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日蓮大聖人・池田大作

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第九章 「半健康人」時代に考える  

「生命と仏法を語る」(池田大作全集第11)

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1  世界の縮図・ハワイで平和の祭典
 ―― ハワイでの第五回世界青年平和文化祭(一九八五年)、まことにおめでとうございました。
 連日の多忙なスケジュールのもようは、機関紙で拝見しておりました。
 屋嘉比 たいへんに盛大だったようですね。
 私も、行かせていただきたいと思ったのですが、遠慮しまして。(笑い)
 ―― 今回は、日系官約移民百年の記念行事ということで、アリヨシ州知事からの招待もあったようですが。
 池田 そのとおりです。
 知事夫人が実行委員長をしている、「アロハの木百万本」の記念植樹式にも出席してまいりました。
 ―― 七月四日の文化祭当日は、アメリカの独立記念日で、カラカウア通りでは一万数千人のパレードが行われ、たいへんに素晴らしかったようですね。
 屋嘉比 私も、テレビのニュースで見ました。
 アメリカ人はパレードが好きですね(笑い)。国民性の違いというのは、たしかにありますね。
 池田 歴史書によると、ハワイの中心である「オアフ」という島名には“人々が集まるところ”という意義があったそうです。
 だからかどうか知りませんが、ハワイにさまざまな民族が融合し、共存共栄している事実は、世界国家の縮図といってよいでしょう。
 ―― そのとおりですね。
 ともかく地元の新聞を見ても、相当数の市民が沿道をうずめ観覧していた。
 テレビも初めから終わりまで、パレードのもようを約二時間にわたり実況中継したようですね。
 池田 いや、私は見ていません。(笑い)
 ハワイの地は、日本との関係にあって、真珠湾の奇襲などで本当に不幸なこともあったが、私は好きです。
 ともあれこの移民百年祭は、過去の歴史の総括とともに、新しい百年に向かっての、ハワイの平和と繁栄への新たなる出発の意義がある、と私は思っております。
 ―― パレードや文化祭は、世界四十五カ国の代表が参加しての行事だったようですが。
 池田 そのとおりです。
 多くの著名人の出席もあり、ともかくなごやかで、うれしかった。
 ―― アリヨシ州知事夫妻のほかにも、ロスのブラッドレー市長夫妻など、また、ハワイ各界の多数の名士が参加していましたね。
 屋嘉比 東関親方(元高見山)もいたようですが。
 池田 ええ、参加してくれました。ハワイへ向かう飛行機の中でも、一緒になったのです。
 たいへんに純な、いい方ですね。
 ―― パンチボールの国立記念墓地では、第二次大戦でヨーロッパに遠征し、勇敢に戦った日系二世の“パイナップル部隊”(四四二部隊)をはじめ、戦没者への献花もされたようですが。
 池田 いたしました。彼らは、二つの祖国のはざまで、犠牲になって戦死していった。
 ハワイの日系人が、アメリカ社会において信頼を勝ち取っていくのに、彼らの存在は大きかったといわれる。
 ―― ブラッドレー市長らも参列しておりましたね。
 平和への厳粛な祈りに、私は深く感銘しました。
 池田 かつてのパイナップル部隊の方々も九名参列し、固い握手をしました。お一人は義手でした。
 ともかく、戦争は絶対にあってはならない。
 戦争は、国家の勝者と敗者はあっても、人々には、ただ悲惨と不幸しか残らないからです。
2  病魔との闘いだった青春時代
 屋嘉比 いつかおうかがいしたいと思っていたのですが、先生は、終戦の年はおいくつでしたか。
 池田 昭和三年生まれですから、十七歳です。
 屋嘉比 たいへんにお身体が弱かった、ということを読んだこともありますが。
 池田 そのとおりです。小さいころから病気がちで、健康な人がうらやましかった。
 屋嘉比 そのときは、どこにおられたのですか。
 池田 昔の蒲田区(現在の大田区)糀谷におりました。
 屋嘉比 お兄さんが出征されたようですが。
 池田 三人の兄が出征し、養子にいった兄も出征しました。
 屋嘉比 すると当時のお勤めは……。
 池田 若いものがブラブラしていると“非国民”と言われるので、兄が勤めていた、家の近くの新潟鉄工所に行きました。
 しかし身体が弱いので、なかなか満足な出勤もできず、ずいぶん悩んだものです。
 戦時中で、会社では、たまたま予防注射があった。ところが、注射を打つと、必ずといっていいほど四十度ぐらいの熱が出て、たいへん困ったものです。
 屋嘉比 どのような病気でしたか。
 池田 肺病です。肋膜炎なんかも、八回ぐらい繰りかえしました。健康でなくてはならない時代に、病気というのは本当につらい。風呂に入ると、あばら骨が見えて悲しかった。
 これでは現場はとてもムリだということで、事務のほうにまわされてしまった。現場がいちばん男らしい戦場であった時代でしたからね。
 屋嘉比 何を作っていたのですか。
 池田 当時はディーゼル・エンジンをつくっていて、現場は二交代、三交代のフル回転でした。ともかく活気があった。みんな“お国のため”死にもの狂いでした。
 屋嘉比 なにか思い出はございますか。
 池田 いつも自分の健康と病気との闘いだった。当時はいい薬もないし、栄養もとれない。そこで、いつも『健康相談』という本を読んだものです。そのとき、病気の知識もあるていど知ったのです。
 父親にも母親にも、ずいぶん心配をかけました。
 屋嘉比 医師はどういう判断でしたか。
 池田 肺結核です。
 数年間へていたもので、肺浸潤とか肋膜炎とか、いろんな症状の変遷もありました。
 屋嘉比 当時では、施設も不十分でしょうし、診断も、今日ほど精密にできなかったかもしれませんね。
 池田 いや、たいへんに親切なお医者さんで、よい人でした。
 屋嘉比 工場にも診療所はあったのですか。
 池田 ありました。
 屋嘉比 そこではどうでしたか。
 池田 やはり肺結核でした。
 寝汗はひどいし、血痰も出る。体力もない。そこで結論として、茨城県の鹿島のほうになにか養生先があったようで、そこに二、三年静養するように言われました。
 屋嘉比 そんなにひどかったのですか。
