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日蓮大聖人・池田大作

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第十三章 宇宙に生死はあるの…  

「宇宙と仏法を語る」(池田大作全集第10巻)

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1  白い宇宙服で遊泳する天男・天女
 ―― 今回は長期の北米、南米訪問の出発直前のお忙しいなか、貴重なお時間をとっていただきありがとうございます。
 池田 いや、こういうときはつらいですね。たまには一回ぐらい、お休みがあってもいいんじゃないでしょうか。(笑い)
 ―― 読者からの強い要望もあることですので、よろしくお願いいたします。(笑い)
 木口 私も勉強になりますので……。(笑い)
 ―― おかげさまで、この連載が始まってから、今回でちょうど十二回目、まる一年になりました。
 池田 木口さん、長い一年でしたね。(笑い)
 木口 ともかく好評のようで、なによりです。
 ―― ところで、完全宇宙遊泳が成功しましたね。素晴らしいですね。
 木口 ええ、私も深夜のニュースを興奮して見ました。(笑い)
 宇宙空間は無重力ですから、人間が宇宙船の外へ出ても落っこちたりしません。(笑い)
 ところが、自分の身体を自由に移動させることは、たいへんにむずかしいのです。ですから、とても危険です。
 ―― なるほど。
 木口 そのために、リュックサックのような窒素ガスのタンクをつけ、噴射させながら動きます。いわば、人間自身が小型ロケットになったようなものです。
 ―― なるほど。それで、あんなイスに座ったような姿をしているわけですか。(笑い)
 池田 よく寺院の壁画などに、衣をまといながら空を自在に飛ぶ天女の絵がありますが、二十世紀末の現代に、白い宇宙服を着た天男、天女が宇宙を遊泳するわけですね(笑い)。ちょっと、スタイルは違いますが。(笑い)
 ―― それにしても宇宙というものが、ますますわれわれの身近なものになっていますね。
 池田 まったく、そのとおりです。
 このような時代にあっては、すべての人類が、狭い視野であったり、小さな世界観に閉じこもっていてはなりませんね。
 もはや時代は、世界平和、世界不戦へと絶対に志向していかざるをえない。
 とくに指導者たちは、この点をよくよく考えてもらいたいものです。
 木口 まったく同感です。
2  偉大なる科学者は仏法を志向
 ―― 先日、ヨーロッパへ出張した折、イギリスの有名な出版社の会長であるロバート・マックスウェル氏を訪問する機会がありました。
 木口 そうですか。
 ―― マックスウェル氏は、名誉会長のことをよく知っておりましてね。こちらが驚いたくらいでした。
 池田 そうでしたか。私はまだお会いしたことはないと思いますが。
 ―― 彼は、先生とトインビー博士の対談を高く評価しておりました。
 池田 それは恐縮です。
 ―― この「『仏法と宇宙』を語る」のことも多少知っているようでした。
 木口 それは、うれしいですね。(笑い)
 ―― 氏は、世界で初めて科学者が平和のために立ち上がった「パグウォッシュ会議」の設立に、自分もかかわったと言っておりました。
 木口 なるほど。そうですか。
 ―― その彼が言うには、「いままで自分は、科学と宗教は、時代とともにどんどん距離がひらいていくものと思っていた。だがこの対談(トインビー対談)は、最新の科学の成果をもって、ここまで宗教が語られている。これは驚くべき事実だ」ということでした。
 木口 そうですか。ヨーロッパの人が「科学と宗教」という場合の宗教は、主にキリスト教のことをさすんでしょうね。真実の仏法に触れたのは、たぶん初めてだったのでしょう。
 池田 そうかもしれませんね。ともあれ、科学時代に果たす宗教の役割は、これからますます重要になってくるのではないでしょうか。
 ―― まったく同感です。
 木口 私は一科学者として「ラッセル・アインシュタイン宣言」の、次の言葉は重大だと思っています。
 それは「私たちは人類として、人類に向かって訴える。あなた方の人間性を心にとどめ、そして、その他のことを忘れよう、と。もし、それができるならば、道は新しい楽園に向かって開けている。できないなら、あなた方のまえには、全面的な死の危険が横たわっている」と。
 ―― じつに、重みのある言葉です。
 それにしても、かのアインシュタインが、晩年に「私は東洋の英知に期待する」と言ったことは忘れられませんね。
 池田 そうでしたね。
 やはり偉大なる科学者は、偉大なる人間性を志向していく。その延長として、どうしても宗教、なかんずく東洋の英知たる仏法へと、光をあてざるをえなかったという気がしますね。
 木口 まったく、そのとおりだと思います。
3  青年交流こそ世界平和への道
 ―― ところで、米航空宇宙局(NASA)から、名誉会長にたいへんなプレゼントがあったそうですね。
 池田 ええ、昨年(一九八三年)お会いした、スカイラブの船長だったカー博士との友情で、「月の石」を六種類、世界各地から集めた「隕石」の破片を六種類、特別に貸与してくれましてね。
 木口 それはすごい。(笑い)
 たしか「月の石」は、日本では東京の国立科学博物館に、展示されているだけではないでしょうか。
 ―― ええ、非常に貴重なものですね。
 木口 ぜひ一度見てみたいものです。いま、どこにあるのですか。(笑い)
 池田 NASAから厳重に警備するように言われましてね(笑い)。なるべく多くの青少年に見てもらえればと思い、東京・八王子の東京富士美術館にある創価大学の付属博物館に展示してあります。
 木口 そうですか。早速見にいこう。(笑い)
 池田 またカー博士からは、NASA制作の映画を贈呈してくれましてね。
 木口 いや、それは羨ましいかぎりです。(笑い)
 池田 先日(一九八四年一月三十日)、東京の創価学園や小学校の生徒たちに見せてあげました。
 ともかく青少年の好奇心というか、知識欲は旺盛だ。初めて見る宇宙空間での体験に心おどらせているようでした。
 ―― それは貴重なことですね。
 木口 そういえば池田先生は、大学のみならず高校、中学や小学校にも、海外の重要なお客を招いていますね。
 ―― そうですね。いま思い出すだけでも、モスクワ大学の故ホフロフ総長、ペルーのサンマルコス大学のゲバラ元総長、ムッソ総長、フランスのルネ・ユイグ氏、中国の学者や友人等々かなりありますね。
 池田 いくら平和文化の交流を青少年に訴えても、現実の行動がなければ観念にすぎなくなってしまう。
