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日蓮大聖人・池田大作

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第四章 人生の幸福・仏法の死生観  

「生命と仏法を語る」(池田大作全集第11)

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2  年齢では決まらない人生の価値
 ── ところで屋嘉比さん、「高齢」とは、何歳ぐらいをさすのですか。
 屋嘉比 ふつう七十歳から八十歳ぐらいです。最近は、その年齢に達する人が増えているわけです。
 池田 どのくらい増えているのですか。
 屋嘉比 昭和五十五年の国勢調査では、高齢者の比率は、一千人のなかで、約四十三人となっています。これは、前回調査の昭和五十年から、約八十万人増加しています。
 池田 それ以上の年齢の場合は、どうですか。
 屋嘉比 たとえばいま、八十五歳まで生きている人は、一千人のなかで、五人ぐらいのようです。
 池田 男女の比率は、どうですか。
 屋嘉比 男性が一人とすれば、女性はほぼ二人の割合です。
 ── 私は、男だからいうわけではありませんが(笑い)、長生きするにしても、できるだけ、病気やなんかで人に迷惑をかけないように、生きたいと思うのですが。(笑い)
 池田 男性は短命、女性は長命というのは別として(笑い)、その人の人生の価値は、年齢だけですべてが決まるとはいえないと、私は思っている。どうでしょうか。そこに、人生のひとつのむずかしさがあるのでしょうね。
 よく戸田前会長も言っておられた。
 「人間は使命があれば死なないし、使命が終われば死ぬ」と……。
 ── 人生の真髄を、簡潔に言われておりますね。
 ところで池田先生、いちばん長生きできる職業は、何でしょうか。
 池田 それは屋嘉比さんの分野です。(笑い)
 統計的なものはわかりませんが、著名な人では、ピカソ(九十一歳)やルノワール(七十八歳)をはじめ、画家は、長寿が多いようですね。
 ── 政治家なんかも長生きしていますね。ジャーナリストは、短命のようです。(笑い)
 池田 職業柄、お医者さんは、長生きの人が多いのでしょう。(笑い)
 屋嘉比 いや、「医者の不養生」というくらいですから。(笑い)
 ちょっと、世に天才といわれる人の「寿命」を調べてみたのですが。
 科学者ニュートン 八十四歳
 作家ビクトル・ユゴー 八十三歳
 教育者ペスタロッチ 八十一歳
 科学者ダーウィン 七十三歳
 詩人ウィリアム・ブレイク 七十歳
 画家レオナルド・ダ・ヴィンチ 六十七歳
 哲学者ヘーゲル 六十一歳
 音楽家ベートーヴェン 五十七歳
 詩人ダンテ、社会学者マックス・ウェーバーが五十六歳、作曲家チャイコフスキーは五十三歳、というんですが……。
 池田 短命の場合はどうですか。
 屋嘉比 それもいくつか、調べてみました。
 モーパッサンは四十三歳、精神病で亡くなっています。ショパンが結核で三十九歳、バイロンが三十六歳、モーツァルトが三十五歳、ともに肺炎などが原因になっています。
 池田 「死因」については、なにかデータのようなものがありましたか。
 屋嘉比 いわゆる職業病は別として、ハッキリ出ているものが少ないのです。
 ただ、日本で職業別に調査したものがありました。それでは、
 「指導者は、脳卒中、ガン、心臓病」
 「学者は、ガン、伝染病」
 「芸術家は、結核」
 となっています。
 ── 欧米では、比較的、指導者に、精神病の割合が多いらしいですね。
 池田 そうですかね。やはり生活環境は、死因にも関係してくるのでしょうかね。
 屋嘉比 それについては、第二次世界大戦にかかわった指導者の死因について、調べた本がありました。
 ルーズベルトは「脳血管障害発作」
 ウィルソンは「脳卒中」
 ヒトラーは「パーキンソン病、自殺」
 ムッソリーニは「神経梅毒、銃殺」
 フランコは「動脈硬化症」
 レーニンは「脳軟化症」
 毛沢東は「脳軟化症」
 と、なっています。
 ── やはり、政治家や指導者は、脳とか心臓に関係した病気が多いのでしょうかね。
3  大聖人の御入滅は六十一歳
 屋嘉比 仏病理法の歴史のうえではどうでしょうか。
 日蓮大聖人は、おいくつでお亡くなりになったのでしょうか。
 池田 六十一歳です。老衰であったと伝えられています。
 屋嘉比 ああ、そうですか。当時としては、六十一歳は御長命だったと思いますね。
 池田 ともかく、大聖人は想像を絶する「大難四度」であられた。また、数知れない苦難の連続の御生涯であられた。
 屋嘉比 たいへんだったでしょうね。
 池田 ですから、「人生」何歳ということは、決して、いちがいにいうことはできないと思いますが、私の寿命観は、ひとつの基準として、大聖人が「六十一歳」で御入滅なされている、この「六十一歳」というものを、一つでも、二つでも、超えて生きぬくことができれば、ありがたいことではないか、と思っております。