 池田 ところが、四月十五日未明の蒲田の大空襲で会社も爆破され、ほとんど再開不能の状態になったわけです。そのため、鹿島でゆっくり静養という状況も一変してしまった。
 屋嘉比 寝汗は、気持ち悪いらしいですね。
 池田 体験したものでなければわからないでしょう。寝汗は本当にいやなものです。
 しかし、寝汗で目ざめたとき、汗はまことにキラキラ光って、きれいなもんです。
 屋嘉比さんは、寝汗の経験はありますか。
 屋嘉比 ありません。
 池田 お医者さんだから、身体の管理はうまいわけですね。(笑い)
 そんなわけで、私の青春時代のはじまりは、病気との闘いだった。その近所の医者が私の母親に、あの身体では二十五、六歳までもつかどうかと、もらしていたようです。
 なにかのキッカケで、そんな話をちょっと耳にはさみ、いや、悲しかったですね。
 そんなこともあって私は、身体の弱い人、病人には敏感な反応をするようになった。
 本当に、その人の気持ちがわかる自分となることができた。
 屋嘉比 その後は、身体のぐあいはズッといいのですか。
 池田 いや、それからも十年、二十年と、自分と病気との闘いがつづきました。
 そんなわけで、戸田第二代会長にも、“三十で人生終わりかな”と、たいへんに心配をかけたこともありました。
 屋嘉比 大いなる精神力、また信仰力が、大きく身体を変革したひとつの証拠といえますね。
 たしかに人間は、医学的、科学的次元だけでは解決できない不可思議な存在と思います。しかし、私は医学者ですから、すべてを医学的にみますけれども。(笑い)
 ―― 現代社会は、完全なる健康体の人よりも「半健康人」の時代といわれていますね。
 屋嘉比 そう思います。ドイツのある学者も、「健康は現代の主問題である。しかしながら以前よりも患者数は多い。われわれは患者の時代に生を受けている」と言っております。
 たしかに、いろいろな病気をもっている人が、増えているのは事実です。
 池田 ですから仏法は、この厳しき人生の実相をとらえ、「三界之相とは生老病死なり」と説いている。
 これはつまり、「三界之相」とは人生の実相の表現である。この「三界之相」を如実に知見していくならば、「生」と「老」と「病」と「死」というものは、避けられない生命の理である。ゆえに、その現実を度外視しての幸福もありえない。この根本的次元から、真実の幸福を確立しゆく法が仏法と、私は思っております。
 屋嘉比 健康な人は、健康のありがたさはわからない。しかし、一度病気になれば、健康ほど大事なものはないと考える。私も、多くの患者さんを診て、いつもそう実感しています。
 池田 私も医者だったら、もっと仏法と生命の奥深い連関性がつかめるような気がしますが。(笑い)
 ともかく、たしかに健康な人でも、あるていどの年齢に達すれば多少の疲れも出る。
 ときには、身体の調子がおかしくなるのもやむをえない。
 やはり「病」も、人生の本然的な問題でしょう。
 屋嘉比 病気というのは、長い人生にあっては、ひとつのリズムということもいえますからね。
 ―― 屋嘉比さん、一見、健康な人でも、一生のうちに何回か、ガン細胞が発生している可能性があると聞きましたが、本当ですか。
 屋嘉比 そのとおりです。たとえば、胃ガンや前立腺ガン、皮膚ガンなどは、健常者にも、かなりの率で潜伏していることがあるようです。
 ただ多くの場合、免疫の力などによって、増殖が抑えられていて、発病しないのです。
 いわば、健康と病気が渾然一体化しているのが、「生命」という存在といえますね。
 池田 そう思います。また、たとえ病気であっても、偉大な仕事をした人はたくさんいる。逆に健康であっても、無為に人生を過ごしてしまう場合もある。
 ルソーの言葉ではないけれど、生きるうえにおいて「節制と労働とは、人間にとって真実なる二人の医者」ともいえる。
 ―― たいへん含蓄ある言葉と、私も感銘を受けたものです。
 池田 ですから、多少の病気があっても、絶対に負けてはいけない。健康になっていこう、人々のため社会のために働いていこうという、強靭な一念が大事となりますね。
 私の人生は、自然のうちに「健病不二」ということになっていました。
3  人生観の昇華につながる「病」
 ―― 以前、先生はアメリカの著名な生物学者ルネ・デュボス博士と、対談されましたね。
 池田 いたしました。デュボス博士はトインビー博士の友人です。そこでトインビー博士から、ぜひ会うように勧められた一人です。
 NHKの招待で来日されたとき、わざわざ来訪してくださったのです。
 もう早いもので、十数年前になるでしょうか。素晴らしいご夫妻でした。
 屋嘉比 もう亡くなられたのですか。
 池田 博士は亡くなられました。日本でも有名な著書があります。それは『人間であるために』『環境と人間』などでしたか。
 とくに『健康という幻想』(田多井吉之介訳、紀伊國屋書店)では、健康と病気の問題の本質を言いあてておりますね。
 屋嘉比 その本は有名です。私も学生時代に読んだものです。
 博士はその本の結びに、「人間は、どこでも、その安全に対する新しい脅威と新たな試練に出会うものだ。(中略)心配のない世界でストレスもひずみもない生活を想像するのは心楽しいことかもしれないが、これは怠けものの夢にすぎない」とまで書いています。
 池田 素晴らしい哲学です。素晴らしい現実の人生のあり方です。ともかく立派な学者でした。
 ところで、仏法でも「仏は少病少悩」といって、病気のない架空の仏など説いていない。(笑い)
 要するに、自分の健康は自分がいちばんよく知っているだろうし、健康のために、それなりの努力と注意も当然必要である。さらに、色心ともに生きいきと生きゆくために、自分自身の根本的な生命力を、いかに発現しゆくかということが、不可欠となってくる。
 そこに、仏法のひとつの意義があると、私は思っています。
 屋嘉比 同じ人間であるということからいえば、ブッダも、多くの仏も、みな凡夫と私は思います。そうでなければ、現実味はない。
 生身であり、凡夫であれば、病気はつきものでしょう。
 ―― そうでなければ、現代人は信じられない。
 池田 その「少病少悩」を転換しながら、多くの人の悩みを知りながら、いかに人類を済度の方向にもっていくかが、カギとなるわけでしょう。
 ―― デュボス博士も、先生との対談で、広い意味で、偉大なる未来宗教の出現こそ、人類の危機を救う唯一のカギであると、明快に述べておりましたね。
 屋嘉比 それで、私は一医学者として、多くの患者さんを診てきて、たいへん興味ぶかく思うことがあります。
