Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第六章 生命尊極の境涯「仏界」  

「生命と仏法を語る」(池田大作全集第11)

前後
2  「一念三千」の事実の現象
 ── 「三千」とは具体的に……。
 池田 そうですね。有名な『摩訶止観』第五に、「夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界なり一界に三十種の世間を具すれば百法界に即三千種の世間を具す」とある。
 十法界とは、「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人」「天」「声聞」「縁覚」「菩薩」「仏」ということです。
 つまり、「一心」「一念」はこの「十界」という十種の境界をそなえている。その「十界」のそれぞれは、瞬間、瞬間変化し、「十界」を相互に具し、十種に変化をしていく。
 さらにその十界が互具した「百界」は、のちほど申しあげますが、十如是(相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等)という十種の生命の普遍的側面を常にもっている。
 そして五陰・衆生・国土という「三世間」があり、それぞれ厳然たる区別をもちながら、すべてわれらのこの一念に具していくというのです。
 したがってこの一念は、三千種の世間をはらみ、具しているというのです。
 屋嘉比 “乗ずる”わけですね。
 池田 いや、仏法で“乗ずる”という意義は、たんなる数量的計算ではないのです。生命のもつ立体性というか、奥ぶかさというか、それを三千の法数として表現しているのです。
 ── 「一念三千」の法門は、仏法のなかの最高峰といわれますが。
 池田 そのとおりです。そこで多くの宗派が、この「一念三千」の法門を盗みとっていったといわれていますからね。(笑い)
 この「一念」というものを、どのようにとらえるか……。
 これは科学でも、医学でも、最重要な本質問題ではないかと思いますが。
 屋嘉比 永遠に志向されるものです。
 しかし現実問題、そこまでいくかどうか……。むずかしいでしょう。
 ── 個と全体、全体と個の関係ともいえますね。
 池田 ま、簡単に言えば、この地球上、そして大宇宙の一切の現象というものは、全部この五尺の身の「一心」に収まる。六尺の人もいますが(笑い)、この一心に、完璧に関係、連動していくものである、ということです。
 屋嘉比 なかなかむずかしい論理ですが、わかるような気がします。鋭い仏法の眼ですね。
 池田 さらに、この微妙にして、変転きわまりなき瞬間、瞬間に、どのような自己の一念をもつか。この厳しき実相が、現実の人生の幸、不幸を決定していくととらえたのが、じつに仏法なのです。
 屋嘉比 すると、「一念」の波動の連続がすべてを決定、方向づけていく……。
 池田 そのとおりです。そこで、この「一念三千」の法門については、「理」と「事」という問題があるんです。
 わかりやすく言えば、「理」は、人間の一瞬の生命に三千を具すという原理を明かしたことをさします。その原理を、事実のうえで、生命に顕現することが「事」なんです。
 ── 一般的に法華経二十八品で、迹門十四品は「理」、本門十四品は「事」といいますね。
 池田 そうです。ところが、大聖人の仏法からみると、法華経の本迹ともに「理」となるんです。
 屋嘉比 すると「事」の法門は……。
 池田 いくら「一念三千」の法理がある、と言われても、それだけのことであり、観念の域を出ない。
 ゆえに、結論して言えば、日蓮大聖人の「文底独一本門事の一念三千たる南無妙法蓮華経」が、唯一末法における「事の一念三千」の当体となるわけです。
 ここが最も大事であり、肝心要のところなんです。
 ── よく天台の理の一念三千は、ビルの絶妙な設計図みたいなもので実体がない、といいますね。
 池田 しかも「南無妙法蓮華経」は即御本仏日蓮大聖人の御生命そのものであられる。
 そこで日蓮大聖人は、この大宇宙本源の法則と一体であられる御自身の生命を、一幅の「曼荼羅」として、根本法の当体とされたわけです。
 曼荼羅とは、「功徳聚」とも、「輪円具足」ともいい、「本尊」と名づける。この「本尊」とは根本尊敬すべき当体ということです。
 要するに、私どもの、この一念は変化、変化の連続である。
 この「御本尊」に「南無妙法蓮華経」を唱える一念となったとき、初めて仏界という尊極の生命がわが一念に始動する。
 そこにのみ、全生命、全英知を凝結した、人間の最大価値の行動がある。
 真実に、一念三千が自己の生命に完結できるという意味で、事実の現象がある。これを「事」というわけです。
 ── たとえば、テレビの理論は知らなくとも、スイッチを入れれば、見ることができるというのと同じになりますか。
 池田 わかりやすく言えば、そういってもよいと思います。
 そのスイッチを入れ、正しくチャンネルを合わせるのが、いわゆる信心です。
 信心がなければ、いくら御本尊を持っていても、仏界への活性化がなされない。
 ですから、要するに過去の八万法蔵の経典も、天台の『摩訶止観』も、すべてこの御本尊の論理的説明、証明書として収まっているのです。
 屋嘉比 万般の道理も、同じ方程式になりますね。