 ですから私は、青少年に対しても大人とまったく同等に、なるべく多くの機会をとらえ、世界への交流、あらゆる国々の人々との交流の道を開いてあげたいと思っております。
 ―― なるほど、大切なことですね。体験にまさるものはないですからね。
 木口 そうしたお客たちも、学生や生徒のまじめで真摯な姿に、たいへん感銘をうけているようですね。
 池田 そういえば、ルネ・ユイグ氏が関西の創価学園を訪れたとき、「こんなに生き生きとした若い人たちの姿、目の輝きは見たことがない。中学生、高校生といえば、いちばんむずかしい年代なのに、フランスでは考えられない」と感嘆しておりました。半分はお世辞もあると思いますが。(笑い)
 ―― 見ている人は見ていますね。こわいですね。
 木口 いつも感心するのですが、池田先生は多忙のなかにあっても、若い人たちや学生と対話することを大切にされていますね。
 ―― そうですね。福沢諭吉といえば、日本人として初めて広く世界を見聞した人ですが、彼はひまさえあれば学生のもとを訪れ、よくこう言っていたそうです。
 「諸君が私とともにいるということは、私の見聞とともにいることなのだ」と。
 木口 有名な話ですね。
 池田先生にピッタリの言葉ですね。
 池田 いやいや、私のことはともかくとして(笑い)、そうした教育者が少なくなってきたのは、まことに残念なことだ。
 指導者は、あるときは食事をしながら、またあるときは風呂に入りながら、また夜空の星を眺めながら、なるべく多くの青年たちと人生と平和を語り合うことが大切ですね。
 ―― そのとおりだと思います。
 池田 私も何人かの生徒や、学生たちと一緒に風呂に入りながら語り合ったことがあります。
 彼らは社会に出てからも、そのことを、なによりも深い思い出としてくれているようです。
 まあ私としては、特別なつもりはなかったのですが、若い世代と肌で触れ合うことは、どれほどまでに大切であるか実感しております。
 木口 なるほど。そうした教育をうけることができた人は幸せですね。
4  人類になじみの深い火星
 ―― ところで木口さん、火星が地球に接近するそうですね。
 木口 ええ、地球と火星の距離が最も近くなるのは、(一九八四年)五月十九日の夜八時ごろです。
 池田 そうとう大きく見えるのですか。
 木口 いや肉眼では、ふだんとあまり変わらないでしょう。ただし倍率百倍ぐらいの望遠鏡ですと、満月を肉眼で見るくらいの大きさで観測できます。
 池田 なるほど。そうですか。
 木口 ただ火星は、太陽の周りを楕円に回るので、太陽、地球、火星と一直線に並ぶのは、五月十一日の夕方五時ごろです。
 ―― 今回は、大接近ということではないようですね。
 木口 ええ、前回の大接近は一九七一年八月で、十五年目か十七年目に一回おこります。次回は一九八八年九月です。
 池田 そのときは、どのくらいの大きさに見えるのですか。
 木口 肉眼でも、十円玉を二百五十メートルほど離した大きさになる計算になります。これは、そうとう大きなもので、橙色がはっきり見てとれます。
 池田 この「火星」という表現は、日蓮大聖人の御文のなかにも見られます。
 木口 そうですか。当時は「火星」という表現は、あまりなかった気がしますが。
 池田 蒙古の襲来を予言された有名な「立正安国論」のなかにもみられます。
 ―― ええ、「仁王経」という経文を引用されていますね。
 当時は一般的には司馬遷の『史記』に出ているように「惑」と呼んでいたようですね。
 池田 日本で最も古い記録といわれる『日本書紀』を見ても、「惑」と出ていますね。
 ―― 天文史料によると、「火星」という記述があるのは一八二四年、つまり江戸時代の『鎔造化育論』のなかに出てくるようです。
 木口 なるほど。日本では、そのくらいでしょうね。
 ―― この火星という文字を使った最初の人は、「法華経」の翻訳でよく知られている羅什のようです。
 この羅什は、いまから約千六百年前の人ですね。
 木口 そんなに古いのですか。いつもながら、仏法には宇宙への深き洞察がある。驚きです。
 ―― 中国では、この星に少しでも変化があると、飢饉、兵乱が起こるといわれていたようですね。
 木口 ええヨーロッパでも、火星は「マース」と呼び、「軍神」になぞらえています。
 観点は違いますが、ケプラーやコペルニクスも、この火星の軌道が楕円なので、地球に衝突するかもしれないと危惧していたようです。
 池田 なるほど。そうですか。
 木口 天文学者のなかにも、イギリスの有名なホイルのように、天体の変化は、地球および人間になんらかの影響を与えることは事実であるという研究もあります。
 ―― なるほど。
 木口 それにしても大聖人は、天体のことについてもよくご存じでしたね。
 池田 仏法は人間の幸、不幸の根源を究めていった法です。
 宇宙と人間との深き思索があったことも、当然のことといってよいでしょう。
 ―― そうですね。この点については、地球に関する資料も残っているようです。のちほど、また具体的にお話ししていただきたいと思います。
 池田 わかりました。
5  芥川龍之介の火星人観
 ―― 火星の大きさは、地球の約半分だそうですが、どのくらいの期間でできたのですか。
 木口 約二年で火星の芯ができ、十万年という短期間に隕石がぶつかって大きくなりました。地球の芯は約一年でできたのですが、火星は地球よりも太陽から離れているので、約二年になるわけです。
 また地球ができた場所よりも、たいへん低温のところだったので、冷たい惑星になりました。
 池田 火星の地形は、地球に似ているといわれていますが。
 木口 ええ、オリンポス山と名づけられた山は、富士山そっくりです。その裾野は、たいへん広くて、六百キロ(東京―神戸間)もあります。
 池田 宇宙船が着陸して調査結果が確認されるまで、長い間、高等生物がいるかもしれないと考えられていたのは、水があるとみられていたからですね。
 木口 そのとおりです。水はあることはあるのですが、非常な寒さのため、地下一キロもの深いところに氷になって、閉じこめられているのです。
 ―― 火星が大接近するということで、日本が大騒ぎになったのは、いまから六十年前(一九二四年)の、大正時代のことでしたね。
 木口 そうでした。当時は、火星にも生物がいると考える人も多かったようですね。
 ―― ええ、芥川龍之介のような知識人でも、そうとう火星人については思索を凝らしていたようです。
 池田 芥川は人間という存在の延長から火星人を考えたようで、なかなか鋭いとらえ方をしているのを読んだ記憶がありますが……。
 ―― 有名な芥川の『侏儒の言葉』(潮文庫)のなかにあります。
 池田 そうそう。こんな内容だったと思う。
