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日蓮大聖人・池田大作

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第十一章 宇宙の体験と「空」…  

「宇宙と仏法を語る」(池田大作全集第10巻)

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1  香港の「九七年問題」とアジアの将来
 ―― 今回は五年ぶりの香港訪問(一九八三年十二月一日出発、六日帰国)だったそうですが、いかがでしたか。
 池田 アジアで初めての文化祭が開かれ、その招待をうけました。
 また、香港中文大学から訪問の要請もあり、行ってまいりました。
 ―― 文化祭は、さきごろ完成したばかりの香港体育館に、二日間にわたって二万人のメンバーが集い、たいへんに盛大だったようですね。本当に、おめでとうございます。
 池田 ありがとう。アジアは、ますます大事なところとなりますね。日本もアジア各国との経済協力はもとより、すべての次元にわたっての誠実な交流が必要ではないでしょうか。
 木口 平和文化祭の大成功は、アジアの素晴らしき未来を象徴しているようですね。
 池田 ともかく香港の皆さんが希望をもち喜んでくださり、うれしかった。香港中文大学と創価大学の教育学術交流も十年の歩みを経て、確実に深まってきているようです。
 ―― 香港近隣のマカオ、シンガポール、タイランド、マレーシア、フィリピンなどからも、メンバーが集まったそうですね。
 木口 長く厳しかったアジアの民衆にも、ようやく陽光がさしてきたようですね。
 池田 そうしたい。また、そうでなければアジアの歴史は、あまりにも不憫です。
 ―― 東洋の真珠といわれる香港も、最近は新たな角度から注目されていますが。
 池田 そのとおりです。香港全域の九二パーセントを占める新界地域の租借期限ぎれがせまっているという、いわゆる「九七年問題」がある。世界中からさまざまな角度で注目されております。
 ―― 町には、相変わらず活気がありましたか。
 池田 予想していた以上でした。人口も増加しているようです。五年前よりも高層建築が増え、海を埋め立ててニュータウンも誕生しています。
 ―― 香港政庁の行政評議会主席である、鍾士元氏とも会見されたそうですね。
 池田 会いました。「九七年問題」を深く突っこんで話し合いました。
 ―― 日本総領事館の藤井総領事も同行したそうですね。
 池田 そのとおりです。約五十分間ちかく真剣に応答しました。
 ―― 会見内容は、どうだったんですか。
 池田 この問題をめぐっての中英会議が、(一九八三年)十一月中旬に二日間にわたって北京で行われ、たいへんに建設的、かつ有意義なものであったと言っていました。十二月上旬にも、二日間にわたり行われましたが、会議の詳しい内容の公表は、まださしひかえているようです。
 木口 最も注目されているのは、中国に返還された後に、どういう政治形態、どういう経済体制になるかという点ですね。
 池田 先日、来日した中国の胡耀邦総書記も述べていたように、外国の権益は、あくまでそれを保証するとの公約がある。
 ともあれ注目されるのは、自由主義と共産主義とが融合する、ユニークな未来の姿です。
 彼が言うには、いままでは社会主義は社会主義国家に、自由主義は自由主義国家になるという単純な図式であった。だが香港の場合、そうした見方は、あくまでも理論上、学問上の範疇の見方であり、実際は、やってみなければわからないと言っておりました。
2  四季の変化が生活の節目
 木口 ところで、月刊雑誌が暮れのあわただしいときに、お正月を通り越して二月号をやっている、というのは奇妙に感じますね。(笑い)
 池田 私も、若いころ『冒険少年』の編集をし、『少年日本』の最後の編集長もやったことがあったが、そのころは、雑誌がそろって年末に新年号を出したという記憶はありませんね。
 ―― そう思います。調べてみましたら、ある社が意表をついてやり始めたら、他誌も右にならえでやり始めたようです。
 池田 なるほど。日本はマネごとが早い。(笑い)
 木口 やはり、ムダの多い生存競争のゆえでしょうか。(笑い)
 ―― なかにはエスカレートしすぎて、十二月にもう二月号を出したところもある。ところが一月に三月号というわけにもいかず、中間をとりもつために、一月は「陽春」臨時増刊号ということになった。(笑い)
 木口 そうすると、年に十三冊出た計算になる。(笑い)
 池田 この雑誌連載は十三回でなくてよかった、よかった。(笑い)
 ―― そういうわけですね。(笑い)
 ところで木口さん、昔は暦のうえでも、お正月が年内にくることがあったようですね。
 木口 ええ、月の満ち欠けに合わせて、一カ月を決める太陰太陽暦を使っていたころは、お正月よりもさき、つまり年内に立春がきてしまうこともあったわけです。
 池田 そうそう。その困惑ぶりをうたった和歌があるね。
 ―― ええ、『古今和歌集』でしたか。
 池田 たしか、
 「年の内に春はきにけり 一年を
 去年とやいはん 今年とやいはん」
 という歌でしたかね。
 ―― そうでした。暦では、正月よりさきに立春がきてしまった。立春から元旦までの間を、昨年と呼ぶべきか、今年と言うべきかということですね。
 木口 いまの雑誌の新年号のなかに「今年は」と書いていいものか、「昨年」と書いていいものか、迷うようなものですね。(笑い)
 池田 この歌からは、暦という生活の基準にズレがでたことの戸惑いと、多少その矛盾を揶揄した響きが読みとれますね。
 木口 昔の人は自然のリズムを大事にし、密着して生活していたことがうかがわれます……。
 池田 天体の正確無比な運行による四季折々の変化を、かけがえのない生活の節目として尊んでいた。
 ―― 現代人は、四季の変化を感じとれなくなっていますね。
 木口 冬でもスイカやイチゴが食べられるし、夏でもミカンやリンゴが食べられますからね。あまり美味しくありませんが。(笑い)