 それは、長い闘病生活を耐えぬいた人は、人間が変わったように人生を大切にします。また、人への思いやりも強い。物事の見方も、深くなっていくように感じられることです。
 池田 いい話です。スイスのヒルティ(哲学者)でしたか、「河の氾濫が土を掘って田畑を耕すように、病気はすべて人の心を掘って耕してくれる。病気を正しく理解してこれに耐える人は、より深く、より強く、より大きくなる」と言っておりますね。私はたいへんに深い示唆のある言葉と思ってきました。
 屋嘉比 私も好きな、素晴らしい言葉です。
 ―― 仏法ではなにか説かれておりますか。
 池田 あります。その一つに、「病によりて道心はをこり候なり」とあります。
 簡単に言えば、「病」も、より信仰を深める因とすることができるということです。
 戸田第二代会長も、よく、「大病を患った人は深い人生の味をもっている」と言っておられた。
 私も、まったくそのとおりと思っております。戸田第二代会長も、大病を患ってきた人です。大病と闘いながら、法のため、社会のために、行動しぬいてこられた人です。
 ま、要するに、「病」が、その人の人生観、目的観の昇華へと延長されていくことが大切でしょう。
 生きることの“質”が問われる時代
 池田 そこで、屋嘉比さん。医学では、人間の寿命をどうとらえますか。
 屋嘉比 いや、その点は、むしろ池田先生にうかがいたいところです。医学では、まだ結論は出ておりません。
 ただ解明の手がかりとして、前にも申しあげたように遺伝子のなかのDNAの障害が集積していくとか、細胞の分裂回数があらかじめ定まっていて、年をとるごとに残り少なくなっていくという考え方などがあります。
 池田 脳の神経や心筋なんかは、細胞分裂しませんが。
 屋嘉比 ええ、そうなんです。その場合も、大ざっぱにいうと、あらかじめある耐用年数が定まっているのではないかという考え方になります。
 池田 免疫の問題も関係があるようだと聞きましたが。
 屋嘉比 それは、「自己免疫説」といいます。
 年齢とともに、免疫をコントロールする力は低下します。したがって、外からの侵入物に対してだけでなく、自分自身の身体のタンパク質などにも、間違って免疫反応を生じ、身体に害をあたえてしまう傾向が増加し、これが、身体組織の衰えにつながっていくというのです。
 ほかにもいろいろな学説がありますが、定説は残念ながらありません。
 池田 この寿命の問題は、“老化”の解明とあいまって、今後、研究がさらに進んでいく分野になりますか。
 屋嘉比 現段階の医学は、老化の原因について模索していますが、寿命自体の解明はまだまだです。
 ただ、いくら寿命を延ばしても、幸福という問題とは、別次元の場合もあるわけです。
 アメリカの老年研究の専門医学誌『老年学ジャーナル』は、冒頭に、こんなモットーを掲げていました。すなわち、「ただ寿命を数年延ばすだけでなく、老年期を生きいきと過ごすために」と。
 池田 大事な観点だね。
 これからは、いよいよ生きることの“質”が問われる時代となるでしょう。
 ―― 今年(一九八五年)の五月、新潟県で、県内最長寿であった百四歳の老婦人が入水自殺したという、痛ましいニュースがありました。
 この老婦人は、昨年秋ごろから寝たきりで、「家族に迷惑をかけたくない」と、もらしていたようです。ところが、その息子も、すでに八十一歳になっていたというんです。
 この話を聞いたとき、私はなんともいえない気持ちでした。
4  仏法の寿命観、延命観
 屋嘉比 仏法では、寿命はどうとらえますか。
 池田 日蓮大聖人の仏法では、いわゆる「定業」というとらえ方になります。
 ですから、この寿命などの「定業」以外のものを、「不定業」と説いています。
 屋嘉比 すると、「不定業」とは……。
 池田 当然、「定業」よりも軽い。
 また寿命などと違って、まだ定まっていない業因のことをさします。
 屋嘉比 すると、「定業」である寿命は変えられない、ということになりますか。
 池田 いや、そうではないんです。ここが大事なんです。
 日蓮大聖人は、「定業すら能く能く懺悔すれば必ず消滅す何にいわんや不定業をや」と断言されている。
 ―― 「懺悔」とは、よく、過去の罪悪を悔い改め、ひらき述べるという意義にいわれますが。
 池田 一般的にはそうです。
 しかし、法華経の結経たる「観普賢菩薩行法経」には、「若し懺悔せんと欲せば 端坐して実相を思え」と説かれている。また専門的になってすみません。(笑い)
 この「端坐して実相を思え」とは、結論して言えば、末法今時においては、御本尊に南無しゆくことである。つまり、御本尊へ唱題しゆくことにより、自身の生命を浄化し、自己の宿命をも変革することができる。また、無限に幸福への因を積んでいくことができる。
 これが真実の「大荘厳懺悔」となるわけです。
 屋嘉比 すると、懺悔というと、なにか暗い、消極的なイメージがありますが、本当はそうではないわけですね。
 池田 そのとおりです。
 屋嘉比さん、医学的には「定業」とか「不定業」とかいうとらえ方はありますか。
 屋嘉比 むずかしいと思います。
 ただ、遺伝的なもので、定業性といえるものはあると思います。
 たとえば、遺伝性の病気のなかには、ある年齢になると、時限装置が働くかのように発病するものもあります。
 「家族性大腸ポリープ症」などは、十代で発病し、四十代でほとんどがガン化します。
 しかし、それにしても、寿命の推定はむずかしいと思います。
 池田 たしかに推定はむずかしい。仏法においても、われわれ凡夫には寿命はわからない。また、わかってしまったら、つまらない。(笑い)
 かりに自分は、三年後とか六カ月後とかに死ぬとわかったら、こんな不幸はない。(笑い)
 わからないところが「妙」であり、安心もでき、このへんに深い意味があると思います。
 屋嘉比 そう思います。
 いや、ガンの宣告も、医師として躊躇するのは、そこらへんの問題があるからです。
 池田 つまり、どちらかといえば仏法は演繹法である。寿命は当然、長いにこしたことはない。だがそれよりも、人生の根本的軌道が永遠性の幸福へ、すなわち「仏界」へと向かっているかどうか、という本質的問題を提起している。
 またそのために、具体的にどうしたらよいかを説いているわけです。
 ただそこで大事なことは、法華経寿量品に「寿命無数劫」とある。つまり、仏寿が今世だけではなく、無始無終、三世永遠であることが明かされていることです。
