Nichiren・Ikeda
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第七章 生命の法理「蓮華」
「生命と仏法を語る」(池田大作全集第11)
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11 よき根本原因を作るための信仰
池田 要するに、人は幸福になりたいものだ。つまり、幸福は人生の目的である。
しかし、相対的な範疇での幸福は感じても、絶対性の幸福というものはわからないものです。
屋嘉比 ええ。たとえば、病気が治る。これはひとつの幸福である。しかし、またいつ病気になるかもしれない……。
池田 また、自分は幸福になりたくても、どうしても幸福になれないものがある。
それを仏法では、「悪業」とも「罪業」ともいっております。
人間には、どうしようもない、流転の傾向性があるといえるでしょう。
その宿命というか、宿業というものを乗り越えて、自分自身の本来的な無限の自由性への発現をなしゆく。そしてまた、無量の福運を積みゆく方向へと、志向していくのが、仏法の信仰なのです。
屋嘉比 因果とか宿業というと、なにか暗いイメージがありましたが、本来の仏法は、今日を、そして明日へ、さらには未来へという、まことにダイナミックなものであることがよくわかりました。
池田 私も、信仰してそれがわかりました。つまり、一切の不幸の宿命や罪業を、根本的次元から転換しゆくのが、「本因妙」のこの仏法なのです。
屋嘉比 “本因の法”という意味は素晴らしいと思います。
池田 ただし、信心の厚薄によるということが、大前提となる。
「叶ひ叶はぬは御信心により候べし」とあるとおりです。
── 当然ですね。
池田 頭が疲れてきたもので、いい例ではありませんが(爆笑)、その宿命転換しゆく法の力は、億万ボルトの電流が、生命の「一心」に伝わるようなものといえるでしょう。
── すると、われわれの努力とか向上への力は、せいぜい千ボルトか二千ボルトぐらいの働きしかない。
(笑い)
池田 いや、仏法はその進歩と向上への努力を、最大限に価値あらしめる根源の法則なんです。生活を離れての仏法の信仰はありえないし、また絶対にあってもならない。
屋嘉比 同じ医学の講義でも、超一流の力をもつ教授の講義を受けた場合と、仲間うちの場合とでは、やはり、ボルテージが全然違うんです。(笑い)
池田 同じような意味になりますが、「本因妙」の仏法の力は、清らかな大河の流れのようなものである。幸福という「一念」の大海に、間違いなく入っていくことができる。
たしかに、われわれにはそれぞれ、大小さまざまな宿命があるかもしれない。また、罪障もあるかもしれない。しかし、どれだけあるか計算することはできない。(笑い)
だが、この「本因妙」の仏法という大河の流れに、ひとたび「一念」が入った場合は、ありとあらゆるものを浄化させながら、滔々たる奔流となる。
屋嘉比 人間の身体も、絶えずものすごいスピードで変化していきます。私の専門の「胃」でも、毎日毎日、細胞はすさまじい分裂をし、傷を修理し、悪いものを流していきます。驚くことに、胃の粘膜の表面は三日間で全部変わるんです。
── はあ。人間は、身体も生命もまったく素晴らしい。(笑い)
池田 ですから、私どもは、仏の境涯に到達したい。また、その過程において、現実の生活に勝利したい。
つまり、この根本法則である「本因妙」の仏法にのっとって、壮大なる境涯の人生と、確かなる過ちなき幸福への生活とを歩みたいがゆえに、日々、精進しているわけです。
屋嘉比 その確かなる法則にのっとりながら、すべての人が、自分らしく人生を歩んでいけるということは、素晴らしいことですね。
池田 つまり、よき根本的原因をつくりゆくための信仰であり、仏法なのです。
朝な夕な、「本因妙」の仏法によって宿命転換への、つまり原因をつくることができる。
その繰りかえしの人生のなかに、「一生成仏」の意義がある。
── なるほど。
池田 ともあれ、だれびとたりとも今日が大切である。
また日々、宿命を打開し、栄光への原因をつくりゆくことは素晴らしい。
釈迦仏法は「歴劫修行」と説きますが、大聖人の仏法は、どこまでも現実の生活を大事にしながらの「即身成仏」であり、「一生成仏」である。
まあ、平たく言えば、瞬間瞬間を生きていく人生が、楽しみで横溢している境涯ということになるでしょうか。その「仏力」「法力」があるのです。
その前提となるのが、私どもの「信力」「行力」であることは、言うまでもない。
ですから、この「自受法楽」というか「常楽我浄」というか、人生の最高最善の価値を、自身の内なる生命に証明しゆく毎日でありたいと願うがゆえに、私どもは信仰しているわけです。