 池田 いま使われている暦は、明治になって、世界の仲間入りをするために採用したグレゴリオ暦(太陽暦ともいう)ですね。
 木口 ええ、明治五年(一八七二年)十二月二日の翌日を明治六年一月一日にし、その日から使うことになったわけです。
 池田 東洋の暦は、もともとは立春が正月であった。それを、いまの太陽暦によって、冬至のころを正月とした。
 だが日本人の暮らしには、「新年」とともに、「新春」を迎えるという伝統が、長くつちかわれてきたようです。
 ―― 旧暦だと「新春」という言葉が、暦のうえでも符合したわけですね。
 池田 そのとおりだね。それが新暦になっても、年賀状に書く「新春」「迎春」「賀春」などの詞だけが残った。
 木口 そうですね。本当は元旦を新春というのは、冬の真っ盛りでおかしいのですが、やはりこうした習慣だけが残ったのでしょう。
 まあ、地球が太陽の周りをめぐって公転し、その面に対して自転軸が傾いている以上、世界中が同じ季節に新年を迎える、というわけにはいきませんからね。(笑い)
3  スカイラブ船長と宇宙の旅
 ―― 先般(一九八三年十一月二十六日)、アメリカの元宇宙飛行士、ジェラルド・P・カー博士(スカイラブ3号の船長として宇宙飛行)が名誉会長を表敬訪問し、約二時間半にも及ぶ会談をされましたが、読者からも多くの感銘の声が寄せられております。
 木口 私も同席させていただきましたが、とにかく、先生とカー博士との会談は、たいへん心温まるものでした。
 ―― 私もそばで拝聴させていただき、同じ感慨をもちました。博士は生命の故郷である宇宙を精神的にも、肉体的にも、実感したわけです。その博士が名誉会長に語りかける姿は、そのままこの「『仏法と宇宙』を語る」の延長のようでした。(笑い)
 池田 そうですか。私にとっても、たいへん有意義な語らいであり、楽しいひとときでした。
 たしかに、人類四十数億のなかで、宇宙飛行を実体験した人は、ほんの一握りしかいない。この二十数年間で、二百人前後ではないでしょうか。
 木口 そうです。
 ―― アメリカとソ連あわせて、そのぐらいの数ですね。
 池田 カー博士は、たいへんに謙虚な人でしたね。彼は宇宙の先覚者の一人である。
 その人と人類意識、地球意識のうえにたって、人間と文明の未来を語り合えたことは、大きい思い出のひとつとなった。
 木口 私も、まったくそう思いました。私のように机上の研究に明け暮れている人間にとっては、“現場の声”をじかに聞き、会談全体がまるで復習のようでした。(笑い)
 ―― それにしても、名誉会長の仏法からみた宇宙観、人間観の一端に接して、博士が「そうすると自分は、宇宙で仏法の勉強をしていたようなものです」と即座に答えたのには、本当に驚きました。
 木口 そうでした。博士は、「宇宙には厳然とした“調和と秩序”がある」と言っておりましたね。
 ―― 「神が人間に対し、ちょっと糸を引き、物事をおこしているようなものではない」とも言っておりました。
 印象的な言葉でしたね。
 木口 私は直観的に感じました。それは、カー博士が宇宙で体験したその実感は、たしかに仏法の法理につながっている……。
 彼はクリスチャンであると聞いていますが、その言葉の端々にそれを感じましたね。
 ―― 私もそう思いました。
 池田 カー博士は、スカイラブの船長としても世界的に有名ですね。
 八十四日間ですか。地球の周りを回ったのは。
 ―― そうです。また博士は、通算十五時間もの宇宙遊泳もしています。
 池田 そうでしたね。船外に出て、地球の姿を眺めていたら、初めに長靴の形をしたイタリアがわかった、と言っていましたね。
 ―― とてつもないスピードで飛んでいる宇宙船から人が出て、吹っ飛んでいかないんですかね。おいていかれないのですか。(笑い)
 木口 それは宇宙船が軌道を回っているときには加速しませんので、両者とも同じ速度ですから大丈夫です。
 ちょうど等速度で進んでいる船のマストから物体を落としても、その真下に落ちるのと同じ原理です。
 池田 いいですね。助かりますね(笑い)。博士はわざわざNASA製作の、スカイラブの記録映画を持ってきてくれたのですよ。私はそれを会談の次の日、少人数でゆっくり見せてもらいました。
 木口 そうでしたか。私も見せてもらいたかった。(笑い)
 池田 一日しか借りられなかったもので、すみません。(笑い)
 まあ、木口さんのことですから、またなにかの機会に見るチャンスがあるでしょう。(笑い)
 ―― そのフィルムは、NASAの許可がないと、見ることのできない珍しい記録ですね。
 池田 透明な宇宙空間に、真っ白な命綱をつけた宇宙服姿の博士が、船外で遊泳しているシーンがありました。
 左手に、真珠色に光る大気につつまれた地球が、大きく浮いている。右手は、黒い漆のような宇宙の空間が写っている。
 この地球と無辺なる宇宙の両者を一望にできた体験は、素晴らしいことであると感銘しました。
 木口 私も、そういうお話を聞くと、一度でいいから、宇宙船に乗ってみたい気持ちにかられます。(笑い)
 ―― 宇宙船が地球を一周するのは、約九十分だそうですね。
 池田 そう。つまり一日二十四時間に、十五回ほどの日の出と日の入りを目にすることになる。地上の感覚からは、想像もつかない一念の変革がおこるわけですね。
 ですから一挙に、人間が考えられないような新しい世界に入っていくことになる。
 なにか「法華経」で説く、「霊山会と虚空会」「三変土田」といった、凡智では実感しがたい法理が思いおこされますね。
 木口 宇宙空間とは、まことに不思議なものです。
4  宇宙時代は人類不戦への夜明け
 ―― 宇宙船が大気圏から離れていくと、太陽は、ギラギラと照り輝く光の輪に見えるそうです。
 池田 そう言っていましたね。
 じつに壮大な光景だ。
 ―― しかし、すさまじい火炎の輪である太陽が、ひとたび地球の後ろにくると、とつぜん真っ暗になるそうです。
 木口 それはほとんど空気がないので、太陽の光が、地上で見るように四方に散らばったりせず、直線的に進むからです。それは地上のどこで見るものよりも、はるかにすごいものでしょう。