 屋嘉比 深い基準をもっておられますね。
 池田 また、大聖人は、御入滅の一年前にすでに、「今年は正月より其の気分出来して既に一期をわりになりぬべし、其の上齢既に六十にみちぬ、たとひ十に一・今年はすぎ候とも一二をばいかでか・すぎ候べき」と、御自身の寿命があと一、二年であることも、おっしゃっておられるのです。
 もちろん、その後も弟子、信徒に、数々のお手紙をあたえられたり、また重要な「法門書」も、お残しになっておられます。
 屋嘉比 なるほど。なるほど。
 池田 像法時代の中国の天台大師は、六十歳(数え)で亡くなっています。
 日蓮大聖人は、この天台大師の臨終の姿について、「天台大師御臨終の記に云く色白し」と、したためられております。
 屋嘉比 「色白し」というのは、これまた「天寿」をまっとうした姿なんでしょうか。
 池田 そうですね。この天台大師についても、仏法でいう「成仏」の姿で亡くなった、と記した古文書が約三十種類残っております。
 そこで、仏法では、「また天台は六十歳御入滅、蓮祖は六十一歳御入滅なり。これ則ち像末の教主の序、豈不思議に非ずや」(「観心本尊抄文段」日寛上人文段集四五一㌻)と、説かれております。
 つまり、中国の天台大師は六十歳、日蓮大聖人は六十一歳であられる。像法時代の教主と末法の御本仏の御入滅には、不思議の義があるとおっしゃっておられるわけです。
 このことについては、三つの深い意義があると、説かれておりますが、今回は、少々むずかしくなりますので、略させていただきます。
 屋嘉比 そうしますと、日本の伝教大師の場合は、おいくつだったのでしょうか。
 池田 五十六歳です。『伝教大師の一期略記』という古文書には、やはりみずからの臨終を予言した、ということが記されております。
 また、弟子への遺言を残し、これまた安祥として入滅したことが、記されております。
 屋嘉比 いまは、死因となる病気の解明が進んでいることもありますが、統計的にみても、老衰という病名で亡くなるというのは、たいへん少なくなっているんです。医者の立場からは、老衰で亡くなるのが理想と思われますが。
 池田 いや、それについては法華経の「序品」にあるんです。
 「仏此の夜滅度したもうこと 薪尽きて火の滅するが如し」と、仏の涅槃の姿について説かれているんです。「薪尽きて火の滅するが如し」──これが万人の願いでしょう。
4  高齢者に大切な精神的充実感
 ── ところで屋嘉比さん、いわゆる「老人ホーム」は、全国でいくつぐらいあるのですか。
 屋嘉比 だいたい二千五百カ所で、十八万人前後の人が、入居しているようです。
 池田 意外と少ないですね。
 屋嘉比 そのなかに、いわゆる寝たきり老人のための「特別養護老人ホーム」もあります。また、自分で身のまわりのことができるていどの場合の「養護老人ホーム」、個人契約による「軽費老人ホーム」などがありますが、まだまだ十分ではありません。
 ── 最近は、老後の医療保障までついたマンションが、ブームになっているようですが。
 池田 よく「核家族」といわれますが、日本では家族と一緒に生活する老人が、外国と比較すれば、多いようですね。
 屋嘉比 だいたい七〇パーセントでしょうか。
 しかし、昭和三十年代は、八〇パーセントぐらいでしたから、減少しています。
 池田 欧米では、二〇パーセントか、せいぜい四〇パーセントになっていたと思います。(デンマーク、アメリカ、イギリスの「三カ国老人調査」)
 屋嘉比 欧米では、個人主義が徹底されているということも、あるのではないでしょうか。
 池田 しかし、トインビー博士などは祖父母、両親、子供の「三世代家族」が理想的だと言っておられた。また、デンマークなどでは、子供と別居していても、やはり、お互いの家から三十分以内に住む場合が多いようです。
 ── スウェーデンの福祉政策は、人口対策という一面もあったようです。
 たとえば、十九世紀のなかごろ、新天地アメリカへの移民があいついだ。
 また一九三〇年代の世界恐慌の余波で、国民が生活維持のため子供を産まなくなった、という背景もあったようです。
 屋嘉比 日本の場合、福祉の面では、やはり北欧三国がひとつの目標でした。
 しかし現在では、北欧型福祉が、必ずしも人間の幸福と結びつかない、という「見直し論」もかなりあります。
 池田 ともあれ、世の中というのは、すべてに光があたっているようでも、必ず影があるものだ。
 いつの時代も、その象徴的な例が、子供であり、女性であり、老人といっていいでしょう。指導者は、常にそのことを忘れてはいけない、と思っております。
 屋嘉比 いまは、だれでもが、福祉、福祉という。信用できませんね。(笑い)
 もっともっと、一人ひとりが賢明にならなくてはなりませんね。
 池田 一人ひとりが社会の事象を見ぬく、鋭い力と眼をもつことです。
