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日蓮大聖人・池田大作

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第二章 「生命」の永遠性とは  

「生命と仏法を語る」(池田大作全集第11)

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1  「出生」の意義
 池田 今回は、「出生」の意義をもう少し深め、いちおう、まとめておきたいと思いますが。
 屋嘉比 人間が生まれ出るとき、「宿命」といいましょうか、さまざまの姿を現じてくることについても、遺伝子による要因とか、医学でも現象面でのあるていどの解明がされるようになってきたと思います。
 池田 仏法と医学は相反しない。よく戸田第二代会長が強調しておられたところです。医学はその研究の積み重ねのなかから、一歩一歩と進歩していくことになるでしょう。
 屋嘉比 いわゆる医学は、人間の「出生」という問題についていえば、精子と卵子の受精現象にまでさかのぼって解明することができました。
 しかし、この受精によって決定される個々の特質、またそれを決定づける遺伝子の組み合わせが、いかにして決められていくかは、いまだにわかりません。
 ところが、最近、「出生」の原因というものは、その前提となる、より大きな背景があるのではないかという見解が、アメリカやヨーロッパの一部の学者によって提起されています。
 ── 生命の神秘性、不可思議さを探るということは、世界的なひとつの潮流になってきているようですね。
 池田 いま話題の、「ニューサイエンス」などでも、「ホロン」(個であると同時に全体としての性格)とか、「ゆらぎ」(生命体の環境への自主的適応)とかいって、「生命」の本質に迫ろうという関心が高まっているようですが……。
 屋嘉比 ええ、つい先日も、筑波大学でその国際シンポジウムをやっていました。私もそのリポートを見ましたが、東洋の「気」とか「霊性」というものを引っぱり出してきて、生命の連動性を説明しようとするフランスの学者もおりました。
 ただ、いまの段階では議論が白熱しているわりには、どうも暗中模索の感がいなめませんが。(笑い)
 池田 どこまで納得できるかは別として、ともかく生命の連動性という考え方を、共通の認識基盤にしていることは、まことに大切と私は思います。
 屋嘉比 私は、医学的に精子と卵子の結合による生命の誕生といっても、どうも、それだけでは説明しきれない何ものかがある気がしますが。
 池田 そのとおりと思います。生命の誕生、発生というまことに創造的な営為。また誕生してからの、遺伝子などのさまざまな情報にもとづく自己創造の活動は、とても化学的、機械論的な反応の説明だけではなしうるものではない。
 屋嘉比 ですから私は、そこにもっと深い次元の、みずからを誕生、発現せしめていく「何か」、また生きつづけようとしていく「何か」があると思います。
 池田 いま、屋嘉比さんが指摘されたように、いわゆる人類史が始まって以来、人々は、その生きつづける「何か」が「有る」と気がついていた、と思われることがありますね。
 いちばんわかりやすい例でお話ししますと、ギリシャ語やラテン語で、「有る」という言葉が、そのまま「生きる」を意味する言葉になっているんですね。
 ギリシャ語では「esti」、ラテン語では「est」という言葉です。
 インド古代のサンスクリット語による哲学用語でも「有る」は、同じく「生きている」という概念になっていますね。
 しかも、古代ギリシャにおいても、魂の「輪廻観」というものが強くあったようです。
 屋嘉比 インドでは、昔から生命の「輪廻観」があった。ギリシャにも、生きつづける「何か」、すなわち生命が、生死を繰りかえすという考え方があったのでしょうか。
 池田 私もその道の研究者でないもので、その点、ご了承願いたいのですが、たしか、紀元前七世紀ごろであったと思いますが、オルペウス派という宗派が「輪廻観」を言っていたようです。
 さらに紀元前五世紀ごろには、ギリシャのピタゴラス派が、「輪廻観」とか「霊魂不滅」というものを、展開していたようです。