 また、「仏は衆生を教化するために病に託いて教を興し、入滅によせて三世の常住を説く」といわれる。
 ですからつまり、仏であっても現実の姿は、私どもと同じく病を現じ、三世の生命を説くために、死という姿をあらわされるというのです。
 屋嘉比 それならば、私もうなずけます。
 池田 ですから私は、仏法の根本の目的は、この永遠の生命を覚知しゆくというか、確信しうる自身の「我」を、完成しゆくことにあると思っている。
 また現実に、信心を貫きとおした広々とした境涯になった場合、「これは寿命である」また「これは寿命を延ばした」と達観した自分自身を、感じとることもできる気がします。
 まあ、生命といっても、主観に帰着せざるをえないものでしょうから。
 戸田第二代会長は、「信心が透徹した場合、多少の病気とか、苦労があっても、すべて乗り越えていける。根底が安心しきっているから、生きること自体が絶対に楽しいものだ」とよく言われていました。含蓄のある言葉だと、私は常に思っている。
 屋嘉比 そういう意味では、この問題は、医学の次元を超えていますね。
 池田 いや、その人生観の裏づけとして、当然、客観的ものさしである医学は、意義があると思います。
 法華経には、「此の経は則ち為れ閻浮提の人の病の良薬なり」と説かれている。それについて、釈尊滅後約一千五百年、陳臣という天台大師の兄は、仏法を行じて寿命を十五年延ばし、六十五歳で亡くなった、という記録もある。
 それはともかく、日蓮大聖人の御書には、「法華経を行じて定業をのべ給いき」と言われている。
 そこで私は、仏法の寿命観、延命観というものをもっと深く思索し、一般的にも理解できるようにしなければと、悩んでいる昨今です。
 ―― 日蓮大聖人も、お母さんの寿命を四年延ばされたという話は、たいへんに有名ですが。
 池田 そのとおりです。お名前を「妙蓮」といわれます。
 ともかく、不老でありたい、長寿でありたいと願望するのは、人間の最も自然な姿でしょう。
 ですから仏法では、「命と申す物は一身第一の珍宝なり」とも、「一日の命は三千界の財にもすぎて候なり」(同)とも説かれている。
 他の宗教はどう説いているか知りませんが、この一言は素晴らしい言葉と、私は感動したことがあります。
 屋嘉比 仏法の素晴らしさはここにもある、と私は感銘します。
 ―― それにしても、「汝が殺さんとする相手は、実は汝にほかならず」と言った哲学者がいたが、いまは本当に生命軽視の風潮がはびこっている。これは、最も恐ろしい傾向ですね。
 池田 まったくそのとおりだ。
 一般的には「地球より重い一つの生命」といいますが、大聖人は「宝算」という言葉も用いられている。これは広げて言えば、私どもの寿命にも通じてくると思います。
5  寿命の長短と人生の価値
 屋嘉比 仏法では、若くして病気などで亡くなっても、充実した人生をおくれるという御文はございますか。
 池田 あります。たとえば、南条七郎五郎という人がいた。
 この人は、大聖人もよくご存じで、だれからも将来を嘱望されていた。しかし、この若武者は、弱冠十六歳で突然、亡くなっています。
 夫に先立たれ、こんどは子供が亡くなり、悲しみにくれる母と、その七郎五郎の兄である時光に対し、大聖人は真心のお手紙を数々送られ、激励されていた。
 そのお手紙のなかに、私がまことに甚深の義を感じた一節があるのです。それは、「をさなき心なれども賢き父の跡をおひ御年いまだ・はたち二十にも及ばぬ人が、南無妙法蓮華経と唱えさせ給いて仏にならせ給いぬ・無一不成仏は是なり
 そのさまざまな因果のうえから、また生老病死という生命の理のうえから、ひとつの「病」という姿を現じることもある。
 しかし、妙法を唱えていった場合は、成仏という人生の根本的幸福の軌道に入っているから安全であり安心である、との深い法理のうえから諭されておられるわけです。
 屋嘉比 いや、たしかに寿命の長短だけでは、人生の価値はわからない場合がありますね。
 池田 つまり仏法は、さらに深い次元から「寿命」という問題をとらえるわけです。
 それは、「一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ」という、私がいつも思いおこす、まことに甚深のお言葉があります。
 屋嘉比 要するに、三世というスケールからみなければならない……。
 池田 そういうことですね。仏法は道理である。当然、懸命に信仰していても、さまざまな過去の原因から、また今世の使命を終えたという意味から、早く亡くなる人もいる。
 凡夫であるわれわれには、どうしても解せない気持ちになる場合もある。
 だが多角的、かつ深く追究してみるならば、凡下の眼にも、その一生は最大に生きぬいたものであったという証も、みえてくる気がします。
 またそうでなければ、われわれ凡夫は、三世の生命といっても信じられない。(笑い)
 仏法は、「現世安穏・後生善処」というがごとく、必ずなんらかの「後生善処」への証がある、というのです。
 ですから、一時的な悲しみはあっても、結果的には残された人々も、幸福への上昇気流に乗っていけるというのが、仏法であり、信心なのです。
 ―― 七郎五郎が亡くなった後、兄の時光も、当時大流行した疫病にかかった。
 しかし仏法の信仰によって完治し、寿命を五十年も延ばしています。そして、七十四歳まで生きぬいたといわれますが。
 池田 そのとおりです。
 ―― そこで、鎌倉時代の平均寿命は、どれくらいだったのでしょうか。
 池田 さあ、それはどうでしょうか。ただ、考古学者の研究にもとづき、室町時代は二十歳まで生きた人は、その後、何年生きるかという平均余命が十五、六年と推定した学者がいた記憶もあります。
 これは、私はなんとも言えませんが。
 屋嘉比 当時は疫病の大流行もあった。大地震とか自然の脅威もあった。
 ともかく、七十四歳というのはたいへんな長寿だったと思いますね。
 池田 そう思います。そこで南条時光は、長命であったがゆえに、大聖人御入滅後も長く、二祖日興上人にお仕えすることができた。そして大石寺のある、大石ケ原一帯の土地(現在の静岡県富士宮市)を寄進し、令法久住という未来への重大な使命を果たしている。
 ですから、弟の七郎五郎の寿命は、お兄さんの時光に継がれていったのでしょうかね。
 ま、私はよくわかりませんが。
 屋嘉比 長い人生と信仰のうえから見きわめた場合は、なにかみえるものがあるのでしょうね。
