傷痕がとくに痛む」といった記事を見かけますが。
 屋嘉比 これは医学的にも事実です。
 池田 外国ではどうですか。
 屋嘉比 とくに西ドイツでは、その日の気象と病気の関係を、毎日、天気予報のようにラジオで放送している地域もあります。
 池田 具体的には、どんな……。
 屋嘉比 「不安定な気圧の谷が近づいており、心臓、循環器系の障害がいちじるしく増加するから気をつけるように」とか、「気圧配置は北東風型で、冷却力のある乾燥した冷たい空気となるので、ぜんそくや偏頭痛の人は気をつけるように」といった内容です。
 これを「医学気象予報」といいます。
 池田 すると、転地療法の意義もわかりますね。これは、かなり具体的に進んでいく分野ではないでしょうか。
 屋嘉比 そう思います。
 池田 人間が生きぬいていくうえで、どれほど外界と微妙な関係になっていることが重要か。私なども、気象の変化が敏感に影響するのを、いつも体験してきた身ですから。
 季節的変化はどうですか。
 屋嘉比 たとえば、ぜんそくは秋が最も悪い。リューマチは、夏が少なく、冬が最も悪いようです。あるデータによれば、リューマチ患者の七四パーセントは季節の影響がある、といっておりますね。
 池田 では、季節の変化は、人間の心にも影響を与えるかどうか。
 屋嘉比 あると思います。ひとつの例として、十九世紀のフランスのエスキュロールという精神科医のデータがあります。それによると、入院患者の数は春に上昇し、初夏に最高になる。そして、その後は減少するとなっています。
 この点に関しては、他のヨーロッパ各国や、日本でも同様の報告がなされております。
 池田 これは多少極端な例でしょうが、一般的にも、なんらかの影響性があるということは否定できないと思います。
 屋嘉比 常人でも、気温が下がると、体内のアドレナリンの分泌が増加し、機嫌が悪くなる人がいます。(笑い)
 池田 アドレナリンというのはよく聞きますが、自律神経を興奮させるホルモンと考えていいのですか。
 屋嘉比 専門的には言い方がありますが、けっこうだと思います。
 池田 そこで、森林浴は健康によいだけでなく、頭の働きをよくするというのは本当ですか。(笑い)
 屋嘉比 そういわれています。樹木は「フィトンチッド」という微小の物質を空中に発散します。
 これを人間が吸うと、神経の活動が活発化し、脳の反射が速くなる、といわれております。
 池田 仏法では、いわゆる草木等を「非情」と説きますが、この「非情」と「有情」である人間との連関性も、医学の重要なテーマのひとつではないでしょうか。
 屋嘉比 そう思います。
 池田 これは屋嘉比さんの専門の分野と思いますが、日本人は一般的に胃ガンが多い。大腸ガンは少ないといわれている。ところが、アメリカに移住した日系人は、二世、三世、四世となるにつれ大腸ガンが多くなり、胃ガンは減少すると聞いていますが。
 屋嘉比 そのようです。先日、レーガン大統領が手術して話題になりましたが、アメリカ人は日本人と反対で、大腸ガンが多いそうです。
 これはおもに食事内容が原因と思いますが、環境による違いは、たしかにあると思います。
 ―― よく旅行すると、便秘になりやすいといいますが。(笑い)
 屋嘉比 いや、それは慣れないところに行くと、交感神経が緊張し、胃腸の運動を抑えるからです。帰宅すれば大半は自然に治ります。(笑い)
 池田 これらはほんの一例でしょうが、人間の「生命」と「環境」との関連性のバランスは、まったく微妙ですね。
 屋嘉比 同感です。アメリカのクッシングという有名な医学者は、「医師は、人間を、その人の世界のなかでとらえて認識しなければならない」と言っております。
 ですから私は、仏法で説く「依正不二」の法理をぜひ一度、池田先生におうかがいしたいと思っておりました。
 池田 いや、これはわかったような、わからないような、あまりにも深くして、広がりのある論議になるので、困っているんです。(笑い)
 ―― しかし、この対談の流れでもありますし、あるていどの次元まででけっこうですので、お願いします。
 池田 よくわかっています(笑い)。たいへんに深遠な仏法哲理の範疇となりますもので、ほんの常識的なところから論じさせていただきます。
2  仏法が説く「依報」と「正報」
 屋嘉比 まず「依正」とはどういうことですか。
 池田 「依」とは「依報」、「正」とは「正報」ということです。
 この「正報」とは、人間のような、生命活動を営む“主体”。
 「依報」とは、それがよりどころとする環境としての“客体”といえると思います。
 これが「不二」つまり、「二にして不二」という一体性の関連にある、ということです。
 ともかく仏法では、「不二」論ということが特徴なんです。
 これは他の西洋哲学とか、近代の思想には少ない。どちらかといえば、精神と肉体、人間と自然といった“主体”と“客体”を分離する構造であった。
 そこにやはり、現代の行き詰まりの根本的な問題がある、と私はいつもみております。
 屋嘉比 仏法の「不二」という概念は現実を厳しく凝視し、なおかつ広がりのある考え方というのがよくわかります。
 池田 たとえば「依正」が「不二」であるとか、「色心」が「不二」であるとか、さらに「仏と衆生」が「二にして不二、不二にして二」という、生命の本源的関連性をとらえたのが仏法なんです。
 ですから、いちおうは別々であるが、その究極の次元において両者は一体である、という意義になると思います。
 屋嘉比 肉体と心も、たしかに別々であるけれども、絶対的ともいえる連関性は否定できませんからね。
 ―― 「依報」「正報」の「報」とはどういうことでしょうか。
 池田 一般的には「報」という字は、「罪人を裁く」という字義がある。
 「報」の字の象形は“ひざまずいた人が、後ろで手かせをはめられた姿”です。
 ですから絶対的服従性とか、逃れることができないもようを象徴していると思います。