 これが後代にわたって、多大な影響をあたえたことは、歴史的に有名なことです。
 屋嘉比 東洋と西洋の不思議な一致ですね。ピタゴラス派は、プラトンをはじめ、その後のギリシャ哲学の大きな源流になっておりますね。
2  母の「胎内」は尊厳なる「宝浄世界」
 池田 仏法には「四有」という言葉があります。簡単に申しあげますと、生命が「生有」「本有」「死有」「中有」という四つの状態になるというわけです。
 「生有」とは、誕生の瞬間をさしていると思います。
 「本有」とは、誕生から死まで。
 「死有」とは、死の瞬間。
 「中有」とは、死から次の誕生まで。
 つまり、生命は四つの状態を三世永遠に繰りかえしていくという意味があると思います。
 もっと深いとらえ方があるかもしれませんが、いちおう、私なりに一言だけ申しあげておきます。
 屋嘉比 仏法は、あくまでも「生命」というものが、永遠性をはらんでいるという大前提となっているわけですね。
 池田 仏教には「希有」という経文の言葉があります。法華経方便品にもみられますが、これは、現代の私たちの立場でいえば、「南無妙法蓮華経」という「一法」に巡り合うということが、いかに「希」であるかということをいっております。
 また、爾前経などに、人間として「生まれる」ということが、めったにないことであり、希にして不思議なることという意義があった気がします。
 ── よく一般的に「希に」ということを「希有」といいますが、仏教からきているわけですね。
 この「出生」がいかに希なことかは、第一章でもお話に出ましたね。
 屋嘉比 第一章でも申しあげましたが、お母さんの胎内の受精卵のうち、出生にまでいたるのは約三分の一しかないともいわれています。
 池田 この希なる「生命」の誕生も、仏教では「苦」ととらえております。たとえば、涅槃経には、「生苦」として、次の二つがとりあげられております。
 まず、初めてこの世に出ること。すなわち受精、受胎することを「生苦」といっております。
 次に、母胎から生まれ出るときにも苦をともなう。これをも「生苦」に含めます。
 この母胎から誕生する「苦」には、仏教の初期の段階の修行道地経という経文によれば、二種があって、一つは狭小な産道を通る場合の苦痛であり、二つは出産後に初めて外物、つまり外気、助産婦の手、産湯、産着などに触れる苦痛である。
 こういう生苦をなめて生まれるため、人は過去における記憶を忘れるというのもあります。
 屋嘉比 なるほど、明快ですね。
 池田 また、日蓮大聖人の「御義口伝」という深い次元では、「宝浄世界とは我等が母の胎内なり」と説かれております。
 また、「宝浄世界の仏とは事相の義をばしばらく之を置く、証道観心の時は母の胎内是なり故に父母は宝塔造作の番匠なり、宝塔とは我等が五輪・五大なりしかるに詑胎たくたいの胎を宝浄世界と云う故に出胎する処を涌現と云うなり、凡そ衆生の涌現は地輪より出現するなり故に従地涌出と云うなり、妙法の宝浄世界なれば十界の衆生の胎内は皆是れ宝浄世界なり」ともおっしゃっている。
 これまた事と理、総別という次元で拝さなければならないのですが、いちおう、簡単に申しあげますと、「十界の衆生の胎内は皆是れ宝浄世界なり」、つまり「宝浄世界」とは、特別の世界をさすのでもない。また観念の世界をさすのでもない。
 母の「胎内」が、生命の出生するところであり、生命以上にすぐれた宝はない、ゆえに、最も尊厳なる「宝浄世界」である、とおっしゃっておられるわけです。
 屋嘉比 たいへん、深秘な教えと思います。
 池田 また、むずかしくなってしまい、恐縮ですが(笑い)、仏法では、すべて生まれたものは、必ず滅する。その現象面だけの「有」を「仮有」と説いています。
 さらに仏法では生命それ自体に、たとえば「出生」なら、「出生」をうながす不滅の核、つまり「我」というような常住の存在があることを説いております。
 これを「仮有」に対して、「実有」「真有」「妙有」とも説き明かしております。
 屋嘉比 そうですか。医学や科学では、ちょっと出てこない言葉ですね。(大笑い)
