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日蓮大聖人・池田大作

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第八章 全体(健康)と安楽の欠如(病気…  

「生命と仏法を語る」(池田大作全集第11)

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9  より深き人生を志向する健康観
 ―― ところで、家庭常備の医学書がよくある。うちにもあります。こういうハウツーものはたいへん便利です。ただそれだけの素人判断では、むずかしい場合があると思いますが。
 屋嘉比 そのとおりだと思います。
 ひとつの病にもさまざまな複合的な問題があるわけです。
 たとえばタンに血がまじっているだけで、本に出ているからと、すぐ肺ガンと勘違いする人もいます。やはり医師の診断が大事でしょう。
 池田 そのへんの賢明な使いわけが、大切となってくるわけですね。
 ま、一事が万事で、これは人生万般にも通ずることでしょう。
 ―― 健康書がよく読まれるのも、裏返せば、それだけ健康に対する不安感が増大している証左でしょうね。
 池田 これは現代と未来の重大な課題でしょう。
 いわゆる「身体的健康」「心の健康」「社会的健康」。
 この三つの問題は、社会が複雑になればなるほど、むずかしくなる。
 ―― まったく「健康とはいったいなんなのか」ということが、問われる時代に入ってきた。この点、仏法者である池田先生はどうみられますか。
 池田 いや、これはもう屋嘉比さんの専門分野でしょう。(笑い)
 要約していえば、法華経では「命濁」(生命自体の濁り)、「見濁」(思想の濁り)、「煩悩濁」(本能的な迷い)、「衆生濁」(人間社会の濁り)、「劫濁」(時代の濁り)の「五濁」という、多重なる次元の連関性と全体観のうえから、人間の「病」ということもとらえているわけです。
 屋嘉比 よくわかります。
 池田 そこで、一般論的にも「健康」、つまりhealthという英語の語源には「全体」、また「完全」という意味もあるようだ。ですから、まず「色心」ともに、つまり「身体」と「心」がともに健康でなければならない。
 屋嘉比 たんに検査で異常がないというだけでなく、生きいきと社会のなかで活躍していく姿に、本来の健康の意義があると思います。
 ―― では「病気」という言葉はどうでしょうか。
 池田 いや、これも屋嘉比さんの分野ですが、また専門的にはいろいろな定義があると思いますが、「病気」(disease)とは「安楽の欠如」という、古代フランス語に由来していることから考えていただきたい。
 屋嘉比 医学者としても、両方ともなにかしら深い人間生命への思索と、直観が込められているように、私は強く感じられてなりません。
 池田 この「安楽」という言葉は、法華経の「安楽行品」という経典にあります。
 これには甚深の義がありますが、人生、生活の一次元でいえば、「安楽」とは苦難を避けていくことではない。その苦難の連続をも悠々と乗り越えゆくなかにこそ、じつは真実の人生の「安楽」があるという、達観した境涯のことと思います。
 屋嘉比 仏法は、一つひとつの言葉のなかに、じつに深い意義が込められていますね。
 池田 ともかく屋嘉比さん、生命の「生」と「老」と「病」と「死」という問題は、いつになっても永遠の課題であり、最も重大な問題ですね。
 屋嘉比 私は、その「病」の問題解決に、一生を賭けようと思って医者になりました。
 しかし、探究すればするほど、医学の限界を感じてならないんです。
 池田 謙虚な言葉です。
 屋嘉比 人間なにをするにも、行動の根本は健康でなくてはならない。
 池田 まったく同感です。
 べルクソンの言葉ではないけれども、健康とは「行動への意欲をもち、社会生活に柔軟に適合しながらさらに歴史創造への理想をもつ」ということになりますからね。
 このベルクソンの言葉は、私が青春時代から大好きな言葉でした。
 そこで入信当初、仏法の奥義のひとつに「上行」「無辺行」「浄行」「安立行」という法華経の経文がありますが、この意義について、たいへんに感動したことをよく覚えております。
 つまりこれは、別しては、仏の「常楽我浄」の「四徳」。総じては、一切の生命がもつ徳用をあらわしている。
 屋嘉比 たしかに、文字だけを見ても、なにか生命自体の素晴らしい躍動感を感じますね。
 ぜひ、この「上行」「無辺行」「浄行」「安立行」ということについても、生命論のうえから、なにかの機会に論じていただければ、ありがたいと思いますが。
 池田 よくわかりました。またいつかいたしましょう。たしかに、これを解釈するには、重々の論議が必要となってきます。
 ただ、ベルクソンの思索が、この奥義の一端に近づいていることだけはいえると思うのです。
 また、仏法の、「浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり」という言葉も、私が感銘した一節です。
 「浅き」とは浅き教えである。「深き」とは法華経である。末法においては「妙法」である。
 またこの大法を、世界に流布しゆく行動の意義も含まれている。
 ですから、次元を変えてみれば、浅き人生観からより深き人生観へと、常に志向しゆくことが大切なことともとらえることができる。
 そこに、自身の人生の確かなる充実感と向上があるということにもなるでしょう。

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