 ―― 日没が、これまた感動的なようです。
 博士は身をのりだし、身ぶり手ぶりで説明してくれましたね。
 地球の丸い地平線上に、薄い大気の膜が見える。
 太陽が、その向こう側に沈んでいく。
 その瞬間、いくつもの鮮やかな色の帯が、みるみる広がっていく。あまりの荘厳さに、息をのむ思いだったと述懐していました。
 池田 これこそ、神秘の光景と言わざるをえない。
 木口 わかるような気がします。
 地球をおおう大気が、巨大なプリズムの役目をしますから、光が赤、黄、緑、青とみるみる変わっていく。
 ―― 博士も同じ説明をしていましたね。見事な色彩の変化に、しばらくわれを忘れてしまった、と言っておりました。
 池田 人間の凡智は、やはりこうした神秘の実在をひとたび知ると、そこにあるなんらかの法則性を見極めたいと思うものだ。
 ともあれ、宇宙時代はまさしく世界不戦、人類不戦への夜明けとなるであろう。また絶対に、そうしなければならない。
 木口 宇宙時代は、全人類的視野の時代です。
 ―― 博士は十秒ごとに、大気の色の変化をカメラに収めたそうです。
 ヒューストンに帰ったら、ぜひ名誉会長にお送りしたいと言っておりました。
 池田 それは楽しみです。ヒューストンのスペースシャトル発射を、一度見にきてください、VIP席にご夫妻を招待したい、とも言っておられましたね。
 木口 それは、うらやましいですね。(笑い)
 ―― 太陽が沈みきると、とつじょ暗黒が訪れます。と同時に、無量の星々が瞬時に輝きだす。
 地球上の、ありとあらゆる宝石を集め、黒いビロードの上にまき散らしても、あの美しさにはとうていかなわないだろう、と博士は言っていましたね。
 木口 まさしく、輝く星が天空にぎっしりと敷きつめられたような、という表現をしたかったのでしょう。
5  宇宙の神秘と生命の不可思議を実感
 ―― 博士は地球外知的生物の存在も、じゅうぶん可能性のあることだ、と言っておりましたね。
 池田 人間よりも優秀な知的生物がいるかもしれない、とも話しておりました。
 地球のゴタゴタを見ながら、地球の人々は、なにをしているのか、と言っているかもしれないと、笑いながら言ってました。
 ―― 地球より下等な生物もいるかもしれない、とも言っていましたね。
 池田 そのとおりです。まあ、一人の人間としてのたいへんな経験だったのでしょう。
 彼は一人の人間ではあるが、宇宙の神秘を体験し、他の人よりも、はるかに生命の不可思議さを感じとったにちがいない。
 彼は、自らの人生観、生命観、宇宙観というものの理論を、自身で体系化はなしえなかったかもしれない。だが、仏法の法理を志向している自身を感じとっていたのではないでしょうか。
 木口 そう思います。彼の人間としての体験は貴重であり、まことに大きい。彼はよき人に出会い、それを率直に披瀝できた。そして、それがもつ重大な価値を見いだすことができた。
 話している姿も、たいへん満足そうでした。
 ―― そうでした。帰国直前に、博士に原稿の打ち合わせでお会いしましたが、同じようなことを語っていました。
 木口 そうですか。
 ―― 会談を終えて、ホテルに戻る車中で、博士は「地上で目印になる北斗七星や南十字星などが、宇宙船に乗っていると、大きさや形が変わってしまうように見えるので、位置確認に困ることがある。同じように、いまの社会は、平和の問題やさまざまな不幸を解決する、確固たる目印を見失ってしまっている」と嘆いていたそうです。
 ホテルに帰ってからも、心理学博士でもある夫人と、会見を振り返りながら、夜遅くまで語り合っていたそうです。
 木口 そうでしょう。私にとっても忘れえぬひとときでした。
 ―― 「今回の来日は講演とかで、いろいろな人に会ったが、生涯忘れることのできない思い出は、池田先生にお会いでき、ともによきひとときを過ごさせていただいたことです」
 とも、語っていましたね。
 木口 そうですか。それにしても、宇宙船から見た星はきれいでしょうね。地球上から見た何千倍、何万倍の輝きでしょうから……。
 池田 きれいでしょうね。大気がありませんから。
6  星は人の心に強く語りかけてくる
 ―― ところで、日本は世界中で、最も多く星が見えるといわれていますね。
 池田 そう聞いたことがあります。国際的に認められている星座は八十八ありますが、南北に長い日本では、そのうち八十四までが見えるということですね。
 木口 そのとおりです。東京でも、その大部分が見えるそうです。
 ―― 冬は大気が澄んでいて、一年中で、いちばん星がきれいな季節ではないでしょうか。
 木口 ええ、天文ファンにとっても、本格的な星座の観測ができる季節です。
 池田 ウチの三男坊は天文マニアで、小学生、中学生のころ、よく二月の真夜中にソッと庭に出て、毛布をかぶりながら望遠鏡をのぞいていた。試験勉強よりこっちのほうが大事だった。(大笑)
 ともかく、寒風の夜空がいちばんきれいなようですね。
 木口 そう思います。
 池田 星は人の心に、強く語りかけてくるものがある。かのアインシュタインが、シューベルトの「星」と題する歌曲を絶賛しておりましたね。
 ―― 私もそのレコードを持っています。有名な曲ですね。
 池田 天才作曲家の彼の心には、やはり、天空を見あげながら、どうしようもない詩的情緒がやどったのでしょう。
 最近私は、なんだか忙しくて名曲を聞くひまもない。これではいけませんね。(笑い)
 ―― この曲は、彼が亡くなった年と同じ年の作品だったと思います。
 池田 ああ、そうですか。
 ―― 子供のころよく歌った「冬の星座」や「キラキラ星」など、忘れがたい歌もありますね。
 池田 そうだね。冬の星座といえば、「冬北斗」「寒北斗」などと歳時記の冬の季語としても有名な北斗七星がある。
 また三つ星の「オリオン」、『枕草子』に出てくる「寒昴」もある。
 全天で最も明るい恒星「天狼」など、勇壮な荒星も多い。
 木口 日本の位置は、本当に恵まれています。一年中観測すれば、ほとんどの星座を見ることができます。