 ここから「むくいる」という意義も出てきたのでしょう。
 屋嘉比 すると、仏法では……。
 池田 仏法のうえでは、生命の瞬間の全体像を、法華経の方便品で「十如是」(如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等)と説いている。そのなかの、「如是報」の「報」が、「依報」「正報」の「報」となるわけです。
 屋嘉比 より深い、広義からの生命のとらえ方となるわけですね。
 池田 要するに、生命全体の働きに即し、姿・形にことごとくあらわれる結果を「報」というわけです。
 屋嘉比 なにか御書には、「依正不二」論について説かれておりますか。
 池田 あります。そのひとつとして、「夫十方は依報なり・衆生は正報なり譬へば依報は影のごとし正報は体のごとし・身なくば影なし正報なくば依報なし・又正報をば依報をもつて此れをつく」とあります。
 屋嘉比 すると、この御文は、「主体と客体」、「人間と環境」の関係は、あくまで影が身に添うがごとく、人間があっての環境世界となりますか。
 池田 結論すればそうなります。
 また、それであって「正報をば依報をもつて此れをつくる」である。
 これは、われわれの身体の例をとってみても、よくわかることです。
 この自分自身を、ひとつの「正報」ととらえた場合には、それに相対する事象はことごとく別々のようであるが、関連性、一体性という面からみると、「而二不二」ということになります。好むと好まざるとにかかわらず、否応なしに、相互の影響性は必ずあるものです。
 屋嘉比 いや、たしかにそうですね。
 「不二」というのは、一言にして、鋭く真理を突いた表現と思います。
 池田 一個のわが生命体だけをとらえた場合、「正報」は「一念」である。
 肉体である個々の細胞や分子の働きは「依報」となり、これも「不二」の関係になります。
 屋嘉比 たしかに個々の細胞や分子の働きをいくら組み合わせても、一個の人間としての働きはできませんからね。
 池田 ですから、主体である生命それ自体がもつ発動力というか、発現力というものに触発されながら、客体である細胞や分子が、調和された統合体として、生きいきと活動を持続している、ともいえるのではないでしょうか。
 屋嘉比 まったく、そのとおりです。医学的にみても、生きているとは、この相互の強い関連性の、絶えまなき繰りかえしの状態をさします。
 あくまで、人間なら人間という生命の主体が軸となって「生命環境」がある、ということが私はうなずけます。
 池田 さらに、人間の細胞を見たときも、六十兆ともいわれる細胞が集まり、組織体として、秩序ある運動を維持している。
 それであってせんじつめれば、別々の独立したものともとらえられる。
 屋嘉比 一個の細胞だけでも、産業複合体のようなものです。(笑い)
 池田 また、数えることもできないほどのわれわれの身体の分子は、その働きだけをとってみても、一つひとつが完璧に近いほどの、不思議な関連性を相互におよぼしている。
 その分子も、一つひとつ、別個のものである。
 この小さな世界にあっても、「依正不二」の姿がわかるものです。
 屋嘉比 そうなんです。
 池田 つまり、生命は「依正不二」で初めてとらえられるものである。
 ですからこんどは、自分自身の生命を「正報」とした場合に、「依報」であるすべての外的環境との関連においても、やはり「不二」的に広がっていくわけです。
 ひとつの例として……。
 青空であれば、さわやかになる。
 美しいものを見れば、心はなごむ。
 ウグイスが鳴けば、春の訪れを知る。
 小川のせせらぎを聞くと、平和を感じる。
 一家がなごやかであれば、幸せである。
 これは万人に共通の理でしょう。
 ―― 反対の場合も多い……。
 池田 そのとおりです。
 灰色の空であれば、心は重い。
 家庭が不和であれば、心は暗く閉ざされる。
 嵐や火事などになれば、修羅である。
 戦争であれば、地獄の「正報」となる。
 ですから、よい意味での「依報」である環境は万般にわたり大事となる。
 実りある環境であれば、生命は美しく輝くんです。
 屋嘉比 まったく同感です。
 池田 刹那、刹那、生命というものは「依正不二」として変化していく。この関連性は、一生涯つづいていくものである。多少、飛躍した論議かもしれませんが。
 屋嘉比 いや、わかります。健康という問題も、常に環境からの挑戦に適応できるかどうかである、ともいえますからね。
 池田 教育においても、青少年の非行化を防ぐために、「依報」はたいへんに重要な力である。ですから、哲学的にもこの環境論をどうとらえるか、ということが重視されなければならないでしょう。
 屋嘉比 これは大切な問題です。
 池田 要するに私どもの生命は、社会との関連もある。自然との関連もある。また当然、対人間との関連もある。避けようのない現実の職場にも、また生活にも、さらにすべての環境にも関連性があるわけです。
 それを現実的に把握し、いかによき方向にもっていくかが、信仰の本義なのです。
3  宇宙の運行も「わが身」に関連
 屋嘉比 たしかに現代の学問も、環境医学とか、科学の総合化とか、個々のものを、もういちど全体から巨視的にとらえることが志向されています。
 ―― そうですね。もはや、これは時代の趨勢です。
 屋嘉比 すると「依正不二」というのは、分子や細胞などのミクロの世界とともに、マクロの世界にも無限大に広がっていくことになりますか。
 池田 そのとおりです。宇宙大の連関性と無限大の広がりをもった法理です。
 そのひとつの証左として、あえて申しあげれば、有名な医学者のなかにも“地球の公転や月齢といった宇宙の運行が、人間の脳のある働きと関連する”と言う人がおりますね。
 屋嘉比 ええ。先月、東京医科歯科大の角田教授の実験が発表されています。
 教授は、「宇宙環境に同期する小宇宙である脳の変動」といった表現も使われています。