 池田 こういう言い方は短絡的になるけれども、無始無終にして、大宇宙とともに存在しゆく永遠悠久の生命からみるならば、多少の長寿、短命ということも、ま、朝日の前の露に等しいといえるわけでしょう。当然、この現実の人生を生きて、生きて、生きぬこうとすることが大前提となりますが……。
 屋嘉比 人生の本質を根本的に考えていけば、当然そういう問題にもなると思います。
 池田 これは余談になりますが、私は「遺族」という言葉はあまり好かない。
 むしろ「後継者」という言葉が、ふさわしいと思っている。
 屋嘉比 いや、素晴らしい表現です。そうでなければ、親と子、先輩と後輩という、最も大切な心の絆の連続性がなくなりますね。
 池田 言うなれば、われわれは数学の極理はわからない。けれども数学の達人は、何千、何万倍も奥深い法則の真理を会得しているのではないでしょうか。
 屋嘉比 万般にわたり、そう言えるかもしれません。
 ―― 生命の方程式も、同じことがあるのでしょうね。
 池田 これも、あくまでも仏法上からみれば、どんな人も、みな使命があるということが大前提となりますが、牧口初代会長は、ひとつのたとえとして、人には、
 一つには、いなくてはならない人
 二つには、いてもいなくてもよい人
 三つには、いないほうがいい人
 がいると、よく指導されていた。
 屋嘉比 おもしろいお話ですね。事実、社会のなかで、そう思わせることは多々ありますね。人を殺したり、強盗をしたり……。
 池田 当然それはいけないが、しかし、いてもいなくても、どちらでもいいような中途半端な人生であってもならない。それぞれの立場で、人々のため、社会のために働き、堂々と生きぬかなくてはいけない、と指導されていたことなんです。
 誤解されては困るんですが、言わんとすることはわかってください。(笑い)
 屋嘉比 いや、人生の本質を突いているお話と思います。
 ―― たしかに、いなくてはならない存在の一生で、人生を終えたいものですね。
 池田 ともかく仏法は、死という厳粛なる事実を、永遠性の幸福観のうえから説き明かしたものといえるでしょう。
 ですから、生と死の境界線を帰納的にどこに定めるかということ、つまり脳死とか、心臓死といったものは、どちらとも説いておりません。もちろん、御書にも断定はない。
 むしろそれは、医学にまかせているといってよいでしょう。
 屋嘉比 そうでしょうね。医学においても両説があり、いまだに、決定的結論は出ません。
 脳死による死の判定は、とくに臓器移植において重要となってくるわけですが、国民感情においても、まだまだ合意にはほど遠いようです。
 ―― 臓器移植の先進国といわれるアメリカでも、ある調査では、「脳死を法的な死の定義として使ってよい」と認めた人は五五パーセントで、「使うべきでない」が二六パーセントです。
 屋嘉比 それだけに、医学的にも、性急な結論は出せないと思います。
 池田 私の独断的な考えでいけば、まあ、法律で脳死を規定するだけの問題ではない。
 やはり、当事者ならびに家族の心情というものが、当然、大前提として考えられるべきでしょう。
 ―― 生命という問題は、単純なものさしだけではかる問題ではないと思います。
6  「八」がもつ多様な意味
 ―― 話は変わりますが、第七章での「蓮華」について、読者から、もう少し論じてほしいという投書がありました。なかでも「八葉の蓮華」の「八葉」ということについて、お願いしたいというのが多かったのですが。
 池田 ま、ふつう、蓮華の花は二十枚から二十五枚といわれてますが。
 屋嘉比 ああ、そうですか。数えたことはなかったもので。(笑い)
 池田 その蓮華の花には一重もあるし、八重もあるようです。その八重咲きの蓮華は、大小合計すると、百枚ぐらいの花弁になっているものもあるようです。
 屋嘉比 いろいろあるんですね。
 池田 ですから、一般的に、八重というのは「八」という実数ではなく、数多くある、という意味なんです。
 屋嘉比 そういえば私は、沖縄の八重山の「八重」という意味も、数多くの山という意味をもっていると聞いたことがあります。
 池田 そこで大事なことは、この仏法上の「八」という数字の意義なのです。
 一義には、この「八」について「たまをひらくと読むなり」という御文がある。この「たま」とは一念、一心の生命をいっております。
 つまり、わが一念を無限に開いていく、という意義と思います。
 また、古今東西を問わず、この「八」の数は、一般的にも全体性とか、広がりとかいう意義が含まれているようですね。
 屋嘉比 歴史的にはどうでしょうか。
 池田 たとえば古代エジプトや、バビロニア、またアラビアなどでは、この「8」の意義を「太陽」をあらわす数として使われてきたことが調べられています。
 屋嘉比 これは数学の範疇になりますね。
 池田 私は数学者でも、天文学者でもありませんが、仏法で説く意義から延長して、「八」という数の不思議な意義を、興味ぶかく思っていたのです。
 そこで、この「8」というのは、調べてみると、それらの地では、「完全」とか「光輝」とか、「豊饒」などを意味する、聖なる数字でもあったようですね。
 屋嘉比 すると、ギリシャにもなにかありますか。
 池田 やはり、その意義は深められていったようです。
 有名な数学者ピタゴラスの著書のなかでは、太陽が生み出す「増大」と「知恵」とをあらわす数として記されています。
 ―― ピタゴラスはだれでも知ってますが、たいしたもんですね。(笑い)
 池田 数学者として、また哲学者としても世界的に有名であるが、いまから二千数百年前の彼の幾何学が、いまもって不動であるということはたいへんなことでしょう。
 屋嘉比 仏法では、どういう立場になりますか。
 池田 当然、偉大なる「声聞」でしょう。
 長い人類貢献の歴史のうえから追究していった場合、菩薩の一分の働きをなしたとみることもできるでしょう。
 ―― どんな門下がいますか。
 池田 門下というより、影響をうけたのは、ソクラテス、プラトンなどが有名ですね。
 屋嘉比 よくいわれますね。
 池田 また、古代ギリシャにおいては、「8」は「all」つまり「すべて」を意味していたようです。少々ややこしいのですが(笑い)、これは哲学的には意識と無意識を調和させる「完全な知性」とか、「知識と愛」ともとらえていたようです。
