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日蓮大聖人・池田大作

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第十章 太陽の誕生、人生と宇…  

「宇宙と仏法を語る」(池田大作全集第10巻)

前後
2  太陽の運行と元旦の意味
 ―― 話は変わりますが、一年の始まりであるお正月ということも、宇宙と関係あるようですが、木口さん、どうでしょうか。
 木口 お正月ということも、昔から天体の運行によって、人々が定めてきたわけです。国や民族によって、その新年を祝う習わしは、さまざまであったようです。
 池田 そうですね。なにかで読んだものの、うろおぼえですが、古代のエジプトでは、「秋分」が一年の始まりになっていた。ユダヤやバビロニアでは「春分」であった。そしてギリシャでは、「冬至」のときを一年の生活の始まりと定めていたようです。
 木口 日本では一月一日、元旦ですね。
 ―― ともかく、新年の時期がそれぞれの国によって、まったく違っていたのもおもしろいですね。
 日本ではこの日の朝を、とくに「元旦」と呼んできておりますね。
 木口 元旦というのは、池田先生、どういう意義でしょうか。
 池田 そうですね……。
 「元」とは、物事の始めという意義でしょう。「旦」とは、太陽が地平線にあらわれ出たことをさしているようです。
 ―― 年賀状に「元旦」と書く習慣も、この「初日の出」を愛でる意義があったようですね。
 池田 この「元」という文字も、「旦」という文字も、ともに古代中国から使われてきたといわれています。
 ―― そのとおりの記録がありますね。
 池田 当然、中国においても、日本においても、当初から太陽の運行と、その民族の生活とかが、密接な関連性があったことだけは事実でしょう。
 木口 たしかに、古代中国の農耕民族には、初日の出を祝うという習慣があったようですね。
 池田 ですから、人間の自然感情というものは、毎日の生活をしていくうえでなにか、新鮮味を与える意味で、ひとつの節目というものをさぐっていった、ということも考えられますね。
 ―― たしかにそうですね。なにかひとつの区切りがないと、人間は惰性になったり、心が沈殿してしまうことがありますね。
 池田 そこで新しい生への喜び、新しい感謝を見いだそうとしたときに、どうしても、雄大なる大宇宙の運行へと、目を向けざるをえなかったと思われる。そのひとつが新年の祝いという、古来からの形態になったのではないでしょうか。
 ―― そのとおりだと思います。
 自分なんかはお正月というと、すぐに楽しかった子供のころを思い出す……。また、故郷の北海道のことが、懐かしく目に浮かんできます。(笑い)
 木口 私の友人なんかも、日ごろ星や月を相手に盆も暮れもないと言いながら、お正月となると居ずまいを正し、和服など着てニコニコしている。(笑い)
 ―― 最近はまあ、テレビの影響が大きくなり、情報や流行を追っているようでありながら、同時に、心の奥では、古きよき伝統を大切にしようとする傾向があることも事実ですね。
 木口 それは、たいへんによいことだと思います。古きよき伝統を、ますます大事にしていくことを期待しますね。
 池田 人間は時代感覚だけでは満足しない。流行や情報だけでも満足できない。なにかしら永遠性なるもの、これを永遠感覚とでもいいましょうか、心の安らぎ、充実感、所願満足というようなものを、究極的には欲するものではないでしょうか。
 ―― 刹那的なものは、むなしく淡い。
 木口 そこに、知性の延長があると思います。軽薄なものに対しては、私はやはり、反発せざるをえませんね。(笑い)
 ―― お正月になると、いつもは神社や仏閣に行ったことのない人が、急に信仰ぶかくなって(笑い)、初詣に行きますね。(笑い)
 これなんかも一種の流行で、伝統を重んじているようで実際は、大きな違いがあるような気がしますね。
 木口 ところで池田先生は、どのようにお正月を過ごされるのですか。
 池田 そうですね。
 私の場合、お正月は大晦日に終わってしまうようなもので……。(笑い)
 わが家の伝統として、元旦の午前零時には、家族全員が集まります。そして五座の勤行をいたします。
 それが終わって、御造酒を私が家族全員についであげ、おせち料理を少しずついただきます。
 元旦の朝食は、原則としてライスカレーです(笑い)。この日から、私の一年間の法戦が開始されるわけですから。
 木口 ああ、そうですか。初めてうかがいました。(笑い)
 池田 一月二日は私の誕生日です。お正月ですから、日本中の人が祝ってくれていると思っています。(笑い)
 そして元旦から大勢の人に学会本部でお会いします。お正月は、一年中で、いちばん忙しいときかもしれませんね。(笑い)
 そこで私は、毎日を元旦のような気持ちで出発していくことをモットーとしております。
 木口 なるほど。昔の中国にも「日に日に新たなり」という格言がありましたね。
 ―― 「昭和」の年号も今年で五十九年目、日本の歴史のなかで、最も長かった明治が四十五年ですから、最長記録を更新していますね。
 木口 「昭和」生まれが、人口の三分の二を占めたと聞いています。「昭和」という年号は、どうしてできたのでしょうか。