 ―― こうした自然の素晴らしさを、子供たちにも教えてあげたいものですね。
 池田 少年には空へ、海へ、山へ、そして自然へと、あらゆる機会をとおし志向させていくことが、ひとつの大切な教育であると私は思っている。
 ―― まったく同感です。
 池田 たびたび、ウチの話になってしまい恐縮ですが、三男坊が高校時代の夏休みに、星の観測のため、小笠原諸島の父島、母島に友だちと二人だけで行きたいといってきた。
 当時は三十数時間の船旅です。女房も初めは心配していたが、育ち盛りの男の子が都会のゴミゴミしたなかを遊び歩くより、はるかによい経験になる。私は大賛成です、ということになり行かせたことがありました。
 都会では見ることのできない満天の夜空は、子供心に強く焼きついたようでした。
 木口 そうですか。立派に成長するうえでの貴重な経験でしたね。
7  日本に魅せられた世界の天文学者
 ―― そういえば、明治時代、日本が世界の国々の仲間入りをするやいなや、世界で指折りの天文学者が、相次いで来日したといわれています。
 池田 そうですね。イギリスの有名な太陽物理学者エバシェッドや、火星観測で有名なアメリカの天文学者ローウェルなどが、来日したと聞いたことがある。
 木口 いま池田先生が挙げられた二人の天文学者は、ともに天文学史上、忘れられない人たちです。
 ―― 私も調べてみましたが、イギリスのターナー、アメリカのシェバーリなどの天文学者も来日しているようです。また、日本についての印象記も残しています。
 池田 その印象記を一度読んでみたいですね。翻訳はされているのですか。
 ―― たしか、ローウェルのものは翻訳されていると思います。
 池田 ローウェルは、商売で日本にきたようでしたが、それも望遠鏡を持って四回もきていると、なにかで読んだことがある。
 ―― 日本海側各地を旅してまとめた旅行記は、ユニークな外国人による日本論にもなっています。
 それにしても、当時、まだ未開の地と思われていた日本に、天文学者が続々とやってきた。星の魅力とはたいしたものですね。
 木口 昔から宇宙を観測したり、研究したりする人は、みなロマンチストで、悪人はいないといわれています。(笑い)
 池田 そうですか。(笑い)
 大昔のギリシャの時代にも、星の世界に魅せられ、ついに月へ到着するという小説を書いた作家がいた。
 やはり、無類の好人物だったようです。
 ―― ええ、西暦一八〇年ごろ活躍したルキアノスですね。
 この小説は、あるとき、主人公の乗った船がとつぜん大竜巻に巻き上げられてしまった。それが宇宙にまで飛ばされ、ついに月面に着いてしまったという内容ですね。
 木口 荒唐無稽ともいえますが、SF小説の古典でしょうか。(笑い)
 ―― ところがルキアノスは、真剣にありうることと考えていたようです。
 木口 そうですか。
 ―― ええ、その証拠に、その物語のタイトルを、ギリシャ語で『ベラ・ヒストリア』と付けました。
 木口 どういう意味ですか。
 ―― 「本当の話」です。(笑い)
8  「法華経」に関心をもったカント
 ―― そういえば哲学者カントにも、日本論がありますね。
 池田 そうそう。やはり、徳川時代のあの鎖国直後に訪日した、ドイツ人の商人が書いた旅行記がある。それをもとにして、カントが日本に対する憧れを記したものですね。
 ―― その憧れは、『東方見聞録』のマルコ・ポーロやアメリカ大陸を日本だと思ったコロンブスのように、黄金の国・日本といったイメージではない。
 池田 そのとおりです。おもしろいことにカントは、非常に簡単な表現ですが、日本の仏教の中心の経典は、「法の花の経」だと記している。「法華経」の存在に、カントは強く関心をもっていたような気がしてならない。
 ―― 当然そう思います。カント全集にも、そういったくだりが出てきます。
 木口 まことに興味ぶかい話です。
 ―― フランスに、東洋の古い美術工芸品を一堂に集めた、ギメという博物館があります。
 そこの東洋研究者が日本の仏教全般を研究し、初めてその成果を発表したのが、『日蓮の教義』という著書だと、聞いたことがありますが。
 池田 そうですね。もちろん、日蓮大聖人の大仏法の奥義にかなったものではないでしょうが、それなりの次元の研究書ではある。フランスの文部省の後援を受け、ルノンドーという東洋学者が一九五三年にまとめあげ出版していますね。
 木口 そうですか。まったく新しいことを聞きました。
 池田 その著書には、「仏教をその正法のうちに復興し、日本をば本源地として、そこから真理が着々と、世界の残りの部分をも被いとる云々」(『日蓮の教義』G.RENONDEAU,*LA*DOCTRINE*DE*NICHIREN,*(PUBLICATIONS*DU*MUSEE*GUIMET)*PARIS*1953.*PP6‐7.)と書かれ、仏法の世界性を紹介したもののようですね。
 ―― 私も抄訳を読んだことがあります。
 木口 ぜひ一度、抄訳を読みたいと思います。
 池田 また彼は、「立正安国論」「開目抄」「観心本尊抄」をはじめ「法華取要抄」など大聖人の御書を何編か訳していますね。内容はともかくとして、初めてこの本をとおして、御書にふれたフランス人も多いと聞いています。
 ―― こうした貴重な資料は、一度日本語に翻訳して、紹介するチャンスがあればと思っています。
 池田 そういえばトインビー博士も、たしか「日蓮」という論文を書いていました。
 小冊子だったようですが、そうした背景もあり、私との対談については、博士からの強い要望があったようです。
 ―― そうでしたか。初めてうかがいました。
 池田 その博士が「理論上は“死”というものがわかる。しかし、実際に実感するには、やはり熱心な信仰しかない」と、ご夫妻で真剣な顔で語っておられました。その姿は、いまもって忘れられません。
9  「地球の最期」はどうなるか
 ―― ところで一九八三年の十一月、ブラック・ホールがあるのではないか、という特異な星が、日本で初めて発見されましたね。
 木口 ええ、X線望遠鏡を積んだ天文衛星「てんま」(一九八三年二月二十日、宇宙科学研究所が鹿児島県内之浦から打ち上げた)が見つけました。