 池田 また科学的にも、私どもの身体は、はるか二百億年昔の、宇宙空間の簡単な構造の元素の渦に源があった。
 この事実ひとつをみても、宇宙全体の作用がさまざまな事象においてわが身に関連する、ととらえられてきているのはご存じのとおりです。それを反対に考えてください。(笑い)
 その「正報」から「依報」へ、つまり主体である人間の一念をいかに環境世界へと無限大に開き、「幸」と「充実」、「安全」と「平和」への広がりにもっていくか、ということが仏法の法理なのです。これは何度も申しあげる「一念三千」論に入ってくるわけです。
 「依正不二」の原理からみても、環境というものは、人間に重大な影響があることは論をまたない。しかし、その環境を人間が変革してきたことも事実である。
 ひとつの例として、北海道も何百年か前は、たいへんな荒野であったにちがいない。
 しかしいまでは、「正報」である人間が開拓して住みよい土地になった。
 これも「依正不二」で価値をつくったひとつの例である。このような歴史は、古今東西を問わず枚挙にいとまがないでしょう。
 ―― そうですね。
 池田 また個人にあっても、親が早死にしたり、貧しかったり、恵まれない環境に育った人のなかにも、社会に貢献し、立派な人間になった例はいくつもある。
 それらは、「正報」の強靭なリズムを自分自身で築きあげて、ひとつの環境をつくりあげた例といえるでしょう。
 反対に、裕福な家に生まれ、よい両親にも、環境にも恵まれ、なにひとつ不自由のない人であっても、その人生が最後はみじめな敗北となっていく場合も多々ある。
 これは本来、自身の向上のための環境であるべきものが、反対に環境に流され、敗北者となっていった例である。
 屋嘉比 なるほど……。
 池田 つまり“正報は体、依報は影”である。
 要するに、生命の主体は、いわゆる「正報」の健全なる「リズム」と「力」といってよい。
 さらに今度は、よき「依報」が、よき影響を「正報」にあたえる場合も、当然、多々ある。
 また反対に、悪しき「依報」が、「正報」の向上の因となるときもある。
 常に「依報」というものは、二面性を具しているわけです。
 ですから、相関連しながらも、その「依正」をよりよくする力は、つまるところ「正報」の一念に帰着すると、私は考えます。
 屋嘉比 これは人生万般に通ずることと思います。
 池田 しかし、いわゆる人間の力には限りがある。生命の力にも限りがある。
 そこに「正報」と「依報」を貫きゆく「南無妙法蓮華経」という宇宙そのもののリズムというか、力用を発現し、「依正」相調和させていくことが、いかに大切かということもよくわかるわけです。
 ですから、自分の身体を丈夫にしていくことも、わが生命のなかの「依正不二」のひとつの所作、力用であるにちがいない、と私は考えます。
 その「依正」ともに根本的に調和させながら、幸の価値、美の価値をつくりゆくことが、私どものひとつの信仰の目的と思っております。
 さらに、死後の生命にも、「依正不二」があるが、これは略させていただきます。
 屋嘉比 仏法では、ほかにも「不二」論はございますか。
 池田 あります。「依正不二」というのも、妙楽の説いた「十不二門」のうちの一つなのです。
 これはもう三十年ぐらい前になりましょうか。第六十五世日淳上人に、戸田第二代会長がお願いして、教えていただきました。
 ―― 要するに「十不二門」とは、どんな内容なんですか。むずかしいのですか。
 池田 いや、やさしくはないよ。(大笑い)
 理論的すぎるので、いまの人たちには、あまり勉強させてないんです。
 私どもは、あくまでも御書を根本としています。そのなかに全部含まれているからです。
 そこで、この「十不二門」を少し申しあげれば、「色心不二」「内外不二」「修性不二」「因果不二」「染浄不二」「依正不二」「自他不二」「三業不二」「権実不二」「受潤不二」があります。
 屋嘉比 壮観ですが、仏法はたしかに論理性をおびている。他の宗教はかないませんね。
 池田 いちおうの意味を申しあげれば、この「十不二門」とは、天台の明かした法華経の「十妙」を、さらに展開したものです。
 十種の相対する「法」が、「不二」の関係にあることを示し、「妙法」の絶対性を説いたものなんです。
 「色心」とは、色法と心法
 「内外」とは、一念の内境と外境
 「修性」とは、修行と諸法の本性
 「因果」とは、修行における因位と果位
 「染浄」とは、無明と法性 
 「依正」とは、依報と正報 
 「自他」とは、能化の仏と所化の衆生
 「三業」とは、身口意の三業
 となります。
 これらがすべて「不二」という関係になる、というのです。
 ―― すると「権実」とは……。
 池田 権教と実教です。権教も実教も、仏の一念においては冥合しているのです。それが、衆生の機根に応じて、それぞれ説かれるわけです。
 つまり、どちらも「妙法蓮華経」という一法より生じたということになります。
 妙楽の説の全体をみればわかるように、権教も実教も同じであることではありません。権教の「権」とは「かり」という意味です。専門的になりますが、権教も実教からみれば、それを説明し、通ずるものがあるという義なんです。
 この本義を知らずに、間違って解釈している宗派もある。ここらへんがむずかしいのです。
 ―― それは当然ですね。
 池田 最後の「受潤不二」とは、一言で言えば、仏の説法を受ける衆生も、衆生に利益を潤しゆく仏も、「妙法蓮華経」の当体にして差別がないという意義といえます。
 屋嘉比 わかりました。
 池田 さらに日蓮大聖人の重要な法門書である「百六箇抄」のなかでは、「日蓮が十不二門は事上極極の事理一躰用の不二門なり」とあります。
 屋嘉比 文相だけでも、この大聖人の「不二門」というのが、さらに深く、どれほどか極致の法門であるか、わかるような気がします。
