Nichiren・Ikeda
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第十四章 宇宙時代と宗教
「宇宙と仏法を語る」(池田大作全集第10巻)
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1 すぐれた哲学、宗教に国境はない
―― 長途の北米・南米の旅、たいへんにご苦労さまでした。
木口 本当にご苦労さまでした。
池田 どうもどうも。
―― 今回は、アメリカのロサンゼルスを皮切りに、ダラス、マイアミ、そしてブラジルのサンパウロ、ブラジリア、ペルーのリマ、またロス、サンディエゴ、ホノルルと、三カ国八都市を歴訪されたわけですね。
木口 「ペルー太陽大十字勲章」の受章、おめでとうございました。
池田 いや、どうも。
私ごとき者がお受けするものではないと固辞したのですが。大統領が、すでに閣議で決定したことなのでどうしても、とおっしゃるものでお受けしました。
―― あの勲章は、ペルー国家の最高権威のものですね。外国の元首級に贈られるものです。
木口 そうですか。ペルー国家が池田先生の平和、文化、教育への貢献を高く評価し、今回の訪問をいかに歓迎したかが、うかがわれますね。
―― ブラジルのフィゲイレド大統領との会見のもようは、テレビのニュースでも拝見しました。
木口 私も見ました。
池田 通信衛星は早いですね。(笑い)
ブラジルの出来事が、ほぼ同時刻に地球の反対側の日本でもニュースになっている。
木口 海を越え、他国の様子が居ながらにして映像でわかるのも、いまではあたりまえのことです。しかし、つい数十年前には想像もできなかったことです。これも、宇宙開発のめざましい成果です。
―― 会見では、日系人の活躍ぶりについても話題が及んでおりましたね。
池田 そうですね。笠戸丸の移民から早くも七十六年。いまでは日系人は約八十万人となった。そして、ブラジル社会のあらゆる分野に進出、貢献しているようです。たいへん、うれしく思います。
木口 そうですか。いっぺんブラジルに行ってみたいと念願しております。
池田 フィゲイレド大統領は、その感謝の意もふくめ、五月末から六月初めにかけて来日するようです。なんですか、終わったあと、中国も訪問したいと言っていました。
―― ペルーのベラウンデ大統領も、訪日の希望を明らかにしたようですね。
池田 ええ、明年(一九八五年)の大統領選後には、ぜひ訪日したいと語っていました。
大統領は著名な建築家で、日本には友人も多い。日本を自分の研究、教育の完成の場としたい、という言葉が強く印象に残りましたね。
木口 ブラジリア大学、サンマルコス大学訪問をはじめとする幅広い交流といい、また一つ確実なる平和、文化への布石がなされましたね。
池田 教育は、私の生涯の仕事と思っております。
両校とも、今後、教授の招聘など創価大学との緊密な学術交流を、さらに図っていくことになっております。ともかく、日本に対する期待は、たいへんに大きいものがある。
―― ブラジル、ペルーのテレビや新聞も、連日のように名誉会長の動きを報道しておりましたね。ある国連の関係者も、名誉会長の南米訪問は、日本と南米との新たな交流となったと話しております。
木口 各国の文化祭が、これまた素晴らしかったようですが。
―― ブラジルは四万人。ペルーは一万人。日米青年の合同総会は二万人。それは、たいへんなことです。
木口 とくに日米青年の総会には、レーガン大統領はじめ百六十通を超える著名人からのメッセージが寄せられておりましたね。
池田 ブラジルは十八年ぶりです。ペルーは十年ぶりでしたが、メンバーはそれぞれの地域でも、社会でも、見事に活躍、貢献しておりました。私は心から安心しました。
木口 新聞で拝見すると、日系の人も、白人も、黒人も、インディオも肩と肩を組み、全身に歓びをあらわしてましたね。
素晴らしい光景と思います。
―― ペルーでは、ある警察関係のトップクラスの人が、立派に成長している青少年の姿に「池田先生の指導が、ペルーの青年を、ここまで育ててくださったことに心から感謝したい」と言っていたそうですが。
木口 どこの国でも、警察の関係者は青少年の非行化に頭を痛めています。ことさら切実なんでしょう。
―― ブラジリア大学の総長も、名誉会長のことを「魂を失った人々は、素晴らしき教育者、そして偉大なる指導者の指導をうけるべきである」と語っておりましたね。私は感銘しました。
木口 それにしても、仏法は国境を超え、民族を超え、世界のありとあらゆる人々に、見事なる蘇生と幸福への活力を与えておりますね。