 池田 人間は胎内から生まれる。鳥や魚は卵から生まれる。また星は宇宙空間から生まれる。また冬の枯れ野は、やがて春になると、美しい花や緑に変わる。
 それぞれ、所生はちがっても、ありとあらゆる生命は、誕生のドラマを演じる。
 そしてまた、必ずいつかは滅していく。
 ── 森羅万象ことごとくが時とともに変化しますね。
 池田 私の家は、新宿の信濃町にあります。もう十数年住んでおりますが、よく近くの外苑のイチョウ並木を通ることがあります。
 春になると木々は青い芽を吹き出し、夏は葉が繁茂し、秋になると美しい黄色になります。そして冬の訪れとともに、一枚の葉もなくなる。
 この四季折々の光景を、何回となく見ながら、なにか生命の深秘なドラマを感じてならないのです。
 屋嘉比 たしかに生物というものは、条件がととのえば、また環境からの適切な働きかけがあれば、誕生していくということは、そうしたいくつかの小さな例をとってみても、考えられます。
3  大宇宙の本源の働き
 ── 『「仏法と宇宙」を語る』のなかで、星の誕生が語られていましたね。
 屋嘉比 私も読みましたが、たいへん感動的な話でした。
 つまり広大無辺の宇宙で、目に見えないくらいの小さな物質が集まり、回転をはじめる。そして、誕生のときをつくる。それがあるとき、瞬時にして突然輝きわたるという、ロマンあふれる話でしたね。
 そこで仏教に説かれている「実有」とは、どういうことになるのでしょうか。
 池田 いや、むずかしい質問です。(笑い) たとえば、天空にきらめく無数の星の誕生を、ひとつの例にとってみれば──大宇宙それ自体は、これら星々の母胎のような存在ととれる。
 ですから、大宇宙それ自体に、太陽とか、金星とか水星とか、また銀河星雲とか、また、われわれの住んでいる地球のような無数の星を「出生・誕生」させゆく力用というものがある、と私は考えたいのです。
 つまり、宇宙それ自体が、生命を誕生させゆく慈悲ぶかい存在である、と仏法では説かれている。その「生きている」大宇宙の本源の働きを、ひとつの軸としながら、無数のきらめく星雲が誕生していこうとする力用の、その実在的な当体を「実有」ととらえていきたいと思います。
 まあ、もっと深いとらえ方をなさる方もいらっしゃると思いますが、いちおう、これでご了解願いたい。(笑い)
 屋嘉比 すると人間も母親の胎内という場を借りながら、といいますか、即してといいましょうか、生命それ自体の力用によって、「出生」という厳粛なる事実を示していくととらえるわけですか。
 池田 そうとっていただければ、ありがたいのですが。(笑い)
 ですから、生命というものは、いついかなるときでも、創造性を内在し、さらに能動的であり、まことに積極的な蘇生への力そのものをもっていることがわかります。
 そこで経釈に「一身一念法界に遍し」と。これも深義があるのですが、簡潔に申しあげますと、「生命」には、常に宇宙大の生命に達しゆこうとする壮大にして、限りなき律動がある、ということになります。
 屋嘉比 人間の生命が宇宙大の広がりをもつということは、まことに卓見であり、概観して言えば、フロイトやユングなどに端を発する深層心理学が光をあててきたのも、まさしくその一点にあったといえると思います。
4  深遠な仏法の生命観
 池田 しかも、生命には、顕現への「内」なる働きがある。
 それが「因」となり、それと相互に交差しあう多くの「外」なる条件を「縁」として、いわゆる「出生」がなされていくと思います。
 屋嘉比 その点について、何か仏法では説かれているのでしょうか。
 池田 大聖人の「総勘文抄」という御書にあります。「内外相応し因縁和合して自在神通の慈悲の力を施し」という御文です。
 これは簡単に申しあげますと、仏法には一往、再往という深い次元の法門がありますが、ここでは、一往、人間の生命の誕生という観点で論じますと、「因」というのは「生命」を顕在化させゆく内なる力用である。
 また「縁」というものは、その顕在化の助縁となる働き、たとえば親と子になる縁ともいえると思います。
 つまり、内なる「因」と、外なる「縁」とが相応し、和合して、生命というものが誕生すると説かれているわけです。