 「火星の住民の有無を問うことはわれわれの五感に感ずることのできる住民の有無を問うことである。しかし生命は必ずしもわれわれの五感に感ずることのできる条件を具えるとは限っていない。もし火星の住民もわれわれの五感を超越した存在を保っているとすれば、彼等の一群は今夜もまた篠懸を黄ばませる秋風とともに銀座へ来ているかも知れないのである」
 ―― 芥川らしい文学的直観ですね。
 池田 この表現からも、芥川が仏教に深く影響をうけていたことがうかがわれますね。
 ―― 火星人といえば、だれでもあのタコ型を思い出す(笑い)。あれを最初に考えついたのはだれなんですかね。
 池田 有名なイギリスの作家H・G・ウェルズだったですね。もう八十年も前の名作『宇宙戦争』に登場していましたね。
 これが、その後の典型的な宇宙人像として受け継がれたわけだ。
6  知的な生物は必ず人間型になる
 木口 この火星人が、じっさい存在するかのように思わせてしまったのは、天文学者にも大きな責任がありました。
 ―― そうですか。天文学者もやはり人間だ。(笑い)
 木口 一八七七年、イタリアのスキャパレリという天文学者が、毎日火星を観測しているうちに、表面に何本もの筋が交差しているのを発見した。そこで「火星には水路がある」と発表しました。
 ―― なるほど。
 木口 ところが、その水路(カリーナ)がどういうわけか、カナル(運河)と発音されてしまった。運河といえば、人工のものに決まっています。
 池田 それをつくった知的生物がいなければならないと考えたわけですね。
 木口 そうです。多くの天文学者が誤推してしまうほど、望遠鏡で火星の表面に、そうしたもようが観測されるわけです。
 ―― なるほど。
 木口 アメリカのパーシバル・ローウェルという天文学者も、この運河説を最も主張した一人でした。
 アリゾナ州に大きな天文台を自分でつくり、克明にスケッチしました。そして地表全体に、網の目のように幾何学的に走る線がある。大運河のネットワークにちがいない、と発表したわけです。
 ―― いまでも、その天文台は火星観測で有名ですね。
 木口 ええ、彼は、火星には水が少ない。だから火星人が生きていくためには、すみずみまで運河をつくって水を供給しているのだろう、と想像してしまったわけです。(笑い)
 池田 なるほど。そんな高度の科学技術をもった火星人なら、地球にも移り住むことを考えるだろうというのが、「火星人襲来」というSF的な発想につながったわけですね。
 ―― ただ当時の人が考えた火星人のイメージは、それなりに理屈にかなった面があったようですね。
 木口 ええ、頭でっかちも、胴体がないのも、しなやかな十六本の手も(笑い)、人間の体型をもとに、火星の環境に適応した合理的な姿になっています。
 池田 ギリシャ以来、思考する脳、高度に文明を進歩させうる能力、美しく洗練された機能美、それらを併せもったのが、「人間」であるという考え方は変わることがない。
 ―― 西洋人の考えた生物の理想型ですね。
 木口 たとえば、ソ連の高名な生物学者であったラリ博士は、「知的な生物」は必ず人間型になると言っています。
7  火星のナゾは解明されつつある
 ―― そういえば、イランとの国境にアルメニアというソ連の共和国があります。二十年ほど前、日ソ出版交流で招待されて行ったことがあります。
 まあ砂漠に囲まれた、なにもないところで辟易しましたが(笑い)、昔は東西交流が行われた歴史の地のようです。
 木口 いいですね、ジャーナリストは。自由にいろいろなところへ行けて……。(笑い)
 ―― ちょうどそのとき、首都エレバンで「宇宙に知的生物がいるか」という国際会議が開催されていました。
 木口 ああ、それは初めての会議で有名です。
 ―― その会議でのラリ博士の発言を、エレバンの出版代表者の人が、食事をしながら話してくれました。
 木口 どんな内容でしたか。
 ―― そのときのメモを持ってきました。少々長いのですが、読ませていただきます。
 「知的生命は、必ず高度に組織された神経系統と、その中枢の頭脳があり、それは外部の危険に対し、保護されねばならない」
 木口 なるほど。
 ―― 「身体の負担をうけない位置のいちばん上部にあるのが必然である」
 木口 なるほど。
 ―― 「頭の下には、考えたことをすぐ実行に移す腕がある。次に生命を維持する内臓器官が胴体。いちばん下に移動のための足。そして、それぞれが対になっているのは、能率的でバランスがとれているからだ」
 木口 そのとおりですね。これが科学者の常識的な考え方です。最近では人間の大きさとか、頭の大きさが、なぜこのようになっているのか、いろいろ議論があります。
 地球の重力の大きさと、化学的な結合力を比較すると、人間の大きさというのは、どうも最適のものらしいです。
 池田 なるほど。仏法は、この人間の身体を、かけがえのない「法器」と説いております。
 こうした宇宙に適した絶妙なる姿ということからも、この「法器」の意味がわかる気がしますね。
 ―― 火星の地下の氷が溶けたとすると、深さ十メートルもの海ができるだろうといわれていますね。
 木口 ええ。しかし太陽と火星の位置からすると、太陽光線は氷を溶かすほどの熱がありません。
 池田 火星の南極あたりでは、雲が観測されることがあるそうですね。
 木口 八年前、バイキング1号(アメリカ火星軟着陸用無人探査機。一九七六年七月二十日、着陸に成功)が火星に軟着陸し、それが送ってきたデータによると、地球に降る雪と同じ現象だとみられています。
 ―― すると雨雲ではなく、雪雲ということになりますか。(笑い)
 この探査機は、いまも八日ごとに、火星の写真とデータを地球に送りつづけているそうですね。
 池田 そうすると、さらに火星のナゾは解明されていきますね。楽しみですね。
 木口 ええ、探査機はあと八年活動をつづける予定になっています。
 池田 さきほどのオリンポス山は、エベレストの二倍半以上もある火山ですね。その溶岩の流れからみて、かなり活発に噴火していた時代があったといわれていますが。
 木口 ええ、火星は地球と比較にならないほど、火山に覆われています。
 百キロを超える裾野のある火山の数は、十を超えます。
 火星では重力が弱いので、少々重いものを上にのせても下がつぶれたりはしません。
 したがって山も高くなります。地球では十キロが限度といわれておりますが。
 ―― 火星の酸素はどれぐらいですか。
 木口 九五パーセント以上は炭酸ガスです。酸素はわずか、〇・三パーセントしか測定されていません。
 ―― やはり火星人はいない。(笑い)
 木口 さきほどの探査機のデータでも、いまのところ微細な生物すら存在する兆候はありません。ただただ、鉄分を多く含んだ赤茶色の土壌で覆われているのみ。また温度は、赤道のあたりで十六~二十四度です。ただし夜ともなると、マイナス八十度まで下がります。