 ここで私がいつも思い出す、日蓮大聖人のお言葉があります。それは日女御前という方に書かれたお手紙のなかで、「周の文王は老たる者をやしなひていくさに勝ち、其の末・三十七代・八百年の間すゑずゑ末末は・ひが事ありしかども根本の功によりてさかへさせ給ふ」と、おっしゃっておられる。
 私は、この御文をいつも身に体していかねばならない、と思っております。
 これは、中国の名君であった文王という王さまが、常に政治の原則として、老人を大切にした。すなわち、国民の心の奥底まで掌握することができたがゆえに、国が栄えた。その子、武王も父の遺志を継ぎ、大軍である殷の紂王との大戦争に勝ち、三十七代、八百年もの長い間、多少の問題があっても、その「根本の功」によって繁栄していった、という史実を言われたものです。
 つまり、政治にあっては、あらゆる人々が心から納得し、安心して生活できるように、ということが根本となる。これこそ、当然といえば当然すぎるほどの原理といってよいでしょう。
 屋嘉比 軍事費を増やそうとしたり、増税ばかり考えているのとは、大違いですね。
 ── ところで、スウェーデンのような福祉国家が、深刻な人間疎外の問題をかかえていることも事実です。老人の自殺者も多い。さらに、目的観を失い、労働意欲が低下するなど、青年の無気力化が深刻な課題となっている。麻薬やアルコール中毒患者も、少なくないようです。
 屋嘉比 アメリカの『内科学年報』に、次のような言葉がのっています。
 「人命を救う研究をする社会は、そのために延長された生命に、責任を負わなければならない。科学はたんに寿命を延ばすだけでなく、生命力のあふれた人生をつくることが重要なのである」
 池田 いい言葉です。現代社会の重要課題です。それとともに、人間は、社会における自分自身の存在感、使命感がなくなることほど、寂しいことはない。
 これは、高齢者の方々にとっても、まったく同じである。もちろん、さまざまな場合があるでしょうが、高齢者だからといって、そうでない人とのお互いの心の奥に、なにか特別な壁ができてしまうことほど、不幸なことはないと思う。
 それでは、かえって心を閉ざしてしまうし、無慈悲である。悠々たる最後の人生の総仕上げができるように、自然体の流れをつくるべきである、と私は思っております。
 ですから、高齢者の方々が、精神的な充実感をいかにすればもてるのか。それを考慮していくことが、最も不可欠ではないでしょうか。
 屋嘉比 老人医療でも基本となる、最も大切な考え方と思います。
5  心の病は「八万四千」
 ── ところで屋嘉比さん、日本人の病気は増えているのでしょうか、減っているのですか。
 屋嘉比 残念ながら、病気になる人は増えています。
 池田 最近の厚生省の調査では、十軒のうち、三軒以上に病人がいると聞きましたが、ずいぶん多いですね。
 屋嘉比 じつは、たいへんな問題なのです。
 国民の七・二人に一人が、なんらかの病気にかかっています。
 池田 こうした傾向は、いつごろからですか。
 屋嘉比 昭和三十年ごろから徐々におきています。四十五年には一〇・七人に一人と増えています。
 池田 それでは、昭和三十年以前はどうでしたか。
 屋嘉比 三十年以前は二六・四人に一人でしたから、現在は、なんとその四倍ちかくにもなっています。
 池田 病める現代人というが、さまざまな社会の矛盾や不安、圧迫とあいまって、現代人が精神的にも肉体的にも衰弱している。私は、仏法で説く「五濁悪世」という時代相が、病気という面にも、如実にあらわれてきているような気がします。
 そこで、病気の数はいくつぐらいあるんですか。
 屋嘉比 約五万といわれています。通常、病院では七千百二十九項目に分類されます。この数は、WHO(世界保健機構)が定めたものです。
 池田 宇宙船でケガをしたような場合も、入っていますか。(笑い)
 屋嘉比 あります(笑い)。事故などによるケガは、E分類におさめられており、宇宙船の分類は「E845」になります。(笑い)
 池田 薬の数はどうですか。
 屋嘉比 厚生省で認可している薬の数は、約九万九千あります。
 ── 仏法では、病気の数について、なにか説いたものがありますか。
 池田 あります。
 仏法では病の数を「四百四病」とも、「八万四千」とも説いております。
 「四百四病」は「身の病」の数をいっております。「八万四千」とは「心の病」をさしております。この「八万四千」とは、数値というよりも、たいへんな数になるということをいっていると思います。
 ただ、『大智度論』という経釈などには「婬欲の病二万一千」、「瞋恚の病二万一千」、「愚癡の病二万一千」、それらの「三毒を等しくもつ病が二万一千」で「八万四千」となるというものもあります。
 ── かつて、「朝日新聞」の科学部が企画した記事に、「たいていの都会人は、心か身体のバランスをくずしている。いまや病気の種類は、人間の数ほどあるといえるかもしれない」と、いっておりました。