 池田 ブラック・ホールについては、なかなか関心が高いようですね。香港で泊まったホテルの前にプラネタリウムがあって、ブラック・ホールを見せておりました。残念ながら忙しくて行けませんでしたが。
 木口 そうでしたか。このブラック・ホールは、それ自体が、周りの光を吸いこんでしまう死の世界ですから、なかなか見つけるのは困難です。
 池田 アメリカの天文台が過去に一つ、白鳥座で発見しているだけと聞いたことがありますが。
 木口 そうです。おおかたの天文学者によってブラック・ホールと認められているのは、白鳥座X―1という星だけです。しかし、ブラック・ホールでないかと考えられているのは、一九八二年の十一月に大マゼラン星雲で発見されたものがあり、こんどの発見がブラック・ホールですと、世界で三番目のものになります。
 池田 今回は、すぐ近くの星のガスがブラック・ホールではないかとみられる星雲のウズに向かって流れていることから、発見につながったようですね。
 木口 ええ、ブラック・ホールのすぐ近くに星がある場合、つまり連星になっていると、その星は必ずブラック・ホールからの影響をうけていますので、見つけやすいのです。
 ―― ブラック・ホールは、星の終焉の最も神秘な現象といわれます。われわれの太陽も、寿命がくると同じ運命をたどるのですか。
 木口 太陽ぐらいの大きさですと、ブラック・ホールになることはありません。もっと大きければそうなります。
 ―― 太陽より大きな星の死となると、ちょっと想像を絶しますね。
 木口 そのとおりです。
 太陽でさえ、終末的な現象が始まれば、地球はSF小説もどきの地獄絵図の世界となるでしょう。
 池田 たしかアメリカの作家に、地球の最期の日を克明に描いた有名な小説がありましたね。
 ―― ええ、リチャード・マティスンの『終焉の日』です。
 池田 五千年の歳月をかけて人類が築きあげたこの文明世界が、たった五十時間で、ことごとく崩壊していく。その最期を見事に推理し、描写していましたね。
 ―― 木口さん、天文学では、地球の最期はどこまで解明されているのでしょうか。
 木口 そうですね。
 まず、太陽が膨張を始め、近いところにある水星、金星はのみこまれます。太陽表面ではいたるところで大爆発が起こります。
 地球は表面がことごとく焼けただれたような状態になります。太陽の壊滅は、五十五億年後ぐらいに起こるだろうといわれています。
 池田 銀河系のなかで、太陽のような恒星が大爆発を起こし、宇宙空間に消えゆく姿が観測された例はありますか。
 木口 ええ、いろいろあります。
 とくにカニ星雲が、昔から有名です。
10  太陽の終末の姿は
 ―― なぜ星は最後に膨張していくのですか。
 木口 たとえば太陽は、水素の核融合反応によって、黄金に輝いています。言わば、自然がつくりあげた巨大な原子力発電所のようなものです。
 ―― 水素を原料にして、あの膨大な光と熱を発散させているわけですね。
 池田 この宇宙の力を人類が手にしたとき、核兵器が出現した。
 木口 まったく、そのとおりです。
 池田 宇宙の力も、人間によって善にも悪にもなる。かつて、ある雑誌に書いたのですが、「人間の心清ければ、永遠の平和となる。人間の心卑しければ、永久に葛藤と対立の地獄である」。
 ―― 核時代における大事な視点ですね。この点については、機会を改めて深く論じていただきたいと思います。
 池田 わかりました。
 木口 そこで水素が有限である以上、太陽はやがてそれが燃えつきてしまう運命にあるわけです。
 また燃えつきるまえに、太陽の老化現象が間違いなくやってきます。
 ―― どういう姿になるのですか。
 木口 水素の核融合燃料がつきてきますと、ヘリウムのカスが灰になって、太陽の中心部分にたまっていきます。
 池田 なるほど。燃えつきた石炭ガラのようなものですね。(笑い)
 木口 ええ、その灰によって、太陽の芯がとじこめられます。そして外側が燃え始め、芯が縮むために、逆に外側がふくらんでいきます。
 ―― なるほど。
 木口 こうして、太陽の外側はますます膨張していきます。膨張した分、表面の温度は冷えていきますから、いままで高熱のため黄色に輝いていた光は、赤い色へと変わっていきます。
 池田 それが、赤色巨星といわれるわけですか。
 木口 そのとおりです。さそり座のアンタレスなどは、実際観測してみますと、その半径は、じつに太陽の百七十五倍――つまり一億二千万キロにも膨張しています。
 池田 すごいものだ。想像もできない。そうしますと、太陽が老年期に入った場合には、どれくらいに膨張することになりますか。
 木口 計算してみますと、現在の約百倍の半径七千万キロ以上になると思われます。もしかすると、現在の約二百倍に達するかもしれません。
 ―― それだけ大きくなると、地球にどんどん近づいてきて、壊滅的な影響がでてしまうことになりますね。
 木口 ええ、地球から太陽までの距離は、一億四千九百六十万キロですから、たいへんな影響をうけるでしょう。海は沸騰し、大気も蒸発してしまうにちがいありません。
 池田 太陽の体積は、地球の約百三十万倍だったですかね。
 木口 そのとおりです。
 池田 そうした巨大な物質が爆発する姿はいかにすさまじいか、想像に絶するといってよいでしょう。「法華経」に「世は皆牢固ならざること 水沫泡焔の如し」という経文があります。太陽も地球も、この摂理から外れることはない。不思議なものですね。
 ―― たとえ科学で計算できたとしても、もはやイメージもわいてこないでしょう。
 木口 ええ、ちょっと想像できませんね。
11  「銀河系宇宙の死」と戸田先生の洞察
 池田 戦後まもなくのころでしたが、戸田先生は、銀河系宇宙の壊滅の姿をよく話されていました。当時はまだ、あまりのスケールの大きさに実感もありませんでしたが……。
 木口 そうですか。どのように言われていましたか。