 また、「作用と反作用」「進化と退化」を止揚する完全な機能をあらわす数である、というようなとらえ方にも発展していったらしいのです。
 ―― 「8」を「聖数」とする伝統は、その後もなにか特徴的なことがありますか。
 池田 ひとつの例として、音楽でも、よく“オクターブ”といいますが、これも「八音階」ということですね。
 これは、初めの音調が一段階高くなることから、「蘇生」を意味するようです。
 ともかく、この点からみても、仏法の「八葉の蓮華」という深い意義も、多少おわかりいただけると思います。
7  法華経は「開結」合わせて「八万四千字」
 屋嘉比 では日本ではどうですか。
 ―― 私も調べてきたのですが、『日本書紀』のなかで、日本国は「大八洲国」とよばれていますが、この点はどうでしょうか。
 池田 そうですね。
 まだ当時は、日本の島数は不確定であったかもしれないが、たしかに「大八洲国」とありますね。
 ―― これは、いわゆる大日本豊秋津洲(本州)、伊豫二名洲(四国)、筑紫洲(九州)、億岐洲(隠岐島)、佐度洲(佐渡島)、越 洲(北陸)、大洲(山口県屋代島)、吉備子洲(岡山県児島半島)の八洲の総称であったようです。
 池田 と同時に、この「大八洲国」という名称の「八」は「弥」のことで、多数の島から成り立った国、という意義もあったわけでしょう。
 ―― 『古事記』や『万葉集』などにも、「八」という数は、「末広がり」とか「多い」とか「称賛」「すぐれた」という意味で使われているようですね。
 屋嘉比 すると、これは中国の漢字の影響ですか。
 池田 いや、私は学者ではないので、確かなことはわかりませんが、もともとは、どうもそうではないような気がします。日本独自の発想のようです。
 まあ、よく一般にいわれているのは、江戸時代の有名な本居宣長の説が登場するところでしょう。
 彼は、外来文化以前の古代日本人の心にふれ、いわゆる「やまとごころ」を論じている。
 ―― そのとおりです。本居宣長の研究で有名なのは、小林秀雄氏、丸山真男氏などでしょう。これはたいへんに評価されています。
 池田 そうですね。小林秀雄さんとは、一度お会いしたことがあります。丸山真男氏は存じあげておりません。
 そこで宣長は、かなり古くから、日本には「いやまして」とか「いやさか」という言葉があるが、これは漢字の伝来以前からの言葉であったことに、着眼しているようですね。
 ―― この意味は、「さらにいっそう」とか、「ますますの繁栄」ということになりますが……。
 屋嘉比 日本にも共通の「八」の概念があったのでしょうかね。
 池田 どうもそのようです。ですからこの「いや」が漢字の「八」につながっていったことも、十分考察されるようです。
 屋嘉比 すると隣国中国はどうだったのですか。
 池田 私はよくわかりませんが、ただ言えることは、中国でも元来「八」を尊崇する風習があったことは事実のようです。
 ―― それは、中国に仏教が伝来する以前からのようです。
 池田 有名な『漢書』とか、仏教伝来以前の『礼記』や『書経』など、古代の文献にも、「八」をもってすべてをあらわす意義もあったようですからね。
 屋嘉比 そうすると「八」の意義は、世界的に普遍的な成り立ちの背景があるわけですね。
 池田 そうなりますね。中国では季節の総称を「八節」というし、また「八洲」といって、これが「全国土」を意味していた。また世界を「八紘」「八方」「八維」といいましたからね。
 屋嘉比 それでは、インドでは……。
 池田 これは梵語学の研究で明かされているようです。日本では、梵語学は東大になるでしょう。また英国などの、著名な世界の大学でも、研究がつづけられているようです。
 屋嘉比 梵語学なんて、初めて聞きました。
 池田 そうでしょうね。いや、私もよくわからないんです。
 ただもう十年ぐらい前になりますか。ソ連に行ったとき、モスクワ大学のホフロフ前総長を通し、ソ連科学アカデミーから、梵語の法華経「授記品」の写本を贈られたことがある。
 七、八世紀のもので、シルクロードのコータンというところから出土したものということでした。それを東洋哲学研究所で翻訳してもらったことがあります。
 ―― ええ、そうでした。
 池田 そこで、古代インドの考え方にも、「八」という字は深い意義があったようです。
 これは屋嘉比さんの分野ですが、古代インドの医学は、人間を「八術」という八つの分野から診断するという考えもあったようです。
 屋嘉比 ああ、そうですか。いっぺん調べてみなければなりませんね。
 池田 屋嘉比さんも若いのだから、いろいろ研究してみてください。
 これは「八分医方」ともいわれております。ほかにも、音声は「八音」、身体は「八処」といっています。また胎児にも「八念」の精神活動があるというように、さまざまな次元で「八」をもって「充足」「完備」ととらえております。
 屋嘉比 興味ぶかいとらえ方ですね。すると、古代インドの「八」に対する普遍的な観念が、いわゆる仏教でさらに止揚されていったと、とっていいのでしょうか。
 池田 私もそう思っております。
 ですから、その「八」の義が集約されていったのが、仏法の「八」ならびに「八葉の蓮華」である、という意味も、そのへんからわかっていただきたいと思います。
 ―― たしかに仏教は、古代インドの思想や文化をふまえながら展開されておりますね。
 池田 そこで、教義という根本問題は別として、イスラム教がなぜ仏教をしのぎ、中近東、アフリカ、アジアの一部までも広がったか。その理由のひとつは、途上における功罪もありますが、それぞれの土地の文化を大事にし、用いようとした。
 ―― よく「右手にコーラン、左手に剣」といいますが。
 池田 そうですね。一面ではたしかに、仏跡なども破壊している。だが、もう一面では、イスラム文化と土着の文化、風俗とを融合させる努力をしたともいわれている。
 この点も、私は研究すべき重要課題と思っております。
 屋嘉比 伸びゆく宗教、伸びゆく文化というものの流れがわかる気がします。
 池田 歴史の流れを、どう概観から本質へ、どう正統をふまえながら柔軟にみていくかが大事でしょう。
 私どもも、多く誤解されてきましたが、そのへんの根本の軌道と柔軟性とをよく見きわめ、また深く知っていかねばならないと思います。
 ―― なにごとも、柔軟性がなければ発展しないことを、私も見、痛感します。
 先生は、根本は巌のごとく、本質を鋭く見きわめ、また、時の流れを深く洞察しながら、柔軟性をもたれた方だから、正法がこれだけ興隆したと思います。