 たしかに現代は、ますます複雑化していますから、どんどん新しい病気ができてくるのでしょうね。
 屋嘉比 文明病は、水俣病のような公害によるものもありますが、多くは「心の病」といっていいでしょう。
 そうした意味では、仏法が「心の病」について、「八万四千」と説いていることは、たいへんな先見性と思いますね。
 ── 「四百四病」とか「八万四千」とは、どのような御文に、説かれているのでしょうか。
 池田 いくつかありますが、日蓮大聖人の「治病大小権実違目」という御文にも説かれております。
 初めの「四百四病」については、「夫れ人に二の病あり一には身の病・所謂地大百一・水大百一・火大百一風大百一・已上四百四病なり」と、説かれております。
 屋嘉比 「地大」「水大」「火大」「風大」というのは、何を立て分けたのでしょうか。
 池田 この「地大」「水大」「火大」「風大」を、仏法では「四大」といっております。
 この「四大」とは、いくつかの次元でとらえられるのですが、ここでは簡単に、私どもの身体に即して申しあげますと、「地大」の働きとは、骨や筋肉や歯、髪、爪、皮膚といったものにあらわれています。
 また、「水大」は血液や体液。「火大」は生命を維持する体温や消化作用。
 「風大」は呼吸や新陳代謝などになると思います。
 仏法では、この「四大」に即し、概括的に「病」というものをとらえ、この人間の身体の「四大」が不調和をおこすと病が起こる、と説かれております。
 屋嘉比 生理学的にもよくわかります。たしかに皮膚の色ツヤ、血液、体温、呼吸などは、病気を調べるうえでの基本となります。
 池田 こうした身体にかかわる病については、大聖人も、「此の病は設い仏に有らざれども・之を治す」と、おっしゃっておられるわけです。
 そこで、さらに大聖人は、「二には心の病・所謂三毒乃至八万四千の病なり、此の病は二天・三仙・六師等も治し難し何にいわんや神農・黄帝等の方薬及ぶべしや、又心の病・重重に浅深・勝劣分れたり」と、説かれておるわけです。
 「三毒乃至八万四千」つまり、人間のどうしようもない「貪」「瞋」「癡」といった煩悩による病は、さきほど申しあげたように、「八万四千」の病となっていく。
 そうした人間内奥の煩悩からくる病というものは、いわゆる医学上の病気にとどまらず、人間の不幸をもたらす、あらゆる現象にまで広げてみることができるわけです。
 ── 鋭い眼ですね。
 池田 こうした、人間につきまとっている宿命的な病は「二天・三仙・六師等」、「神農・黄帝等の方薬」──いわゆる聖者でも大医学者でも治すことができない。
 屋嘉比 戦後、「社会病理学」という新しい学問も生まれましたが、たしかに社会の病、人生における「心の病」というものは複雑かつ深刻です。
 池田 ですから、「人生」「社会」そして「生命」の、新しき蘇生と新しき発現をもたらしゆく「大良薬」による以外にない、というのです。
 結論的にいえば、その最高の大良薬を仏法では「妙法」ととらえているのです。
 そこで「浅深・勝劣」とありますが、敷衍していえば、浅い病には、それぞれの時代のそれなりの宗教の役割があった。またそれなりの方薬で治すことができる。
 しかし、深き心の病はいかなる方薬も、いかなる過去の宗教も治すことができない。ゆえに最高の方薬は、普遍妥当性をもった新しき高等宗教による以外ない、という御文なのです。
 ── そうしますと、「心の病」は、医学では治せないのでしょうか。
 池田 いや、そういうことではありません。ですから大聖人は、「人の煩悩と罪業の病軽かりしかば・智者と申す医師たち・つづき出でさせ給いて病に随つて薬をあたえ給いき」と、おっしゃっておられるわけです。
 仏法で説く「心の病」というのも、一般的な「心」の病もあれば、「社会」の病、そして「生命」の奥深い病もある。多重にして、さまざまな次元があるわけです。それを「八万四千」とも、仏法では説かれているわけです。
6  仏法で説く「業」の内容
 ── ところで、一九八四年の三月、アメリカで、まことに痛ましい報道がありました。それは、十七歳のときから不治の病にかかり、二十五年間も昏睡状態がつづいた、最愛のわが娘の生命維持装置を、年老いた両親が、みずからの決断ではずさなくてはならなかったというものです。
 屋嘉比 ありました。その娘さんは、多発性脳脊髄硬化症という不治の難病にかかり、四十二歳になったとき、親が「死なせる権利」を裁判所に訴え出て、裁判所の判決がくだされたものでしたね。
 池田 親自身が希望したとはいえ、また裁判所がその正当性を認めたとしても、そうせざるをえなかった両親が、いちばん苦しかったでしょう。
 人には言えない、悲しさと苦しみがあったと思います。これこそ、人間の「業苦」としかいいようがない。このニュースを知ったとき、私は心が痛みました。