 池田 「太陽系は運行を中止するかもしれない。また邁進するかもしれない。ある恒星に向かって、他の恒星もまた同様であろう。あるいは運行を中止し、あるいは驀進する。かくして噴煙は宇宙を覆い、電光は宇宙に充満し、大熱は想像すべくもない。宇宙は一大混乱を呈する。分子は分解し、また構成する。このありさまは、壮観といおうか、荘厳というか、見る人なければ、ただ想像するにすぎん」という内容でした。
 ―― そのお話は、私も戸田先生の「論文集」に載っているのを拝見したことがあります。
 そうした銀河系宇宙の死を「小さな発見」と題されていたのを見て驚きました。
 木口 すごい洞察と思います。いつごろのお話ですか。
 池田 たしか、最初に聞いたのは昭和二十三年ごろでしょうか。
 木口 そうですか。たいへんな卓見だったと思いますね。当時は、科学の世界でも、こうした議論はなされていませんでした。専門家でも、そこまで推論することはできなかったと思います。
 池田 戸田先生は数学の天才でした。また、どんな学問でも三カ月あれば、大体のことはこなしてみせる、とよく笑いながら言われていました。
 事実、そういう方でした。まあ平たくいえば、万般にわたる大学者であった、と私は思っております。
 ―― 星の爆発現象は、とつぜん夜空の一角に起こるので、近年まで人々は、「新しい星」の誕生と間違えていたようですね。
 木口 ええ、肉眼で見えるほどの強い光で輝きだすので、「超新星」と名づけられています。
 ―― 星の死にいたる現象を、新しい星の誕生と錯覚したのは皮肉なことですね。
 木口 そうですね。超新星は、まもなく強い光を失い、やがて宇宙のなかに溶けこんでしまいます。しかし、そうした現象がなければ、新しい星の誕生はないわけです。
12  仏法で説いている「空」のとらえ方
 池田 まえにも申しましたが、星の「生」と「死」もすべて「生死流転の理」にかなっている。星の死によってもたらされた物質が、膨大な時間をかけてまた太陽のような星をつくりだす。
 つまり星の死は、次代の星の材料を提供することになるわけですね。
 木口 そのとおりです。電波望遠鏡や赤外線望遠鏡で見ますと、宇宙空間には、無数のきわめて小さな物質が遍満しています。それを形容して「極微」粒子と表現する科学者もおります。
 この物質が、また星となるのです。
 ―― ところで、宇宙ができたとき、これらの物質は存在したのですか。
 木口 いいえ、ありませんでした。銀河や星はもちろんのこと、物質そのものが存在しませんでした。
 ―― どこから生まれたのですか。
 木口 無から生まれた……。
 ―― この宇宙は空間であっても、決して「無」ではない。
 木口 ええ、すべてが消滅してゼロになったようにみえても、宇宙が進化し、条件が整えば物質が生成してくる空間です。
 つまり「無」ではないということが、量子力学の進歩によって解明されてきたのです。最近、陽子の崩壊について興味がもたれているのも、この関連によるのです。
 池田 たしかに「無」からは、なにも生まれてこない。
 ですから、不思議にも「空間」という言葉が使われていて、「無間」とはいわない。(笑い)
 ―― なるほど、そうですね。
 池田 この「空」という問題を、どうとらえるかを明かしたのが、仏法であることを知らねばならない。なにも存在しない「真空」と思われてきた宇宙が、じつは、物を生みだしていく生命空間であった。この発見は、二十世紀の科学が証明した偉大な成果ですね。
 木口 そのとおりです。これはイギリスの物理学者デラックが理論的に実証し、ノーベル賞を受けました。
 池田先生のおっしゃるとおり、今世紀最大の理論のひとつといえましょう。
 ―― このゼロとみられる空間から、物質が創成され、銀河が生まれ、しだいに巨大な星が生まれてくるという事実は、いわゆる仏法で説く「空」という概念に通じていくわけですね。
 池田 仏法で説く「空」も、“うつろな状態”とか、“無”とかいうことではない。
 簡単に言いますと、仏法では「一切皆空」とも説き、この「空」の状態から万物が生まれ、そしてまた、万物が滅していくととらえるわけです。ですから、ちょっとむずかしい言い方になりますが、「空」とは、「有無を超えた実在」ということになりましょうか。
 木口 なるほど。そのお話で、すぐ思い浮かびますのは、アインシュタインの解明した「場」の理論です。この理論は、やさしく言いますと、あらゆる空間には、必ず物を生みだしていくために働く物理法則があり、その法則が働くところを「場」としたわけです。
 ―― 次元は違いますが、宇宙を支配する「空」の法理の、一面をとらえている気がしますね。
 木口 私もそう思います。
 宇宙の深遠なる力へ迫るひとつの足がかりだと思います。
 そこで「有無を超えた実在」というお話をもう少しご説明いただけますか。
13  「空」とは無量の創造力を秘めた生命空間
 池田 そうですね。端的に申し上げると、「空」というのは、あらゆるものを生みだす可能性を秘めた空間である。それは縁に触れることによって、それなりの条件というか、なんらかの作用で、応じ、働き、新たなものが誕生してくるということです。
 ですから無量の潜在力、無限の創造力を秘めた“生命空間”ともいえる。
 ―― この「空」という概念は、東洋の仏法だけのものですね。
 池田 そうだと思います。西欧の思想、哲学はもとより、宗教のなかにもみられない。仏法独自の理念と思います。
 ところが、科学の進歩によって明らかになったさまざまの真理を裏づけるためには、どうしても西欧思想の範疇ではとらえきれないものがある。そこで、この仏法の「空」の理論を唯一のよりどころにせざるをえなかった。
 ―― それが戦後にわかにすぐれた科学者が、たとえばハイゼンベルクや、ボーア、アインシュタインなどが、仏教へ接近したことの背景になるわけですね。
 池田 そのとおりです。
 ―― そうしますと、たとえば私たちの身体が、死によって、この現実世界には存在しなくなる。この状態を「空」といってよいのでしょうか。
 池田 そういってよいでしょう。
 この「空」とは、一心一念という不可思議な実在をとらえた、仏法の深遠な哲理といえる。
