Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第九章 「生死」こそ最後のフ…  

「宇宙と仏法を語る」(池田大作全集第10巻)

前後
1  「難波」とは“太陽を迎える場所”の意
 ―― きょうは、大阪の地でお話をうかがうことになりました。
 この大阪も、昔からたいへんに宇宙とは関係ぶかい土地柄のようですが。
 池田 そうです。古代から、大阪が「難波」と呼ばれていたのは、よく知られていますね。
 木口 ええ、私も大阪生まれですので……。
 池田 この「難波」という言葉は、もともとは、「ナルニハ」と呼ばれていた。
 それが、時代を経るにしたがい、「ナニハ」と約めて言われるようになった、といわれているようです。
 木口 なるほど。そうしますと、最初の「ナルニハ」とは、どういう意味だったのでしょうか。
 池田 私も若いころから、この大阪の地とはたいへんに縁がありまして、常々、関心をもっていました。
 最近、ある研究書を見ておりましたら、「難波」とは古代朝鮮語から生まれた、という記述があります。
 そこで、さらに調べてみますと、「難波」のもとの言葉「ナルニハ」の「ナル」とは、「太陽」を意味する言葉とありました。
 木口 ああ、そうですか。知りませんでした。
 たしかに関西圏には、昔から朝鮮半島の人たちが多く渡来し、住みついたことは事実のようです。
 私も、日本の古代文化に、そうした人々が大きな影響を与えていたことは、知ってはいましたが。
 ―― 「ナル」が太陽ということになりますと、「ニハ」とは、どういう意味になるのでしょうか。
 池田 「ナルニハ」で、「太陽を迎える場所」という意味になるようです。
 木口 なるほど、なるほど。
 「難波」という言葉の成り立ちが、そのような由来だったとは、まったく知りませんでした。
 大阪には、「西成」とか「東成」という区名があります。昔は、この「ナリ」を「ナル」と呼んでいたと聞いたことがあります。そうしますと、これも、池田先生が話された言葉の名残なのでしょうか。
 池田 そのとおりです。
 「ナリ」という言い方は「ナル」がなまったもので、「西成」とは、夕日が沈んでいく場所です。
 また「東成」は、朝日が昇る場所、ということになるのでしょうか。
 木口 大阪の地が、古代から「太陽を迎える」という、雄大な気概に燃えていた土地であったということは、素晴らしいことですね。
 ―― いまの、関西の創価学園(中学・高校)がある交野市の近辺が、そうした関西文化圏の中心地だった、と『日本書紀』(奈良時代に完成したわが国最古の正史)などにはありますね。
 池田 そうですね。古代の、有力な豪族としてよく知られている、物部氏(大和朝廷時代の大豪族)の一族が、当時の交野郡を本籍としていたことは、たいへんに有名な伝説になっている。また一族は、淀川を下り、海から「難波」に上陸したようです。そして生駒山麓に根拠地を構え、一大文化圏を築き上げてきたようですね。
 それが、東征してきた天皇家に引き継がれていく、という説もありますね。
 木口 そうだとすると、まさに、日本文化のひとつのルーツですね。
 ―― こうした、いわれのある地名は、日本の各地にもあるようですが。
 池田 ええ、いまの宮崎県の旧国名「日向」も、そうですね。
 木口 これなど、文字どおり「日が向かう」そのものですね。
 池田 そうです。「ひゅうが」は、もともと「日向」といわれ、日が向かうところ、夕日の隠れるところ、という意味です。
 これに対し宮城県に、昔、「日高見」という地名があったそうですね。詳しくは知らないのですが……。
 いまの仙台平野あたりをさすようです。日が昇る方向という意味で、この名称がつけられたとうかがったことがあります。
 ―― 私も、そういう古文書を読んだことがあります。
 「北上川」は「日高見」から由来し、仙台平野には、「日高見」という神社が現存しているそうですね。
