Nichiren・Ikeda
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第十四章 宇宙時代と宗教
「宇宙と仏法を語る」(池田大作全集第10巻)
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10 ガリレオ裁判の誤りを認めたローマ法皇
池田 そうです。彼が証明した事実は、万人が納得するものであった。ですから、もし死刑にすれば、バチカン自体の横暴を世に示すことになってしまう。
そこで、この宗教裁判には、ある仕掛けがつくられたようですね。
木口 ええ、この裁判は三カ月にもわたっています。
その間、さまざまな策略がめぐらされるわけですね。また、さまざまな拷問の機械が、年老いたガリレオに見せつけるように仕向けられていた。
―― これを見れば、彼も考えを変えるにちがいないと思ったわけですね。
木口 ところが、みえすいたそのカラクリを見て、彼の胸中には、私はまだ死ねない、まだまだ人類のため、世界の将来のため、しのこしたことがあるという使命感が、炎と燃えていったのではないでしょうか。
池田 そう思いますね。たとえ裁判で不本意な発言をしたとしても、本当の真実は、歴史が証明するであろうと――。
法廷に立った彼は、こう言う――、
「太陽の周りを地球が回っているなどという、とんでもないことを証明しようとした。私は、なんと無知と不注意な誤りをおかしてしまったのでしょう」と。
―― 法皇はじめ、教皇庁の幹部はその瞬間、「しめた」と心に叫んだにちがいない。
木口 ええ、彼は、その気配を察するやいなや、「私は、地球は動くが太陽は不動などと信奉したこともなければ、現にしていません。それを証明する用意もできております」と叫んだわけですね。
池田 時代とはいえ、同じ人間のつくりあげたものでありながら、権威というものは、あまりにも恐ろしい。愚かなことだ。
いつの時代でも、人間は賢くなって、権威や権力に絶対に屈してはならない。
木口 まったく、そう思います。人間の信念を、人間が裁くなんてことはできません。
―― ともかく、ガリレオの証言は、そのときは、そのままカトリックの教義への屈伏であるかにみえた。
しかし、その言葉は、そのままカトリック教会が、今日まで背負わなければならない、重い十字架になってしまったわけですね。
池田 まったく、そうだね。ガリレオは、長い長い歴史の公正なる審判に、すべてをゆだねたわけだ。
事実、それから八年間、彼は幽閉の身になりながら、いままで以上の情熱と闘志をもって研究と著作に明け暮れている。
―― 三年後には、『新科学対話』を完成させていますね。また、時計の振り子の発明もしています。
木口 その態度はいいですね。
池田 諸説がありますが、有名な「それでも地球は回る」という発言をしたという事実は、ないようですね。だが、私はこう思う。
彼のただひたすら、人類への偉大なる遺産を残そうとした気迫をしのび、後世の人が、そうした言葉を残し称えたのではないかと……。
―― なるほど。裁判の結果については、当時でさえ、だれもバチカンの勝利とは思わなかった。ただ、教皇庁がもっている絶大な権力を恐れて、それを口にすることはしなかっただけのようです。
木口 ところで、この裁判のなりゆきを聞いた、かのデカルトでさえ、それまで研究していた「光の本性について」(宇宙論)という論文を、あわてて机の引き出しにしまいこんだ、というエピソードがあります。当時の弾圧は、相当なものだったのでしょう。
―― ガリレオの弟子たちも、ある者は師匠の真意がわからなかった。
またある者は、わが身がまきぞえをくうことを恐れた。
池田 そうだね。いつの時代も、いつの社会も同じだ。
人間は絶対に平等であり、自由である。長い歴史のうえからみるならば、みせかけの権威やポーズなどは、民衆の意志の炎で焼けくずれてしまうことを、私は見抜いております。
木口 まったく、先生のおっしゃるとおりです。この裁判から三百五十年たった昨年、ローマ法皇が、全世界の科学者の代表をまえにして、ガリレオ裁判の誤りを、初めて宣言しておりますね。
―― 今回も帰国早々のお疲れのところ、長時間ありがとうございました。
この連載は、今回で終了することになります。
読者の方々も「仏法と宇宙」について、たいへんに理解を深めていただくことができたと思います。
池田 いやいや、なにぶん思索の時間もなかったし勉強の時間もなかったし、満足とはいえませんが、またなにかの機会に論ずることができれば、うれしく思います。
木口 私も本当に勉強になりました。長い間、まことにありがとうございました。
―― 長い間、読者の皆さま、ありがとうございました。