 池田 なお、本尊論については、「人法一箇」という、まことに深い法理がありますが、ここでは略させていただきます。
3  六道輪廻する生命にも「尊厳性」が
 ── そこでまず、「十界」ということですが……。
 池田 瞬間、瞬間に流れゆく生命のもつ「幸福感」、またその「姿」には、大きくみると十種の範疇がある。これを仏法は「十界」と、とらえたわけです。
 屋嘉比 「十」という数字にも、おもしろい意味がありますね。
 池田 「十」という数量は、古来から「まとまった数」「完全なこと」といった意義があるといわれてきた。また、「無限の数を寓する」という義もあります。
 屋嘉比 「十全」とか、「もう十分だ」とかいいますね。(笑い)
 池田 私どもの、この「十界」は、そのまま大宇宙の実相である。ゆえにこの宇宙もまた十法界である。
 具体的に言えば、われわれの生命はよく知られている「六道輪廻」、つまり「地獄界」「餓鬼界」「畜生界」「修羅界」「人界」「天界」という境界がある。
 そして「四聖」という「声聞」「縁覚」、さらには「菩薩」「仏」という、より高次元の境界が厳然としてある。
 この妙なる範疇を、厳としてもっているのが生命の実相である、というわけなのです。
 ── 苦しんだり、悩んだり、自分を見失ったり、また有頂天になったり(笑い)、仏法は現実というものを鋭くとらえていますね。
 池田 まず、有名な「観心本尊抄」には、人界所具の九界の姿について、まことに簡潔、明瞭に述べられています。
 ── 「観心本尊抄」は、法本尊を開顕された大事な御書ですね。
 池田 そのとおりです。「本尊抄」には、「しばしば他面を見るに或時は喜び或時はいかり或時はたいらかに或時はむさぼりり現じ或時はおろか現じ或時は諂曲てんごくなり、瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生・諂曲てんごくなるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり」と……。
 屋嘉比 いや、たしかにそうです。(笑い)
 池田 しかもこの「地獄界」は百三十六種。「餓鬼界」は三十六種、また三種九種という説もあります。さらに「畜生界」は一万三千三百種あるというのです。
 屋嘉比 はあ、たしかに、苦しみとか欲望とかには、さまざまな姿がありますね。
 池田 また「修羅界」は、自分の身長が八万四千由旬。四大海の水も膝までしかない。これほどおごり、たかぶったときの人間の生命は、自分が大きく見えるというのです。
 他人は、そうは見ていない。(大笑い)
 屋嘉比 ときどきいますね(笑い)。「六道」より上はどうなりますか。
 池田 これは、反省的自我ともいいます。
 いわゆる学者のような「声聞」、また芸術家などの「独覚」すなわち「縁覚」、さらに人々のために働く「菩薩」があるとされています。
 つまり、日常性を突き破って向上しようとする生命の状態です。
 屋嘉比 なにかの縁で、勉強するようになったり、人のために働く……。だれでも経験します。
 ── 最近は、自己中心主義で、人のために働き行動することが少なくなってしまった。
 池田 それはそれとして、この「九界」の行動とか、姿が、それぞれ顕現したり、冥伏したりする。これは私どもの日常生活でよくみる、またよく感じ、納得できるものです。
 ここで重要なことは、仏法の仏法たるゆえんの追究、探究の眼は、尊厳にして無限の力をもつ「仏界」という生命の実在を、いかにして顕現しゆくか、というところにあったのです。ですから、本来仏道修行というものは、この「仏界」を涌現するために、なくてはならない。
 日蓮大聖人の大仏法は、この一点に凝結され、さらに正しき「本尊」をうちたて、その現実的方途を提示しているわけです。ゆえに、万人が正しき信心修行をなしうるものなのです。
 ── その「仏界」という境地について、なにか説かれていますか。
 池田 この仏界の姿を、釈尊は「自在人」「自在王」と説いている。経釈では「世雄」とも「能忍」とも、また「仏の十号」としても示されている。
 ── 「十号」とは……。
 池田 「如来」「応供」「正遍知」「明行足」「善逝」「世間解」「無上士」「調御丈夫」「天人師」「仏世尊」です。むずかしいので、一つ一つの意義は、またいつか勉強してください。(笑い)
 ともかく、三世を通観し、万法に通達する、完成された円満の境地のことと、私は思っています。
 屋嘉比 われわれの社会をみても、高度な科学技術の追究は、声聞、縁覚というのでしょうか、その進歩の果てが、人間の自由を束縛し、人間を機械化する管理化社会であった。
 どちらかといえば、六道輪廻のほうへ追い込まれてきてしまっている。
 ── 高度な社会にみえるが、心身症や躁鬱病の文明病が蔓延している。まさしく六道輪廻ともとらえられますね。
 地獄とはよくいったもので、だんだんと人間自身が、なにか巨大なものから圧迫をうけながら、下へ下へとさがっていく感じがしてならない。
 池田 ともあれ、これまでの人類の歴史の結果は、まだまだ六道輪廻の流転を乗り越えていないといえる。
 「地獄」の「地」とは、最低のものに縛られるという意味です。
 ですから、いかなる時代になろうと、この「縛」を切り、人間自身が上昇していくことを最も基本に考えねば、人間と社会の抜本的蘇生への道はない。