―― まったく同感です。政治次元でもない、経済次元でもない、こうした深き人間次元の運動は、いわゆる国家という観念や、イデオロギーの相違に固執していては、もはや理解できないと思いますね。
池田 科学に国境はない。学問にも国境はない。文化にも国境はない。と同じように、人々に心からの納得と、幸福と満足とを与えうる哲学、宗教にもまた国境はない、と私はみております。
木口 なるほど。アインシュタインやバートランド・ラッセルなど、偉大なる真理を発見した多くの科学者も、いきつくところ、全人類的な普遍的価値へと光をあてております。
池田 ともあれ、世界にはさまざまな国があり、さまざまな人種、民族がいる。
そのまったく異なった文化、生活習慣の青年たちが、同じく世界の平和を叫び、その国の発展のために行動している。
この確かなる、事実の流れを大切にしていきたいと思います。
木口 ところで、ペルーには宇宙人と関係があるのではないかともいわれる「地上絵」という、まことに不思議なものがあります。
池田 そうですね。今回は忙しくて行けませんでしたが、首都・リマから飛行機で一時間ほど行くと、ナスカというところがあります。ほとんど雨が降らないところで、その乾ききった平原に、巨大絵が描かれているそうです。
木口 パン・アメリカ・ロードという道路をはさみ、コンドルの飛ぶ姿や、サル、クジラ、宇宙人といわれるものなどがあるようですね。
池田 それがあまりに大きいので、地上で見たのでは、なんの絵だかまったくわからない。
飛行機で上空から見て、初めてその姿が確認できるというものですね。
―― そうですか。
いったい、なんのために描いたのですかね。
木口 それがナゾなんです。だから、宇宙人が登場してくる。(笑い)
池田 いまから四十五年ほど前に、アメリカの文化史研究家が発表したものですが、紀元前三百年から九百年ごろのものらしいですね。熱気球があったのではないかとか、諸説があるようですが、まあ、天文図であろうという説が有力のようです。
―― 話は変わりますが、アメリカに、創価大学の分校ができるそうですね。
池田 ええ、フランスに語学研修センターが、来年オープンしますので、海外で二番目の教育施設になります。
―― 将来は医学部、理工学部、海洋学部の設置が予定されているようですね。
木口 遠大な展望です。日本で、そうした高度な次元の発想をする指導者を、私は知りません。それにしても学生の時代から、他国との交流ができることはうらやましいことですね。
池田 私は、平和問題の解決の一つの糸口は、世界の大学の交流にあると思っております。
―― 鋭い指摘です。名誉会長は、ハワイ大学も訪問されましたね。
池田 大学は本来、その国の知性であり、その理論的支柱をなしゆくものである。また、学理は世界共通の普遍的真理探究の道である。ゆえに教育は平和、文化の基本です。
木口 そのとおりです。
池田 その意味において、民間レベルの交流の一つの軸となりうるのが、各国の大学交流ではないでしょうか。
私はかねてより、立法・司法・行政の三権分立とともに、教育権を加えた四権分立主義です。
そうでないと、学問の府が政治や経済などの次元で左右されることになってしまう。それは、まことに悲しむべきことです。
木口 まったく同感です。
池田 ユネスコ憲章にも、「政治的および経済的取り組みのみでは、永続性のある平和は築けない。全人類の知的、精神的連帯のうえにこそ、平和は築かれる」という趣旨がうたわれております。
―― なるほど。
池田 ですから、民衆の平和への連帯とともに、世界の真理を追究する学者が一堂に会して、横暴な権力の魔性に侵されない、強い連帯を結んでいくことも、世界平和への近道だと思っております。
―― なるほど。新しい時代の大学のもつ重大な意義だと思いますね。
木口 池田先生が、創価大学創立のモットーのなかに「人類の平和を守るフォートレスたれ」と言われた、深い意味をかいまみる思いです。
2 宇宙に新たなるフロンティアを開拓
―― ところで木口さん、日本でも、アメリカのスペースシャトルなみの打ち上げ能力をもつ、大型ロケットの開発が、本決まりになりましたね。
木口 ええ、七年後の一九九一年をメドに計画を始めたようです。
池田 これが実現すれば、日本も「宇宙大国」の仲間入りということになるわけですか。
木口 そう思います。この他にも、今後十五年間で約五十個の実用衛星を打ち上げる予定のようです。また、アメリカの宇宙基地計画にも、積極的に参加するということです。
―― なんですか、この対談が始まって、本当に宇宙が身近になった気がします(笑い)。ただ、予算はたいへんなのでしょうね。(笑い)