 ―― 昔は、いろいろな決め方があったようですが、「昭和」の年号は、時の内閣の諮問委員会で決まったそうですね。
 池田 年号とは、「号」が名という意味ですから、時代の名前のことです。
 「昭和」という名称は、中国の『書経』という歴史書にある、「百姓昭明にして万邦を協和す」という訓言から、とったもののようです。
 木口 そうですか。日ごろ、あまり年号のことなど考えたことはありませんが、どのような意味になるのですか。
 池田 そうですね。
 「昭」という文字の語源は、日を召すという組み合わせで、太陽が弧を描きながら万物に光を届かせる、といわれる。また、いまの文章のまえには、「俊徳を明らかにして」とある。
 これは「百姓」、つまりすべての人々が、それぞれの徳分を発揮し、太陽のごとく自己を輝かせることになれば、それがもととなり、「万邦」すなわち世界中の国々と、仲良く「協和」させゆくことができる、というような意味でしょうか。
 木口 なるほど。
 ―― だれが案を出したのか知りませんが、「昭和」の時代も戦前は、そうした意味とはほど遠い時代でした。
 木口 そうですね。最近は改元についての議論もあるようです。「名は体をあらわす」といいますが、昭和の後半の時代はのちのち、その名のごとく後世の人々からほめられるようにしたいものですね。
 ―― ところで、いまなお受け継がれている年賀の風習が数々みられます。それぞれ長い伝統と、いわれがあるのでしょうね。
 木口 地方に行くと、初めて目にするようなお正月の風習に出合って、驚くことがあります。
 池田 そうですか。私は東京生まれの東京育ちですから、あまり、他の地方の正月風景は知らないのですが、なにかあったら教えてください。
 木口 私の住む大阪では、昔は門松を立てなかったそうです。
 池田 門松を立てる習慣は、宮中にもないそうだから、昔から伝えられてきた古い伝統とはいえないようですね。
 ―― 門松は明治のころ、「松竹たてて門ごとに祝う今日こそ楽しけれ」という文部省唱歌が流行し、それから全国に普及したという説もあります。
3  大空よりも大きく偉大な人間の心
 木口 年賀状はどうですか。
 池田 そうですね。年始まわりの伝統をふまえたものですが、明治の中ごろから郵便が発達し、名刺を封筒に入れて送るということが流行った。それが今日の年賀状に変化して、定着していったようです。
 ―― 年賀状といえば、現代人が毛筆で文字を書く、年に唯一の機会になりましたね。
 木口 ええ、なかなか会えない友人などから、墨書きの賀状が届くのはうれしいものです。
 私はペンでしか書きませんが。(笑い)
 ―― ところで、こうして名誉会長のところへうかがうたびに、揮毫されている姿をよくお見うけしますが。
 池田 いやいや、どうも(笑い)。私は書道も書法も、まったくの素人です。知人の強い要望で書きますが、書き終わってから、いつも「また後世に恥を残してしまった」と言うのです(笑い)。ただ喜んでくだされば、ただ励ましになれば、という気持ちだけです。
 木口 なるほど。池田先生の真心なのですね。
 ―― 書の専門家は、何千字書いても耐えられるように、手の筋肉を訓練する。それには、半生はかかるそうです。
 また力強く、平らに動かす力を養うのは、一生の課題と聞いたことがあります。
 木口 なるほど。
 ―― 名誉会長は善き詞を善き文字で、心を込めて書かれていますね。まるで生命の息吹を記されているような気がします。連日の激務のなかのことですから、たいへんでしょうね。
 池田 いやいや、私は自分のできるせめてものことをと思っております。ただ、いささか筆をとっておりますと、いろいろなことがわかってきます。
 ―― どのようなことでしょうか。
 池田 たとえば、晴れた日は筆のはしりがよいような気がします。
 ところが雨の日は、なかなかそうはいかない。天候の状況や、一念の状態が字を左右してしまうようです。
 ―― 微妙な影響があるわけですね。なかなかむずかしいことのようですが、表彰状や感謝状などは、やはり墨でないと、もらっても感じがでませんね。(笑い)
 木口 よく、「字は人となりを表す」といいますね。上手、下手ではなく、その人の真心や人格がにじみ出ているものは、親しみを感じますね。
 池田 私も下手だから言うのではありませんが、木口さんと同じ意見なんですよ。(笑い)
 ―― 「書」も芸術ですね。「彫刻には独創はいらない、生命がいる」と言ったのは、有名なフランスの彫刻家ロダンですが、芸術の極致には相通じるものがあるようです。
 池田 仏法の経釈にも「善画は像を写すに真に逼り、骨法・精霊の生気・飛動するが如し」(「三重秘伝抄」)とあります。
 善き画というものは対象の姿、形だけではなく、作者が感じとった心性までもが、あたかも生きているかのごとく、白いキャンバスに描きだされているという意味でしょうか。
 木口 画にしろ、書にしろ、また音楽にしても、天才といわれる人のものは、作品自体に人生観、世界観、宇宙観まで表現されるといわれていますね。
 ―― 先日、新聞やテレビでも評判になった、東京富士美術館の「近世フランス絵画展」をのぞいてきました。