 屋嘉比 重大問題です。最近、「人間学」などが話題になるように、専門化、細分化した学問をもう一回統合し、病める現代社会における人間自身を見つめなおそうという、動きが注目されています。
 池田 故トインビー博士との対談のさいに、博士が言われたことを、私は忘れることができない。
 それは、「われわれの技術と倫理の格差は、かつてなかったほど大きく開いている。これは屈辱的であるだけでなく、致命的ともいえるほど危険なことだ。(中略)尊厳性──それがなければ、われわれの生命は無価値であり、人生もまた幸福になりえない、その尊厳性──を確立するよう、一層努力しなければならない」と、まことに厳しい表情であった。
 屋嘉比 トインビー博士の見解は、たしかに正しいと思います。博士が、東洋の高等宗教である仏教に、その解決法を求めていったことは有名ですね。
 池田 そうなんです。仏法は、この泥沼のごとき社会にあって、なおかつ仏界という人間生命の最極なる「尊厳性」の可能性を見いだしている。
 そこにこの「十界論」という法理の重大な価値があると、私は思っております。
4  「無顧の悪人」にも菩薩の心
 池田 そこで大聖人の有名な「開目抄」には、「一念三千は十界互具よりことはじまれり」という一節があります。これを、いちおうの理のうえから申しあげます。
 瞬間にあらわれる十界のいずれかの生命は、固定されるものではない。次の瞬間にはまた、十界のいずれかを顕現し、移りゆく。
 この生命のダイナミズムを、仏法の直観智が見事にとらえた法理が「十界互具」であると、私は思います。
 屋嘉比 「互具」という概念は、まことにおもしろい。
 池田 ですからこの「十界互具」を、もう一歩深く論ずるには、いわゆる仏法の「空論」をお話ししなければならないんです。卑近な例をとれば、同じ人間でありながら、あるときは悲しみ、あるときは喜ぶ。喜んでいるときに悲しみの生命はどこへいったか、ということになります。
 「観心本尊抄」に、日蓮大聖人は絶妙なる譬えをひかれ、「無顧の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり」とあるように、人間が悪を重ねれば地獄である。それであっても妻子を思いやり、幸せになってほしいと涙する心もある──ひとつの菩薩界である。
 悪の地獄界の人間のなかにも、菩薩界が互具している証拠になるわけです。
 ── そこから、九界すべての「心」の変化、「互具」もわかります。
 自分が、いま対談している。声聞界であると思う。しかし、むずかしくなると頭が痛くなり、いやになる(笑い)。ひとつの地獄界になる。あんまりいい譬えではありませんが。(笑い)
 人の境涯の変化、「互具」はわかりますが、動物なんかはどうなんですか、屋嘉比さん。
 屋嘉比 有情の世界ですから、その方程式は大なり小なり同じと思います。先生、いかがでしょうか。
 池田 そうです。そのひとつの例として、オーストリアのノーベル賞を受けたローレンツという動物学者は、本能のままに生きている動物にも、ときに、弱い仲間を助けようとするのがいる、と言っていますね。これなどは、畜生界所具の菩薩界かもしれない(笑い)。要するに冥伏しているんです。
 ── 結論として言えば、この「十界互具」の法理は、われわれ人間の平等性と無限の可能性を説き明かしたと、とってよいわけですね。
 池田 そうです。ですから、この六道に翻弄されている私どもの一念が、正しき本尊に南無し、境智冥合しゆくことにより、「仏界」という、無限の生命力を発動する。
 一般的にみても、小さな一念の変革が、未来への偉大なる人生の変革へつながっていることがある。とともに、社会の変革へと連動していることも、よくみられるとおりです。
 屋嘉比 歴史上の変革をみても、わかります。
 池田 さらにその一念を、今世から永遠にわたる「常楽我浄」の固き一念へと、上昇せしめていくための「信」と「行」とが、どれほど大事であるか、おわかりいただけると思います。
 ── すると、今世だけでなく、永遠の自分自身の一念即我を確立するのが「仏界」の意義であり、信仰の目的となるわけですね。
 池田 ひとつの次元では、そういっていいでしょう。言葉で表現するのは、ちょっとむずかしいのです。仏界の生命というのは、他の九界のような具体的なものではない。九界を無限の価値の方向へと動かしゆく、本源的な生命の鋭き働きが、仏界という意義なんです。
 これを私どもの生活の一次元で言えば、曇天の日がつづいても、雨の日でも、ジェット機が高度一万メートルに達すれば、煌々と太陽が輝き、安定した飛行ができる。
 と同じく、現実の生活が、いかに苦衷にあっても、苦難の連続であっても、この胸中の太陽を満々と輝かせていけば、悠々と乗り越えていける。
 この太陽を、たとえて言うならば、ひとつの仏界といえるかもしれない。
 屋嘉比 まことに、人生への深き示唆に富んだお話と思います。
 池田 ただし、ひとつの次元から、「御義口伝」には、「菩薩とは仏果を得る下地なり」とおっしゃっておられる。
 それは法のため、人のため、社会のために行動することが菩薩である。その菩薩という行動の土台なくしては仏果は得られない。ゆえに、観念では仏果は得られない。万巻の仏教の書を読んでも得ることはできない。
 そこでまた、仏果を得たといっても、なんら姿が変わるものでもない。六道九界の現実社会のなかで、そのままの姿で生きぬいていくわけです。