 ―― 火星に行くには、どのくらいかかりますか。
 木口 現在の技術ですと、約二年です。
 池田 そういえば、アメリカのスペースシャトル「コロンビア」は、昨年(一九八三年)十二月に、人間を火星に運べるほどのソ連の巨大ロケットの写真を撮ったという報道がありましたね。
 木口 ええ、ソ連中央アジアのカザフ共和国のロケット基地にあるのを発見したそうです。長さ八十八メートルです。
 ―― そんなに大きいのですか。
 木口 これまでの、どのロケットよりも運搬能力はあるだろうといわれています。
8  死の自覚こそ人間としての目ざめ
 ―― ところで今年は、古代史のナゾがあいついで解明されておりますね。
 木口 島根県では、出土した刀に彫られた文字がX線によって解読され、大和朝廷以前の豪族の名前がわかりましたね。
 ―― 先日(一九八四年一月十四日付)の新聞にも、京都の丹後方面で、すでに二千年前、近畿地方でも鉄がつくられていたことを示す遺跡が出てきましたね。
 池田 なかなかの古代史ブームのようですね。
 そういえば先日、創価大学に行ったときも「太陽の丘」というところで、盛んに発掘が行われていました。
 木口 日本史の教科書も、新学期の書き換えに間に合わない。(笑い)
 ―― こうした古代史のナゾのなかでも、最も興味ぶかいのが、いったい人類はいつごろから「死」という問題を意識するようになったのか、ということではないでしょうか。
 木口 大昔のわれわれの祖先のことがわかってくるというのも、なにか心をかきたてるものがありますね。
 つまり、人間としての自覚に目ざめたのはいつか、ということになりますね。
 ―― そういうことですね。このことが端的に象徴されるのが、いわゆる「葬」という慣習の発生ですね。
 池田 そうですね……。
 人類の長い歴史のなかで「生命」のもつ厳粛な理に目ざめ、その尊さを、たとえば「死者を葬る」というかたちにあらわしたのは、およそ二十万年ぐらい前からではないか、と聞いたことがあります。
 木口 すると、本当の太古の時代ですね。
 池田 ネアンデルタール人の遺跡で、死者に花をたむけて埋葬したあとが発見されているそうです。
 ―― そのとおりです。三年前だったでしょうか、東京で「ネアンデルタール人とクロマニョン人」の展覧会があり、行ってきました。
 木口 いわば人類の祖先ですね。
 ―― ええ、二万五千年前に埋葬された「少年と少女の化石」が復元展示されていました。
 多くの人がその前で立ち止まり、見入っている姿が、私にはまことに印象的でしたね。
 それを見ていると、この埋葬という死者への畏敬の行為が、ひとつの宗教的感情の始まりではないかと思われてなりませんでした。
 池田 たしかに、そういえるでしょう。もちろん、素朴なものだったのでしょうが。「人間」の発生と時を一にして、宗教的感情の発生があったことはたいへん興味ぶかいですね。
 木口 そういえば動物も、自らその死をよみとり、一匹でどこかに隠れるといいますね。
 ―― スズメやハトも、死骸はあまり見せませんね。
 木口 イヌやネコも、とつぜんいなくなるといいます。
 池田 動物の本能なんでしょうかね。たしかにそういわれてみれば、事故死などの場合をのぞいて、野生動物の死を見た人は少ない。
 象のような大きな動物も、死骸を人前に見せない方法を知っているといわれますね。
 ―― まえに象牙を見つけて商売をしている人の話を聞いたことがあります。
 一頭の象が不運にも、人目につく場所で死ぬ。すると、必ずといっていいほど、仲間が群れをなして、その象をどこかに運んでいくというのです。そのあとをつけていくと、たくさんの象牙にありつけ一儲けできる。
 しかし、ふだんはおとなしい象も、そうしたずる賢い人間には、必ず逆襲してくる。(笑い)
 木口 この象の話は有名ですね。まさに自然の驚異ですね。
 ―― ワシの群れを統率する長の死も、壮絶なようです。自らの力の衰えを知ると、長は、ある晴れわたった日、高く高くどこまでも天空に上がっていく。
 そして一点の雲もない中天から、真っ逆さまに山頂の岩頭に突っ込み、わが身を打ち砕いてしまうといいます。
 池田 たしか『鳥の物語』(中勘助著、岩波書店刊)にも、そんなことが載っていましたね。
 一族のワシは、あたりに散った長の肉片を形を残さないように黙々とついばむ、というくだりが克明に描かれていたと思いましたが。
 木口 たとえ動物の世界であっても、自らの寿命を知り、死をもってなにかを示そうとする姿には峻厳ささえ感じますね。
 ―― 生命をもつものの本然的な姿なんでしょうね。それにしても、最近は、こうした生命のもつ峻厳さ、尊厳性というものに、人間自身が鈍感になってしまっている気がしますね。
9  昔も今も変わらない「死の恐怖」
 木口 たしかに深い人生の思索、永遠なるものへの思索がなくなっている。だから現世享楽主義的な、“いまがよければ”という風潮になってしまうのですかね。こんな時代相も歴史上、特異な時代のように思いますが。
 池田 いや、いつの時代も、このような傾向はいくぶんかあったと思います。しかし、これほどまでに社会のすみずみにまで弊害が蔓延化してしまった時代は、たぶんないといってよいでしょう。仏法で予言した「末法」という時代相そのものを、私は感じてなりません。
 ―― とくに、生命軽視の風潮がはなはだしい。
 木口 最近は、テレビなどの影響でしょうか。青少年にも、自殺や殺人が増えている。恐ろしいことです。
 ―― ちょっと文献を調べていましたら、平安時代の天皇は、人間死ねば地獄におちてしまう、ということを真剣に考えていたことがうかがわれるものが出てきました。
 池田 そうですか。醍醐天皇(八九七年、平安時代初期に即位)の和歌にも、そのような心情をうたったものがありましたね。
 ―― ええ。
 「いふならく 奈落の底に入りぬれば 刹利も首陀もかはらざりけり」
 という歌です。
 池田 「奈落」とは地獄のこと。「刹利」とは王族のこと。そして「首陀」とは奴隷のことと思います。
 木口 なるほど。昔の人は、死後の世界があるという考え方だったんですかね。
 ―― こうした話は一見、昔の無知の時代だけのもののようですが、現代人は真正面から考えようとしないだけで、死の恐怖は、いまの時代もなんら変わっていないのではないでしょうか。
 池田 まったく、そのとおりです。
 御文には「世末になれば人の智はあさく」とおっしゃっておられる。
 現代人は忙しさのためか、また即物的なものの見方のためか、ふだんはこうした死への意識があまりにも薄い。
 だが昔も今も、死の問題だけは一歩も前進していない。
 木口 同感です。
 むしろ便利さや豊かさの半面、肝心の人間の精神性の弱さが、あまりにも目立ちすぎる。その意味で、不幸な時代ですね。