 屋嘉比 「出生」の意義を、仏法が深秘といおうか、たいへん深遠なる次元から、鋭く見きわめていることに感服します。
 池田 さらに、「一念三千理事」という御文には、「業に二有り一には牽引の業なり我等が正く生を受く可き業を云うなり、二には円満の業なり余の一切の造業なり」とも説かれております。
 これは、十界の生命、たとえば人間に生まれるものもある。また、動物などの畜生界などに生まれるものもある。
 そうしたさまざまな姿を現じるその因となる「牽引の業」というものがある。またそれに対し、男女、体つき、体質、性格、能力などの個々の特質を生じさせる因となる「円満の業」というものがある、とおっしゃっているわけです。
 屋嘉比 仏法は、厳しく人間の生命の因果をみていく法となるわけですね。
 池田 そうです。日蓮大聖人の「御義口伝」という御文には、「生死を見て厭離するを迷と云い始覚と云うなりさて本有の生死と知見するを悟と云い本覚と云うなり」とおっしゃっておられる。
 これはまことに、甚深の法門を説かれておられますが、私なりに簡潔に申しあげますと、仏法の眼、ひとつの法理を達観した眼からみれば、「生」も「死」も、すべて永遠に実在するということになるわけです。ここが、仏法のひとつの極理ともいえるのではないでしょうか。
 私も、まことに浅学ではありますが、生命が永遠であるということが、少し感じられるような気がする昨今です。ありがたいことと思っております。
 「諸行無常」すなわち「仮有」。この「諸行無常」の社会。「仮有」である人間や社会の、より深い次元から、人間そして人生と社会というものを見きわめていけるようになったことは、最大の幸福者と思っております。
 少々のことでは、動じない自分を見いだすことができるということは、仏法の実践者として、これ以上のありがたい境涯はないと思っております。
5  科学と宗教の関係
 ── 話題を変えて申しわけありませんが(笑い)、よく日本の急速な技術力の発展は、応用が得意だったからといわれますが。
 池田 そうともいえますが、観点を変えれば、納得しうるものは受け入れるのが早いというよさがあるのではないでしょうか。ですから、科学の公理に対しても、それがまったく新しいものであったとしても、ひとたび理解すればたいへん忠実に受け入れるともいえるでしょう。
 屋嘉比 そう思います。
 科学の公理を人間がとり入れていくのは、ごく当然のことのように思われます。だが、つい近年まで、実際の科学の進歩の歴史は、人間の偏見との闘いの歩みでもありました。現代のアメリカでさえ、その残像のようなことがあります。数年前、ダーウィンの進化論と聖書をめぐって、象徴的な出来事がありました。
 ── ダーウィンの進化論は、聖書の教えに反するとして、学校で教えることが、問題になったことがありましたね。
 池田 私も新聞で見たとき、たいへんに驚いた。
 たしかその問題は、法廷まで持ち込まれ、アーカンソー州とテネシー州では、最高裁までいったのではなかったでしょうか。
 キリスト教のグループが、神が自分の姿に似せて人間をつくったという聖書の教義を、ダーウィンの進化論と一緒に学校で教えるべきだ、と訴訟を起こしたわけです。結局のところ、その訴えは却下され、実現されなかったようです。
 屋嘉比 現代はともかく、十九世紀に、ダーウィンがビーグル号で南半球を航海し、動植物や地質の観察から、初めて進化論を唱えたときの弾圧はひどいものだったようです。
 ── なぜ、このようなことが、現代でも問題になるのでしょうか。
 池田 進化論は理論としては成立しても、ダーウィンの進化論そのものには、現実に矛盾する事柄も出てきているという学者もいるようですね。
 屋嘉比 そのとおりです。アミーバなどの原生動物から人間までの進化を解明するのは、たいへんなことです。
 そこで、全部を証明できないとなると、こんどはまた聖書の天地創造説を持ち込み、同じレベルであつかおうとするような、時代に逆行した考え方が顔を出してしまう場面も出てくるわけですね。
 ── 考えてみると、人間の心を本当にとらえ、納得させるということは、たいへんなこととつくづく思います。