 お化けみたいな、神秘的な悟りとか、仏というものは、真の仏法ではまったくない。
5  大宇宙のごとき静寂、清浄の世界へ
 屋嘉比 「十界論」は宗教の大革命ですね。
 キリスト教では、神に近づくことはできるが、神にはなれない、とか……。
 池田 人間として大事なことは、低き境涯から、より高き境涯へ……。さらに、狭小な境涯から、無限の広がりの境涯へと進み、広がりゆくことが、幸福の根本となると思います。その最極の一点の境涯が、仏界となるわけです。
 屋嘉比 まことに論理的であり、なかなか精緻なとらえ方と思います。
 ── キリスト教の宇宙観は、どうとらえていますか。
 池田 よく「地獄」「煉獄」「天国」といいますね。
 ダンテの『神曲』では「九の地獄」「九の煉獄」「十の天国」となっていたと思います。
 私は深く研究したわけではありませんが、ダンテは、『東方見聞録』で有名なマルコ・ポーロと、同時代だったのではないでしょうか。
 最近、パリ大学のコルム教授が『幸福と自由』(副題・深淵なる仏法と現代性)という本を出しています。
 そのなかでは、キリスト教をはじめ、ヨーロッパの歴史は、かなり仏教の影響をうけているのではないか、と載っていますね。
 屋嘉比 なるほど……。仏法では、六道の世界観を説いたものは、何かありますか。
 池田 あります。そのひとつに、“地獄は地の下一千由旬以下のところにあり、餓鬼は地の下五百由旬のところ、畜生は水陸空に住し、修羅は海のほとり、海の底に住し、人は四大州に住する”とあります。
 結論して言えば、これらは生命の境涯なんです。ですから大聖人は、「そもそも地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば・或は地の下と申す経文もあり・或は西方等と申す経も候、しかれども委細にたづね候へば我等が五尺の身の内に候とみへて候」と、この現実世界を離れたものではないと、おっしゃっているのです。
 屋嘉比 それは正しい。私は納得できます。
 池田 あの悠久のガンジスの流れも、見る人の境涯いかんによっては、まったく違って見える。
 これを「法蓮抄」という御文では、「たとへば餓鬼は恒河を火と見る・人は水と見・天人は甘露と見る、水は一なれども果報にしたがつて見るところ各別なり」と言われている。
 屋嘉比 人間は、その境涯によって、宇宙観、価値観が変わってくるというのはよくわかります。
 すると、地獄は地のはるか下ですから、仏界とは、逆にはるか高い次元、広々とした次元から、すべてを見下ろしていく境涯と、とってもよろしいのですか。
 池田 そういえると思います。
 少々、飛躍するかもしれませんが、「仏界」を境涯論からみれば、私どもの地球は、大気圏があり、あらゆる生命が育まれている。この大気圏の外は静かな無限の世界である。
 ですから、この生命が、宇宙全体の仏界という大生命に融合、一体化していった場合、大宇宙のごとき広々とした、静寂にして汚れなき清浄の世界へ、なんらの束縛も不自由さもなき次元へ入っていくということが考えられないこともない、と私は思っている。
6  国土や草木も人間精神と不可分
 ── 「十如是」は、「法華経方便品」ですね。
 池田 そうです。「如是」とは読んで字のごとく、万物の「ありのままの姿」ということです。
 生命の働き、作用というものは、必ず、「相」(姿・形)、「性」(性分・心の働き)、「体」(根本の体)、「力」(内在する力)、「作」(力が現実に働くこと)、「因」(生命次元の因)、「縁」(因の補助的因)、「果」(生命次元の結果)、「報」(生命次元の因果を因として、それが姿、形にあらわれたもの)という普遍的側面が存在する。
 そしてそれらは、すべて「本末究竟等」することを見事にとらえたのが、この「十如是」という法理なんです。
 ── 「本末究竟等」とは、本も末も、つまり、本の相から末の報までの九つの側面が一貫し、調和していることですか。
 池田 簡単に言えば、そういうことです。御文には、「此の三如是を本として是よりのこりの七つの如是はいでて十如是とは成りたるなり」と説かれています。
 ですから、「相」「性」「体」の三如是が生命の根本である。
 むずかしくなるかもしれませんが、仏法はこの三如是を基礎として、空・仮・中の「三諦」、法・報・応の「三身」、法身・般若・解脱の「三徳」という、生命の多次元なとらえ方もしています。
 ここでは、空・仮・中の「三諦」について、要略を申しあげますと、
 生命の外面の相をみるのが、「如是相」であり、仮諦である。
 内面の性をみるのが、「如是性」で空諦。
 生命の当体そのものをみるのが、「如是体」であり、中諦となります。
 その三諦の「諦」とは、「つまびらか」「あきらか」という義で、生命の実体は、この空・仮・中の三諦からみることにより、初めて正しく認識できると、仏法は説いています。
 屋嘉比 よくわかります。医療の現場でも患者を身体的側面と精神的側面の両方からみないと真実がつかめません。また、心身医療というように、医学界でも人間の肉体と精神の統一性を志向するのは、時代の流れですから……。
 池田 さらに、その生命が、どのように働き、どのように存在しゆくか、それが「力」「作」「因」「縁」等の七如是であり、生命それ自体の活動の基調となる。