 この「空」の背景には、八万法蔵という膨大な理論体系もありますが、原理としては「空」「仮」「中」の「三諦」として示されております。
 木口 なるほど、そうですか。
14  「空諦」「仮諦」「中諦」とは
 池田 そこで、仏法ではひとつのとらえ方として、人間があるいは万物が、この現実の世界にそれぞれの姿、形をもって存在しているのは、そうなるべき「因縁」によって仮に和合していると説いています。
 木口 因縁とは、原因ということですか。
 池田 そういってもよいでしょう。
 経釈には「親生を因となし、疎助を縁となす」とあります。
 結果を生むのに、直接関係するのが「因」(親生)であり、また、その因を助けるのが「縁」(疎助)ということになります。
 その仮に和合した姿を「仮諦」というのです。
 木口 「諦」とは、どういう意味でしょうか。
 池田 「真実にしてあきらか」、また「永遠不変の真理」という意義です。
 ですから大きくみれば「宇宙」、小さくみれば「生命」といったものの実体を、永遠の法則のうえから明確に見極めていく、という意義になりましょうか。
 ―― そうしますと「空諦」とは、どういうことでしょうか。
 池田 簡単に言うと、万法の性質、性分のことです。姿、形あるものには、すべて個としての性質がある。
 たとえば、どんな小さな素粒子でも、それぞれ特有の性質が当然ある。
 木口 そうです。あります。
 池田 この性質や性分をはらんで、因縁によって和合した「仮諦」は、永久にそのままの状態ではなく、必ずいつか滅していくわけです。
 しかし、たとえその姿、形を失ったとしても、「空諦」である性質、性分は、存在の属性として永久に残るという意味だと私は思います。
 木口 すると私たちの身体がなくなっても、「空諦」、すなわちその人の性分というか、生命の傾向性といったものの働きは、永続するということですか。
 池田 そう説かれております。
 ですから「空諦」には、二面性がある。
 仮諦としての「生」に働きかける場合と、「死」によって、宇宙に冥伏している場合とがあります。
 たとえば、生きる姿のときは、自分としての進歩がある。活力がある。無限に創造の力を発揮していく姿がある。
 ―― 死においては、見ることも、とらえることもできないと思いますが。
 池田 そうです。しかし、「空諦」には生命自体の永遠不変の核がそなわっている。
 つまり仏法で説く「我」という実体として、厳然と存在していくと説かれているわけです。
 ―― なるほど、深い哲理ですね。まさに“有無を超えた実在”ということが、私には少しわかる気がします。
 木口 まえに池田先生が「われわれの肉体が死んでも生命自体の境涯、つまり『我』というものは存在する」とお話しされた意味がよくわかります。
 ――それでは「中諦」とは、どういうことになりますか。
 池田 「中諦」とは、いま申し上げた永遠不変の生命の核とでもいいましょうか。「空諦」にも、「仮諦」にも、その本源には「中諦」としての「我」というものが常に実在している。
 この「我」を成り立たしめている根本というか、発動せしめゆく根源の当体を、大聖人は「中道一実の妙体」として、明快かつ具体的に説き明かされております。
 ―― そういえば木口さん、よく「核」といいますが、原子の「核」というのは、どうなっているのですか。われわれの肉眼では見ることができないのでしょうね。
 木口 ええ、見えません。
 ―― どんな色をしているのですか。(笑い)
 木口 核の運動によって異なりますが、波長がまったく違うので、人間の視覚ではとらえられない色です。
 紫外線より、もっと紫がかっていると思えばよいでしょう。
 ―― 大きさはどのくらいですか。
 木口 十兆分の一センチくらいの大きさです。重さも、たとえば陽子の場合、一兆かける一兆個集まって、やっと一・六グラムにすぎません。
 ―― われわれの身体は、そんな小さなものの集合体となっているわけですか。なるほど、不思議なものですね。
 木口 ところが、この目に見えない原子の核も、生成消滅を繰り返すことがわかっています。たとえば、不滅にみえる陽子でさえ崩壊するのです。
 ―― なるほど。
 木口 近代物理学の眼は、この核の生成消滅をつかさどる不変の法則性にと、向けられてきました。
 池田 なるほど。生命それ自体に不変の「核」としてそなわる「中諦」という実在も、こうした物理法則のうえからは鮮明に理解できますね。
 ―― 仏法には「業」ということもありますね。
 池田 これは因縁に含まれるもので、この点についても、簡単に申し上げますと、経釈に「果を招くを因となし、また名づけて業となす」とある。この「我」というのは、生死を無限に繰り返すうちに、一定の傾向性がつくられていきます。
 ―― 生命のクセというようなものでしょうか。
 池田 わかりやすく言えば、そうでしょう。それが「業」なのです。
 木口 よく「業が深い」というような場合の「業」でしょうか。
 池田 それは、業のもつ意味を、一般化させた言葉でしょう。
 「業」とは、過去世からの「宿業」と、現世につくりあげた「現業」とがあり、ともに来世にもたらされていく「果」の原因となる、といわれております。
 この「業」が冥伏している空間、すなわち「死」が「空諦」になるわけです。
 ―― そうしますと、「仮諦」である「生」、「空諦」である「死」は、この「中諦」である生命の「我」があらわす二つの不可思議な働きであるということになりますか。
 池田 ひとつは、そういえるでしょう。だが、この「三諦」が不可分と説かれたのが仏法の奥義なのです。
 ですから、生きている現在についても、色心不二の哲理からいえば、精神面が「空諦」、肉体面が「仮諦」、生命自体が「中諦」ともとらえられる。
 さらに「仮諦」としての生にも「三諦」があり、「空諦」としての死にも「三諦」がある。常住する生命自体の「中諦」にも「三諦」があるのです。
 そうした、それぞれの「三諦」が調和し、秩序ある姿をとっていることを、「円融の三諦」と説いております。これが法華経の極説中の極説となっております。