 ―― いまは亡きフランスのアンドレ・マルロー氏は、行動する作家として、いまなお多くの読者をとらえております。
 その彼の文学を支えたものは、生死を超えた永遠なるものへの希求にあるということは、彼自身も語り、世の人々もそうしたとらえ方ですね。
 池田 マルロー氏は、祖父と自分の父が自殺している。また自身が、レジスタンス運動に加わっていたさなかに、ドイツ軍の捕虜となり、すさまじいまでに死というものを感じとっていたにちがいない。
 木口 池田先生は、マルロー氏とも対談されておりますね。私はその本を読ませていただき、たいへんに感銘しました。
 池田 それは恐縮です。もう十五年ほど前にもなりましょうか。日本とフランスで二回お会いしました。
 少々傲慢でしたが(笑い)、たしかに「二十世紀の行動する知識人」という言葉がピッタリの人でしたね。
 ―― 彼は生命の永遠なるものを美の世界に求めていった。またその奥深い思索の果てに、仏法を志向したのではないでしょうか。
 池田 ええ、たしかにそうでしょうね。トインビー博士もまた同じでしょうね。
 木口 その思索の延長として、現実に行動する、生きた仏法の実践者との出会いとなった。
 池田 いやいや私はともかく(笑い)、彼こそ民間外交、文化交流の先駆者といえるでしょう。
 ―― フランスの文化遺産である「ミロのビーナス」や「モナリザ」などを、国外に展示する最初の国として日本を選んだのは、文化大臣もやったことのあるマルロー氏です。
 木口 当時、まだ学生でしたが、私も一目だけでも見ようと思い、長い列の後について遠くから見ました(笑い)。ともかく、すごい人気でしたね。(笑い)
 池田 私も同じ思いで見に行きました。(笑い)
 ―― 彼が日本を選んだのは、仏教の国であり、永遠なるものへの理解をもった精神風土がある、と認識していたのが一つの大きな理由だったようです。
 木口 なるほど。彼は当初、真実の仏法というものの理解はなかったかもしれない。
 だがその模索の方向性は、たしかにトインビー博士などとも一致していますね。
10  「我」を解明する仏法の九識論
 ―― やはり一つの分野を究めていった人の目は、どうしても最後は、内なる自分自身へと向かわざるをえなくなっていくのでしょうね。
 木口 いわゆる、仏法で説く「我」というのでしょうか。最も身近でありながら、最も重大かつ困難な問題へとですね。
 池田 そうですね。まえにも少々話しましたが、仏法は、人間の「我」という存在をとらえていくうえで、「九識」というものを説いております。
 ―― 「九識論」とは、仏法が物事を識別する心の作用として説いたものですね。
 池田 簡単に言えば、そういってもよいでしょう。しかし、日蓮大聖人の寿量文底の仏法からみたときには、これこそ生命の全体像をくまなくとらえた法理となっていくと思っています。まえにも話しましたが、まず五識とは、「眼・耳・鼻・舌・身」という五官にともなう感覚と意識である。第六識は知性、理性にもとづく思考力といえるでしょうか。
 ―― なるほど。よくわかります。
 池田 仏法では、さらにこの第六識の奥に、第七識すなわち「末那識」という無意識にまでいたる領域があると説いております。
 ―― 末那識とは、あまり聞きなれない言葉ですね。
 池田 この語源は梵語の「マナス」で、これを漢字に音写したものです。「マナス」とは「思量する」「推しはかる」という意味です。
 ―― なるほど。
 池田 この第七識というのは、いわゆる日常の瞬間瞬間の思慮を超えた、学問とか芸術とかいう領域の範疇に入るととらえることができるような気がします。
 木口 たいへんな努力をして、真理の発見や美の極致といわれるような普遍的な価値を見いだすことが、それに類するものになりますか。
 池田 そのようにとらえてよいと思います。しかし第七識では、まだまだ人間存在の根本とか、エゴとかいう生命の究極、内奥の衝動からみるならば、完全なる自由な存在の範疇とはいえない。
 ―― たしかにそうですね。
 オーストリアの精神医学者フロイトにまつわるおもしろい話があります。
 彼は、人間の深層心理にせまった学者として有名ですが、ドイツのある世界的医学者は「彼は人間の深層心理を発見したが、自分自身はどうにもならなかった。なぜなら彼は、自分の怒りのあまり、引きつけをおこしているからだ」といったそうです。(笑い)
 木口 なるほど。(笑い)
 池田 仏法は、そうした衝動をも動かす「我」の存在へと目を向けていったわけです。それが第八識、つまり「阿頼耶識」といわれるものになります。
 木口 その阿頼耶識というのですか、これも梵語からきているのですか。
 池田 そうです。「蔵」という意味になります。ですから、これは、「蔵識」ともいわれます。この阿頼耶識という存在に、人間のいわゆる「業」というものが集約されていると説くわけです。
 またこれには「無没」、つまり生死にあっても没失しないという意義があります。
 ―― なるほど。そうするとこの阿頼耶識が、すべての「業」をはらんで生死を流転していくわけですか。
 池田 そうとっていただいて、けっこうです。この第八識に包含された自らの生命が、そのまま死後においても「空」の状態として、必ずつづいていくわけです。
 ―― なるほど。
 池田 ですから、生きている間に活動していた自らの五、六、七識も死の瞬間には、この第八識に厳として包含されてしまう。「生」の状態において、生命に刻みこまれた記憶・習性・業によって「死」の状態における「我」が刻々と成立していくことになる。
 ―― すると阿頼耶識とは、過去世からの宿業の蔵のようなものですか。
 池田 たとえて言うならば、そういってもよいでしょう。いま申し上げましたように、いわば「業」というものがおりなされる「場」といってもよいかもしれない。
 ―― なるほど。「生」の状態のときに刻みこまれた業が、「死」の状態になってもはっきりと残ってしまうというわけですか。
 池田 そう説かれております。たとえば、地獄界の悪業を最も強く刻んだ阿頼耶識という存在は、間違いなく宇宙生命のなかの地獄の「場」に存在していく。
 当然、その生命の「我」は、地獄の様相と苦悩のなかにある。そこで、このうえない極苦を味わわざるをえないということになります。
 ――そうですか。それはたいへんだ。ブラック・ホールもあることですから。(笑い)
11  「臨終の相」こそ人生の総決算
 木口 そうしますと、宇宙生命の「場」に融合した「我」にも、いわゆる「十界」という生命界の、それぞれの境界があるわけですか。
 池田 当然、あります。「十界互具・法界一如」(「総勘文抄」)とあるごとくです。
 ですから、そこに冥伏し融合して一体となる個人の「我」もまた、そのもつ「業」によって十界に分かれるのです。
