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日蓮大聖人・池田大作

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第十二章 核の脅威と仏法の平…  

「宇宙と仏法を語る」(池田大作全集第10巻)

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12  目ざめた人々の運動こそ平和への力
 池田 ですから、文底独一本門たる大聖人の仏法においては、この仏法自体が有する絶大な仏力・法力によって、ただただ「南無妙法蓮華経」を唱えることにより、因果倶時で、ただちに九識という尊極の生命に事実のうえで立脚することができる、と説かれているわけです。
 つまり「心地を九識にもち」とは、わが胸中の心の奥底に、「九識心王真如の都」たる南無妙法蓮華経を信受して、九識の生命に立脚することである。
 また「修行をば六識」とは、九識の生命を根幹として、こんどは六識の生活や社会に積極的に働きかける。
 人々に貢献し、平和な楽土を築くために行動する。さらに、多くの人々が安穏なる日々を送るための指標を与える。――つまり人間が安心して、豊かに暮らしていける社会の建設、いうなれば、仏国土をつくりあげゆくための布教や実践活動を、さすのだと思います。
 ―― なるほど。人間の個の確立というものの具体的姿は、あくまでも時代、社会のなかにおいてのみ発揮されるべきであるということになるわけですね。
 池田 そのとおりです。ゆえに妙法は、行き詰まりの現代社会にあって、人々に無限の創造性をもたらす。そして、生き生きとした活力を与えゆく「蘇生の法」といわれるわけです。
 そしてその妙法を基調とした、目ざめた人々の運動こそ平和への確かなる力となり、波動となっていくと信じております。
 木口 自らが常に向上し、充実した生き方をするなかにこそ、真実の平和運動の軌跡がある……。
 ―― 汗水流して仕事に励む。子を育て家庭を守る。また勉学にいそしむ。その日常生活のなかで、人々に強靭なる「平和への意志」を広げゆくことは、決してムリがない。
 またそうでなければ、運動の永続性もなくなってしまう。
 木口 まったく同感です。平和運動の理想ですね。
 ―― 先日、ヨーロッパに長期滞在し、いちじ帰国した友人から、次のような話を聞きました。それは、彼が欧州国連本部のジャイパール氏に会ったときの話です。
 池田 そうですか。ジャイパール氏は、ジュネーブにいて国連事務次長を務めている人物ですね。
 ―― ええ。
 氏は、「これまでの反核・平和運動は、どうしても反権力・反政府運動のみに偏りがちだった」。
 木口 そうですね。
 ―― 「それに対し、創価学会の平和運動は人間生命尊厳の理念を根底に、幅広く民衆の覚醒をうながすという意味で、これまでの運動とはまったく違っており、私は心から共感をおぼえる」と述べていたそうです。
 木口 なるほど。よくみておりますね。
 ―― さらに「今後も、全面的に支援していきたい」と、熱っぽく語っていたそうです。
 木口 心ある人々は、人間に光をあてた運動に着目し、かつ確かなる希望を見いだしていますね。
 ―― 最後になってしまいましたが、木口さん、なぜ二月が「閏月」なのですか。
 木口 古代ローマの暦では、いまの三月が一年の始まりになっていました。当時の閏年というのは、一年の終わり、つまり二月の最終日に一日加えていたわけです。
 ―― ああ、そうですか。その習慣が、そのまま今日の暦にも引き継がれてきたわけですね。
 木口 そのようです。
 ―― 「閏」という文字は、ふだんあまり使われませんね。
 池田 そうですね。この文字には、なかなかおもしろいいわれがあるようだ。
 『大漢和』などをみると「告朔の礼、天子宗廟に居る。ただ閏月は門中に居る」(『説文』)という言葉から派生したとありますね。
 木口 昔は、王様は毎日宗廟へ行く習わしだったそうですね。
 池田 そうです。ところが、王様は閏月には門外に出歩くことをしなかった。文字どおり、門の中に王様がいた。(笑い)
 この字は、こうした意義から生まれたとされているようですが。
 ―― なぜ外に出なかったのでしょうか。
 木口 そのころ、中国で使われていたのは太陰暦ですね。この暦では、ひと月は二十九日か三十日になります。
 したがって、一年に十数日が余りました。そこで三年、あるいは五年、十九年という割合で閏月をおいて調節しました。
 池田 ですから閏月は、余分な月であったわけです。この月に亡くなっても、数年に一度しかこないので、この月に命日を定められなかった。
 だから王様も、宗廟に参る必要がなかった(笑い)、という説を聞いたことがありますが。
 木口 それにしても、いかにも“文字の国”らしい発想ですね。(笑い)
 ―― そのころの日本には、まだ正式な暦がなかったと思いますが。
 池田 そうですね。
 まえに調べてもらったのですが、中国の有名な『魏志倭人伝』(中国の史書、日本古代史に関する最古の資料)の裴松之の注に「その俗、正歳四時を知らず、ただ春耕秋収を記して年紀となすのみ」とあるように、倭人はこよみを持っておらず、ただ春耕、秋収をしるして、年紀となす、と記されています。
 ―― 暦という日本語は、もともと「日読」といい、日を数える――つまり、太陽が昇るのを数えるところから起こったそうですが。
 木口 ええ、それにしても、中国にはたいへんに進んだ暦が昔からあった。
 池田 そのようですね。この中国のすぐれた暦も、じつは仏教の影響が強く反映したようです。
 古代インド仏教の経典である「摩登伽経」「二十八宿経」「大集経」「宿曜経」などに記された考え方が、一つの基準となってできあがっています。
 木口 そうでしたか。そうした事実はあまり知られていませんね。
 ―― 古代インドにも、仏法の宇宙観の影響から、すぐれた暦の発達がみられたようですね。
 木口 なるほど。中国ではそれを応用し、八世紀ごろには、世界で最も進んだ暦を使っていたわけですね。
 ―― そのころ、仏教の宇宙観をふまえ、天体の運行をまとめた『大衍暦』というものもあったそうです。
 これは五十二巻にわたるもので、奈良時代に日本にも渡ってきたそうです。
 木口 ああそれは、世界の科学者がその見事な計算法に驚嘆した、というものではないでしょうか。
 たしかに仏法の宇宙観は、直観的なものであったかもしれませんが、不思議と現代科学と合致するところが、じつに多いですね。

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