 ドラクロワの「ミソロンギの廃墟にたつギリシャ」などは、まさに名画の名をほしいままにするような作品でした。
 まあ、溜息ばかりで、圧倒されましたね。(笑い)
 池田 素晴らしいという表現しかない絵ですね。
 たしかに見る者をして、そこまで感じさせうる作品というのは、至高の美であり、芸術の極致といえるでしょう。
 一つの分野を究めていった人の、研ぎすまされた心の眼は、ありとあらゆる対象を自身の内面に包みこんでしまう。
 そして、思うがまま大胆に描きだしていく。
 木口 なるほど。大空よりも大海よりも大きく偉大なものは、人間の心ですね。
 ―― 私の好きな詩人であるイギリスのウイリアム・ブレイクに、
 「ひとつぶの砂にも世界を
 いちりんの野の花にも天国を見
 きみのたなごころに無限を
 そしてひとときのうちに永遠をとらえる」(『ブレイク詩集』寿岳文章訳、彌生書房刊)
 という、深い叙情をこめた詩があります。
 最近いたるところで、ブレイク再評価の声を耳にしますが……。
 池田 ああ、この詩は有名ですね。彼の名を不朽のものにした作品でしたね。
 フランスの哲学者、あのベルクソンも、二十世紀最大の科学者アインシュタインらも、この人間と宇宙のかかわりあいということで、いまの詩に注目していたといわれている。
 木口 そうですか。おっしゃるとおり、短い詩でありながら、ひとつの宇宙論になっていると思います。
 池田 ブレイクは「個」のなかに、宇宙万法に広がるものを感じとっていたのでしょうか。これはひとつの「生命の詩」といえるかもしれない。
 ―― 「個」と「全体」、「我」と「宇宙」のかかわりというものを、強く感じますね。
 池田 本当にそう思います。
 何回も申し上げますが、仏法は「我」すなわち内なる宇宙と、外なる宇宙との関連性を明快に説いた法則といえるでしょう。
 御書にも、「所詮・万法は己心に収まりて一塵もかけず九山・八海も我が身に備わりて日月・衆星も己心にあり」(「蒙古使御書」)とまで仰せられている。
 木口 なるほど。すごいことですね。人間の一念というものが、これほどまでに全宇宙への広がりをもつことを聞くたびに、学ぶたびに私は眼が開かれ、心が開かれていく気がしてなりません。
4  太陽、地球のもとの姿はガスやチリ
 池田 ところで木口さんは、週何日ぐらい大学で講義しているのですか。
 木口 三日です。
 ―― あとは、自分の研究ですか。
 木口 ええ、京都大学に行って、仲間と研究しています。
 池田 いま、何を研究しているのですか。
 木口 われわれの太陽系のもととなったガスがどんなものであったか、調べています。私どもの専門用語では「重力平衡問題」といいます。
 ―― なかなかむずかしそうですね。(笑い)具体的には、どういうことですか。
 木口 太陽系が誕生するまでには、次のような現象があることがわかっています。
 大まかにお話ししますと、宇宙空間のガスやチリは、常に激しく運動しています。それは、すさまじいスピードで、ある中心を軸として回転しながら、周りのガスやチリをしだいに集めていきます。
 そして、何十億年という時間を経ると、レコード盤のような回転する巨大な円盤の雲となります。これが太陽系のもとの姿です。
 ―― 円盤ですか。
 木口 そのとおりです。その円盤の中心部分は、重力の働きで収縮し、約一千万年から二千万年の間に、いまの太陽の大きさぐらいの密度の濃いガス雲になります。
 これは、「太陽の卵」みたいなものです。(笑い)
 ―― なるほど。(笑い)
 木口 それと、この「太陽の卵」を中心として回転しているガスの雲のなかにも、いくつかの収縮したかたまりができます。これが、いまの地球や惑星のもとです。
 ―― なるほど。すると、これも現在の太陽系と同じように、「太陽の卵」を中心に回っていたのですか。本当に不思議に思います。
 木口 私の研究は、この太陽系のもととなった円盤の雲が、どういうふうに現在の太陽や地球にまでなっていったかを、コンピューターで計算することです。
 池田 いや、それはじつにおもしろい研究ですね。宇宙空間にはいたるところに、ガス(星間ガス)やチリ(星間物質)がありますが、これが星の誕生のもととなったわけですか。われわれの肉眼では見えないんでしょうね。
 木口 ええ、暗黒星雲として見える場合もありますが、一般にはそのとおりです。太陽系のもとになった、目に見えないガスやチリは、太陽系ができる、はるか昔に寿命がつきた星が爆発し、まき散らした膨大なエネルギーの残骸です。
 池田 宇宙空間というのは、なにもないように見えますが、なかなか複雑なものなんですね。
 われわれの身体のなかにも、目には見えないが、さまざまな細菌がいる。宇宙空間のなかにも物質がある。目に見えない世界というものの研究も、またおもしろいし重要ですね。
 木口 そうです。さきほど申し上げましたように、その目に見えない粒子がぶつかりあい、触発され、非常に長い時間をかけて、固まりながら「太陽の卵」のようなものができてくるわけです。
5  惑星誕生の過程
 ―― なるほど。
 木口 理論天文学のおもしろさは、こうしただれも体験も実感もしえない、何十億年という、長い長い年月の天体の変化を、計算によって一目瞭然にみてとれることです。
 ―― なるほど。