 木口 なるほど。まえにもお話ししましたが、この宇宙空間それ自体も、そのもつ過去からの因果により、さまざまな現象をあらわす「場」であるというのが、現代物理学が証明した事実です。ですから次元の違いこそあれ、目に見えないが厳然と存在する「業」の場という考え方も、私はわかる気がしますね。
 ―― 宇宙空間のどんな物質も、この「業」から逃れることはできない。
 池田 人界・天界以上のいわば「善業」をはらんだ「我」は、宇宙生命の人界・天界・二乗界・菩薩界・仏界等の生命の「場」に融合していく。
 たとえば天界にある「我」は、「我」それ自体の天界を反映して、それぞれの楽しみを味わうことになる。また仏界ともなれば、それこそ宇宙大の楽しみ、大歓喜を味わうことができる。
 ―― それを生きているうちに、実感できないものでしょうか。(笑い)
 池田 それは深き信仰の積み重ねによるしかないでしょう。ただ仏法が「臨終の相」を一個人の人生の総決算として重視する意味も、こうしたことからうかがい知ることができる気がしますね。
 木口 なるほど。
 池田 たとえば、御文には、「人は臨終の時地獄に堕つる者は黒色となる」と説かれています。
 また経典にも、「地獄に堕ちる相に十五種、餓鬼に堕ちる相に八種、畜生に堕ちる相に六種」(「守護国界主陀羅尼経」巻十)ともあります。
 ―― なるほど。それにしても、仏法は明快に「臨終の姿」というものを説いておりますね。
 池田 そうです。第二十六世日寛上人は、「臨終用心抄」を著され、臨終にさいしての本人自体の心構えを、具体的に教示されておられます。
 木口 よくわかりました。最後の第九識はどうなってくるのでしょうか。
12  「九識」の覚知が信仰の本義
 池田 御文に「九識は悟なり八識已下は迷なり」と説かれています。
 ですから仏説の究極は、この「第八識」のいちだん奥にある宇宙的大我ともいうべき「九識」への覚知となっていくわけです。
 ―― この「九識」の実体を、初めて明かされたのが日蓮大聖人の仏法になるわけですね。
 池田 そのとおりです。簡単に言いますと「第八識」においても「染浄の二法」を含み、いまだ確固不動のものではない、と仏法では説かれている。この「八識」の奥の宇宙の本源的生命、それがいわゆる「九識心王真如の都」たる「南無妙法蓮華経」という末法の極説になるわけです。
 木口 なるほど。
 池田 ですから、私どもはこの生命の本源といいますか、宇宙の本源といいますか、その根源の力を知りたいがゆえに信仰しているのです。
 具体的に言うならば、信じ行じた万人がそのような境界に近づき、確固たる自身の構築がなされていく。私どもは、ここにこそ根本的かつ完全なる平和社会建設への道があると信じております。
 ―― どこまでも人間が主体である。それを見失ってはならないですね。
 木口 たしか、ユネスコ憲章にも「戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」という有名な一節がありましたね。
 池田 遠回りのようであるが、もはや、そこにしか道はない。その信仰の奥義が、日蓮大聖人の仏法にあるわけです。
 木口 なるほど。
 池田 創価学会はその大聖人の仏法を信奉する在家の団体です。日蓮大聖人を御本仏と仰ぐ創価学会が、会長を本仏と考えたり主張するようなことは一度もあるわけがない。
 したがって、そのような批判をするのは、私を陥れようとする讒言にすぎません。(笑い)
 木口 当然ですね。
 少し見て知っている人は、みな見破っております。
 池田 もちろん、信仰の深さ強さによって境涯が違ってくるのは当然なことです。
 ―― そうでしょうね。そうでなければ、なんのために信仰したかわからない。信仰した結果がなければ、仏法の意義はなくなってしまう。
 理不尽な言々句々など、仏法の信仰者に通じないことはだれでもわかっています。ちょっと時が経てば、すべてわかってしまうことですね。
 池田 さらに御文には、そこで「内よりは勧発し外よりは引導し内外相応し因縁和合して」と、死の生命すなわち「我」というもの自体がもつ「業」と、外なる「縁」とによって、生の生命がふたたび発動されゆく姿が説かれております。
 少々むずかしくなってしまってすみません(笑い)。なにかの機会に、もっとくだいてお話しできればと思っておりますので……。(笑い)
 木口 ぜひとも、この生命という問題については、「宇宙と仏法」の観点を広げて、「生命と仏法」というような観点からも、私どものために論じていただければと思います。
 池田 そうですね。いっぺん考えてみましょう。
 ―― 大事な問題ですので、ぜひよろしくお願いします。
13  最高にして最善の“良縁”が大切
 池田 このように、外なる十界三千と、内なる一念三千の波動が共鳴しあって、寸分の狂いもない。これを明かしたのが、じつに仏法なのです。正確にして無比なる厳しき因果の法則になるわけです。
 この因果論についても、もっと深く論じなければならないのですが、これだけは、人間の情愛や思いだけではどうにもならない。
 木口 なるほど。
 科学的という言葉を使わせてもらいますと、これほど厳しく徹底した科学性というのはないですね。
 池田 ですから、戸田先生はよく「自然界の法則を追究したものが科学である。人間の生命というものの、因果を明かした論理的宗教が仏法である。真実の宗教は、その研究態度が科学的であり、この両者は相矛盾しない」と言われていた。
 木口 なるほど。
 たしかに、われわれはあまりにも自身の外のことばかり追い、肝心の自分自身のことを忘れすぎていますね。
 池田 御文にはさらに、「因とは一切衆生の身中に総の三諦有つて常住不変なり」とも説かれています。
 少々むずかしくなりますが、「因」とは過去から現在へ、そして未来へわたっても、常住にして不変なる一切の生命の「仏性」と拝することができる。
 すなわち、だれびとたりとも尊極なる「仏性」が具わっている、と説かれているわけです。
 ―― しかし、この「仏性」というのでしょうか、それが具わっているといわれても、現実の人間の姿を見ると、なかなか信じられませんが。(笑い)
 池田 そこで、これまた仏法の深い論議になりますが、じつはさきほどの縁というものが、たいへんに重要になってくるわけです。
 ―― なるほど。そうですか。
 池田 いまの御文には「三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず」とおっしゃっています。
 簡単に申し上げますと、この自身に具わっている「仏性」というものを日々の現実の生活、社会への活動のなかで顕現しゆくためには「善知識の縁」、私たちにとっては「大法」というものが、どうしても不可欠となっていくという意味と思います。