 仏法中道の眼は、こうとらえていったわけです。
 屋嘉比 なかなか科学性を感じます。素晴らしい、多重的な事象のとらえ方と思います。
 池田 この「十如是」という側面とともに、十界の「生命」というものは、それが発現しゆくときに、必ず、具体的な個体の肉体や心、またその個体の住む社会や環境のうえにあらわれる。そこにさまざまな区別というものも生ずるはずです。
 仏法ではこれを、「五陰世間」「衆生世間」「国土世間」という「三世間」の法理として、見事に、その区別というものをとらえています。
 屋嘉比 その「三世間」とは……。
 池田 「世間」とは、一切の個人差や個別性、帰属性をいっています。
 ですから「五陰世間」とは、「色」(肉体)、「受」(感受作用)、「想」(思い浮かべる作用)、「行」(意志力)、「識」(認識・識別を起こす心の本体)の「五陰」が、人それぞれによって異なることをいいます。
 「衆生世間」とは一切衆生というように、いちおう、生きとし生けるものをさすのでしょう。五陰仮和合された衆生、また、その社会はそれぞれの特質にそった差が生まれる。
 屋嘉比 なるほど。なるほど……。元来、仏法は個人の問題と思われ、社会の問題とは切り離して考えられがちでしたね。
 池田 そして「国土世間」とは、十界の衆生の住処、すなわち世界のことです。
 「教機時国抄」という御書には、「国には寒国・熱国・貧国・富国・中国・辺国・大国・小国」等々と述べられている。
 また衆生によっては砂の中、海の中、山の中、さらに木や紙などに住むものもあるわけです。
 ── この「国土世間」というものが説かれ、「一念三千」の法理が完結したとみてよいのですか。
 池田 そのとおりです。少々専門的ですが、文相の理のうえでは法華経の「寿量品」で、初めてこの「国土世間」が説かれる。
 教義的には、釈尊の説法には「蔵」「通」「別」「円」という段階があり、円教である法華経以前の経教においては、釈尊が現実のこの娑婆世界で説法教化したことが、明快に説かれていなかったのです。
 屋嘉比 非常に現実的で、納得できます。空理空論ではない。
 池田 ここに仏法上、重要な「三妙合論」が説かれています。この三妙合論とは「本因妙」「本果妙」「本国土妙」がともに説き明かされることをいいます。
 一言で言えば、
 「本因妙」とは、仏の境涯を得るための根本の原因、修行、
 「本果妙」とは、仏の本体、本地、
 「本国土妙」とは、仏の所在の国土、
 という意義です。
 ── すると、仏法は、あくまでも明確なる原因と行動のうえから、また現実のうえから説かれているわけですね。
 池田 おっしゃるとおりです。それを結論して、日蓮大聖人の事の一念三千の法門から拝しますと、
 「本因妙」とは、二祖日興上人、
 「本果妙」とは、御本仏日蓮大聖人、
 「本国土妙」とは、総じては、大聖人が御聖誕なさった日本、さらに世界、別しては、大御本尊まします所となります。
 ── 仏法で説く国土世間には、草木や花なども含まれるんですか。
 池田 当然のことです。この娑婆世界、すなわち国土世間には、無数の草木があり、花がある。
 有情、非情でいえば、非情となるこの草や花にも、感情が伝わるという研究をした心理学者もいるようです。屋嘉比さん、ご存じですか。
 屋嘉比 私は植物のことは、あまり具体的に知らないんです。そこまで手がまわらないんです。(笑い)
 池田 それはそうですね。(笑い)
 ソ連のプーシキンという博士が、ゼラニウムの葉に、人間の感情の変化が伝わることが実験で証明された、と発表しています。もう十数年前でしたか「朝日新聞」に載っていましたね。
 かつて、民俗学者の柳田国男も「木思石語」と言っていましたが、国土世間である森林などが人間に影響をあたえるのは、森林浴にもみられるとおりです。
 逆に、人間の感情も草に伝わる、ということになりますね。
 屋嘉比 私は専門家でないのでよくわかりませんが、毛虫がついた木が、それを払いのける信号を、他の木にも伝えあい、毛虫を払いのける化学物質を出す、という話を聞いたことがあります。
 池田 どうも、人間の心理、視覚、思考、記憶等々の働きは、基本的には、植物の細胞が行う情報活動が特殊化したものである、ということなんですがね。
 ── 他にも何かありますか。
 池田 ソ連農学アカデミーのイシドール・グナールという教授が、植物も記憶力をもつと発表しているようです。また、アメリカで行われている研究では、親切に話しかけられた植物はよく育つ、といったこともわかっているようです。
 屋嘉比 ともかく、これは植物の働きの全体像からは、まだ初歩の研究でしょうが、人間の精神世界というものが、この地球上の草木などと密接不可分である、という事実が認められたのは、興味ぶかいことです。
 池田 ご存じのように、地球上の私どもの身体も、宇宙に遍満するいくつかの基本元素から成立している。
 たいへん飛躍的な展開ですが、ですからこれらの事実の検証が、「一念三千」という仏法の難解な奥義をわかりやすくしている、ということはいってもよいと思います。
 ともかく、宇宙の森羅三千が、すべてこの「一念」に収まるというのが、「一念三千」「総在一念」という法理なんです。
 屋嘉比 するとユングなどのいう、宇宙大に達する人間の深層心理という志向性も、仏法の法理からみれば、より明快になりますね。