 木口 また惑星のもととなるガス塊のほうは、いったん安定した形状をとります。その内部で、さらにチリが沈殿し、互いに低い速度で衝突し、くっつきあいます。五千年ぐらい経つと、こんどは、チリをいっぱい含んだガスの厚みのうすい円盤をつくります。
 池田 原始の太陽だけでなく、いまの惑星にもレコード盤のようなガス塊の時代があったわけですか。おもしろいものですね。
 木口 ええ、このガス塊は、一年間ぐらいでつぶれて小石になることがわかっています。これは、ガス塊の進化の時間スケールからいうと、瞬時といってよい長さです。
 その後、小石のような物質が集まって、半径十キロぐらいの固体の塊を、ゆっくり、ゆっくりつくります。
 ―― 惑星の卵ですね。(笑い)
 木口 そのとおりです。この小さな塊のようなものが、いまの地球のような天体にまでなった、といわれております。
 ―― いま、初めにできた円盤は一年ぐらいでつぶれるというお話でしたが、何千万年、何十億年という遠大なスケールのお話のなかで、なぜ一年間というような小さな単位がわかるのですか。
 木口 そこがまえにお話のでました林説のヤマなのです。数年前それがわかったとき、林忠四郎先生は、その計算した結果を、喜々として研究室員に語っておられました。
 ―― なるほど。そうですか。
 木口 ここで計算方法をお話しすると、この章ぜんぶを、その説明に費やしてしまいますので、残念ながら、略させていただきますが(笑い)、間違いなく一年という単位が出てくるのです。
 池田 いま何度かお話にでた、ガスやチリが集まって、互いに固まっていくのは、小さな塊自体に湿気があるからだと聞いたことがありますが。
 木口 ええ、そういってもよいと思います。しかし、チリのような物質がくっつきあい、大きくなっていく原因は、まことに不思議で、長らく解明されていません。
 たぶん、水の凝集力と同じように、水素が大きな役割を果たしているのでしょう。化学の問題として非常に重要なのですが、すべては、これからの問題です。
 ―― 直観的には、湿気の効果といっていいわけですね。
 木口 はい、そう考えるのが、いちばんいいと思います。
 ―― 考えてみると、星も人間も、構成しているもとの成分は同じであり、人間の体も溶液状になっています。
 仏法では、万物が「四大」(地・水・火・風)の調和によって形づくられているというお話がありましたが。
 池田 そうです。すべてのものを創造形成なさしめている「四大」のなかで、「水大」について「水大は湿を自性とし、摂を作用とする」と経釈にはあります。
 つまり、「水大」とは湿気を本性とし、ものを摂め、集めるという働きをもっている、と説かれているわけです。
 木口 なるほど。いつも仏法は、先見性を示しておりますね。
6  銀河系に第二の太陽系の存在を確認
 ―― ところで木口さん、赤外線望遠鏡というのは、どういうものですか。
 木口 一言で言いますと、赤外線は温度の低い物質から出ており、しかも透過性が強いので、ふつうの光学望遠鏡に比べ、はるか遠方や暗い場所の物体をとらえることができます。この原理の応用によって、これまでに比べ、はるかによく宇宙空間の物体が観測できるようになったわけです。
 池田 そういえば、昨日の「読売新聞」(一九八三年十一月十日付夕刊)に「赤外線天文衛星が観測」という記事がありましたね。
 ―― たしか、零下二百二十度以下の超低温天体や太陽系のチリの帯などが発見された、ということが出ていましたね。
 木口 この衛星は、今年(一九八三年)の一月に打ち上げられたものです。
 池田 とくに私がうれしかったのは、この銀河系宇宙に、第二の太陽系の存在が正式に確認されたことです。
 ―― この太陽系は、以前にも取り上げましたが、その時点では、「こと座」の主星ベガの周辺で発見された、という第一報の段階でした。
 木口 今回の発表は、アメリカ、イギリス、オランダ三国の科学者十三名の共同研究で確認されたものですから、確実なものといえるでしょう。
 ―― これまで論じてきていただいたことの、一つの証明といってよいと思います。
 そこで、このガスの塊ですが、星になるまでには、さらにどういう過程を経るのですか。
 木口 最も重要な条件は、小さな粒子やガスが、動きに動いて、重力エネルギーを熱エネルギーに変え、そして熱を保持することです。
 この熱エネルギーが、ガス塊にうまくバランスをとらせます。
 池田 なるほど。エネルギーの発動やその熱が重要な役割を果たすわけですね。
 木口 ええ、熱が全体をくまなく暖めることにより、初めて星が順調に形づくられていきます。このときの、ガス塊のなかの分子の動きはたいへんに重要です。その量や動き方によって、星の形や配置が大きく影響をうけます。
 木星は、昔、太陽と同じようなガス塊でした。ところが、この分子の動きの違いにより、太陽は輝き、木星は輝きださなかったという説もあるほどです。
7  宇宙の諸現象と仏法の法理
 池田 さきほどと同じ経釈に、「火大は煖(熱さ)を自性とし、熟(ものを成熟させる)を作用とする」と説かれています。
 ―― なるほど。
 池田 ですから、宇宙における諸現象は、仏法で説く法理に包摂されていく、ということが、私はよくわかるような気がします。この温度やエネルギーの働きは、四大のなかの「火大」ということになると思いますね。