 池田 この御文は、「久遠元初・自受用報身如来」即「末法の御本仏」たる日蓮大聖人御自身の、宇宙開悟の現実の原点より展開された、絶対の法理をさしておられる。これ以外に森羅三千の「不二」の真実相はありえない、という極理が秘められているわけです。
 屋嘉比 まことに深秘な意義をもっていることはわかります。
 すると「色心不二」と「依正不二」というのは、どういう関連になるのでしょうか。
 池田 これは、とらえる次元の問題なのです。
 「正報」にも、「依報」にも、「色心」が含まれます。「色心不二」もこれまた、生命の真実相だからです。
4  この地球は全生命共通のオアシス
 ―― もう少し話を進めさせていただきますが、「核の冬」とか、「核の夏」ということが盛んにいわれておりますが。
 屋嘉比 この研究もかなり進んでいますね。
 先日の「朝日新聞」にも、カナダでの実験が出ていたとおりです。
 池田 半年ぐらい前、アメリカの学者が、広島で発表したデータもありましたね。
 それによると、欧米の都市で核爆発が起こると、北半球で十五度も気温が下がるということのようですね。
 屋嘉比 そうでした。
 池田 「核の夏」というのは、核爆発により、地球をとりまくオゾン層が破壊された場合、起こる現象ですね。
 ―― いわゆるSDI(スターウォーズ計画)で問題になるところです。十分以内に皮膚に水泡ができるほどの日焼けが起こるという説もあります。
 池田 日本では、こうした研究は進んでいるんですか。
 屋嘉比 あるていどは行われていると思いますが、外国のほうが多いようですね。
 池田 それはいけませんね。(笑い)
 ―― そこでちょっとうかがいたいのですが、鎌倉時代は天変地夭が多かった。これについては、どういうふうにとらえておられますか。
 池田 私は専門家ではないので、詳しいことはわかりません。
 ただ、日蓮大聖人の御活躍の時代は、たしかに地球は「小氷河期」の二回目のヤマに入っていたという学説が強いようです。ですから、冬ばかりでなく、夏も寒かった。
 『北条九代記』をお読みになれば、そのへんの状況はよくわかります。
 屋嘉比 すると、一時代前の、平安時代はどうだったのでしょうか。
 池田 温暖だったようです。
 通気性を考えた木造家屋の様式も、平安時代に完成したといわれている。
 『源氏物語絵巻』などを見ても、部屋は広々として、のちに廊下になる“ぬれ縁”が大きく庭に出ているのも、こういう理由からでしょう。
 屋嘉比 日蓮大聖人の御書のなかにも、なにかたいへんに寒かったという記録はありますか。
 池田 あります。想像を絶する厳寒だったようです。
 たとえば、「寒風しきりに吹て霜雪更に降ざる時はあれども日の光をば見ることなし、八寒を現身に感ず
 また、「ふるきをきな古老どもにひ候へば八十・九十・一百になる者の物語り候は・すべて・いにしへ・これほどさむき事候はず」ともおっしゃっておられる。
 ―― 世界的にも、この時期は、モンゴル・トルコ遊牧民の南下に象徴されるように、北半球がしだいに寒冷化したといわれておりますね。
 屋嘉比 そうした、地球的規模の気象異変は歴史上、何回もあったのでしょうか。
 池田 じつは、その点を私も関心があって、少々調べてもらったことがあるんです。
 いろいろな説がありますが、大阪大学の故・川井直人博士の学説では、近くは、紀元前三八〇〇年ごろから今世紀にいたるまでに、三回の寒冷期があったようです。
 第一寒冷期は、紀元前三八〇〇年から紀元前二四〇〇年ごろまで。
 第二寒冷期が、紀元前一三〇〇年から紀元前一〇〇年ごろ。
 そして第三寒冷期が、いわゆる紀元四五〇年ごろからの「小氷河期」です。その前あたりから、有名なゲルマン民族の大移動も起こっておりますね。
 屋嘉比 すると、「小氷河期」というのは、いつごろまでつづいたのですか。
 池田 途中、何回かの寒暖を繰りかえしながら、十九世紀末ごろまでつづいたようです。
 博士は、江戸時代に飢饉が頻発したころが「小氷河期」のピークだったのではないか、と推論しております。なかでも、「天明の大飢饉」は、有名な浅間山の噴火があって、被害を大きくしたようです。
 ―― 浅間山の大噴火といいますと、有名な「鬼押出し」がありますね。
 池田 そうです。じつは先日、長野に研修に行った折、何人かと一緒に、勉強のために行ってきました。
 屋嘉比 私も行ったことがあります。驚きましたね。
 ―― 溶岩の下に、村ごと六百人もの人が、埋められてしまったという記録もあります。
 池田 そうです。それは、ほぼ同時期のアイスランドの火山の大爆発とも重なった。
 一万メートル上空の、成層圏まで噴き上げられた灰塵は、地球全体に広がったともいわれる。これが太陽の光線をも妨げた、と論ずる学者もおりますね。
 天候が激変するのも当然でしょう。自然の力はものすごい。
 ―― 大冷害による飢饉がつづいたのも、やむをえないでしょうね。
 屋嘉比 すると、次の寒冷期はいつごろになるのでしょうか。(笑い)
 池田 それは、まだ明解ではないようです。ただ学者のなかには、三年前のメキシコのエルチチョン火山の爆発が前兆ではないか、と憂慮している人もおりますね。
 しかしまだ、結論は出ていないようです。
 屋嘉比 ああ、そうですか。
 池田 あの爆発の影響で、日本でも、夕焼けがいちだんと赤味をおびて見えるという現象がありましたね。
 屋嘉比 ヨーロッパでは、いま季節はずれの大雪や豪雨のようですね。
 つい最近も、アルプスやオーストリアのチロルで、雪崩や洪水のため十数人が死亡した、という報道があり、驚きました。
 池田 そうらしいですね。さきごろ、パリにある創価大学の語学センターがオープンしました。そこにフランス語の勉強に行った学生たちも、だいぶカゼにやられたという報告を受けました。
 ―― 最近は、なんだか異常気象が多いですね。
 屋嘉比 科学や医学の発達も、絶対に重要であるが、それこそ、人智ではどうしようもない次元の問題があるということも事実です。