 屋嘉比 たしかに、人間の「業病」というのでしょうか。そうしたものは、医学とか法律でも解決しようのない、人間のどうしようもない問題をはらんでいると思います。
 ── よく「業病」といいますが、仏法で説く「業」とは、いったいどういうことなのでしょうか。
7  池田 これがむずかしいのです。(笑い)
 仏法では、ひとくちに「業」といっても「現業」・「宿業」、「善業」・「悪業」・「無記業」、「福業」・「非福業」・「不動業」、「漏業」・「無漏業」・「非漏非無漏業」、「順現受業」・「順次生業」・「順後受業」等々といったように、多次元、多角度から、この「業」というものをとらえております。
 仏法で説く「業」というものを、一言で申しあげれば、「身」と「口」と「意」にわたるさまざまな人間の「所作」が、そのまま未来における自身の幸、不幸という結果をひきおこす原因として、加算しつつ、内在していることをいっております。
 屋嘉比 そうしますと、私たちの日常生活の意志や行動が、すべて当てはまることになるわけですか。
 池田 そうなんです。それも「善」もあれば「悪」もある。また軽いものもあれば重いものもある。また浅いものもあれば深いものもある。それこそ多種多様にわたるんです。
 簡単に申しあげますと、たとえば、カゼをひいた患者に薬をあたえ、よく休ませれば、じきに治るとか、有名な作家が書けば、本が売れるとか、われわれ人間の眼でも、目先の物事の因果関係、損得というものはわかるわけです。
 ── よくわかります。
 池田 これは、仏法で説く「現業」の範疇なんです。
 ところが人間は、「善業」「悪業」といった、自分自身の内奥に刻みこまれた、生命の厳しき因果というものは、わからないものです。
 仏法は、その「生命」といおうか、「我」というか、その自身の内奥の「業因」「業果」の因果の理法を、明快に説き明かした法、ということができると思います。
 ここがむずかしいところなんですが、三世の生命からみるならば、人間には、過去世で積んできた「業」というものもあるはずです。
 これが善いものや、また軽いものや、浅いものであればよいわけですが、自身の「我」という深層のまた深層に刻みこまれてしまって、凡下の眼では見ることも、知ることもできない、深く重い「業」もある。
 この深く重い「悪業」が、人間の「業苦」、つまり不幸をもたらす、というわけなんです。
 屋嘉比 こうした過去世からの「業」を「宿業」というわけですか。
 池田 そのとおりです。さらに、この宿業は、「現業」つまりいま生きている現実の生活のなかに、刻々と刻まれていく「業」と重なりあったり、一体となったりして、厳しく自身の「我」に存在するというわけです。
 ですから、仏法は今世だけでなく、三世の生命のうえから、厳しく生命の因果をみていく法と、とっていただければありがたいのです。
 屋嘉比 つまり、人間の幸、不幸は神のせいでもない(笑い)。他人のせいでもない(笑い)。自分自身に、根本の原因があるというわけですか。
 池田 簡単に言えば、そういってよいでしょう。
 ところで屋嘉比さん、医学の方面では、「遺伝子」ということが、最近、たいへんに注目されてきているということでしたね。
 屋嘉比 ええ、まえにも申しあげましたが、人間の寿命を延ばすための、「老化遺伝子」「ガン遺伝子」「糖尿病に関する遺伝子」などの研究が盛んに行われています。
8  急激な進歩を遂げた遺伝子研究
 ── アメリカでは、生物工学を応用して、すでに食肉牛をたくさんつくることが、実用化されておりますね。
 屋嘉比 そうです。食肉牛のメスは、一年に一頭しか子供を産みません。ところが、すぐれた牛の卵子をとりだし、人工受精させ他の牛に移植することによって、すぐれた食肉牛をたくさんつくることができるわけです。
 ── このバイオテクノロジーは、日本でも行われていますね。
 屋嘉比 ええ。この生物工学の分野は、最近、急激に進歩してきたものです。
 人間が受胎した瞬間にもつ遺伝子に、背が高くなるとか、太るとか、ハゲるとか(笑い)、といった基本的な情報が組み込まれています。
 最近では、この遺伝子による病気の治療も、研究される段階に入っています。
 池田 この遺伝子というものを、私どもにもわかりやすくいうと、どうなりますか。
 屋嘉比 生まれたときに、その人の一生を左右するような、膨大な数の因子が、極微の遺伝子のなかに「情報」として存在しているわけです。こうした事実は、ひと昔前の医者も科学者も、だれも信じなかったことです。
 池田 仏法では「眷属」というものが説かれております。親子や一族、親族といったものは、この「眷属」というものの一つの範疇ととらえられます。
 「眷属」には仏法上の深い意義があるのですが、ひとつには、「天性親愛なるが故に眷と名づけ、更に相ひ臣順するが故に属と名づく」(『法華玄義』)という意義になります。
 つまり、「天性親愛」──もともとの生命の傾向性が、親しいというのでしょうか。そしてそれが、「相ひ臣順」──お互いに連関性をもち、交わりあっている、というわけです。