 木口 なるほど……。
 そこで熱のバランスですが、中心の分子の活動が鈍く、光を閉じこめておくことができなければ、温度が上がらず、圧力も上がらないので、成長が止まり、星ができなくなります。
 池田 中心のエネルギーが大事である。中心の指導者の偉大なエネルギーが、すべてを生み出していくという原理になる。(笑い)
 指導者が独断的、感情的、ひとりよがりでは、これまた全体の調和がとれない。
 その法則からみると、逆に中心の分子の活動が過激で、温度が高くなりすぎても、これまた星の成長に結びつかないでしょうね。
 木口 そうですね。そうなりますね。このあたりの事情は、二十世紀初頭の大天文学者ジーンズの、美しい数学理論によって詳しく調べられています。
 ―― 宇宙は、絶妙ですね。
 エネルギーや温度のバランスとかが、どれほど重要な役割を示すか……。
 池田 妙法という「中道一実」の法理に従順してこそ、調和という原理、原則が展開されゆくという論理が、この現象からもうかがい知ることができるような気がしますね。
 ―― 人間は、だれびとたりとも未完成である。やはり、「大法」というものを中心にしていく理由がよくわかりますね。
 池田 話はちょっとまえに戻りますが、仏法では人間が誕生してから、その生命を維持する重要な要素としても「火大」、すなわち「温度」というものを挙げている。ゆえに「命根」(生命)は「識」(意識)と「煖」(体温)を維持し、また、「識」と「煖」は「命根」を維持する、と経釈にあります。
 ―― 体温のバランスが「命根」を維持する、というのはよくわかります。意識が低下し、体温が下がっていくと、「死」という状態に入りますからね。「火大」もまた、あらゆるものに通ずる要素といえますね。
 木口 たしかに仏法の四大の原理は、すべての規範となります。
8  太陽の誕生、それは一瞬のドラマ
 ―― ところで、生まれたばかりの星を原始星というようですが、まだ、星としてのさまざまな条件が安定してないわけですか。
 木口 そうです。活動状態が未熟ですから、光も落ち着きがなく、地球から見ていると激しく明滅します。みかけ上の形にしても、四角い星やとがった星など不思議なものがたくさんあります。
 ―― 中心がようやく固まっても、周囲の取り残されたガス雲などに影響され、しばらくは環境に紛動されているわけですね。(笑い)
 池田 人間も同じことです。周囲に紛動されているうちは“原始人間”。(笑い)
 ですから、教育も大事である。人格の形成も大事である。また、健康も大事である。
 さらに、確固たる主体性をもった自分をつくることが大事になってくるわけです。そして時代とともに、社会に大いなる貢献をしゆくところに、人間としての証があるといえるでしょう。
 木口 そう思います。原始星も、そうした段階から脱するために、星なりに相当の努力をみせます。
 星の芯にあたる部分で、自分の重力によって圧縮され、重力エネルギーが熱エネルギーに転換し、温度が一千万度まで上昇します。
 そこまでいくと、やっと水素による核融合反応が始まるわけです。
 ―― この反応によってできるエネルギーは、莫大なものといわれていますね。
 木口 ええ、たった一グラムの水素で、約二十トンの石炭が燃えたのと同じエネルギーが出ます。
 このエネルギーが、外向きの圧力として働きますから、星自体の重力による内向きの落下の力とのバランスがとれるようになります。
 そうなって、初めて収縮が止まり、安定した星として、美しく輝き始めていくわけです。
 池田 大宇宙の法則も、キチンと正確に、その動き自体を、すべて計算できると考えられるわけですね。
 木口 まったく、そのとおりです。計算できるのです。
 池田 星の分子も、勝手に動き回っているように見えても、じつはそうではないと思う。
 リズム正しく、それぞれが固まっては散り、それを繰り返しながら、しだいに共生の姿を広げていくように思いますね。
 木口 ええ、そのとおりです。
 池田 思うに、無数の星の誕生という、壮大かつ華麗なドラマというものは、すべてが見事に、「南無妙法蓮華経」の法理を映し出しているようです。
 木口 本当に不思議なものです。
 ―― われわれの地球や太陽も、こうして億単位という想像もつかないような時間を経て、やっとできあがったわけですね。
 木口 まったく、そのとおりです。そうした膨大な運動の果てに、星は一瞬にして、その姿をあらわします。
 たとえば、太陽は真っ暗闇のなかから、とつぜん現在の明るさの一千倍の光を放ち、輝きだします。
 驚くべきことに、何十億年という太陽の生成運動は、たった一日の輝きだしで結実するのです。
 池田 長い長い運動の繰り返しが、最後に、一瞬の出来事ともいえる大変革をもたらした、と考えられますね。有情、非情の次元は別として、この論理から、われわれにはまったく関係ありませんが、いわゆる通途の仏法で説く「八相作仏」もわかるような気がします。
 また、日蓮大聖人の仏法の、日々の仏道修行による一生成仏の方軌も、わかるような気もしますね。
 ―― 信仰のドラマも、人生のドラマも、また宇宙の壮大なドラマも、みな素晴らしい。(笑い)
 池田 これらの天体の運行からみて、人生も、生きて生きて、生き抜いていくことが道理でしょうね。