 ―― いま、お話のあった次元からみても、天災は人間の生命を左右する。また、その生命が人災をつくるという悪循環は許せませんね。
 池田 当然です。さきに結論をお話しするようになりますが、ともかく、小さな地球という「生命環境」のなかに、われわれ人類は生きている。
 それを破壊し、生命、人類を衰亡させ、死滅させるような人災は絶対にあってはならない。また、だれびともその権利はない。全人類、全生命共通のオアシスであるからだ。
 屋嘉比 こわいことです。
 池田 つまり、地球、ひいては宇宙とわが身との関連も「依正不二」である。
 ですから結論して言えば、この両者の大調和を永遠ならしめていくのが「妙法」であり、その「法味」をいかに広げていくか、ということになると思います。
 これが、大聖人の壮大にして永遠なる大仏法なのです。
 まあ、この点は順次、論じることにしましょう。
 屋嘉比 たしかに、生物が生きていくためには、さまざまな条件と環境が不可欠です。
 池田 そうなんです。
 生命がこの地球上で生きながらえていることは、微妙なバランスのうえにたっている。
 ドイツの有名な心理学者クルト・レヴィン博士は、それらを「生活空間」と名づけている。
 それは生命の“外的環境”とともに、生物自体の“内的環境”を重視した、たいへんに仏法に近づいた理論体系と、私は思っております。
 屋嘉比 そうですね。私も読んだことがあります。
 環境をたんなる客観的世界ではなく、生物の生存との相互関連でみようとしておりますね。
 池田 まあ、新しく鋭い視点から物事をとらえようとする人が出てきたことは、まことにうれしいし、仏法の範疇に近い。「依正不二」を説明するのに、たいへん便利と思っております。(笑い)
 博士は地上に生息するあらゆる生命には、その個体数と等しい数の「環境」が存在する、と言っておりますね。
 屋嘉比 ええ、たとえば同じ一軒の家であっても、そこに住む人間と、そこに飼われているネコやイヌとでは、やはり「生活空間」はおのずと異なります。
 ネコはネコなりの、イヌはイヌ独自の“生活環境”をつくりだすというのです。
 池田 これは、私は仏法で説く「世間」ということに通ずると思っております。
 ―― 仏法でよく「五陰世間」「衆生世間」「国土世間という言葉をつかいますが、この「世間」というのは、どういう意味になりますか。
 池田 端的に言えば、まえにも申しあげたように、「世間」とは「差別」という意味です。
 環境世界はその主体によって千差万別のものとなる。ですから、「差別の義」と説いている。
 しかも、十界の衆生は、それぞれが呼吸し、それぞれが調和し、それぞれが親和、相関連しながら生きぬいている。これが実相です。
 屋嘉比 そのとおりです。
 池田 なにかを食べなければ生きられない。呼吸をしなければ生きられない。緑がなければ酸素がつくれない。生命のそれぞれの真実の姿は、森羅三千の宇宙空間のなかで、親和しながらの素晴らしい関連性をもっている。
 屋嘉比さん、これはだれびとも否定できないでしょうね。
 屋嘉比 そうした人間と環境の関係を媒介しゆくものが、相互の「感受性」や「精神性」である、と指摘する学者も増えてきております。
 池田 ああ、なるほど。当然そうでしょう。私はよくわかります。
5  血液循環にも影響あたえる環境の変化
 ―― そこで余談になりますが、最近は医療設備もどんどん新しくなって、人間の身体のすみずみまで写し出す機械もあるそうですが。
 屋嘉比 ええ、コンピューターを駆使したX線CT検査やNMR‐CT(核磁気共鳴コンピューター断層撮影装置)などが使われています。
 池田 最近よく聞きますね。
 屋嘉比 簡単に説明しますと、これまでのX線や超音波では、骨やガスなどがじゃまになって写らない部分が出てくる。それが、身体のどんな断面も、あるていど細かいところまで、鮮明に撮影できるようになりました。
 池田 すると、その装置のおかげで、ずいぶん患者さんは助かることになるでしょう。
 屋嘉比 ええ。頭や身体については、どこでも撮影できます。
 なかなか診断がつきにくかった頭蓋底、脊髄のなかの疾患にも威力を発揮します。
 池田 どういう原理なんですか。名前からすると、なにか磁気を利用しているようですが。
 屋嘉比 そうなんです。
 じつは人間の身体を構成している元素のなかでも、水素などの原子核は、強い磁場のなかでは、核磁気共鳴というエネルギー現象を生じます。それをコンピューターで計算します。
 ―― それが断層写真になるわけですね。
 屋嘉比 そのとおりです。要するに私たちの身体は、肉眼では外界と見分けがつく形がありますが、原子というミクロの眼では同一元素でできており、外界との境界線がなくなるんです。
 ―― これも「依正不二」ですね。(笑い)
 池田 そういうことですね。(笑い)
 それに関連して、私たちの体液中の塩分の割合も、海水によく似ているといわれますが。
 屋嘉比 そうです。その人間の体液の塩分と似せてつくられたのがリンゲル液です。
 これは十九世紀末に、イギリスの生理学者シドニー・リンガーが発見しました。
 池田 そうそう、偶然の発見だったようですね。
 屋嘉比 ええ、彼は苦心惨憺して、生理食塩水を使い、カエルの心臓を動かす実験を繰りかえしていた。そしてついに、ある溶液を使ったら、カエルの心臓が動きつづけた。ところがそれは、助手が間違って普通の水道の水を使ったものだった。それがあとからわかった。(笑い)
 池田 当時のイギリスの水道は、カルシウムかなにかが多かったようですね。
 屋嘉比 そうです。そこでカルシウムなどの無機物質を加えればよいというヒントを得た、有名なエピソードがあったのです。
 池田 私どもは素人ですが、いままでの通念として、人間は、この宇宙のいたるところに存在する水素や酸素や炭素などの元素からつくられている、といわれてますが、具体的にはどういうふうになっているのですか。
 屋嘉比 たとえば私は体重が70キロです。