 人はそれを知ろうとしないがゆえに、気づかないだけなのです。
 ―― なるほど。よくわかりました。
14  仏法は厳しき生命の因果の法
 池田 生命に刻まれる因果というものは、厳しいものです。
 「秘とはきびしきなり三千羅列なり」とあるように、いささかのごまかしも許されない。またプラスもマイナスもない。
 木口 一切の妥協も許されないわけですね。
 池田 いわゆる世間法、つまり法律や制度というものは、いかに厳格精緻につくられたとしても、これは人間世間の範疇のものである。それが完全でないことは、国によってその制度や法律が大きく異なることからもわかる。
 ―― まったく、そのとおりです。この世間の法律の網の目を、一見、合法的なかたちでくぐりぬけ、真面目な人々をあざわらうような、ずる賢い人間は、いつの時代にもたくさんいる。(笑い)
 池田 だがいくら社会の目、また他人の目はごまかせても、汝自身はごまかせない。なぜなら、そのことを本人がいちばんよく知っているからです。
 木口 なるほど。
 池田 ですから、さまざまな偏見やねたみからの中傷や批判があっても、私がなにも恐れない理由は、そこにあるのです。
 ―― アウシュビッツの収容所での理不尽な大量虐殺の話は、あまりにも有名ですが、数多くのユダヤ人をガス室に送り込み、死にいたらしめたナチの党員にもそうした話があります。
 木口 ええ、たくさんありますね。
 ―― 第二次世界大戦後、ある党員はドイツから遠く南米の、それもジャングルの奥地まで逃げ込んでいくわけです。所を変え、十数年も追及の手を逃れることはできた。
 だが寝てもさめても、殺した人たちの「亡霊」がつきまとい、苦しめられたと言っています。
 木口 有名な話ですね。
 ともかく、いまの池田先生のお話をうかがっていますと、仏法はまさしく生命の因果の法であることがよくわかります。
 ―― まったく同感です。
15  生死を繰り返す宇宙の実相
 ―― ところで木口さん、天文学では宇宙それ自体の死については、どこまでわかっていますか。
 木口 これが困るんです(笑い)。むずかしい問題なんです。
 いまから百~二百億年前に起こったといわれるビッグバン以後の、宇宙誕生の研究は、盛んに行われています。私も取り組んだことがあります。
 ―― そうですか。
 木口 ところが、宇宙が生死を繰り返すのか、一回かぎりであるのか、現代の科学ではまったく未知なのです。とくに死の分野は、将来において起こることなので、実験的な検証ができません。それゆえに、あまり研究は進んでいません。
 池田 そうですか。私は直観的に、銀河系などの死はあっても、宇宙それ自体が死で終わることはないと思いますが……。
 ―― なるほど。この問題について宇宙論研究者の予想を、簡単に教えていただけますか。
 木口 そうですね……。まず、恒星が核のエネルギーを使い果たしてその輝きが止まります。このとき、恒星の膨張によって地球のようにのみこまれたり、また爆発によって吹き飛ばされる惑星もあります。そののち、他の星の影響で大部分の惑星は、恒星から引き離されます。
 池田 いわゆる太陽系の崩壊ですかね。
 木口 そうです。さらにその後、恒星が銀河から引き離されます。そして何百億年もかかって、あらゆる物質が溶けて液体化するといわれます。
 ―― 液体ですか。本当にそうなるのですか。(笑い)
 木口 ええ最終的には、物質はことごとく鉄の液体になります。もし私たちが現在正しいと考えている量子力学が、本当にこのようなところにまで適用できるならば、そうなります。
 その後、すべての星はブラック・ホールになり、それがホーキングが予言したように大爆発を遂げます。
 池田 やはり大爆発ですか。いや、すさまじいものだ。
 木口 こうなるまでには、10の26乗~10の76乗年といった無限にちかい時間がかかることになります。
 ―― 気が遠くなる(笑い)。計算するだけでも、たいへんな時間がかかってしまう。(笑い)
 池田 仏法に「劫焼」ということが説かれております。これは宇宙の器世間、つまりわれわれにあてはめれば、この地球ということになりましょうか。
 有情が誕生し、生命を形成していく国土が崩壊するさまをいっております。
 木口 なるほど。
 池田 まえにも申し上げましたが、仏法は四劫(成・住・壊・空)という宇宙の実相を明かしております。
 このうち一切が崩壊していく「壊劫」においては、まず有情世間、すなわち、ありとあらゆる生物が壊滅してしまう。その後、器世間、つまり地球などの天体が壊滅するといわれています。
16  宇宙はまさにエネルギーの宝庫
 池田 そこで、この器世間である地球が滅するとき、「劫焼」すなわち大火災が起こる、と説いております。
 木口 いや、それはすごい。その大火災というのは、地球が太陽の炎のなかにのみこまれるときをさしている、と私は思いますね。
 池田 また「四劫」は、ま、いろいろ計算法があるのですが、それぞれ膨大な時間を経るとも説かれております。
 ―― なにかの“終末論”とかとは、まったく違いますね(笑い)。じつに明快だ。(笑い)
 木口 まえにも話題になりましたが、「星の死の世界」は、長い間、知られることのなかった領域でしたが、赤外線望遠鏡やX線望遠鏡などの宇宙探査により、次々と新しいデータが送られてきています。
 ―― 最も有名なものは、どんなものですか。
 木口 たとえば「おうし座」のカニ星雲がよく知られています。この星雲は、自爆を遂げた星の姿を見事に映し出しています。
 池田 そのガス星雲は、ありし日の太陽のような姿だった、といわれるものでしたね。
 木口 そのとおりです。しかもこの星雲のなかに、ものすごい正確さで、周期的な電波を出す天体が存在することがわかりました。これをパルサーといいます。これがじつは、まえにお話しした中性子星になることがわかったわけです。
 ―― なるほど。
 木口 この星は、じつに強力な電波を発していることが観測されています。このエネルギーの起源は星の自転のエネルギーで、総量としては、太陽がもっている自転の量とほとんど変わりありません。これが、どのように有効に出されているか、いま研究が重ねられています。
 池田 われわれの銀河系のすべての天体のなかで、いままでこれほど強い電波は、観測されたことがないほどのものだと聞いたことがありますが。
 木口 おっしゃるとおりです。たとえば、このパルサーが一秒間に出すエネルギーで、地球上のすべての電力需要を十億年間まかなうことができるようになるだろう、とまでいわれています。
 ―― すごいですね(笑い)。最近、NASAの専門家が、実用化できるかどうか研究に入った星の新しいエネルギーがある、となにかで読んだことがありましたが、そのことだったのですね。