 さらに、大聖人は御文に、「此の円融の三諦は何物ぞ所謂南無妙法蓮華経是なり」と示され、「空仮中の三諦」が完璧に円満、円融することが、根本である。その実体は「南無妙法蓮華経」の一法なりと仰せなのです。
15  「無上宝聚不求自得」の意味
 木口 なるほど、仏法はどこまでも深遠ですね。
 池田 ですから仏法は、大なる宇宙、小なる宇宙のありのままの姿をとらえ、そして人間、社会のよりよき生成発展を遂げさせゆく万物万法の調和と秩序と、創造と蘇生への無限のエネルギーを示しているわけです。
 ―― なるほど。
 池田 この円融の三諦たる「南無妙法蓮華経」が、即、一幅の漫荼羅として顕されたのが三大秘法の御本尊です。
 この御本尊に唱題していくことは、この法義のうえからも、清浄にして円融円満の人格の完成に通ずる、ということがわかる気がします。
 その確かなる人間完成への英知と情熱は、常に人々の幸福を志向し、平和へと広がっていく。
 ―― 素晴らしいことですね。
 池田 “幸福”というものは、だれしもが願い、それを求めて行動している。だが「煩悩・業・苦」のわが身は、いかんともしがたく、自身の満足感の永遠性もない。
 木口 よくわかります。人生をまじめに思索していった場合、どうしても、そこにいきついてしまう……。
 池田 それが唱題の絶大なる力により、「法身・般若・解脱の三徳と転じて」、自身が幸せと思う方向へ、さらには人々のため、社会のために行動、貢献しゆく方向へと転じ、流れが変わっていく。
 木口 なるほど。
 池田 ですから、日蓮大聖人は「無上宝聚不求自得」とおっしゃっておられます。
 この万人が自身の境涯からは想像だにしない幸福境涯を得る。しかも心から納得するに足る、具体的実践方途を示されたところに仏法の精髄がある、と私は思っております。
16  宇宙法界へ通じる“祈り”
 木口 いつも思うのですが、仏法は深き哲理とともに、自己完成への明快なる方途を提示しておりますね。
 池田 そこで、よくこういう人がおります。
 信仰していても、貧しい人も病に臥せる人もいる。また社会に迷惑をかける人もまれにいるではないか、と。
 ―― そうですね。おりますね。
 池田 たしかに、そういう場合もある。
 だが、一言で信仰といっても、段階もある。その浅深厚薄もある。実践年月の長短もある。また弱き自己に敗れ、名聞名利のために途中で退する人もいる。
 さらに、さきほど申し上げたように、人には「業」もある。そのもつ宿業も個人個人によって千差万別である。
 仏法は道理である。一つの開花と結実への過程にあっては、その人の過去の因果の負いもつ姿というものは当然ある。
 ―― なるほど。
 池田 ゆえに教義の峻別もなく、冷静なる判断基準ももたずに、また多くの人々の信仰の実証も知ろうとせず、一会員の部分的姿をもって、すべてを推し量ってしまうのであれば、あまりにも皮相的な物の見方の人といわざるをえないのではないでしょうか。
 木口 まったく、そのとおりと思います。
 なにごとにおいても総合的かつ客観的判断が前提と思います。
 ―― 信仰がなくとも、立派で幸せな人も多くいると思いますが。
 池田 人間というものは不確実な存在である。いくら自分は、いま幸せであるといっても、“有為転変”は世の常ではないでしょうか。
 また絶えざる向上心、進歩への努力こそ、人間としての証といえるでしょう。
 そこにやはり、人は確固たる指標というか、よってたつ“法”を求めゆく姿勢がなければならない。
 木口 そう思います。そうでないと“空”の人生になってしまう。(笑い)
 ―― 私たちが、ふつう「空」という文字を見たとき、言葉どおりなにもない、と解釈しますが、仏法のお話をうかがいますと、なにもないどころか、すべてを生み出す母体のような意味があるのですね。
 池田 そうです。万物や万象が消滅したとしても、すべてがなくなったわけではない。それを成り立たせていた中核の力、つまり「我」が、そのまま「空」に溶け込んでいるのです。
 木口 日ごろ、われわれがなにげなく使っているテレビやラジオの電波にも、こうした「空」の性質がみられます。
 ―― 電波というのも不思議なものですね。この部屋にも目に見えないが、世界中で発信されたラジオやテレビの電波が充満している。(笑い)
 池田 それも短波、中波、長波、超短波とか、ありとあらゆる電波が交差しながらですね。しかも受信機の波長を合わせれば、その波長の電波がきちんとキャッチされ、音となり画像となって再生される。
 じつに、おもしろいものですね。
 木口 電波は空間のもつ働きによるものです。空間というものはなにもなく、なんの働きもないようにみえる。
 しかし実際は、たいへんな運動を繰り返しているのです。ラジオやテレビは、少々むずかし言い方になりますが、物理学者がゲージ(目盛り)と呼んでいる、空間の運動が電気を起こす性質を利用したものです。
 ―― なるほど。
 木口 ですから、こうした事象からも、仏法で説く「空」ということが、私にはよくわかります。
 池田 アメリカのケープケネディから発信した電波も、月面に着陸したアポロ宇宙船にまで届く、さらに宇宙のはるかかなたへと飛んでいく。
 もったいない譬えですが、宇宙の根源法たる御本尊に唱題するその祈りは、電波のごとく、宇宙法界へと通じていく。
 ですから、一念三千という法理もわかるような気がしますね。
 ―― ところで、一九八二年暮れから八三年初頭にかけて野辺山の宇宙電波観測所の望遠鏡で、オリオン座の空間に、星が生まれつつあることが観測されましたね。
 木口 ええ、宇宙的な時間のスケールでの話ですが、いままでなにもなかったところに、いつのまにかガスが流れ込み、さらに回転円盤ができていることが発見されました。つまり、星の卵です。
 池田 宇宙の大空間のなかに、目に見えない塵が、生成発展して星をつくり、そして消滅していく。「空」「仮」「中」の三諦の法理も、無量無辺の宇宙空間を対象とすると、いっそう明快に理解できますね。
 ―― まったく、そのとおりだと思います。

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