7  脳の優劣は後天的努力で決まる
 ── ご存じでしょうが、近ごろは、子供向けのテレビ番組や週刊誌にまで、「脳の話」がよく取り上げられています。
 池田 そうですか。ちょっと私は時代遅れかな……(笑い)。屋嘉比さん、知っていますか。
 屋嘉比 多少、知っています。最近の子供たちは、なかなか知識がありますね。
 ── それで、自分の成績が上がらない理由を、「私は生まれつき頭が悪いから」とか、「親が親なもんで」と、学校の先生に、はっきり言う子が増えているそうです。(笑い)
 池田 はあ、どうなんでしょうか。頭のよしあしは、脳で決定的に決まるものですか。どうですか、屋嘉比さん。
 それに脳の優劣は、先天的に決まるものではないと聞いていますが。
 屋嘉比 そのとおりです。
 池田 じゃ、どういうふうにとらえたらいいのですか。
 屋嘉比 脳の働きは、後天的努力や学習によってつくられるもののほうがずっと大きいことは、はっきりしています。
 生まれながらの差が、多少あったとしても、人生にとっては、なんの影響もありません。
 ですから、「頭が悪い」というのは、たいがい勉強ぎらいの言いわけですね。(笑い)
 池田 いや、そうでしょう。ともに、幸福とか不幸ということも同じになってくるでしょう。
 昔は、中学校や高校に行けなかった人でも、実社会のなかで、人生の機微や、独特の知恵を働かして成功している人が多くいた。
 また「物知りおじさん、おばさん」と信頼されて、肩書や社会的地位がなくとも、尊敬される人もいる。
 ── よくいますね。私の子供のころなんかにも、よくそういう人に出会ったもんです。
 池田 私は、人間にとってそういう姿は、まことに尊いと思っています。
 屋嘉比 私のふるさとである沖縄にもいましたね。
 池田 いわゆる天才といわれる人も、たしかに人一倍の努力を重ねて、初めてすぐれた業績を残していることを、見逃してはならない。
 屋嘉比 脳の生まれつきの違いは、むしろ個性というか、その人の特性になりますね。
 池田 そうでしょう。十人十色ですから、適材が適所を得ると、見事な創造力の発揮につながっていくことも、多くの例をみて、事実のように思いますが。
 ── 先生は、性格をどうとらえられますか。
 池田 人の性格ということを、最も広く深い意味でとらえれば、生命の傾向性であり、そう簡単には変わらない。仏法からみてもそのような気がします。
 ただ、川の幅というものは、変わらない。しかし流れが強まれば、濁った水も、それを清浄なものとすることはできる。同じように、自分自身の生命を浄化していくならば、その性格も価値ある方向へ発揮できると思います。
 屋嘉比 そうです。私もそう思います。「脳」は、現代の神経科学でも、最初につくられた機能を土台にしながら、次々に新しい機能がつくられていくことが発見されています。
 池田 ですから、「性格論」だけで宿命的にとらえるのは、どうかと思いますが……。
8  鍛えるほど活発化する神経細胞
 ── すると先生、脳の大きさや重さは、頭のよしあしに関係ないのですか。(笑い)
 池田 統計的にはあるようですが、私は、個々にはあてはまらない、と思います。屋嘉比さん、どうでしょうか。
 いつでしたか、脳の重さを測ることのできた天才たちのデータが、どこかに紹介されていた。重い人、軽い人、千差万別でしたね。
 屋嘉比 私も見たことがあります。ノーベル賞をうけた文豪でも、一千グラムぐらいの人がいまして、日本人の場合は、平均一千三百グラムぐらいですから、それよりだいぶ軽い。(笑い)
 池田 すると脳の重さも、体格や体重に比例するものかもしれませんね。どうでしょう。
 屋嘉比 頭の下に首があって、身体がそれを支えるのですから、普通はそうです。
 ただ、人間以外の動物の例ですと、クジラは二千五百グラム、象は五千グラムです。
 身体全体の体重からすると、クジラは〇・〇〇三パーセント、象は〇・二パーセントになります。ですから、体重のなかで、脳のウエートが増えたからといって、必ずしも知能が上昇するとはかぎらないようです。
 ── 頭は、使えば使うほどよくなるというのは事実ですか。(笑い)
 池田 これは屋嘉比さんの分野ですが(笑い)、人体の各器官は、すべて使うことによって発達し、使わなければ退化する。どうですか、屋嘉比さん。
 屋嘉比 先生のおっしゃるとおりですね。前の章でも話題になりましたが、脳は灰白色で表面は深いシワを形成し、約百四十億ともいわれる神経細胞が、ぎっしり詰まっています。
 池田 その神経細胞の数は、胎児期に、もはや全部そろっているんですね。
 屋嘉比 そうです。生後、脳が発達するのは、その神経細胞が突起を伸ばし、他の神経細胞とシナプスをつくっていくのが、主な原因です。
 池田 では「記憶力」には、神経細胞間の「シナプス」が関係するとみてよいのですか。
 本を読むと、この神経細胞と神経細胞をつなぐ「シナプス」とは、発動機のピストンのように並んでいて、それが刺激によってお互いが震動し、次々に回路が発生し、また変化し、あらゆる伝達の役目をすばやく正確に行うもので、無限に広がりゆくものと、書いてありますが、どうなんですか。
 屋嘉比 ええ、シナプスが発達し、その数が増えると、神経細胞間の連絡網が緻密となり、より多くの神経回路のパターンが生まれ、さらに高度な情報伝達が可能となるのです。