 この場合の男子ですと、いちばん多い成分が酸素で44.1キロ、次が炭素で13.3キロ、水素6.3キロ、窒素3.5キロ、これだけで67.2キロになります。
 池田 ほかにはどういうものがあるのですか。
 屋嘉比 残りは、カリウム、カルシウム、リン、イオウなどでほとんどを占めていると考えられます。
 池田 人間の身体には、金も含有されているようですが。(笑い)
 屋嘉比 ええ、私の場合は、0.007グラムほどです。(笑い)
 池田 おもしろいですね。金歯は別だね。(爆笑)
 ともかく、「九山・八海も我が身に備わりて」という御文はたいへん深い意味があると、私は常に思っております。
 さらに、「此の身の中に具さに天地に倣うことを知る」という一節もあります。「宇宙即生命」の原理です。
 屋嘉比 いつも思いますが、御書には深義が含まれておりますね。
 池田 人間の血液も、環境の変化と微妙な関係にあると聞きましたが。
 血圧なんか、どうなんですか、屋嘉比さん。
 屋嘉比 血圧は、一日のうちでは、昼間は高く、夜は低い。
 また季節でいえば、冬は高く、夏は低いとよくいわれます。
 ―― 気温十九度の部屋から、8度の寒い部屋に移動しただけで、健康な三十代の人でも、血圧が10~20ミリメートルHg上がるという実験もあるようですが。
 屋嘉比 あります。これは、おもに自律神経による血管の収縮・弛緩に関係しています。
 池田 高山地帯の人は血圧が低いそうですが。
 屋嘉比 気圧が低いためでしょう。
 また、空気の稀薄な高地の人々は、呼吸機能がすぐれています。
 あるデータでは、南米ペルーの海岸都市リマ(海抜一五六メートル)と、アンデス山中のモロコカラ(海抜四五四〇メートル)の住民を比較すると、高地の住民は身体は小柄だが、全血液量も、また酸素を運搬する赤血球の数も多いのです。
 池田 この血液の循環も、身体と外界をつなぐ、重要な媒介となっていますね。
 屋嘉比 そうです。ごく小さな動物では、体の表面から、じかに酸素を吸収して、それが体全体に拡散していきます。
 しかし、高等な動物になってくると、ひとつのネットワーク、すなわち、血液の循環がどうしても必要となってくるわけです。
 池田 御文にも、「脈は江河に法とり」とあるんです。
 まさに、血液は「流れる」ということに、その特質があるといえるでしょう。
 屋嘉比 そのとおりと思います。
 ―― 血液の循環を発見したのはだれですか。
 屋嘉比 十七世紀のイギリスのハーベイです。
 当時は、血液は、潮の満ち干のように、血管を行ったり来たりすると考えられていた。
 彼は、ガリレオ力学の新理論に刺激をうけ、いわば“円運動”のようなものではないかと着想したといわれています。
 池田 それでは、血液の人体一周はどれくらいかかるのですか。
 屋嘉比 約二十秒といわれています。
 池田 下等動物のなかには、開放式循環とよばれ、血液が自由勝手に流れていくものもある、と聞いたことがありますが。
 屋嘉比 そのとおりです。
 池田 血液の循環と同じように、人間の社会も、また循環というか、連繋ともいうべきか、それがないと複雑にして高度な仕事はできませんね。(笑い)
 ―― 魚にも血圧はあるのですか。(笑い)
 池田 当然、血液がある以上、血圧はあるのでしょうね。
 屋嘉比 魚は専門ではないのですが、興味があって調べてみたことがあります。(笑い)
 ある研究では、魚が暴れたり、泳いだりするときは、血圧が五〇ミリメートルHgも上昇したという報告もあります。
 池田 水深八〇〇〇メートルあたりで発見された深海魚が、最も深いところに住む魚だそうですが。すごい顔をしているね。(笑い)
 屋嘉比 たいへんな水圧ですから、血圧のバランスも、体型も、厳しい環境に耐えられるようになっているようです。
 池田 水深一〇〇メートルぐらいになると、缶詰もペシャンコになってしまう。
 八〇〇〇メートルだと光も届かない常闇の世界でしょうね。
 屋嘉比 太陽の光は一〇〇メートルぐらいしか届きませんから、深海魚はだいたい目が大きく、体の大半が口のようなこわい顔をしたのが多いらしいのです。(笑い)
 池田 しかも、一回くわえたエサは、絶対逃がさないように、鋭い歯がある。
 まさに“修羅は海の底に住む”といいますから、その形相がうかがえますね。(爆笑)
 屋嘉比 深海魚は胃も大きいのです。(笑い)
 ―― どうしてですか。
 屋嘉比 深海にはエサが少ないので、胃にたくわえておく必要があるんです。
 ですから、腹が異常に大きいのが多いですね。
 これも、魚の「依正不二」なんでしょうね。(笑い)
6  人間生命誕生の本来的意義
 ―― ちょっとうかがいたいのですが、「依正不二」論から進化論はどうみますか。
 池田 進化論といえば、有名なのはダーウィンでしょう。しかし最近では、分子生物学や生態学などさまざまな分野から、どうも違った考え方も提示されてきているようですね。
 屋嘉比 その先駆的な論議は、日本の今西錦司博士などが早くから主張されています。
 ―― 今西博士は「平和の灯よ永遠に輝け」という映画のなかで、仏法を基調とした平和運動を、高く評価されていましたね。
 池田 私どものために、わざわざ登場していただいたことがあります。今西先生は、まだお目にかかったことがありませんが、私が尊敬している学者のお一人です。
 屋嘉比 ダーウィン以来の正統派進化論は、突然変異と自然淘汰という二つの柱からなりたっています。
 つまり生物の個体が、ランダムな突然変異をおこし、環境に最も適応したもののみが繁殖する。
 そうでないものは淘汰されるという、適者生存の原理が進化の要因であったと説明するわけです。
 池田 おおざっぱな論議になりますが、それに対し、今西博士は、生物それ自体に進化の主体性を認めた進化論となるわけですね。
 屋嘉比 ええ、いわゆる「種」というものが棲み分けをしながら、環境の変化に対し、変わるべくして変わっていく。