木口 そうです。たとえば、スペースシャトルに、日本人の科学者が乗る場合、シャトルの三分の一を借りきって、宇宙空間でのさまざまな実験を試みます。
しかし、これにかかる費用だけでも、なんと約八十五億円になります。
池田 たいへんな経済負担となる。
この地球には、いまだ貧困と病気に悩む人が何億といる。また文盲も、まだまだ多い。この地球上の不幸を無視した宇宙開発では、絶対にあってはならないと思いますが。
―― 十数年前、名誉会長が宇宙開発は「共同開発」が望ましい、という話をされたことがありますが、経済的負担という点からも、平和利用という観点からも大事なポイントと思いますね。
木口 宇宙開発は、通信、放送、気象、金属さらには医薬品まで、地上ではできなかった研究が可能となります。
池田 どんなものができるのですか。
木口 宇宙空間では重力がないため、特殊技術で純粋な物質が抽出できるので、高価な糖尿病の薬や膵臓病の特効薬などがたくさん作れます。
―― いいですね。(笑い)
木口 また新しい合金やアモルファス(非結晶金属)なども開発されるといわれています。
宇宙は、素晴らしい機能をもった、工場みたいなものです。
―― 宇宙開発は、これからの科学の花形のようですね。
レーガン大統領も、今年の年頭教書で、かの大航海時代になぞらえ、宇宙に次のフロンティアを開拓しよう、と呼びかけておりましたね。
3 大なる世界と小なる世界の不可分の関係
池田 マゼランが世界周航したのは、もう四百六十年ぐらい前になりますか……。
コロンブスやバスコ・ダ・ガマの冒険も、当時の人々の生活に変化をもたらしていった。
―― そのとおりですね。「地球が円い」ということも、事実のうえで認識されていきました。
木口 あの中世暗黒の時代から、ようやく解放されつつあった人々は、未知への探究心を空へ、海へと向けていったことは想像にかたくありませんね。
池田 あの海の果てに、いったい何があるのか、という人間のあくなき好奇心は、次々と新天地を発見していった。
いつの時代にあっても、人々は未知の世界に対しては、限りなきあこがれをいだき、それを知りたいと思うものだ。
―― 現代もまた、宇宙時代の開幕といわれるゆえんですね。
木口 遠洋航海を可能にしたものは、なんといっても望遠鏡、地図、コンパスの進歩がモノをいったようですね。
―― それと医学も進歩してきた。
池田 なにかの本で読みましたが、バスコ・ダ・ガマがインド洋を発見し、ポルトガルのリスボン港に帰り着いたとき、船員の数は、わずか三分の一になっていた。また、長い航海のため生き残った船員も、みな栄養失調であったようです。
木口 ビタミンCの不足で、壊血病で死んだ人もいましたね。
池田 また、当時ヨーロッパにはなかった病気も持ち帰ってきた。そのため、医学の進歩が要請されたといわれますね。
―― そういえば、月からアポロ宇宙船が帰ってきたとき、飛行士は何日間も隔離されました。
木口 ええ、セーガン博士たちが、そうすることを提案しました。
池田 私も、セーガン博士に、なぜそうした措置をとったのか聞きました。
「宇宙の新しい菌か、なにかを持ってくる可能性があるかもしれないからだ」というようなことを言っておりましたね。
―― やはり、用心にこしたことはないというわけですか。(笑い)
池田 ところで、この大航海時代においては、とくにオランダで、さまざまな科学の発達があったようですが。
木口 そうですね。じつは望遠鏡も、オランダで発明されています。また顕微鏡も、それ以前にオランダで発明されています。
―― 「さまよえるオランダ人」どころではなかった。(笑い)
そういえば、このまえ、六世紀の初め、朝鮮半島の新羅で「火珠」つまり、レンズを作ったという記録が『朝鮮科学技術史』という本に出ていました。
木口 そうですか。日本では聖徳太子の時代より、百年ほど前になりますかね。
―― 「烏水晶」というものであった、と記録にあります。
池田 なるほど。日蓮大聖人の御書のなかにも「水精の玉の日輪に向えば火を取り月輪に向えば水を取る」という御文があります。
当時、すでに「水晶」というものが、いろいろな役割を果たしていたのでしょうね。
―― そうだったんでしょう。
顕微鏡はオランダのメガネ屋さんが、虫メガネを組み合わせているうちに、発明したといわれていますが。
木口 ええ。それから数十年して、同じオランダのメガネ屋さんが、老眼と近眼のメガネを重ねているうちに、偶然、望遠鏡を発明するヒントをみつけています。
―― 現在のような顕微鏡の原理を考案したのは、天文学者のケプラーです。