 そこに、なんらかの結果というものが生ずることも、また事実です。
 なにもしない人生では、ある日とつぜん、なにかが得られることはない(笑い)。苦しみ、悩み、動き、働く、その人生の延長に、初めて一小宇宙である自身の完成もある。これこそ、調和と満足と充実とが存在するドラマとなるわけでしょう。
 ―― そういうことですね。大宇宙も、また一個の小宇宙も、道理は同じはずですからね。
 池田 少々、深い次元の論議になりますが、仏法の修行の目的は成仏です。いわゆる仏のような大境界、というのでしょうか。凡智では、おしはかることはできませんが……。
 この成仏も、仏説のごとく勇敢に行動、実践し、絶えまなく思索しゆく延長として、見事な開花と結実があるのです。
 成仏のない仏法や信仰であったなら、仏道修行になんの意味もなくなってしまうでしょう。
 木口 たいへんに示唆をうけます。太陽の輝きは、重力のエネルギーが熱エネルギーへと、転換するためのショックによって生じます。
 ―― なるほど。
9  偉大な発見は深い思索と実践から
 木口 そういえば、湯川秀樹博士の素粒子発見にまつわるおもしろい話があります。当時、博士は寝てもさめても素粒子のことを考えつづけ、研究に明け暮れていました。
 ところが、偉大な発見は、突如として訪れたと聞いています。
 ―― そうですね。
 この話は有名です。私も湯川博士からうかがったことがあります。
 まあ、これは学問上のことですが、さきほどの名誉会長のお話のように、思索と行動の結実として、博士もひとつの真理の開花を瞬間的になされたわけですかね。
 木口 そう思います。
 池田 仏法者としては、勤行と世界への布教という、なみなみならぬ実践修行となりましょうか。信・行・学という信仰基盤、骨髄がたしかに大事となってくる。
 ―― 漠然として生きているときは、明快なる到達点が定まらない。ゆえに爆発的なひとつのものがえられない。
 木口 その道、その道に徹しゆく、ひとつの姿勢と実践とが大切ですね。
 池田 真っ暗闇の天空に、太陽が突如、すさまじいばかりの光線を放ちゆく瞬間というものは、なにか王様が出現し、慈悲の光を放ちゆくような感じさえしますね。(笑い)
 そこで木口さん、有名な「浮力の原理」を発見したギリシャの哲学者アルキメデスにも、たしか同じような話があったと思いますが。
 木口 ええ、おもしろい話があります。
 あるとき彼は、ギリシャのヒエロンという王から、王冠が純金かどうか調べるよう命じられるわけです。彼は思索に思索を重ねるが、なかなかうまい方法がみつからない。そんなある日、入浴中に自分の体が軽く感じられるのに、とつぜんヒントをえたというのです。
 ―― 彼が発見したこの「浮力の原理」から王冠の比重を知り、銀が混ぜられているのを見破ったという話でしたね。
 木口 ええ、そうです。彼はそのまま裸で、風呂から飛び出して、外へ走っていった。(笑い)
 ―― たしかにアルキメデスにかぎらず、世に天才といわれる人は、凡人が聞きのがし、見のがしてしまうような事柄からでも、重大な示唆をくみとってきたようですね。これは、どういう心理状態なのでしょうか。
 池田 その質問の答えに、あてはまるかどうかわかりませんが、「天才とは、努力の異名なり」という言葉が有名ですね。
 天才といわれる人の「ひらめき」は、表面的には、ある日、突然のことのようにみえる。
 だがその真理への直覚というものは、偶然のものではないと思う。
 それは常日ごろからの、深い思索の持続の結果であったことを見のがしてはならないでしょう。
 ―― たしかにそうでしょうね。
 われわれ凡人は、いつも結果だけを夢み、結果だけを早く得ようとして、それに相応するだけの深い思索と努力が、あまりにもなさすぎますね。(笑い)
 池田 真実の人間の生き方を求めゆく人というものは、常に新しき真理を見いだそうと、努力していく傾向が強い。
 ―― 好奇心とでもいうのでしょうか。たしかに、過去の歴史を振り返ってみても、すべてにわたりそうですね。
 池田 長い歴史をみても、新しい真理へと挑戦し、そこに新しい創造の価値をもたらすものを発見しえたとき、その喜びは、そのまま人類にとっての最高の喜びへとなってきたのではないでしょうか。
 ゆえに私どもは、大なる真理、小なる真理に向かって、感情や偏見を捨てて、真摯な姿勢で、それぞれのものを見つめていこうとする、心の広々とした、また心の深い人生を歩んでいかねばならない、と私は常々思っています。
 ―― それこそ真の時代の進歩であり、人間の進歩といえますね。
 現代人は、往々にして、身近な物や財に目がくらみすぎている。その点からいえば、不幸な時代です。
10  「雪山童子」の説話が示唆すること
 ―― そういえばこのまえ、松タケの人工栽培の方法を発見して、たいへんに有名になった人がおもしろいことを言っていました。
 木口 食卓に関係することですので、ご婦人方の間でも話題になりましたね。(笑い)
 ―― その人は十六年間かかって、やっと発見することができたのですが、「方法がわかってしまったいまとなって思えば、なぜ、あんなに長い歳月を費やしてしまったのか、わからない」と述懐しています。
 池田 なるほど。そういうものかもしれませんね。