 いわば進化の主導権を環境から生物の側におき、しかも、環境と生物進化とは密接不可分の関係にある、というような論議だったと思いますが。
 ―― そうですね。ですから、自然淘汰というような考え方は、キリスト教的土壌の産物であり、もっと仏教的な生命観からの進化論もあっていいのではないか、という意味のことも言っておられるようです。
 池田 私も、仏法者として、「依正不二」からみれば、今西博士の進化論は、よくわかる気がします。今後も、さまざまな論議が継続されていくでしょうが、注目していきたいと思っております。
 ともあれ、これは、私は学者ではないのでその点ご了解いただきたいのですが、常識的にいわれてきた地球誕生の姿からみて、一般的には、いわゆる原初の地球は、チリやガスの凝縮した熱い塊であったと推定されている。
 いろいろな角度からの論じ方があるでしょうが、ひとつ、そこに視点をおかせてください。(笑い)
 ―― この点については『「仏法と宇宙」を語る』でも、詳しく論じていただきましたが、ぜひつづけてお願いします。
 池田 いまから二百億年前ともいわれるビッグバン以来、その宇宙の大作用によって太陽系が形づくられ、約四十六億年前に地球が誕生し、位置づけられた。
 屋嘉比 一般的にはそのとおりですね。
 池田 そのときは、地球には花とか、木とか、鳥とか、魚とか、人間は存在しなかった。
 それがしだいに冷えてきて、四十億年前から二十億年ぐらい前の間に、それぞれの条件が整って、ひとつの原始生命が誕生したといわれてきていますが。
 屋嘉比 そうです。
 池田 やがて、下等なバクテリアのような微生物や、光合成を行うものも発生する。
 さらには多細胞の生物が誕生し、さまざまな変化をへながら樹木も、魚も、動物も登場した。そしてついには人間が誕生した、となっている。
 屋嘉比 壮大な生命のドラマですね。そうすると地球という惑星自体に、生命を生み育んでいく力というか、方向性が内在していたと考えていいのでしょうか。
 池田 これらの種々の「依正」の条件によって、生命が誕生したのは間違いないでしょう。
 最初は“火宅”ともいうべき冷酷非情な物体とも思えるなかから、これだけの無数の生命が誕生したということは、「国土」と「生命」が“二にして二ならず”の淵源をみる思いが、私はするんです。
 ―― それは否定できません。
 屋嘉比 まさしく生命の発生ということは、科学の問題と同時に、すぐれて哲学的な課題となりますね。
 池田 ゆえに、そうなさしめる原因を生物学的・遺伝学的、また物理学的・宇宙論的に追究していけば、やがては、その現象的な原因が、当然わかってくるであろうと私は期待しています。とともに、そうなさしめていくべき、より根本的な法則があるにちがいないということもわかることです。
 ―― 現段階の科学においても、「非情」なる地球から「有情」の生命が誕生し、進化していったことは事実ですからね。
 池田 人類の誕生についても、当然、いわゆる進化論のうえからもさまざまな見方もある。
 しかし、現在この地球上に生息している高崎山のサル、上野のサルなどは、百年たっても、千年たっても人間にはならない(笑い)。人間はあくまでも、人間として誕生した。ここに「十界」という、生命の実相のうえからの意義づけがあることも、見逃せないでしょう。
 屋嘉比 人間という「種」の誕生は、大きな謎のひとつです。
 池田 “E.T.”のように、外部世界から来ることは別問題だけれども(笑い)、ともかく、全生命が地球の国土世間から生まれ出た。
 少々飛躍した話になりますが、私は、仏法で説く「法性の淵底・玄宗の極地」という意味にも、たいへんに深い生命と国土世間との関連性が感じられてならないのです。
 屋嘉比 その「法性の淵底・玄宗の極地」というのは……。
 池田 結論していえば、一切の万法が拠りどころとする根本の真理であり、「南無妙法蓮華経」のことです。
 この「法性の淵底・玄宗の極地」から出現する菩薩を「地涌の菩薩」といいます。
 この地涌の菩薩の生命には、幸福と平和を確立しゆく大法を持ち、広めゆく使命がある。
 私は、そこに、人間生命誕生の本来的意義がある、と結論づけられている気がしてならないのです。
 屋嘉比 まことに重要な、たんなる理論のみではない、人間生命の根本的な価値についてのお話と思います。
7  あらゆる生命を育む慈悲の法則性
 ―― ここで、また環境の問題に戻りたいと思いますが、地球は砂漠化に向かって進んでいると警告する学者が多くおります。この点について先生は、ローマ・クラブの創始者である今は亡きペッチェイ博士とも対談されておりますね。
 池田 ペッチェイ博士とは、何回もお会いしました。二年前のパリが最後でした。
 このときも、七十五歳の高齢にもかかわらず、その日の朝、アメリカのボストンを出発し、私のいるホテルに来てくださった……。本当に忘れられない方です。
 ペッチェイ博士は、人類の未来をたいへんに危惧されていたお一人です。
 森林の乱開発についても、このままつづければ、五十年後には、熱帯雨林は全面的に破壊され、事実上砂漠化してしまうであろうと憂い、力説しておられた姿を、いまでも覚えております。
 ―― パリだけでなく日本でも、二回ほど会談なさっておりますね。
 池田 ええ。この八月の中旬にも、ご子息がわざわざ訪ねてこられることになっております。
 ―― ご子息は物理学者ですね。
 池田 そうです。そこで、歴史的にみても、この砂漠化と人間の生活の営みは、まったく深い関連性があることは事実です。
 ―― そうですね。
 池田 あのアフリカのサハラ砂漠も、一万年ぐらい前から長い間、緑したたる大地であったことは、歴史的事実のようです。その証拠に、さまざまな古代の文化遺跡が散在している。それは「古代芸術のギャラリー」ともよばれるほどです。
 また、ローマ帝国の時代にも、サハラの一部は一大穀倉地帯であったようです。