また、彼は有名なケプラー式望遠鏡も作り、ガリレオのものより、さらに本格的なものにしていますね。
池田 なるほど。
人間の一心が大空へと広がると同時に、地上のより小さな世界にも向かっていったわけですか。
木口 まったく、そのとおりです。しかも、現代科学では、この宇宙の大なる世界が、原子や素粒子という小なる世界と不可分の関係にあることがわかってきたわけです。
これも驚くべき事実です。
―― ギリシャ時代のアリストテレスも、大きな宇宙の法則を考えれば考えるほど、小さな宇宙としての人間のことがはっきりしてくる、という哲学観をもっていたようですね。
池田 そういえば、大きいという意味の「マクロ」、小さいという意味の「ミクロ」という言葉は、もともとは、ギリシャ語に語源があると聞いたことがありますが。
木口 ええ、アリストテレスの『自然学』という著書に出てきます。
―― マイクロホンやマイクロフィルムなどの「マイクロ」という言葉も、小さいという意味の「ミクロ」からきているそうですね。
木口 最近では、光ファイバーということが注目されています。
髪の毛ほどの細さのガラス線に、五千七百六十もの電話回線がおさまる技術が実用化されていますね。
池田 このように、大きなものが小さなものに収められる。また小さなものが、大きなものへと広げられていく。
こうした事実からも「法界の全体は一念に具し一念の全体は法界に遍し」(「三重秘伝抄」)ということもわかるような気がする。
4 「法」を求め、死も覚悟の旅立ち
―― この大航海時代よりも以前に、陸地ではありましたが、あのシルクロードという西域の長い長い道を踏破した旅がありました。
木口 ヨーロッパの人々は、東洋の絹や陶器を求め、艱難の旅をつづけましたね。
池田 暦法、印刷術、火薬、羅針盤、数学なども東洋から西洋に伝わっていったようです。
木口 そのころは、東洋の文明のほうがすぐれていたわけですか。
―― ええ、それを研究したのが、トインビー博士であり、イギリスの生化学者ニーダムです。
木口 すでに紀元前四世紀ごろには、アレキサンダー大王がインドまで足を延ばしていますね。
池田 そうですね。その後、そのまま西北インドにとどまった子孫のなかで紀元前二世紀、北インドの舎竭城を治めたギリシャ人の君主ミリンダと、仏僧・那先比丘との有名な仏教対話があります。
―― ええ、法論に敗れたミリンダは、最後に精舎(寺院)を寄進し、仏教に帰依したということです。
池田 十三世紀には、逆にジンギス汗が、いまの東欧圏のあたりまで遠征していますね。
木口 当時のシルクロードの旅は、つらかったのでしょうね。
―― 五世紀ごろ、インドに経典を探して旅した中国の法顕の『仏国記』にも、その一端が記されています。たしか、「途中で死んだ人の白骨をたよりにしながら、それを目印として旅をつづけた」というようなくだりもあったと思います。
木口 なるほど。
―― また七世紀初めに、玄奘は、十七年間という大旅行をしておりますね。死をも覚悟した旅だったようです。
池田 そうですね。ある考古学者が言っていた言葉が忘れられない。
「今日にいたるまで、この道を残しているのは、命がけでつくったものだからでしょう。死を決意してつくったものはこわれない」
―― じつは四、五年前、井上靖さんや学者の方々について、ガンダーラの道を訪れたことがあります。
余談ですが、そこでクシャン朝の王様の肖像を描いたコインを見つけ、皆からうらやましがられましてね。(笑い)
いまなお、東西文化交流の足跡が砂漠の真ん中に、そのまま残っておりましてね。いや、驚きました。(笑い)
池田 ともかく、無名の人々が勇敢にも、命を賭けて、あの荒漠たるタクラマカン砂漠を越えていった。
また、道なき道をつくりながら、天山の峨々たる峰を登っていった。素晴らしいことだ。この魂の行列が、この道には、秘められているような気がします。
木口 なるほど。
池田 当時は、労働基準法もなにもない。(笑い)
それぞれが、一世一代の情熱を傾けていく生き方に徹する以外なかったのでしょう。
木口 そのとおりですね。“時間給”では、壮大な足跡はできないですから。(笑い)
池田 エジプトのピラミッドも、多くのものは破損が大きい。いまなお、厳然と残されているのは、幾多の人々が、使命と誇りをもち、命を賭けて造ったカイロ郊外ギザの「情熱のピラミッド」しかないといわれます。
―― なるほど。深い洞察だと思います。ところでピラミッドの建設は、いまでいう“失業対策”の意味もあったようですが。(笑い)
池田 そういう見方もされてきたが、そうとは思えない。自分たちの王国の永遠性の象徴として、選ばれた人が中心となっての大偉業とみることもできる。
