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日蓮大聖人・池田大作

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第一章 出生の不可思議  

「生命と仏法を語る」(池田大作全集第11)

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9  医学と仏法の役割について
 ── 話は変わりますが、近代になって、生命のことを最も追究し、研究した学者はだれですか。
 池田 それぞれの立場で名をあげる人は異なると思いますが……。「生の哲学」のベルクソンはその一人でしょうね。どうでしょうか、屋嘉比さん。
 屋嘉比 ベルクソンですと、異論はないと思います。医学の底流には、常に思想、哲学が必要ですが、彼の著書『創造的進化』のなかで「知性は生命にたいする本性的な無理解を特徴とする」との指摘は、印象ぶかく残っています。
 ── 池田先生の『若き日の日記』を拝見しますと、ずいぶんベルクソンの著書を読まれていますね。
 池田 何冊か読みました。青春のころの読書は、忘れがたいものです。
 とくにベルクソンが「分析」から「直観」へと主張したことには、共感をおぼえました。
 いま、再び彼の『物質と記憶』や『道徳と宗教との二源泉』などが読まれはじめていると聞いていますが……。
 ── 小林秀雄さんなども最後に挑戦するテーマにしていたようですね。
 屋嘉比 ベルクソンは生命哲学の分野ばかりではなく、文学者にも関心をもたれたのですね。
 池田 そう思います。生命論の受けとめられ方などをみても、医学や文学や物理学など、専門がいかに異なっても帰着するところは同じだ、ということがわかります。
 専門は専門として、最終的にめざしていくところは、結局、「人間」と「生命」の問題になっていくことは必然といえます。
 こんど五千円札の肖像になった新渡戸(稲造)博士は、牧口(常三郎)初代会長と昵懇だったようです。博士は、日本人としてベルクソンと直接交際した数少ない人物の一人です。
 ── そういえば、牧口先生の『創価教育学体系』に序文を寄せていますね。
 池田 そうです。新渡戸博士は、フランスなどの長い滞欧生活からの帰国直後に書かれたようですね。
 ── その序文を見ますと、教育技術の追究に翻弄されている当時の教育界にあって、技術はあくまで従であって「堅実なる人を養成する」ことを重視する牧口先生の「人間教育」を絶賛しています。
 これなども、ベルクソンの生命哲学からの影響をうけた経緯もあってのことではないでしょうか。
 池田 そのように想像できますね。初代会長は、すぐれた教育者であり、人生地理学の大学者でした。ですから、当時の教育界の重鎮であった博士との交流は、必然的な出会いだったのでしょう。
 ただここで申しあげたいことは、当時の新渡戸博士は、人間から生命へというベルクソンの生命哲学にもふれ、より深く、ものごとをとらえる境地に立っていかれたのでしょう。そこできっと初代会長の『価値論』の内容を見て、博士が感動なされたような気が私にはするのです。
 そこで屋嘉比さん、医学の分野では、現在、大家といわれる人は、だれがいますか。
 屋嘉比 アメリカのライナス・ポーリング博士などの名前はよく耳にしますね。博士はすぐれた研究者であるとともに、平和運動の実践者でもあります。
 池田 ビタミンCの研究などで、ノーベル化学賞を受けた著名な学者ですね。また、ノーベル平和賞も受けている。
 ── その意味では、人類のためにたいへん貢献していますね。
 屋嘉比 博士の研究所には、いまでも三十三人のノーベル賞学者が研究に従事しています。
 池田 素晴らしいことだ。それから、イギリスの分子生物学の分野でしたか、ワトソン博士、クリック博士の名前も、新聞などで見かけることがありますが。
 屋嘉比 ええ、両博士は、今日の生命科学の基礎になる理論構築に貢献しています。とくに、DNA(デオキシリボ核酸)という遺伝子の構造を解明しました。科学が人間生命の神秘に足を踏みいれた、偉大なる業績と思います。両博士の研究書は、医学を志す者の教科書です。
 池田 あとはどういう人がいますか。
 屋嘉比 一九六三年にノーベル医学生理学賞を受けたオーストラリア生まれのエックルス博士も大事な人です。
 池田 脳を研究している方ですね。
 屋嘉比 ええ、大脳生理学の大家で、たしか東大の生理学教授も師事されたことがあり、私たちもいわば孫弟子にあたるわけです。博士は、最近、一般向けの『脳と宇宙への冒険』(鈴木二郎訳、海鳴社)という本を書かれています。
 その本のなかで博士は宇宙と地球、人類の歴史にふれ、結論として人間の脳を理解するのに「脳を超えた自我意識精神」を想定されています。
 ── より深く広い次元からの、ものの見方が要求されるわけですね。
 ところで、脳のシワの多い少ないで頭のよさが決まると、よく聞きますが。(笑い)
 屋嘉比 それだけで頭のよさが決まるというのは、もし神が人間をつくったというのであれば、あまりにも残酷な話です(笑い)。人間の頭脳のよさが、シワとか脳の大きさとかで決まるというのは、あくまで俗説ですね。(笑い)
 もし、それが正しいとすると、人間の六倍もの脳の重さのあるマッコウクジラや、人間より脳のシワの多いイルカのほうが、人間よりずっと賢いということになってしまいます(笑い)。だいたい人間は、自分の脳細胞をすべて使いきっているわけではありませんから、やはりシワの数ではなく、努力の量によって決まるのではないでしょうか。
 池田 ともかく、私たちは、現実に生きている、生まれてきてしまったことだけは間違いない。そして生まれながらにして、貧しい家に、富める家に、賢く、愚かに等々、あまりにも差別の境遇にはめこまれた運命にある。
 その淵源はどこにあるのか、という問題を、厳しき因果のうえから説き明かしたのが仏法です。
 「心地観経」という仏典には、「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」とあります。
 これは、仏法では、たんに「今世」だけの生命現象の「因果」をあつかうのではない。あくまで、「過去・現在・未来」という「三世」にわたる永遠の生命観にたって、すべての現実、現象を掘りさげてとらえ、そこに、仏法は、人間の運命と宿業の淵源をみていく、という意味になります。また、それをいかにして打開していくか、という法則を提示しているわけです。
 屋嘉比 現象面を主に追究する医学からみますと、たいへんな深い次元からの道理となるわけですね。
 池田 ですから、人間が医学から多大な恩恵をこうむってきたこと、また未来もそうであることは揺るぎない事実ですが、医学は、いわば生命の現象面の近因の探究と治療が目的であるといえる。それに対し、仏法は淵源の追究、そして未来の追究であるといえる。
 屋嘉比 医学の研究者としては、人間と医学を考えるうえでの大切な示唆を感じます。
 池田 大聖人の因果倶時の法門は、さらに、もう一歩深いのですが……。
 これは、また、なにかの機会に論じさせていただきたい。
 ともあれ、医学は健康の追究であり、仏法は何のために生まれてきたかの追究であり、この人生を最高に価値あらしめる生活の歩みです。
 その意義から、大聖人の仏法では、それを「衆生所遊楽」ととらえている。この地球上に生を享け、楽しみきって人生を終わることこそが、私たちの信仰の目的なのです。なかなか凡人ではたいへんなことですが。(大笑い)

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