 池田 すると頭をどんどん使い、このピストンのように立ち並んでいるシナプスを、繰りかえし、繰りかえし動かしていくと、そのシナプスは頭を使った分だけ増えると思っていいのですね。
 屋嘉比 そのようです。逆に学習をやめたとたん減るそうです。そのことを、アメリカのロックフェラー大学のノッテボーム博士が、カナリアを使って実験証明しています。
 「歌を忘れたカナリア」と、歌にもありますが、カナリアの雄は、春、さえずりますが、秋になるとさえずりをやめます。そのさえずりの練習を始めたときと、やめたときのシナプスを比較したら、春のほうが多かったそうです。
 池田 それはおもしろい実験ですね。まあ、人間の脳とカナリアの脳とは、ずいぶん違うと思うが(笑い)、だがひとつの方程式は考えられる。
 屋嘉比 そうなんです。神経回路網を広げていくには、シナプスを発達させていくことが必要です。それが機能どおりスムーズに働けば、「頭がいい」ということになります。
 池田 やはり、われわれもしょっちゅう本を読まなくてはダメだ。(笑い)
 頭を使うことはもちろん必要である。また、どんどん歩いたり、指先を使う運動も、やったほうがいいことになりますか。
 屋嘉比 そうなんです。
 池田 弱ったね、なかなか歩けないし、クルミを買わなくちゃいけないな。(笑い)
 手先を使うと、神経細胞が発達するという実験はあるんですか。またその根拠はあるんですか。
 屋嘉比 とくに人間は、完全直立で手を器用に動かし、道具を使おうと努力したことから、大脳を活発化させ、その結果として言語能力を高めたともいわれています。
 池田 するとある機能が発達すると、他の機能もおのずから発達する。互いに相乗関係になって、全体的に発達していくと考えていいんですか。
 屋嘉比 そのとおりです。
 ── すると、屋嘉比さん、老人が寝こむと、めっきり老けこんだり、また定年退職になったサラリーマンが、極端に白髪になったり、若さを失う人がいるのも、そうした理由もあるんですか。
 屋嘉比 あると思います。また、子供のころ、大豆、昆布などの硬いものを食べさせるといいといわれるのは、歯のためもありますが、同時に脳の刺激にもなるようです。
 ── すると、常に動き、考え、しっかり食べることが、頭をよくするリズムでしょうか。
 池田 まあ、一理は考えられるし納得できますね。
 屋嘉比 そのとおりです。
 頭がいいというのは、神経回路が活発かつスムーズに進むことですから。
 池田 要するに、そうしますと「人間」というものは、自分自身を大切にして、いたわることも大事であろうが、それ以上に、多忙であっても目的観をもち、前へ前へと進んで鍛えあげることが、もっと大切になるわけですね。
 屋嘉比 まったく理にかなった指摘です。生涯、いくつになっても、人生に価値を見いだしていくことが、大事になるのではないでしょうか。
 ── ところで、ちょっと話を変えますが、いちじ知能指数(IQ)がどうのと、ずいぶん騒がれたこともありましたが。
 屋嘉比 それも、まったく変わらないというのは、誤解です。
 池田 まあ、私もそう思います。知能指数も、だんだん変化していくと考えたほうが正しいと思う。
 その根本は、ま、その個人の努力いかんが大切となる。さらに、教育によっても変わっていくでしょうし、時代の進歩と文化レベルが上昇していくにつれて、向上していく場合もあるでしょう。
 屋嘉比 それは現在の医学ではっきりと示されていますね。
9  興味深い「脳と心」の研究
 池田 ところで屋嘉比さん、人間の記憶力というものはたいへんなもので、脳生理学者の千葉康則博士が、「無意識のうちにも人間七十年間に記憶できる事柄は、十五兆にも達する」と述べているのを読んだことがある。この点は、どうでしょうか。
 屋嘉比 そのようです。
 池田 仏法には、「一人一日の中に八億四千念あり念念の中に作す」とあるんです。「八億四千」とは、八億四千万と同意で、数学好きの人がいて、これを七十年に換算したら、約二十一兆になった、というんです。
 ま、「八億四千」というのは膨大な数量という意義と思います。
 屋嘉比 いや、おもしろいですね。現代の精神医学の研究書にも、はっきり千葉博士などの見解が示されています。
 池田 そうですか。
 ところで、第五章でも少々論じたペンフィールド博士の「脳と心」の関係についての研究は、なかなか興味ぶかい。屋嘉比さん、ほかにも何かありますか。
 屋嘉比 博士は、人間の過去の記憶が、脳のなかでどのようになっているかも調べたのです。
 私たちの頭の、このわきのほうに「側頭葉」というところがあるんです。
 ここを電気で刺激すると、患者は、過去に見た光景が目の前に浮かんで、そのときの思いも再現し、それを体験しているような気持ちになる、というのです。
 池田 すると、要するに過去の自分が体験した、すべての記憶が蓄えられていると思っていいんですか。
 屋嘉比 そのとおりです。
 池田 この「側頭葉」というのは、どこにあって、どのくらいの大きさなんですか。
 屋嘉比 耳の上あたりに広がっています。大きさも、手の平より少し小さなていどです。
 池田 すると、なにかの印とか、なにかの色がついているわけでもないんですね。(笑い)
 しかし、そこから一切の長い過去からの記憶が現出してくる、というわけですね。
