Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第十一章 宇宙の体験と「空」…  

「宇宙と仏法を語る」(池田大作全集第10巻)

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16  宇宙法界へ通じる“祈り”
 木口 いつも思うのですが、仏法は深き哲理とともに、自己完成への明快なる方途を提示しておりますね。
 池田 そこで、よくこういう人がおります。
 信仰していても、貧しい人も病に臥せる人もいる。また社会に迷惑をかける人もまれにいるではないか、と。
 ―― そうですね。おりますね。
 池田 たしかに、そういう場合もある。
 だが、一言で信仰といっても、段階もある。その浅深厚薄もある。実践年月の長短もある。また弱き自己に敗れ、名聞名利のために途中で退する人もいる。
 さらに、さきほど申し上げたように、人には「業」もある。そのもつ宿業も個人個人によって千差万別である。
 仏法は道理である。一つの開花と結実への過程にあっては、その人の過去の因果の負いもつ姿というものは当然ある。
 ―― なるほど。
 池田 ゆえに教義の峻別もなく、冷静なる判断基準ももたずに、また多くの人々の信仰の実証も知ろうとせず、一会員の部分的姿をもって、すべてを推し量ってしまうのであれば、あまりにも皮相的な物の見方の人といわざるをえないのではないでしょうか。
 木口 まったく、そのとおりと思います。
 なにごとにおいても総合的かつ客観的判断が前提と思います。
 ―― 信仰がなくとも、立派で幸せな人も多くいると思いますが。
 池田 人間というものは不確実な存在である。いくら自分は、いま幸せであるといっても、“有為転変”は世の常ではないでしょうか。
 また絶えざる向上心、進歩への努力こそ、人間としての証といえるでしょう。
 そこにやはり、人は確固たる指標というか、よってたつ“法”を求めゆく姿勢がなければならない。
 木口 そう思います。そうでないと“空”の人生になってしまう。(笑い)
 ―― 私たちが、ふつう「空」という文字を見たとき、言葉どおりなにもない、と解釈しますが、仏法のお話をうかがいますと、なにもないどころか、すべてを生み出す母体のような意味があるのですね。
 池田 そうです。万物や万象が消滅したとしても、すべてがなくなったわけではない。それを成り立たせていた中核の力、つまり「我」が、そのまま「空」に溶け込んでいるのです。
 木口 日ごろ、われわれがなにげなく使っているテレビやラジオの電波にも、こうした「空」の性質がみられます。
 ―― 電波というのも不思議なものですね。この部屋にも目に見えないが、世界中で発信されたラジオやテレビの電波が充満している。(笑い)
 池田 それも短波、中波、長波、超短波とか、ありとあらゆる電波が交差しながらですね。しかも受信機の波長を合わせれば、その波長の電波がきちんとキャッチされ、音となり画像となって再生される。
 じつに、おもしろいものですね。
 木口 電波は空間のもつ働きによるものです。空間というものはなにもなく、なんの働きもないようにみえる。
 しかし実際は、たいへんな運動を繰り返しているのです。ラジオやテレビは、少々むずかし言い方になりますが、物理学者がゲージ(目盛り)と呼んでいる、空間の運動が電気を起こす性質を利用したものです。
 ―― なるほど。
 木口 ですから、こうした事象からも、仏法で説く「空」ということが、私にはよくわかります。
 池田 アメリカのケープケネディから発信した電波も、月面に着陸したアポロ宇宙船にまで届く、さらに宇宙のはるかかなたへと飛んでいく。
 もったいない譬えですが、宇宙の根源法たる御本尊に唱題するその祈りは、電波のごとく、宇宙法界へと通じていく。
 ですから、一念三千という法理もわかるような気がしますね。
 ―― ところで、一九八二年暮れから八三年初頭にかけて野辺山の宇宙電波観測所の望遠鏡で、オリオン座の空間に、星が生まれつつあることが観測されましたね。
 木口 ええ、宇宙的な時間のスケールでの話ですが、いままでなにもなかったところに、いつのまにかガスが流れ込み、さらに回転円盤ができていることが発見されました。つまり、星の卵です。
 池田 宇宙の大空間のなかに、目に見えない塵が、生成発展して星をつくり、そして消滅していく。「空」「仮」「中」の三諦の法理も、無量無辺の宇宙空間を対象とすると、いっそう明快に理解できますね。
 ―― まったく、そのとおりだと思います。

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