 池田 いや、私のことは言わないでください(笑い)。そこでさらに申しあげれば、仏法では多く「八万由旬」「八恒河沙」「八正道」「八十種好」「八万法蔵」等々とあります。
 屋嘉比 漢字は深い。英語はちょっとそこまでいきませんね。
 池田 屋嘉比さん。医学では、この「八」の意義に通ずる、なにか基本的な立て方はありますか。
 屋嘉比 いま、ちょっとわかりませんので、研究します。(笑い)
 池田 そこでまあ、いままで申しあげた大乗仏典の最高峰である法華経は、開経である「無量義経」と、結経である「普賢経」を合わせて、「八万四千字」となっています。
 屋嘉比 不思議なことですね。偶然の一致か、それとも、それ相応の考えをもって成し遂げたものでしょうかね。
 池田 法華経二十八品の文字は、「六万九千三百八十四字」が定説になっている。これは有名です。そこで、うちの資料室長の古賀君のところで、丹念に調べてもらいましたが、開結の両経を合わせた字数は、「一万四千三百五十二字」です。ですから、合計すると「八万三千七百三十六字」となる。
 ま、総じて「八万四千字」であり、「八万四千」の煩悩に通ずるわけです。
 このことについて、「御義口伝」には、「八万四千とは我等が八万四千の塵労なり南無妙法蓮華経と唱え奉る処にて八万四千の法門と顕るるなり」と説かれております。
 屋嘉比 本当に深い意義がこめられていますね。
 池田 要するに、全世界の「八」という意義は、釈尊の仏法にすべて包摂されながら、より普遍的な方向へ、止揚されているということになるでしょう。
 屋嘉比 当然そうなりますね。また、そうであってこそ、仏法は普遍的な真理をふまえながら、根本的な「法」というものを展開しているといえるのでしょうね。
 私は、それがいかに大切なことかということもよくわかります。
8  江戸と蓮
 ―― そこで、各地でハス便りを聞きますが。
 池田 ま、花が開花するのは、六月中旬からこの七月になるでしょう。
 私は、この不思議なハスを研究したいのですが、多忙でできないもんで、ハスの好きな、関西創価学園の野崎教諭にお願いして、研究していただいております。
 いまでは、そのハスの池は八つになっています。
 ―― 交野は、松田先生ですか、ホタルの研究も盛んですね。
 池田 ええ。付近の市民も見にきたりするようです。一般紙も取材にきております。
 屋嘉比 それこそ生きた学問で、たいへんによい学習になりますね。
 池田 もうひとつ、ついでに申しあげます。(笑い)
 八王子の創価大学の「文学の池」には、睡蓮がかなりあります。先日、満開の写真を送ってくれました。高貴な花ですね。
 ―― ああ、そうですか。
 たびたびおじゃましておりますが、そのことは見落としておりました。
 池田 それにしても私は、因果倶時の法に譬えられる蓮華が好きで、世界の蓮華の花を一堂に集めて咲かせたいという夢もあるんです。(笑い)
 屋嘉比 日本全国の人が、上野駅を知っていますが、あの上野の不忍池のハスも有名ではないでしょうか。
 池田 たいへん、有名ですね。古い上野山の絵には、池の蓮華が、きれいに描かれているということを、聞いたことがあるが。
 屋嘉比 だれが植えたのでしょうか。
 池田 よくわかりませんが、寛政の改革で知られている老中、松平定信が関係していたことは間違いないようですね。寛政といいますから、いまから二百年ぐらい前になりますか。
 ―― そのようです。しかし、あのあたり一帯は、紀元前ごろは、東京湾につながる入り江の奥になっていたようです。ですから、海水が入りこんでいたんではないでしょうか。
 池田 まあ、そうなるでしょう。
 現在の日比谷も、“ひび(篊)を立てて海苔をとった入り江”であったようです。
 屋嘉比 すると、上野駅あたりは、昔は海だったんですか。
 池田 詳しいことは、矢田挿雲の『江戸から東京へ』を読めばよくわかります。
 ―― 『江戸から東京へ』を読むと、いろいろなことがわかりますね。
 そこで、徳川家康が江戸に入ったころは、どんな状態だったのでしょうかね。
 池田 そのころは、池の周囲が三キロもあったという記録もあるそうではないですか。
 ―― ええ。ですから、舟で、往来もしていたようです。
 屋嘉比 すると徳川家康は、なにか蓮華に関係があったというのでしょうか。
 池田 詳しくはわかりませんが、家康はどうも、「蓮華」を天下人にふさわしい花として、江戸城の中枢である本丸の西南に、壮大な「蓮池堀」をつくったということは事実のようですね。
 屋嘉比 初めて聞きました。
 池田 その本丸は、家康が、政務を行うところだったようです。
 目を転じると、蓮華がすぐ見える。
 この江戸城の設計は、藤堂高虎がしたといわれている。その絵図面を見て、家康自身が朱や墨で訂正を入れながら、この本丸の近くに蓮華の池をつくったと伝えられているようだ。
 ただ、現在もその「蓮池堀」があるかどうかは、私はわかりません。
 もう、二十年ちかく前になりますか。宮内庁の方々の特別のご好意で、あるていど、皇居の中を見せていただいたことがありますが、そのあたりまでは行けませんでした。(笑い)
 ―― それだけの頭脳の持ち主であった家康は、方角的には、なにか考えていたのでしょうか。
 池田 いろいろ考えていたでしょう。ただ言えるのは、家康没後ほぼ二百年ぐらい経って、江戸城の北東、つまり丑寅の方向に、不忍の蓮池がつくられているということです。
 なにか家康の考えを、後世の人が受けとめておったのでしょうか。どうでしょうか。
 屋嘉比 英雄は、天文、地文、よく考えておりますね。憎らしいくらいですね。(大笑い)
9  さらに、「合とは仏界なり掌とは九界なり」(同)ともあります。
 そして、「十界悉く合掌の二字に納まつて森羅三千の諸法は合掌に非ざること莫きなり」(同)とも、重々の意義が説かれております。
 またご質問があったら言ってください。
 屋嘉比 そうですか。ひとつひとつに裏づけがありますね。裏づけがないと、われわれはなかなか納得できません。
 いまのお話をうかがうと、深い裏づけと、崇高なる精神があることが、わかる気がします。
10  広々とした境涯を開く仏法
 ―― 私も、現代という時代性からみても、いまのお話を聞いて、感ずることがあります。
 それは、管理社会の弊害でしょうか。