 それが、気候の変化や、過度の放牧などが原因となって砂漠化していったことは、多くの学者の説くところです。
 ―― メソポタミアも、肥沃な土地が砂漠化してしまったといわれております。
 ところで現代は、アマゾンやアメリカ大平原、またインドやエジプトなど、広範囲にわたり、砂漠化や洪水等の現象が起こってきている。
 屋嘉比 これは天災もあるが、人災も大きい。やはり、自然と人間を対峙させ、人間の欲望を無制限に解放しつづけてきた文明の結果でしょう。その意義においても、仏法の「依正不二」の視点はたいへん重要と、私は思えてなりませんね。
 池田 詳しくは、略させていただきますが、いわゆる地球と人間とのかかわりあいというものを、より長期的に、もっと本源的に、見直さなければならない時代に入ったと思う。
 心ある人々は、みなそう思っているにちがいない。
 屋嘉比 歴史をみても、平和と安定は、常に経済の問題と不可分であり、いわゆる自然の災害とか、飢饉といった問題も大きなウエートを占めてきたわけですからね。
 ―― 自然の脅威ほどこわいものはない。
 池田 その自然の脅威を、人類がみずからの手でつくりだすことほど、愚かなこともない。
 ですから、私どもはつねづね、「地球一体感」「運命共同体感」をもたらす哲学、宗教が大切であると主張しているわけです。
 ―― ペッチェイ博士も、「われわれ自身の資質の向上を基盤とした全面的な“人間革命”が、いまこそ必要不可欠である」と強調しておりましたね。
 屋嘉比 そうです。もはや、そこから出発しなければならないと思います。
 池田 そこで、私がいつも深く思索しなければならないと思っている御文があるのです。
 それは、「されば法界のすがた妙法蓮華経の五字にかはる事なし
 また、「法界の依正妙法なる故に平等一子の慈悲なり」という、一節です。
 屋嘉比 「法界」とは、どういう……。
 池田 一言で言えば、全宇宙、森羅三千のことです。ですから一切の森羅万象は「依報」も、「正報」も、ことごとく「南無妙法蓮華経」の一法の当体のほかにありえないというのです。
 屋嘉比 これは、はっきりした法則性ですね。
 池田 そう思います。この宇宙には、科学の法則もある。それなりの政治、経済の法則性もある。
 しかし、さらに奥深い、無始永遠なる大宇宙そのものにも、あらゆる生命を育みゆく慈悲の法則性があることが、仏の眼から見ればわかってくる。
 それを「本因妙」の仏法、「事の一念三千」即「南無妙法蓮華経」といわれるわけです。
 その法則の当体が、「一閻浮提第一」の御本尊となるわけです。
 この御本尊とは、「根本尊敬」「輪円具足」「功徳聚」とも名づけます。
 この御本尊を信じ、行じていったとき、初めて自身の生命も「事の一念三千」の当体となりゆくことができる。
 それこそ社会に、国土に、宇宙にまでも、「法味」を与えながら、よき環境をつくり、守りゆく原動力となるわけです。ゆえに仏法では、正信の人をば最大に大事にしております。
8  仏法根底に文化の創造
 池田 その意義で、初座という儀式において、東天に向かって、これまた十界三千の国土世間である大宇宙の運行に、「法味」を送っていくというのは重大な意味があると、私は思っております。
 屋嘉比 仏法は本当に一つひとつが明快であり、そのうえで深義が感じられますね。
 池田 ですから、大宇宙に「南無妙法蓮華経」という「法味」をあたえゆく人々が多くなればなるほど、その力用は確実に広がり、大宇宙という「依報」と、題目を唱える人の「正報」が、確かになることでしょう。
 これは、余談になりますが、明治時代の著名な人がよく話していたことがある。まことに素朴ななかにも含蓄のある話と、私は思ってきた。
 それは、中国の東北地方には雷がなかった。日本人が入るようになってから、雷が見られるようになった、というのです。
 ―― それは私も聞いたことがあります。
 偶然の一致か、なんらかの因果関係のなせるものか。それにしてもなにか心の奥に感ずるものがある話ですね。
 池田 これはまた、アラスカに住むある日本人から聞いた話ですが、まだあまり人間がいなかったころのアラスカは、本当に人間が住めるような場所ではなかった。
 ところが、人が多く住むようになってから、多少なりとも温度が上がってきた、といわれているというのです。
 屋嘉比 人間は火を使うから、気温が上がるということもあるのでしょうが、私は、もっとなにか大きな、生命が生きようとするとき、自然もそれに応じていくものがある気がします。
 池田 科学的にどうなるか、私にはわかりません。
 ただ、なんとなく不思議なものを感ずるのです。
 ―― いや、東京でも、昔から比べると、雪なんかもたいへん少なくなっている。
 屋嘉比 台風もほとんど来ませんね。
 ―― これも、ひとつの現象でしょうね。
 屋嘉比 それはそれとして、仏法が、最も現実を厳しくふまえながら、人生と社会と、そして宇宙をも包みゆく広がりの法であることは、私には驚きです。
 池田 ただ私は、信仰すればそれでよいというようなことは、まったく考えておりません。
 その大仏法を根底に、即政治・経済の発展、また科学・技術の進歩、さらに文化の創造へと常に連動しゆくのが、私どもの運動の目的である。それがまた仏法の真髄であり、仏法たるゆえんなのです。
 ―― トインビー博士も、「一文明における宗教は、その文明の生気の源泉である」と述べておりますね。
 池田 キリスト教でも、何世紀にもわたる人類的規模の実験がなされてきたと思う。
 また近くは、マルクス主義も実験されてきた。
 しかし、高度な科学文明が発達し、人類全体が絶滅か、共存共栄かが問われる時代は、日蓮大聖人の仏法が、これから何百年、何千年と実験、証明されゆく段階に入っていると、私は信じております。

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