 木口 たぶん、そうでしょう。星のもつ核エネルギーは星の質量の〇・八パーセントしか使えませんが、重力エネルギーとなると原理的には一〇〇パーセント使えます。
 池田 たしかに宇宙は、くめどもつきぬエネルギーの宝庫だ。
 まさに万物の母という気がしますね。
 木口 まったく、そのとおりです。
 ―― カニ星雲が爆発した記録は、以前にも話題に出た、藤原定家(鎌倉初期の歌人。『新古今集』『新勅撰集』を撰)が日記『明月記』に書きとめていたそうですね。昭和の初めごろ、日本のアマチュア天文家が、アメリカの天文雑誌にその日記を、超新星爆発の記録として投稿したところ大反響を呼んだという話です。
 木口 それは知りませんでした。
 ―― ええ、それまで超新星爆発の確実な記録は、知られていなかったようです。
 木口 いまでも、たいへんナゾにつつまれた星雲です。世界中の天文学者の間で盛んに研究されています。
 これとは対照的にこの星座では、Tタウリ星という生まれて間もない星が見つかっています。また惑星が誕生している可能性を示す事実が発見されたのも、この星座が初めてでした。
 池田 なるほど。おうし座では、星の生と死が同時に演じられているわけですか。おもしろいものですね。
 木口 ええ現代天文学では、さらにこの星や銀河系が生死を繰り返すということがわかっています。
 ―― たしか天王星も、この星座で発見されたのです。
 木口 そのとおりです。天王星がこの方向にあるとき、ドイツの天文学者ハーシェル(大型反射望遠鏡をつくり、一七八一年に天王星を、ついで土星を発見した)が発見しました。いまから二百年ほどまえのことです。
 ―― ところで星が死んだ場合、光を失って宇宙に溶けこむときは、温度は下がっていくわけですね。
 木口 そうです。
 ―― だいたい、どのくらいの温度になるのですか。
 木口 星は元気なときは、何千万度というエネルギーを出しますが、死の状態では、限りなく宇宙温度「絶対3度K」に近づきます。
 ―― 絶対3度Kといいますと、摂氏何度ぐらいですか。
 木口 マイナス二百七十度です。
 ―― そんなにですか。寒さなどという感覚はとおりこしていて、想像もつきませんね(笑い)。考えただけで身ぶるいがする。(笑い)
 木口 それが宇宙空間の平均温度なのです。つまり、星が死ぬと周囲の温度と対応するわけです。
 池田 そういえば人間も死ぬと、当然のことながら温熱の発生がなくなるので、時間が経つと冷えてくる。いくら冷たくなっても、そのときの外界の温度よりは低くならない。
 木口 そうですか。よく、冷たい骸といいますが。
 池田 ある法医学書に、ちょっと冷たく感じるのは、皮膚水分の蒸発のためであり、気温が三十度であるなら、そのていど。十度なら、またそのていどの温度よりは低くならない。他の動物の場合も同じである、と著されていると聞いたことがあります。
 木口 なるほど。冷たい骸という表現は、やはり悲しみとかの情感が込められているのでしょうね。
17  “不滅の陽子”にも死がある
 ―― この宇宙のあらゆる星も生物も、人間の身体もすべて素粒子という、まことに小さな存在から成り立っているわけです。つい最近まで「陽子」と呼ばれている素粒子だけは死なない、つまり不滅とみられていたようですね。
 木口 ええ、この「陽子」というのは、ご存じのとおり万物のもととなる原子の核をつくっているものです。
 ―― この陽子と中性子で核ができあがり、その周りを電子が回っているわけですね。
 木口 おおざっぱに言うと、そうなります。
 ところがこの陽子でさえも、理論的には、やがて壊れることが明らかになりました。
 仏法が説く無常の大原則から、迷い出た孤児ではなかったわけです。(笑い)
 事実、昨年(一九八三年)の夏から、東大理学部のグループが、アメリカ、インドにならんで「陽子崩壊実験」に取り組んでいます。
 池田 それがこのまえ、新聞(一九八四年一月五日付朝刊)で大きく報道されたものですね。よくわかりました。
 木口 ええ今回、確認されたわけです。
 ―― 私もちょっと取材してみましたが、岐阜県・神岡鉱山の坑内に実験場があるそうですね。
 木口 厚さ一千メートルほどの岩石で囲まれた地底に、三千トンもの水を入れたタンクを置いて実験しているそうです。
 池田 ずいぶん大がかりな実験ですね。
 木口 宇宙線などの影響をさけ、遮断するため地下深く入らなければなりません。
 ―― 「陽子の死」を正確に確認するためには、タンクの水の中に含まれている膨大な数の陽子が、自然崩壊するのを待つわけですね。
 池田 たしか「陽子」の寿命は、宇宙の年齢を百億年とみた場合、その百億倍という人知をはるかに超えたものと推定されている、という話を聞いたことがありますが。
 木口 そのとおりです。
 ―― そんなに寿命の長い、しかも目に見えない小さな「陽子の死」を発見することができるのですか。
 木口 ええ、そこがやっかいなのです。実際ビッグバン以降からいまにいたるまで、崩壊した「陽子」は微々たるものだといわれています。しかし、寿命が長いといってもそれは平均寿命ですから、たくさんの「陽子」があると、いくつかは早死にするわけです。
 理論的には、年に数個その死が確認されることになっています。
 ―― なるほど。
 木口 この陽子の研究は、私たちの日常生活とは直接に関係ありません。しかしこの研究により、この宇宙に、どのようにして物質があらわれたかがわかるのです。これは、万物の生の研究なのです。
 ―― そうした新たな真理を証明するには、簡単な机上の実験ではわからないということも、また示唆的ですね。
 木口 そうなんです。科学が進歩すればするほど、残されたナゾは少なくなりますが、半面、解明が複雑で、むずかしくなってきます。そのための費用と人手も莫大なものとなってしまいます。
 ―― ところで最近、科学の進歩によって生まれたビニールや発泡スチロールなどは、生活には便利のようですが、なかなか分解しないし、腐りもしない。やっかいものになっていますね。
 木口 やはり万物は生と死を繰り返すのが、自然のリズムなんですかね。乾電池などもたいへんな問題になっていますね。科学は、人々に多大な恩恵を与えるが、ときによっては、害を与えてしまう場合があります。
 池田 人々は、ふだん恩恵を追い求めるばかりで、あまり害のことは意識しない。
 だが科学は、あくまでも諸刃の剣であることを忘れてはならない、ということでしょうね。
 木口 まったく、そのとおりです。科学する者が、最も心しなければならない問題です。
 科学だけが暴走しかねないわれわれの時代には、科学と矛盾せず、止揚しゆく哲学、宗教は絶対不可欠と思いますね。

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