 いわゆる「豊かさ」と「便利さ」の反面には、必ずといっていいくらい、人間疎外、無気力化、利己主義というものがあらわれる。つまり、時代の流れは、自分自身というもののこの大切な心を、狭い範囲へ、小さなものへと、閉ざしていくような気がしてなりませんね。
 その意味からも、いまのお話の、無限大に開きゆく一念の作用が、どれだけ大事になってくるか痛感します。
 池田 現代は、“孤独地獄”ともいわれる。
 仏法は、いかなる境遇にあっても、広々とした境涯を開くことができる。
 名誉や財産や便利さだけでは、人間は不満足である。
 屋嘉比 まったくそうです。
 自分も、医師として好きな研究もできる。家族にも恵まれ、たしかに幸せではあるが、将来、自分がいつガンになるか、子供がどうなっていくかと思うと、不安でたまらなくなる。
 ―― 万人共通のことです。
 屋嘉比 この閉塞化への傾向は、政治だけでも、科学だけでもどうしようもありませんね。
 それはそれとして、医学的にみても、人間が一生のうちに使う脳の神経回路は、全体の一部分といわれます。残った大部分は予備ということもありますが、もっともっと開き、使えたら素晴らしい。(笑い)
 池田 まあ、凡人は全部使いきれない(爆笑)。ですから、なんとか最大限に脳を使うように、また、生命力を発揮するために、仏法はあるんです。
 仏法に、「智水はかり難き故に無量と云う」とある。
 これは、信仰の対境である御本尊の力用のことですが、即私どもの全智、全能をどれだけ発揮し、自分自身の人生のために、さらに、社会のために発光させることができるかどうか、ということにも通ずると思います。
 屋嘉比 そういうことでしょうね。人間は、善の方向へ、幸せの方向へと、まだまだ素晴らしい創造性と可能性を秘めていると、私も信じています。
 ―― 私は、ある学者と話して感じたことは、学問も象牙の塔では、もはや時代遅れである。
 それでは進歩はないし、人々に貢献できない。開かれていかないと、ますます民衆との遊離の溝が深まってしまうと……。
 屋嘉比 そう思います。時代の流れを知らないというのは、恐ろしいことです。
 すべての分野の人々が、孤立しては存在しない。また、時代の大河の流れのなかに生きている。その意味からみても、その学者の言うことは正しいと思います。
 池田 いや、宗教界も同じなんです。
 宗教の「宗」とは、根本ということになる。宗教といった場合、さまざまな意義があるが、大勢の人ということにつながる。
 学校も大勢の人で成り立っている。信仰も学問も、一人だけというわけにはいかない。
 上下左右と切磋琢磨しながら、深化されていくものです。
 そうでなければ、自分がわからなくなってしまう。他者がみえなければ、自分もみえないからです。それでは当然、社会から疎外されてしまう。
 屋嘉比 歴史的にみても、社会も文化も、開かれた相互の交流がない場合、行き詰まってますね。
11  世界平和は民衆次元の交流で
 ―― 国家と国家の交流も、「開く義」ですね。(笑い)
 池田 そう言ってもいいでしょう。(笑い)
 たしか物理学者のボーアでしたか、「開かれた世界」すなわち、各国の人間と思想の交流こそ、核兵器の抑止に不可欠であると提唱しておりましたね。
 ―― つい最近(一九八五年六月)も、池田先生はデクエヤル国連事務総長と会見し、米ソ首脳会談が今日ほど要請されることはない、という意味のことを話されたようですが。
 池田 そのとおりです。事務総長は、ともかく米ソの首脳会談が先決であり、それ以外に、今日の世界的諸問題解決の糸口はない、と強調していた。
 私も、一貫してそれを主張してきた。
 ―― そのことは有名です。やっと実現の見通しがたちましたが、今後の進展を見守りたいですね。
 ともかく、二十数年間、先生は各国に行かれて、会談や講演で常に主張してこられたことは広く知られております。
 また民間団体として、強力に国連支持の活動をつづけられていますね。
 池田 いやいや、それはそれとして、もっと大切に思っているのは、各国の、民衆と民衆との交流が必要であるということです。
 これは『人間革命』にも、私ども日本人の体験のうえから書きましたが、日中戦争、太平洋戦争が勃発したのも、民衆と民衆との深い交流がなかったため、歯止めとなるものがなかった。ここに根本的原因があった。
 この苦い教訓を、広く世界に知らしめなければならない責務があると、私は思ってきた。
 その民衆次元の、長期的かつ強靭な友好は、文化の交流であり、教育の交流であると思います。
 これは、決して政治、経済を度外視するものではありません。
 ただ政治、経済のみでは、力の論理、利害の論理に走りすぎてしまうからです。
 屋嘉比 また、その交流の根底に拠って立つべき理念とか、哲学とか、宗教とかが、必要となってくることも道理でしょう。当然、その内容のいかんが前提であることは、言うまでもありませんが。
 池田 そういえますね。おうおうにして、売名になってしまったり、その場かぎりの短期的なもので終わってしまう場合があるからです。
 フランスのある思想家が、“平和とは、貪欲に対抗する力の道徳的勝利である”という意味のことを言っていたが、この問題は畢竟するに、人間へと帰着するでしょう。
 屋嘉比 たしかに、自然科学は未曾有の進歩を成し遂げた。しかし最近、常に思うことは、肝心要の人間の精神世界の進歩が、ますます追いついていかなくなっている。
 その意味においても、時代を先取りしたこの対談は、私にとっても、たいへん重要な勉強と経験だと思っております。ともかく現代は、この一点に悲劇がある。
 池田 私は、政治、経済、科学そのものの次元ではない。その拠って立つところの哲学、理念、宗教というものをもっているつもりです。
 結論して申しあげれば、この日蓮大聖人の仏法は、「末法万年尽未来際」「一閻浮提総与」となる、根本中の根本義を示しておられるからである。
 つまり、この太陽の仏法を根本とするならば、「末法万年」、さらに「閻浮提」、これは世界と訳しますが、世界の人々が、平和への強き連帯を広げていくことができることは間違いない。これこそ、歴史上かつてなかった、生命蘇生の大文化運動ととらえることができる、と思っております。
 ―― 新たなる大運動には、必ずといってよいくらい誤解や中傷、さらに迫害があるものです。
 それらを超克し、一切は歴史が証明するところでしょう。
 池田 そのとおり、そう信じております。

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