木口 ピラミッドには、思いもかけぬ工夫が凝らされていて、王の遺体を納める部屋には、通気孔のようなものがあるそうです。一年のうちのある日、ある瞬間にだけ、そこからある星の光が王の柩の上に差しこむように工夫されているそうです。
―― ええ、そうですね。
木口 数学的にみても、物理学的にみても、見事な構造をもっていますね。たんなる義務的な奴隷労働では、絶対にできないものだと思います。
5 宇宙時代をリードする宗教とは
―― シルクロードの時代は、相当すぐれた宇宙観があったようですが。
池田 そうですね。
さきほどのアレキサンダー大王が、「地動説」を知っていた、ということは、十分考えられることのようですね。
―― ギリシャ哲学にも「地動説」があったのですか。
池田 ギリシャのプラトン、アリストテレスやアリスタルコスといった哲学者は、太陽中心の宇宙観をもっていたという文献が残っているようですね。
木口 ええ、天才アルキメデスが、シラクサ王とヒエロン二世に捧げた『アレナリア』という著述に、そうしたくだりが出てきます。
―― そうしますと、ジンギス汗にも、なにかそうした宇宙観があったことも考えられますか。
池田 一度調べてもらったことがあるのですが、ギリシャの宇宙観は、アラブ地理学に受け継がれ、遠く蒙古にまで伝わっていったということです。
フビライの時代には、サマルカンドに大規模な天文台まで立っていたようです。
―― なるほど。そうしますと、ギリシャ的な宇宙観を、ジンギス汗がもっていたことも、考えられることになりますね。
おもしろいですね。(笑い)
池田 ええ、ただその記録のようなものはまだ発見されていないようです。
ともあれ、いかなる時代にあっても、ひとつの世界観なり、宇宙観というものが大なり小なりあった。
そこに進歩や発展の因があったのです。
しかも、そのもととなったのは、哲学、思想です。この宇宙時代ともいうべき現代にも、深き裏づけとなる新しい哲学や宗教というものが必要不可欠となってくるのではないでしょうか。
木口 そのとおりですね。
なにかいまは、知識や情報だけが先行してしまい、肝心の深い思想や哲学性があまりにもなさすぎます。だから、アンバランスや不安定さが目立つ。
6 「宗教のための宗教」の恐ろしさ
―― ところで、このギリシャ以降、西欧の宇宙観は大きく変貌してしまうわけですが、それは、何が原因だったのでしょうか。
池田 一言で言えば、ローマ帝国によるキリスト教神学の絶対化にあったとみてよいでしょう。その祭政一致による神権政治が、長くヨーロッパを支配してしまった。
こうした状態が、あのルネサンスの時代を迎えるまで、千年以上もつづいたわけです。
木口 その世界観たるや、地球はどこまでも平面で、陸の先は海が果てしなくつづく。そして、海が尽きるところは断崖である。そこに海の水が滝のように流れ落ちていく、という幼稚なものでした。
―― この世界観に背くようなものは、一切しりぞけられる。さもなければ弾圧でしたね。
木口 十字軍の侵略、魔女狩りなどもひどかったようですね。
―― 第三回十字軍遠征のときに、こんな話があります。
イスラム教徒の捕虜が、教皇に差し出すべき「金」を飲みこんだ、という疑いをかけられた。その取り調べは凄惨なものでした。次から次に捕虜を殺し、内臓をあばいて「金」を探そうとした。それでも出てこないとなると、こんどは死体を焼却して探そうとする。その数は三千人に及んだ。
池田 いくつかの本に、そのような事例が載っていますね。
―― ええ、ところが、「金」はついに出てこなかったそうです。
池田 いわゆる宗教は、人間の幸福のためへの追究でなければならない。どうして、そのような恐ろしいことになるのか、人間自身の英知で深く探究していく必要がありますね。
―― もちろん、政治権力とのからみもあったわけですが、このキリスト教の歴史が物語るものは、「人間のための宗教」ではなく、「宗教のための宗教」という考え方のもつ恐ろしさだと思います。
木口 こうしたことは、遠い昔の話だけではないようですね。
―― ええ、いまから四十年ほど前、ユーゴで起こった宗教戦争は、ひどいものでした。
このとき、約二十四万人のセルビア人が、正教徒からローマ・カトリックに改宗させられています。
木口 信仰の自由どころではない。
―― さらにひどいことに、改宗しなかった七十五万人が虐殺されたという記録が残っています。
この大量殺戮には、修道会士や神父が、応急の強制収容所での首切り役を引き受けたということです。