 屋嘉比 医学者としてみれば、親と子の遺伝の関係ともとれますね。
 池田 人間の似たような親と子といっても、それぞれが一個の独立した存在であることも間違いない。それでいて、その性分は似通っているものが多くある。
 ですから仏法では、生命の内なる「因」と、外なる「縁」との相応、和合といううえから、人間生命が誕生する。
 つまり、母親の胎内に即して、それを「縁」として出生すると説かれていると、まえにも申しあげました。
 屋嘉比 ええ、そうでした。
 池田 生まれてくる子供は、過去世の自分のもつ「業」、すなわち「因」によって、その「因」に見合った「縁」、すなわち親を選び、その因と縁とが合致して誕生してくる、というようにもとらえられてくると思います。
 屋嘉比 遺伝情報は、両親から遺伝子を通じて、子供に伝えられます。ですから、遺伝子に含まれる膨大な「情報」は、仏法で説く「業」の一部があらわれてくるものとも、類推できる気もします。
 池田 ただ、「業」の論議それ自体は、屋嘉比さんにはすみませんが(笑い)、生命それ自体の「我」というか、電子顕微鏡を通して見ることができる遺伝子よりも、一段と奥深い次元の論議と思います。
 屋嘉比 なるほど……。じつはダーウィンの進化論を世に知らしめたことで有名な、イギリスの生物学者ハックスリーも、遺伝の問題を考えていくうちに、この仏法の「業」という問題に、入らざるをえなかったという事実があるようなんです。
9  人間にのみ可能な「業」の転換
 ── 過去の「業」によって、未来の「果」が決定してしまうのであれば、人間の努力とか向上心は、無意味になってしまうのではないですか。
 池田 いや、仏法で説く「業論」というのは、運命決定論みたいなものではない。人間のもつ「業」というものをとらえ、その人間の「業苦」、つまり苦しみ、苦悩をば転換し、自身の変革とともに、時代、社会の変革へと志向しゆくための「法」を、仏法は明かしているのです。
 屋嘉比 そうでしょうね。人間が向上心や努力を捨てたら、生きる意味がなくなってしまいます。
 池田 一般的に、動物には創造的な主体性はないと思われる。人間には創造性がある。そこに人間としてのひとつの証があるのではないでしょうか。さらに仏法の深い眼からみれば、人界に生まれてきたこと自体が、「悪業」の生命から「善業」の多き生命へと変えゆく可能性をもった、ということになるのです。
 ここに根本的な、人間の主体性の裏づけがあると私はみております。
 屋嘉比 第一章で、遺伝によってすべて人生は決定されない、と池田先生がおっしゃった意味が、わかる気がします。
 池田 ただし、それであっても、「一闡提」という、無明長夜のような人生を送るようなものもある、と仏法では説いております。
 この「一闡提」というのは、ひとつには、現代的にいえば、人の苦を楽しみとするような、悪いことばかりしている者をさしていると思います。
 ── しかし、努力してもどうしようもない人間の苦しみ、悲しみというものもありますが。
 池田 そのとおりです。
 そうした人間の本然的な苦しみ、「業苦」には、その「業因」がある。その「業因」は、「煩悩」の働きによって生じるのであると、仏法は明かしております。
 長くなるので省略させていただきますが、仏法の真髄の眼は、この「煩悩」をもつつみ、「善」の方向へ、「幸」の方向へと動かしゆく、宇宙大に広がりゆく、清浄にして、力強い「我」というものがあることを、明快に説き明かしております。
 この「煩悩」をば、「善」の方向へと働かせ、無限に価値を創造せしめゆく現実的法則を、日蓮大聖人の仏法は教えているのです。また、それを「煩悩即菩提」また「無明即法性」といった「法理」として明かしております。
 そこから、一個の人間における宿業というか、宿命の転換ということも、可能となってくるわけです。ですから、かりに大聖人が、この「大法則」をお説きくださらなかったら、人類は永遠に、暗き無明の闇に閉ざされ、煩悩と業・苦の大海の波に翻弄されゆく運命になってしまったであろうと思います。
 屋嘉比 仏法が、人間の奥のまた奥の「生命」というものに光を当て、そこから一切を変革しゆく「法」ということがよくわかりました。
 ── しかし、信仰を一生懸命やっていても、必ずしも長命の人だけではないと思いますが。
 池田 まったくそのとおりです。
 仏教の歴史をみても、釈尊の弟子であった目連も、バラモンに殺されている。
 また、大聖人のお弟子のなかでも、鏡忍房というお弟子が、小松原の法難で、東条景信一味に殺されております。
 さらに、熱原では三人の信者である農民が、法のために殉死し、斬首刑になっております。
 屋嘉比 代々の法主のなかで、どちらかといえば若くして亡くなった方はおられますか。
 池田 そうですね。ほとんどが御長命であられますが、第十八世日盈上人が四十五歳、第四十一世日文上人、第四十五世日礼上人が四十六歳、第五十世日誠上人は四十二歳で御遷化なされておられます。