 池田 まったくそのとおりです。ですから仏法では、「石中の火・木中の花信じ難けれども縁に値うて出生すれば之を信ず」と、まことに明快な表現で説かれています。
 この文意は、生命のなかの仏界は凡夫には信じがたいけれども、現証によって信ずべきである。このように宗教は、あくまでも、だれびとも心から納得し、心からの満足を得られるということが大前提でなければならない、というわけです。
 屋嘉比 一見、単純のようで、鋭い洞察を包含した御文と思います。科学、医学においてもすぐれた理論とは、そのとおりの現証があって、初めてそういえるわけです。
 その意味でも、現証を重んじる仏法はたいへんな科学性をもった宗教と思います。
 池田 高等宗教は、決して科学と相反しないということが公理です(笑い)。そうでなければ普遍妥当性をもちえない。私たちも信じないでしょう(笑い)。科学と宗教は、相互に尊敬しあっていくべきものだと思いますね。
 屋嘉比 そうでしょうね。
 考えてみると、私たちの日常生活でも、科学性などということをいちいち意識しなくとも、生活のなかで当然のこととしています。
 池田 そうです。人間のひとつの生活の知恵になっている、といっていいでしょう。
 ですから、昔から、「論より証拠」という有名な格言がある。また西洋にも同意義の警句がある。
 ── ええ、「範例は教説にまさる」(Example*is*better*than*precept)というのがあります。
 屋嘉比 そうした格言が、洋の東西を問わず、昔からいわれてきているのも、人々が実際経験のなかで自然のうちに体得してきた道理、といえるのではないでしょうか。
 池田 そうです。ですから日蓮大聖人の御文には、「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」とも説かれております。
 屋嘉比 「主に勝つ」とはどういうことですか。
 池田 一言で申しあげますと「主」というのは、現代でいえば社会、あるときは権力ということになるでしょうか。
 ですから、さまざまな経緯があったとしても、仏法の正しき道理、正しき法というものがあれば、人生また社会において、見事なる勝利の実証を示していけるということになるでしょうか。
 まあ、これはさらに深い仏法の論議があるのですが……。
 屋嘉比 なるほど。仏法とは、本当に人間の生き方に沿った理と思いますね。
6  人類の意識を変えた一枚の写真
 屋嘉比 第一章で、先生が、「地球自体もまた一個の生命体」という見解を、さりげなく話されましたが、私はたいへんに感動しました。
 じつは、私はこの対談もあることですし、また自分の勉強にもなればと思い、さまざまな外国の関係文献を見ております。
 そのなかに、第二代会長であられた戸田先生の思索に迫るような理論体系があった。
 これこそ現代の最先端をいく、科学的なシステム論として、世界から注目されていることがわかったのです。
 池田 そうですか。簡潔に私どもにもわかるように(笑い)、話してくれませんか。
 屋嘉比 すでに先生もご存じかもしれませんが、地球が「生命圏」として存在しているという科学者の提唱です。
 池田 それは私も聞いています。名前は忘れましたが、アメリカとイギリスの学者ではないでしょうか。
 屋嘉比 そのとおりです。イギリスのJ・ラヴロックとアメリカのリン・マーギュリスという人が提唱したものです。
 彼らは、大気中の化学的組織や地表温度、その他、さまざまな面において、地球がみずから「バランス」と「調整」を図っているという実態を調査したわけです。
 池田 彼らは、調査した無数のデータをつきあわせてみて、「地球全体を一個の生命体とみなす場合にのみ、これらの現象は理解できる」という実証的な結論を導き出そうとしているのではないでしょうか。
 屋嘉比 彼らは、その理論を、さしあたって「ガイア仮説」と名づけております。
 池田 いままでの科学の概念では、どうしてもその理論を表現できないので、ギリシャ神話に言葉を求めたということでしたが、本当でしょうか。
 屋嘉比 そのとおりです。
 池田 「ガイア」とは、どういう意味になりますか。
 屋嘉比 例の「カオス」(混沌)の中から、大地を生み出した女神の名前だった、と思いますが……。