このとき、カトリック側に同盟軍として加わっていたドイツのファシストも、あまりの「凄惨さ」にバチカンに抗議したほどだった。
木口 ところが、バチカンは、この訴えに対し沈黙で答えたようですね。
池田 それは有名な話です。
ともあれ私は、「法のため、人間のために」との大聖人の御聖訓を、命のつづくかぎり守っていきたい。
7 仏法は慈悲と寛容の絶対平和主義
―― このような例は、仏教ではどうですか。
池田 いや、殺すなんていうことはありえない。
一つの歴史的な事実として、インドの阿育大王の時代をみれば、わかっていただけると思う。
―― 仏法が国中に広まり、戦争放棄、福祉政策、平和外交を貫いていますね。
池田 当時は専制主義で、まあ、たいへんにやりよかったと思う。(笑い)
いまは民主主義であり、民衆が自身にめざめ、宗教にめざめ、仏法にめざめ、賢明にならなければならない。
その民衆の結集が、即、阿育大王と思っていかねばならない。
木口 近くは創価学会の歴史もまた、常に平和と不戦の歩みでしたね。
―― 歴史をみても、仏法は慈悲と寛容の絶対平和主義ということがいえます。
池田 そうです。
この慈悲と寛容のゆえに、あまりにも権力者から利用されたり、いじめられたりする。
また、暴力をこうむったり、非難中傷も多い。しかし、仏法の立場は常に非暴力主義であった。
木口 なるほど。そうですね。
池田 かのトインビー博士も、キリスト教やイスラム教と違って「仏教の伝来は、その地域の文化の流れを中断させることはなかった」と明快に、そういう点を論じております。
―― 現代においても、アメリカでもブラジルでもペルーでも、またヨーロッパやアフリカでも、仏法を知った人々が、その国の文化、社会のなかで、生き生きと活躍しておりますね。
8 鎌倉時代に「地球は円い」という考え方
木口 ところで、仏法に「地球は円い」という考え方はあったのですか。
池田 いや、そうとはかぎらない。それよりも仏法というものは、宇宙と人間生命の本源の法理を説き明かしたものなのです。
一言にして言うならば、いわゆる東洋の直観が究めた「法」というものを開顕したとみてよいでしょう。
木口 そうですね。
池田 “有形”なものをとおしながら“無形”のものへ。“無形”のものをとおしながら“永遠性”へというとらえ方なのです。
木口 なるほど。
―― なるほど。
池田 ですから、よく「三千大千世界」という言葉が経文にありますが、そのなかに地球も含まれるというような、無限の宇宙へ、無限の生命の永遠性へとの志向なのです。その基準となるものが、いわゆる「法」となるわけです。
―― なるほど。
池田 有形の地球が円いとか、回転するという、物理的な観念よりも、人間が生きているという事実のうえから、探究していると考えていただきたい。だからといって、いわゆる世界観というものを無視しているのではありません。
木口 ああ、そうですか。
池田 釈迦仏法においては、むしろ円筒形といおうか、立体的に世界をとらえていたむきがあると思います。
しかし、鎌倉時代に入り大聖人の門下の一人の僧が、「地球は円い」という表現を使っていたという研究があった記憶があります。なんという学者でしたかね。
―― それは、慶応大学の故前嶋信次博士ではないでしょうか。
池田 ああ、そうかもしれない。博士はイスラム史の大家だったようですが、ひょんなことから大聖人の弟子の一人であった日持の行跡について考察したようですね。
―― そのとおりです。大聖人の地球観にも迫った、ということを読んだことがあります。
池田 ああ、そうでしたか。日持は大聖人御入滅後、退転してしまったね。
―― そうです。彼は、大聖人の滅後十四年目に大陸渡航したといわれていますね。
池田 有名な話です。博士が、この日持に関心をもったというのも、おもしろいですね。
―― なんですか、博士の話によると、戦時中、ある日本人が万里の長城に程近い宣化という町で、日持の遺品が、たまたま市場で売られているのを買い求めたわけです。
木口 縁というものは、おもしろいものですね。
―― ところが、終戦の引き揚げの混乱で、品物は日本に持ち帰ることができなかった。それで、写真に撮っておいた。
木口 なるほど。
―― その写真を博士が、ある人を介して、たまたま見る機会があったわけです。
そのなかの一枚にあった「為東部環球巡錫云々」という、日持が、日本出発前にしたためた文章のなかの一節が目に入ったわけです。
池田 そうそう、博士はこのなかの「環球」という二文字に注目しておりましたね。
―― そこで博士は、まず、アラビア地理学が中国に伝来した経過を調べるわけです。
木口 なるほど。