10  外見ではわからない人間の幸、不幸
 池田 そこで、私はいつも思いおこす、大聖人のお言葉があるのです。
 それは、「人身は受けがたし爪の上の土・人身は持ちがたし草の上の露、百二十まで持ちて名を・くたして死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ」との、まことに私どもの心を強くうつ一節です。
 屋嘉比 いつも思うのですが、大聖人は名文家でもあられたのですね。
 池田 そう思います。ですから私は、このまれにして、草の上の露のごとき一生を、使命をもち、誇りをもって生きぬくことができれば、またその使命を果たすことができれば、これほど幸せな一生はない、とつねづね思っております。
 ゆえに、私どもは、日夜、正しき「法」を持ち、その法を弘め、人々のために、またよりよき社会建設のため、平和のために、貢献しゆくことをめざし、努力しております。
 人間の幸、不幸というものは、外面から見ただけでは絶対にわからない。生命は客観を含めた主観である。外から客観視するだけでは、これまた見る人の主観で、その人の幸、不幸の一次元だけしか見えない。
 屋嘉比 自分の幸、不幸は、自分がいちばんよくわかるものです。人間は自分自身まで、不幸であっても幸福であると詐ったり、騙したりはできないものです。
 ── たしかに、外見だけではわからないものですね。資産家であっても、自殺したりする例も多い。「ナイロン」を発明したのは、アメリカの天才化学者・カロザーズです。
 彼はその功績で、勤め先のデュポン社から「生涯、どこへ海外旅行しても、どこの高級レストラン、バーで飲食しても、その一切の費用は会社が負担する」と約束されたそうです。しかし、そんな満ち足りた生活に嫌気がさしたのか、彼は四十一歳という若さで自殺しております。
 屋嘉比 彼の場合、みずからの知性により、あらゆる地位も名誉も保証された。しかし、それでも幸せとはいえなかったわけですね。これに似た例は、意外とありますね。
 ── また、有名人であっても、家庭内の陰湿な葛藤があったり、ひと皮むくと、醜い人間性であったりすることが、意外と多いですね。そうした場合、死に方も概してよくありませんね。
 池田 人の行く末は、だれもわからない。ゆえに、自分自身で正しき人生の大道をみつけながら、その大道を自分らしく歩み、みずからを磨いていくことが大切でしょう。
 ── さまざまな経験をし、年を経れば経るほど、そのことが実感できますね。
 池田 よく私の恩師は言われた。「人生の総仕上げの年齢こそいちばん大切だ」と。
 戸田先生は、「そのためにも、大法の大道を見失ってはならない」と言われた。
 ── そう思います。
 池田 私のまわりにも交通事故で亡くなった人もいる。病気で亡くなった方もおられる。短命な人もおられる。さまざまな人間模様を、私は知っているつもりだ。
 しかし、ここでいえることは、「南無妙法蓮華経」という、宇宙の根本法則に生きぬいた人々の、不慮の死というものをよく見ると、必ずといっていいくらい「大きく宿命の転換がなされている」と、まわりの人々が言っております。
 また、なんとなくその死を予感していた場合が多いようです。
 ── よく聞きますね。
 池田 それらは、永遠に連続しゆく三世の生命のリズムを、それなりに知り、さわやかな「生」と「死」との姿を、鮮やかに見せていたと感じとれますね。
 屋嘉比 たしかに、そういう方がおられます。
 池田 当然、人情としては、別離の寂しさや悲しみはあるかもしれない。
 しかし、いわゆる「仏界」の作用というのか、苦悩を味わうようなことは、まったく近親の方々の姿には見られないものです。
 ── わかるような気がします。
 池田 そうした人々の「死」の姿というものは、さわやかな夢のようであり、そのさわやかな夢が、縁ある人々をさらに勇気づけ、希望へと志向させながら、力強い波動の輪となっているようです。
 屋嘉比 私も立場上、多くの方々の「死」の姿を見てきて、亡くなる寸前まで「生きぬくんだ」という力をみせて、苦しまず、笑顔で、反対に、私どもに生きる力をあたえてくれる場合がありますね。
11  “永遠”を決定する「一念」の強さ
 池田 私がいつも感銘を深くする、大聖人のお手紙のなかに、「謗法の大悪は又法華経に帰しぬるゆへに・きへさせ給うべしただいまに霊山にまいらせ給いなば・日いでて十方をみるが・ごとくうれしく、とくにぬるものかなと・うちよろこび給い候はんずらん」という、まことに甚深のお言葉があるのです。
 「日いでて十方をみるが・ごとくうれしく」──。このような広々とした心で、さわやかな一念で、死を迎えることができるのであれば、これほど幸せな人生もないであろうと、思っております。
 屋嘉比 そうした奥深い人生の生きざまというか、その人の内面というものは、第三者には、やはりわからないでしょうね。しかし、事実は事実です。