 池田 ユニークな科学者には、ロマンがありますね。(笑い)
 屋嘉比 先生は以前、数人の宇宙飛行士と会談されていますが、そのなかで地球を「生命圏」としてとらえるような話はありましたか。
 池田 おしなべて彼ら宇宙飛行士は、宇宙船から「一個の地球」という実体を見るのは、劇的かつ深遠な精神的体験である、と語っておりました。
 屋嘉比 初めて宇宙船から地球を撮った、あの一枚の写真ほど、私ども人類の意識を変えさせたものはない、と私は思います。
 池田 たった一枚の写真で世界を変革したという、事実の革命でしたね。
 屋嘉比 最近は、見慣れてしまって感動がなくなってしまいましたが(笑い)、未来の人類にとってのたいへんな出発であった、と私はみたいと思います。
 池田 私も、そのとおりと思います。
 後世の歴史家は、きっと二十世紀を代表するシンボルとして、位置づけていくでしょう。
 「かけがえのない地球」の何ものかを、あの写真は無言のうちに訴えかけてくる。
 ですから、核廃絶の平和運動にあっても、自然保護の運動にあっても、そのひとつの象徴ともなっていますね。
 屋嘉比 この「自然」と「人間」の「共生」ということは、“地球という生命体のなかの人間”から、さらに“宇宙生命のなかの地球”へと、広がっていくのではないでしょうか。
 池田 それは、ひとつの流れでしょう。
 この流れを逆流させてはならない。また、もはや逆流はできないでしょう。
 「宇宙」と「地球」と「生物」という連関性が脈動し、連動し、根幹をなしゆくことは、ひとつの真理であるからです。
 屋嘉比 その一点こそ、今後の科学の重大課題と思います。
7  「老化」のナゾ
 ── また、ちょっと話題を変えますが、「生」をうけたもの必ず老いる。人間の老化の現象を、どう考えたらいいのでしょうか。
 屋嘉比 医学が急速度に進歩しても、たしかに、「老化」という問題は、まだまだ、ナゾにつつまれているといわざるをえませんね。
 ── 少々、顔のシワが伸ばせても(笑い)、老いてますます矍鑠という人がいても、根本的にはどうしようもないことですから。(笑い)
 池田 生きゆくための重大問題です。
 「老化」と「死」という問題は、永遠に人間をして宿命的に支配していくものだ。
 屋嘉比 ですからいま、「老年医学」が盛んに研究されています。各地の大きな病院には「老人科」があります。
 池田 老化現象はだれもが実感できる。だが、その解決策となると、現代社会に残された最大の難問のひとつといえるのでしょう。
 心理学、社会学、政治や経済なども含め、総合的にとりくむべき問題です。
 屋嘉比 年をとっても、私はこのとおり元気だ、という人もいます。しかし、あるていどの年齢に達すると、精神機能も低下し、肉体的にも、そこかしこおかしくなってきます。
 池田 でしょうね。いわゆる加齢にともなう生理的な変化の現象ですね。
 屋嘉比 たとえば年をとるにしたがい、身体全体の組織から、しだいに水分が減っていきます。
 池田 躍動する若さを「みずみずしい」と表現します。  誕生したときの子供の体重の八〇パーセント前後が、  水分の重量だと聞いたことがありますが……。  
 屋嘉比 そうです。ところが、成人では六〇パーセントに減り、老人になると、個人差はありますが、ほぼ生まれたときの三分の二になります。
 ── 樹木のように枯れていくのですか。(笑い)
 屋嘉比 また、「人は血管とともに老いる」とよくいわれるように、年とともに全身の動脈硬化が進みます。さらに、全身の生理的機能が徐々に低下していきます。
 よく中年以降、目が遠くなったという人がいますが、これは医学的には眼球の水晶体が硬化してくるためです。これが、いわゆる老眼です。
 ── よく、目とその周辺には、年齢が出る、といいますが。
 池田 人生のそれなりの域に達した人の顔つきというものには個性がある。
 それは、目の輝きとか、目の表情が個人差をつくりだすからだ、という人もおります。ですから、目をかくすと個々の判別がむずかしくなるという人もおりますね。(笑い)
 ── だからサングラスが必要になるんですね(笑い)。目のまわりの老化が、いちばん老いを目立たせることになりますから……。