アラビア地理学は、ギリシャの宇宙観を受け継いでいますからね。
これが中国まで伝わっていれば、とうぜん日本にもきているはずです。
―― 日持がこの文章を書いたのは、「永仁二年元旦(「是時永仁乙未元旦辰上刻」)」、すなわち一二九四年とあります。
ところが、「環球」というような表現は、当時もしくは、それ以前の日本の文献には見当たらない。
木口 なるほど。とうぜんそうでしょうね。
池田 たぶん博士は、念のため中国で地球儀がつくられたのはいつか、ということまで調べていましたね。それが、日持が「環球」という言葉を使った後だった、ということがわかったのでしたかね。
―― ええ、二十九年後だったんです。
木口 これはすごい。驚きです。
そうしますと、当時の日本の地球観は、まだそこまでいってないはずですが、大聖人が「環球」ということをご存じであったことは、十分すぎるほど推測されますね。
―― そうなんですよ。私も驚きました。日持が大陸に渡ったのは、四十六歳。老いた孤身に残っていたのは、ただ「環球」という二文字だけだったのかもしれませんね。(笑い)
池田 この一資料をもって、大聖人の宇宙観をうんぬんすることはできない。また、あえて論ずる必要もないと思います。
ただ、一つの客観的事実の研究があるということだけを知っていれば、それでよいのではないでしょうか。
9 陰険だったキリスト教の歴史
―― ところで、宇宙観というと、どうしても、ガリレオの宗教裁判が思い起こされますね。
木口 近代科学の父といわれるガリレオの人柄は、ベネチア共和国の総督との対話に、よくあらわれています。
たとえば、彼は「地球が中心で、その周りを太陽や他の惑星が回っているなどという学説は疑問だ。学説自体よりも、それにしがみついている連中にだけ意味がある学説にすぎなくなっている」と言っています。
池田 たしかガリレオには、「人間には目があるではないか、頭をもっているではないか、それを使って、一つの事実を疑い抜くことだ。そして、疑いきれない最後の一点を今度は命をかけて信じ抜く」という言葉もありましたね。
―― じつに明快です。歯に衣を着せたようなところがまったくないですね。
池田 そうとうな頑固だったようですが(笑い)、正義感も強かったのでしょう。
また、あくなき真理への探究心が旺盛だったのでしょう。
―― 商才にもたけていたようですね。しかし、晩年は両眼を失明しています。また、家庭的にも恵まれず、決して幸福な生涯とはいえなかったようです。
木口 ガリレオは、こんなことも言っていますね。「この世には、わずかなことしか証明できない、たくさんの定理がある。ところが、もっと本源的な定理が発見できれば、それ一つで、すべてのことが証明できる」と。
―― なるほど。やはり、一つの偉大なる発見なり、変革をなしゆく人は、どこか凡人では推し量れないものがあるようですね。
池田 だから、人間の世界は、一つの固定観念や嫉みからくる暗闘から免れないといえるでしょう。
ともあれ、人が真理を証明したとき、その真理が偉大であればあるほど、その反動もまた大きい。古い観念にとらわれた人々には、その偉大さがあまりにも、まばゆく映るからです。
木口 そうですね。そのまばゆさに目がくらみ、驚きのあまり、自分たちの非を認めようとせず、逆に弾圧したのが、ガリレオ裁判の一面であった、といってもいいでしょう。
―― これには、ローマ法皇側の政治的からみもあったようです。
そこで、多少、裁判の内容をみてみたいと思いますが。
木口 一六三三年、彼が三年前に書いた『天文学対話』が問題となり、彼は病身でありながらフィレンツェからローマに呼び出され、宗教裁判にかけられたわけです。
―― 奇妙なことに、この『天文学対話』は、教皇庁の許可のもとに出版されていますね。
木口 ええ、ですから、まったくの言いがかりだったわけです。
ローマ教皇庁は、最初、ガリレオを脅せば、簡単に変えさせることができると思っていたようです。
―― そのようですね。ある枢機卿は、このようにいうわけです。
「君の説は仮説として提起するなら、君の自由だ。しかし科学は、教会の正統な、最愛の娘でなければならない。娘は親にとって、かわいらしい存在であるべきだ」と。
木口 ガリレオのみならず、近代でも、ダーウィンやパスツールなども、ずいぶん教会からいじめられ苦しんできた。
池田 ペルーにも、キリスト教の宗教裁判所跡が残っています。
十六世紀ごろのものですが、拷問の機械とか地下牢などが、そのままのかたちで保存されています。
神の名のもとに幾多の異教徒が、そこで殺されていったかしれないということでした。