 屋嘉比 博士は、患者の脳のわきを、いま申しあげたように電気で刺激していくと、たとえば目の前に、「かつてケンカしたことのある人」「子供のころの彼女」「泥棒」など……、次々にあらわれてきたというのです。
 池田 ウソ発見器ではなく、「記憶発見器」になるわけですね。(笑い)
 屋嘉比 そうなるかもしれません。(笑い)
 池田 この博士の研究は、世界の学者が認めているんですか。
 屋嘉比 多くの研究者によって認められています。
 池田 私にとっては、うれしい情報です。私は、人間の生命の核たる「我」には、人類発生、否、生命発生以来にわたる、まあ端的に言えば三十数億年の記憶が収まっているのではないか、とみたい一人なんです。
 ともかく、過去の記憶といっても、ふだんはどこにあるのか、まったくわからない。
 ところが、なんらかの刺激という「縁」によって、あらわれてくる。それを、仏法では「冥伏」といっている。
 この仏法で説く「冥伏」の「冥」とは、簡単に言えば事物に溶け込んで見えないさま。そして「伏」は、隠す、隠れるの意義です。
 屋嘉比 言いえて妙なる表現ですね。
 池田 ですから、脳科学でいう感情、つまり喜びとか、怒りとか、哀しみとか、楽しみとかの働きが、脳のどこに関連するのかを解明していくことも、仏法者としても重大課題なんです。
 屋嘉比 人間の目の後ろあたりに「視床下部」というのがあります。
 これも脳の一部ですが、ここにも情動をつかさどる中枢があるようです。
 池田 どうしてわかったのですか。
 屋嘉比 それはネコの大脳を取りはずし、この視床下部に電気ショックをあたえてみたんです。そこに電気で刺激を加えると、ネコが怒りだし、そばにいたネズミに襲いかかった。
 池田 すると、この実験で明らかになったのは、視床下部の働きをうながすようなキッカケがあると、怒りという感情が、実際に出てくる。そういうことですね。
 屋嘉比 ええ、視床下部や大脳辺縁系は情動の中枢であり、そこに怒りとか恐れの心が関係しているようです。
 それでいて、心とか精神はいったい何か、となると実体がない。
 池田 要するに「心」や「精神」の働きは、大脳細胞という物質場に即して発現する、とみればよいのではないでしょうか。
 仏法の“色心不二”の法理は「心」と「脳」を相即の関係とみるんです。
 ── 人間の脳も心も絶妙ですね。
 屋嘉比 いつでしたか、池田先生が、「生命ほど不可思議なものはない。人体を機械に見たてようとする人もいるが、かりに機械として見たとしても、これほど見事な機械は、あらゆる科学をもってしてもつくれない。しかも、機械は他者の作品である。この生命という機械は、それ自体が作者であり、作品である」と言われたことを思い出します。
10  日本人は右脳型、西欧人は左脳型
 ── 「右脳ブーム」ですね。大脳は左右に分かれていて、それぞれ役目が違うそうですが。
 屋嘉比 右脳は右半球とよび、感性とか、直観とか、イメージに深く関係しているようです。また、左脳は左半球で、論理、計算、言語の機能と関係しています。
 両半球は、「脳梁」という渡り廊下でつながっているんです。
 池田 その働きの違いは、アメリカの脳医学者スペリー博士が解明したそうですね。
 屋嘉比 ええ、博士はノーベル賞をもらっています。
 ── その後、「右脳ブーム」とか「右脳革命」といわれ、まだ話題がつづいていますが、この点はどうなんですか。
 池田 まあ、簡単に言うと、左脳は、ものごとを杓子定規にみる。
 それに対して、右脳は、事の成りゆきの底流にあるものをみる。突然のひらめき、ずばり、頭に浮かぶ直観のような働きになる。だから、右脳をもっと開発しろ、ということですね。
 屋嘉比 つまり、創造性とか情緒とか、言わば、現代が等しく求めている人間的な価値は、右脳にある。だからもっと活発化すればいい、そんな議論とみていますが……。
 ── 日本文化は絵画的でイメージにあふれている。つまり右脳文化。
 一方、論理の文化である西洋は、左脳的という人もいますね。
 池田 早く言えば、右脳型は日本人、左脳型は西欧人という特色は、ほぼ間違いないと思います。そういうことからも、なかなか東西の文化交流は、志向性の隔たりが大きすぎるわけだ。
 ── だからといって、右脳型をすぐに左脳型に変えたりできないでしょう。
 また左脳型を右脳型に変えることもできない。長い間の傾向性ですから。
 東西の一体感というのは、たいへんむずかしいことがあるでしょう。
 屋嘉比 大脳の左半球と右半球の真ん中を仕切り、両者をつなぐ役割をするのが「脳梁」なんですが、この「脳梁」には、約二億本もの神経線維があるといわれています。
 池田 左右の脳の働きを統合し闊達自在な頭脳の働きにしていくには、たいへん飛躍した論理かもしれませんが、仏法に「融通無礙」とあるように、また「中道一実」とあるように、「妙法」という「縁」をあたえることが、またその「力用」「働き」をあたえることが、大事になってくるような気がしますが。
 ですから私は、左脳、右脳両者の働きを止揚しながら、地球人一体への英知を志向していくこともできると思います。
 屋嘉比 いや、それは、素晴らしい話です。
 両者の発達こそ、調和ある人類進歩への道と思います。

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