 屋嘉比 いや、サングラスは、目の老化を防ぎます(笑い)。紫外線から目を守るのです。
 ── 頭髪にも大変化がおきます(大笑い)。精神機能が低下しはじめるのは、何歳ぐらいを境目にしてでしょうか。
 屋嘉比 意外と早くから低下するものもあります。知能テストの成績などは、二十歳がピークで、その後は徐々に低下していくようです。二十歳を過ぎると、毎日、十万個の脳細胞が死滅していきますので、それにともなう現象かもしれません。
 ── すると、私は四十五歳ですから、かなり低下してますね。(笑い)
 屋嘉比 そんなことはないですよ(笑い)。たしかに、脳細胞はすでに九億個以上は減少していると思いますが。(笑い)
 問題は神経細胞の回路です。頭を使う人は、年をとっても、神経回路はますます発達し、機能が向上することもあるようです。
 でも、ふつう記憶力や学習能力の衰えが明らかに目立ちはじめるのは、やはり、四十歳ないし五十歳ぐらいからのようです。
 ── このまえ、「朝日新聞」で「高齢化する世界の指導者」という企画をやっていました。意外なほど高齢者が多いんですね。なぜ、各国の政治的指導者の健康がしばしば重大な関心事とされるのか、あらためて、その理由がわかりますね。
 屋嘉比 ソ連のチェルネンコ書記長(当時)は七十三歳ですか、よく健康不安説が流れる。
 また、アメリカのレーガン大統領もたしか同じ七十三歳。大統領選の遊説中に、飛行機のタラップでつまずいたことが、選挙の結果に影響するかもしれないとニュースになりましたね。(笑い)
 ── 名誉会長は、世界の各国の指導者と会っておられますが、年配の指導者がいいか、または若い指導者のほうがよいと思われますか。
 池田 それはなんともいえない。その国の実情もあるだろうし、個人差もあるでしょう。ただ言えることは、時代が若い指導者を要請していることは、まちがいないと思います。
 屋嘉比 先生が会われた世界各国の指導者はどれくらいの年齢でしたか。
 池田 ちょっと年齢はよく覚えていないのですが。(笑い)
 中国の鄧小平党中央顧問委員会主任とは、二、三回会見しましたが……。
 ── いま、八十一歳ですよ。
 池田 あっ、そうですね。元気ですね。
 もう亡くなりましたが、コスイギン首相は、会ったときは、七十歳ぐらいだったでしょうか。
 現在のチーホノフ首相は、七十五歳ぐらいのときだったと記憶しています。
 ブラジルのフィゲイレド大統領、ペルーのベラウンデ大統領、ブルガリアのジフコフ議長(元首)、すでにやめていますがメキシコのロペス大統領、インドのデサイ首相……。
 皆、六十歳代もしくは、七十歳代だったと思います。たしかに皆、元気でしたね。
 オランダのルベルス首相、オーストリアのジノワツ首相は若い人でした。アメリカのエドワード・ケネディ上院議員も若かった。キッシンジャー博士はたしか、五十代だったでしょうか。
 あ、それから周恩来首相は、七十五前後でしたかね。亡くなる一年ぐらい前でしたが……。
 屋嘉比 革命でもないかぎり、若手の政治指導者はなかなか出てこないものでしょうか。
 池田 たしかに安定を求める社会では、相対的に保守化が進みますから、どうしても世代の交代はむずかしくなるでしょう。
 ときには多くの人々が、若い指導者を待望することもまちがいない。その例として、故ケネディが四十二歳で大統領になったような例もありますね。またヨーロッパでは、比較的若い指導者が多いようです。
 屋嘉比
 とくに共産圏で高齢者が目立ちます。
 七十歳以上は、朝鮮人民共和国の金日成主席をはじめ、東欧八カ国のうち、五人までがそうですね。
 池田 すると、現在の指導者たちにとって最大の政敵は、自分の年齢になってきてしまった感がある。(笑い)
8  要請される「人類のための宗教」
 ── ところで、名誉会長は、多数の方々と会い、また激励をしておられますが、名誉会長の高齢者観はいかがですか。
 池田 いや困ったね。(笑い)
 私は昭和三年生まれで、「昭和三年会」というのをつくっています。
 その会合のとき、同じ年齢であっても個人差と、老化現象のあらわれ方にちがいがあるのを、目のあたりにします。そのときほど、お互いに、格差を考えさせられることはありませんね。(大爆笑)