 ですから、「開悟」や「覚知」のようなものは、いまだそれがわからない人にとってみれば、まったく信じられないような世界といえるでしょう。
 だがひとたび、それがわかってしまった人には、これほど明快であり、自明の理はないと思える……。
 ―― いわば、高い山の頂上を極めた醍醐味は、登りきった人でなければわからない。山の麓にいる人は、ただ高いから危険だとか(笑い)、あれこれ詮索するようなものでしょうか。
 池田 まあ、人生の醍醐味というのも、ひとつは、こういうところにあるのかもしれない。
 いわゆる、仏法が究めつくしたもののひとつは、これまた人生において最も根本となるべき、壮大にして調和のとれた、素晴らしく偉大な生命の境界といっていいでしょう。
 多くの人々は思索と実践なくして、ただそれを偏見や感情によってみていたり、批判しておりますが、この永遠にして、くめどもつきぬ醍醐味というものは、それでは少しもわからないわけです。
 木口 なるほど。いつも感じるのですが、仏法というものは原因と結果という因果律を厳格にふまえているのですね。
 ―― そういえば、仏法の「思索と実践」ということについて、「涅槃経」に出てくる有名な「雪山童子」の話がありますが……。
 池田 ええ、これはインド応誕の釈尊が過去世において、バラモンの姿で菩薩の修行をしていたときの話です。
 この話を簡単に申し上げると、童子の思惟すること無量歳と説かれている。あるとき羅刹(帝釈天が鬼に化身)があらわれ、仏の説いた偈のうち「諸行無常・是生滅法」という、半偈だけを教える。すると童子は大いに喜び、ぜひとも残りの半偈を聞かせてほしい、と願求した。
 ―― ところが羅刹は、自分はいま飢えているので、童子の身を食べさせるなら聞かせてもよい、と言ったわけですね。
 池田 そうです。そこで童子は、自分の身体を食べさせる約束をする。そして、残りの「生滅滅已・寂滅為楽」という半偈を聞き終わると、即座にその偈をあちこちに書きつけ、自ら高い樹から身を投げた。
 すると怖い顔をしていた羅刹は、パッと帝釈天の姿に戻り、童子の身体を空中で受け止め、その不惜身命の立派な求道求法の姿をほめ、未来への成仏の記別を与え、去ったという話です。
 木口 尊いお話です。つまり修行の積み重ねと、求道心から得た大境地といえますね。
 池田 ゆえに古来、仏法は観念ではない。
 いくら仏法用語をたくさん知り、立派そうに語ったとしても、熾烈なる仏道修行という行動と実践がなければ、いわゆる、その人の開花ともいうべき、成仏の決定はありえないわけです。
 木口 なるほど。私などは、とてもお話の次元におよびませんが、たいへん重要な示唆だと思います。
11  星の死にゆく姿は
 ―― さて、初めにお話の出た何十億年も経て誕生した太陽や地球のような星も、またいつかは崩壊・消滅していくわけですが、具体的にはどうなるのですか。
 木口 星には、冷たくなって小さくなるものと、死んで宇宙に溶けこんでいく星とがあります。
 池田 どうしてそのような違いが出てくるのですか。
 木口 それは、星の大きさによります。簡単に説明しますと、太陽より小さい星は、だんだんと小さく冷たくなっていきます。これを「白色矮星」といいます。
 ―― なるほど。
 木口 太陽より大きな星の場合は、その星の死が近づくと、自身の形を保っていることができず、大きくなったり小さくなったりしながら、最後には大爆発をおこして宇宙に溶けこんでいきます。
 池田 最後は爆発ですか。爆発しないで崩壊するものはありますか。また、爆発して木端微塵になるものもあるのでしょうが、そのなかから残る物体もあるわけでしょう。
 木口 ええ、爆発してなおかつ星の中心部分が残っているものもあります。
 これは、「中性子星」といわれるものです。
 この「中性子星」が、私のいちばん好きなテーマで、これまでも関心をもって研究してきました。
 天文学会でも発表したことがあります。ただこれも最終的には、つまり1の後ろにゼロが兆×兆個ついた年の後には、宇宙に溶けこむといわれています。
 池田 なるほど。そうしますと、星の死は太陽の大きさが基準となって、違いが出てくるわけですか。
 木口 そのとおりです。
 池田 それは宇宙のどこでも、あてはまるわけですか。
 木口 ええ、まことに不思議なことですが、太陽は宇宙の平均的な基準の星なのです。
 池田 やっぱり、王者ですね。王者は常に輝いていなければならない。(笑い)
 ―― 星の死を研究するのは、「量子力学」の分野ですか。
 木口 おっしゃるとおりで、星の死の姿をとらえ研究するのに最も適した学問ですね。
 ―― そうですか。どのような研究になるわけですか。
 木口 私の研究は、星が生から死にいたるまでの素粒子や原子や分子の運動、またその変化をさぐることです。これは紙と鉛筆と、電子計算機を多少使うだけで、本当にお金のかからないものです。(笑い)
 池田 それは、結構なことですね。(笑い)そうしますと、この「量子力学」とは、いわば目に見えない分子や原子や素粒子などの、微小の物質をとおして「星の死」を解く学問である、と認識してよいですか。
12  中性子星のナゾが解明
 木口 そのとおりです。少々むずかしい言い方になりますが、広大無辺なる宇宙は永遠の時間と、無限の空間によって成り立っています。