 ── それでいて、その近くにいた人に、なんらかの示唆というか、感動をあたえていくのだと思います。いや、よい勉強になりました。(笑い)
 池田 法華経寿量品に「更賜寿命」という経文があります。簡単に申しあげれば“更に寿命を賜え”という意味です。
 ですから、信仰して亡くなった、多くの方々の姿を見たときに、客観的にも、医学的にも、その人の寿命が、二年も三年も、十年も二十年も延ばされていたという例が、まことに多いのです。
 屋嘉比 たしかに、医師の眼からみても、その人の「生きゆこうとする力」が強い場合、難病を克服している場合が、かなりあります。
 池田 そこで、大聖人は、「生の記有れば必ず死す死の記あれば又生ず」と、おおせになっておられる。これが三世の生命の大原則である。
 ゆえに「死」は恐ろしきものでなくして、むしろ自然そのものの、新しき「生」への一瞬の眠りに通ずるといってよい。そこに、「死は恐ろしい」とみていることは「無明」である、という意義があるわけです。
 ですから、その意味においては、妙法への「信」強きことは、最大に「安心」なのです。また「安全」なのです。この世の劇が終わったなら、疲れて休む。そしてまた、生命力を蓄えて、次の「生」の活躍の劇を、繰りかえしていけばよいわけです。
 ── そのお言葉、感銘します。
 池田 つまり、この世が「生の記」であり、亡くなっても、そのまま「死の記」となるというのです。そして「又生ず」、つまり「死」は、必ず新たな生命誕生への原動力となり、瞬発力となっていくわけです。
 屋嘉比 人生の総決算の姿は、そのままつづくということは、わかるような気がします。
 ── しかし、目連とか鏡忍房や、熱原の三烈士のように、殺されたり、また交通事故にあえば、苦しいのではないですかね。
 池田 いや、妙法という「法」自体に帰命し、殉じた場合は、そのまま「仏界」という法のなかに入ることができるのです。
 この点は、かつて私も、戸田第二代会長にうかがったことがある。すると先生は、「眠るときに、ちょっとなにか夢をみるが、すぐに深い安らぎの眠りに入るから、心配ないものなのです」と言われた。
 ── そうですか、わかりました。
 池田 要するに、その人のもつ「法」が大事となる。その人のもつ「一念」の強さが大事となる。死後の宇宙空間の「十界三千の法」との感応があるからです。
 ── そうですか……。
 屋嘉比 私の知る多くの医師も言っていますが、ガンとか脳卒中とか、交通事故で亡くなっていく人は、不幸なようであるが、一面的にはいえない気がします。
 生きぬいている間の、人生の価値がどうであったかが、幸、不幸を決定するものであると。
 ── いや、たしかにそう思われることもありますね。
 少々、極端な話で恐縮なんですが、もう七十歳ちかくなるのでしょうか、ある殺人犯の母親が「息子の死刑を私は祈っている」と語っていたという、痛々しいニュースがありました。
 よく、われわれマスコミ仲間でも話し合うんですが、いくら親が長生きしても、子供が殺人者であったり、強盗などをして捕まった場合、その親は子供かわいさのあまり、かえって苦しむ。この場合は、かえって長命が不幸となっている。どう考えたらよいのかと……。
 屋嘉比 医学者として、こんなことを言ってよいかわかりませんが、つきつめて考えていくと、生きているほうがいいのか、いなくなってしまったほうがいいのか、わからない場合もありますね。
 池田 それは当然、天寿をまっとうし、生きぬくことが、正しい自然の道理であると思います。しかし、一寸先が闇であるこの人生と社会にあっては、長生き即幸せと言いきれない人もいるかもしれない。そこに、確固たる自身の生命観をもった人と、そうでない人との違いが出てくると思います。
 どうでしょうか。
 屋嘉比 そう思います。
 池田 私も、三十七年間の仏法の実践のうえから、さまざまな事象を見、聞き、指導もしてきましたが、仏法の鏡に照らしてみたときに、部分観でなくして、長い眼からみた全体観のうえからの幸福観が、わかるような気がします。
 幸福というものは、近づけば近づくほど、消えてしまう場合がある。不幸というものは、強く実感的に感じるものである。また、幸福の絶頂の裏返しは、不幸の奈落それ自体ともいえる場合がある。
 ── 長生きそれ自体が幸せなのか、短命なのが不幸なのか、むずかしい問題ですね。
 池田 要するに、深い幸福感は、地道な人生のなかにあるような気がします。
 「派手な虚栄的なものは消費に等しい」と言った哲学者がいたが、私もそう思います。
 地道な一日一日の、正しい法則のうえにのっとった生活の生きがいのなかに、幸福感は広がっていく。その正しい生命観をもっていれば、すべてのものを乗り越えていくこともできると思います。

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