 屋嘉比 そうですか。たしかに表面にあらわれる老化現象には、個人差があるように見えますが、それ以上に、精神的な面の老化のほうが、個人差がはなはだしいといえるでしょう。
 池田 老いのことは、目の輝きによって、あるていどの年齢になっても、より若く見えたり、若くとも、よりふけて見えたりすることは事実です。
 また、苦労しているから老いの印象が強いとか、苦労していないから若々しいとか、いちがいにはいえないと思う。それなりの人生の年輪を刻んできた人の顔は、なんともいえない頼もしさと、安心感を私たちにあたえてくれるものだ。
 そういった人々の、物事の本質を見抜く眼は、むしろ年とともに深まっていくものでしょう。
 このへんの自分の人生の来しかたを、みずからが考えなければならないと思います。
 ── それにしても、科学万博に、人間の老化を止める技術が展示されるのは、いつのことでしょうか。(笑い)
 屋嘉比 いや、その予測は、ちょっとむずかしいですよ。(笑い)
 池田 最先端の技術を利用することにより、老化遺伝子のナゾを解く研究をしている学者がいるとも聞いていますが、屋嘉比さん、どうなんでしょうか。
 屋嘉比 たしかにお話のとおりです。
 簡単に申しあげますと、「老化現象」というのは、本質的には細胞レベルの現象です。私たちの身体の細胞は、生まれてから約五十回ほどの限られた回数しか分裂できないという考え方や、生まれたときから老化をつかさどる遺伝子があるとする考え方などがあります。
 ある年齢になると、だれでも、この遺伝子が働き出し、(細胞が死滅してきて)老化がはじまるというわけです。
 池田 そうですか。具体的には、どういうことになりますか。
 屋嘉比 たとえば、動脈硬化やガンなどは、本質的には「老化」にともなう現象と考えられています。ですから、多くの医学者が、生命の本体であるDNA遺伝子に着目して研究しております。
 池田 そうしますと、遺伝子の性格や構造に光をあてている段階ですか。
 屋嘉比 たとえば、寿命の長い人の遺伝子の構造がどうなっているか、明らかにしようとしています。
 池田 それが、いま注目されている生命工学ですね。
 屋嘉比 たいへん熱の入っている分野です。
 学者によっては、老化遺伝子の発見に昼も夜もないほどです。
 池田 その老化遺伝子が見つかる可能性はあるのですか。
 屋嘉比 たいへんにおもしろい例があります。子嚢菌という菌では、その細胞中のミトコンドリアのDNAが、老化遺伝子と考えられています。ところが、突然変異によってできた、老化遺伝子のない菌は、限りなく増殖しつづけるようです。
 池田 すると、人間の老化遺伝子を見つけ、その働きを抑えることによって、すべての人間に長寿があたえられる可能性はあるのですか。
 屋嘉比 結果的には、まだわかりません。ただ、もし実現すれば、遺伝子操作の問題は、人間の運命打開のひとつになる可能性はあるわけです。
 池田 運命打開のひとつになればいいですね。
 屋嘉比 いまだ希望的観測です。ですから、私は価値ある人生を生きるうえで、科学とともに、人類のもうひとつの文化的財産である宗教の存在意義は大きいと思いますが。
 池田 よくわかります。イギリスのJ・モーレイという思想家は、すでに、「科学の次の仕事は、人類のための宗教を創造することにある」と言っていますからね。
 屋嘉比 含蓄ある言葉と思います。
 池田 私がこの仏法を知ってまもないころでしたが、あるとき、第六十五世日淳上人の論文を拝し、たいへんに感銘を深くしたことがあった。それは、多少表現は違っていたかもしれませんが、この「生命」という問題についていえば、「勿論科学の世界でない。経済の世界にもない。此は宗教の世界に於て初めて存在し得るところであります」という内容であったと思います。
 屋嘉比 なるほど。たしかに、「生命」「人類」「宇宙」といった根本的問題の解明は、上人のおっしゃるとおり、宗教的次元のことであると、私も一医学者として感ぜざるをえませんね。

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