 この時間、空間という縦横の広がりのなかに、死んだ星の物質が、どのように溶けこんでいくかを記述するのが「量子力学」です。
 ―― 物質が溶けこんでいく宇宙というのは、「物質の死の世界」ということですか。
 木口 そうです。死の世界ですから、ふつうは見ることも感じることもできません。
 池田 わかりやすく言うと、「量子力学」とは、いわば目に見えない物質世界を探究するアンテナのような役目をする学問ということですか。
 木口 そうです。さきほどの中性子星というのは、「量子力学」により死の世界の働きというものがはっきりわかる星です。
 ―― どういうふうにですか。
 木口 大ざっぱに言いますと、中性子星は爆発して死んだ星が残した燃えカスということになります。
 この星はなんの輝きもなく、なんのエネルギー源もありません。
 星が星でいられるのは、熱エネルギーによる外向きの圧力があるからです。ちょうど風船に空気がつまっているようなものです。
 ―― なるほど。
 木口 ですから、もし星に熱エネルギーがなければ、星は重力にさからうことができずに、大きさのない一点にまで縮んでしまい、われわれの感覚ではとらえられなくなるはずです。
 ところが現実に、エネルギー源のない中性子星が、大きさのある星の姿を残したまま宇宙に存在していることが観測されています。空気もないのに、風船がふくらんでいるわけです。
 これは一九三〇年ぐらいまで、なんの解明の手がかりもないナゾでした。
 ―― おもしろいことがあるものですね。
 木口 このこと自体、宇宙に遍満している、物理的な実体のない不思議な力、つまり死の世界からの働きによると考える以外ないわけです。
 これが、「量子力学」の効果として計算できます。
 池田 なるほど。その次元は別として、われわれの肉体が死んでも生命自体の境涯、つまり「我」というものは存在する、ということに相通ずる気がしますね。
 木口 ええ、これらをみても物質の死の世界が、われわれの目に見える実際の現象世界に、その働きがあらわれることがはっきりとわかります。
 こうしたことを、ロンドン大学の有名な物理学者ポール・デイヴィスは、「われわれの世界と並行して存在する別の世界の幽霊が、われわれの世界の物質をつき動かしている」と、まことに興味ぶかい表現をしています。
13  期待される「量子力学」の進歩
 池田 まえにも申し上げましたが、仏法では「妙は死法は生なり」という法理があります。「妙」すなわち、目には見えない根源の力が、「法」すなわち、目に見える現象世界を動かしていく、という意義になりましょうか。
 ですからいまのお話は、いわば科学の最先端の考え方でしょうが、そうした観点からみると、たしかに「妙は死」、「法は生」という法理が理解できますね。
 木口 「量子力学」の発達は、いままで人間が信ずることもできなかったことを証明しています。
 ―― なるほど。
 池田 御文に「法界は妙法なり」とあります。
 日蓮大聖人の仏法の基盤は、妙法、つまり宇宙の根源法の当体に唱題すれば、大宇宙の国土、衆生、生命というものに、すべて祈りが通ずるということになっております。
 ―― すごい法理です。想像もつかない。
 池田 また「妙の文字は月なり日なり星なりかがみなり」という御文もあります。
 妙法の力用は、銀河系にも、何億光年のさきまでも、じつは通じていくものである、とおっしゃっているわけです。
 ―― 雪山童子が生命を捨てようとしてまで、願求したという理由もわかるような気がします。
 池田 それは、いわゆる通途の仏法での修行の段階です。
 いわんや、大聖人の文底下種独一本門の仏法たる「南無妙法蓮華経」は、法界すなわち、大宇宙へ通ずる大法であると明かされているわけです。
 木口 とうてい観念だけでは理解もおよびませんが、いつもながら仏法は、甚深の哲理と思いますね。
 ―― ところで、イギリスに『ネイチュア』という週刊の科学雑誌があります。この雑誌の編集長がこの夏(一九八三年)、「日本の科学技術特集号」の取材で来日しました。
 木口 そうでしたね。『ネイチュア』の創刊(一八六九年)には、進化論のダーウィンも関係していますし、この雑誌に研究論文が載るのがノーベル賞への近道といわれています。
 池田 この記者会見のもようは、たしか新聞にも載っていましたね。「今後おもしろくなりそうなのは量子力学で、花形になるだろう」というような話であったと思いますが……。
 ―― ええ、量子力学の分野から、「物理的世界の根本に関するエキサイティングな発見が出てくる可能性がある」と、科学界の今後の展望を強調していたのが印象的でした。
 木口 私も、まったくそう思います。
 こんどノーベル賞を受けたアメリカのチャンドラセカール博士(インド生まれ、シカゴ大学教授。星、宇宙の生成、進化を研究)も、天文学に量子力学をもちこみ、白色矮星を予言した功績に対して与えられています。
 量子力学というのは一面、哲学に近い科学ということもできます。
 ですから、この学問の進歩は、人間の価値観を大転換させる可能性があるといわれています。

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