木口 過去の教会は、いつも陰険だったようですね。だがガリレオは、一歩も譲らない。ついに、事態は裁判にまでいってしまう。
―― ところが死刑にするには、ガリレオの存在は、あまりにも大きくなりすぎていた。『天文学対話』は、教養ある読者に広く読まれていたようです。
10 ガリレオ裁判の誤りを認めたローマ法皇
池田 そうです。彼が証明した事実は、万人が納得するものであった。ですから、もし死刑にすれば、バチカン自体の横暴を世に示すことになってしまう。
そこで、この宗教裁判には、ある仕掛けがつくられたようですね。
木口 ええ、この裁判は三カ月にもわたっています。
その間、さまざまな策略がめぐらされるわけですね。また、さまざまな拷問の機械が、年老いたガリレオに見せつけるように仕向けられていた。
―― これを見れば、彼も考えを変えるにちがいないと思ったわけですね。
木口 ところが、みえすいたそのカラクリを見て、彼の胸中には、私はまだ死ねない、まだまだ人類のため、世界の将来のため、しのこしたことがあるという使命感が、炎と燃えていったのではないでしょうか。
池田 そう思いますね。たとえ裁判で不本意な発言をしたとしても、本当の真実は、歴史が証明するであろうと――。
法廷に立った彼は、こう言う――、
「太陽の周りを地球が回っているなどという、とんでもないことを証明しようとした。私は、なんと無知と不注意な誤りをおかしてしまったのでしょう」と。
―― 法皇はじめ、教皇庁の幹部はその瞬間、「しめた」と心に叫んだにちがいない。
木口 ええ、彼は、その気配を察するやいなや、「私は、地球は動くが太陽は不動などと信奉したこともなければ、現にしていません。それを証明する用意もできております」と叫んだわけですね。
池田 時代とはいえ、同じ人間のつくりあげたものでありながら、権威というものは、あまりにも恐ろしい。愚かなことだ。
いつの時代でも、人間は賢くなって、権威や権力に絶対に屈してはならない。
木口 まったく、そう思います。人間の信念を、人間が裁くなんてことはできません。
―― ともかく、ガリレオの証言は、そのときは、そのままカトリックの教義への屈伏であるかにみえた。
しかし、その言葉は、そのままカトリック教会が、今日まで背負わなければならない、重い十字架になってしまったわけですね。
池田 まったく、そうだね。ガリレオは、長い長い歴史の公正なる審判に、すべてをゆだねたわけだ。
事実、それから八年間、彼は幽閉の身になりながら、いままで以上の情熱と闘志をもって研究と著作に明け暮れている。
―― 三年後には、『新科学対話』を完成させていますね。また、時計の振り子の発明もしています。
木口 その態度はいいですね。
池田 諸説がありますが、有名な「それでも地球は回る」という発言をしたという事実は、ないようですね。だが、私はこう思う。
彼のただひたすら、人類への偉大なる遺産を残そうとした気迫をしのび、後世の人が、そうした言葉を残し称えたのではないかと……。
―― なるほど。裁判の結果については、当時でさえ、だれもバチカンの勝利とは思わなかった。ただ、教皇庁がもっている絶大な権力を恐れて、それを口にすることはしなかっただけのようです。
木口 ところで、この裁判のなりゆきを聞いた、かのデカルトでさえ、それまで研究していた「光の本性について」(宇宙論)という論文を、あわてて机の引き出しにしまいこんだ、というエピソードがあります。当時の弾圧は、相当なものだったのでしょう。
―― ガリレオの弟子たちも、ある者は師匠の真意がわからなかった。
またある者は、わが身がまきぞえをくうことを恐れた。
池田 そうだね。いつの時代も、いつの社会も同じだ。
人間は絶対に平等であり、自由である。長い歴史のうえからみるならば、みせかけの権威やポーズなどは、民衆の意志の炎で焼けくずれてしまうことを、私は見抜いております。
木口 まったく、先生のおっしゃるとおりです。この裁判から三百五十年たった昨年、ローマ法皇が、全世界の科学者の代表をまえにして、ガリレオ裁判の誤りを、初めて宣言しておりますね。
―― 今回も帰国早々のお疲れのところ、長時間ありがとうございました。
この連載は、今回で終了することになります。
読者の方々も「仏法と宇宙」について、たいへんに理解を深めていただくことができたと思います。
池田 いやいや、なにぶん思索の時間もなかったし勉強の時間もなかったし、満足とはいえませんが、またなにかの機会に論ずることができれば、うれしく思います。
木口 私も本当に勉強になりました。長い間、まことにありがとうございました。
―― 長い間、読者の皆さま、ありがとうございました。