 池田 当時の大和朝廷からみると、東北方面はまだ「エゾ」と呼ばれていたのではないでしょうか。
 ですから、都からみて、東の涯を「日高見」といい、西の涯を「日向」としてなぞらえたような気がしますが。
 木口 なるほど。地名の起こりにも、太陽そして宇宙との関係が、密接になっているものがあるわけですね。
2  “生命の触発”が教育の原点
 ―― 昨日(一九八三年九月二十二日)は、あの有名な峰つづく交野にある、関西創価学園の開校満十年を迎えた式典に、創立者である名誉会長は出席されてましたね。
 池田 ええ、半年ぶりでした。
 ―― じつは、私も一度、名誉会長と生徒たちの交流を、じかに拝見したいと思って、ちょっと、その光景を見せていただきました。(笑い)
 木口 いかがでしたか。
 ―― まあ、強烈なカルチャー・ショックでしたね。(笑い)
 木口 そうでしたか。
 ―― ともかく、その前日の関西小学校では、六百人以上もいたでしょうか、児童たちが創立者のまわりで、目を輝かせながら、小さな身体に喜びをいっぱいはずませていました。
 そして、自由奔放に走りまわっている。
 いわば、子供の生命が次々に爆発しているようで、まあ、一時間半ぐらいだったのですが、見ているだけで疲れました(笑い)。これは、その場にいた人でなければわかりませんが。(笑い)
 木口 そうでしたか。
 かつて、池田先生が「幼児とはあまり断絶を感じない」と書かれていたのを、読んだことがありますが、目に浮かぶようですね。
 ―― ちょっと近年、私は見たことのない光景でした。
 名誉会長は、あの、ほとばしるような歓声と小さな生命の躍動のウズに、溶けこまれていました。
 池田 必ず行くという約束をしてしまいましたもので……。私は、子供たちとの約束は絶対に果たさなければならない、と常に思っています。
 木口 簡単なことのようですが、なかなかできない大切なことですね。
 池田 生まれながらの、無垢で幼い子供の動作には、珠玉のような輝きが五体を駆けめぐっているものです。
 ですから、そうしたものと触れ合うことは、それをいつのまにか忘れてしまった大人たちに、自分にも純粋な子供のころがあった、と気づかせずにはおかないものです。
 木口 なるほど。だが残念なことに、子供の心になにも感じなくなった大人が、だんだん増えている。
 ―― そのとおりです。
 先般もある調査で、「子供の教育に自信を失った」お母さん方が、五〇パーセントを超えるという結果が発表されていた。
 生命と生命の触発という「教育」の原点を見失い、育ちゆく子供の姿をまえにして、親が戸惑っていることを強く感じますね。
 木口 多くの人が、教育が大事なことを口にはしますが、言うはやすく、行うは難しですね。
 ―― 私も耳の痛い一人ですが(笑い)、まったくそうですね。
 池田 子供はなんの容赦もなく、育ちゆくものです。この一点を、大人は忘れてはならない。
 ―― そうですね。子供は大人の後ろ姿を見て育つといいますが、大人のほうにも、常になにかしら向上していくものがなければなりませんね。
 木口 私にはまだ子供がいないのですが、そのとおりだと思います。学園では、いかがでしたか。
 ―― 野外グラウンドで、全校の生徒、先生たち、約千六百人と聞きましたが、さわやかな秋空のもとで、名誉会長と一緒に、ともにジュースで乾杯し、弁当をとりながら歓談しているのを、高い丘から見ておりました。
 ともに語らいながら、楽しげに箸を上げ下ろしする姿に、壮大な、なんともいえないリズムを感じ、胸を強くうたれました。
 木口 私も教育者の一人ですが、たしかに子供の生命と共鳴するような指導者は、少ないと思います。
 池田 私も、波瀾万丈の半生を送ってきました。またそれこそ、数えきれないほどの多くの人々との出会いがあった。
 しかし、そのなかでも小学校時代に教わった先生のことは、忘れられません。
 それほど、子供の瞳には、自らを教え、自らを育んでくれた尊い姿というものが、長く心に焼きついているものなのでしょうか。
 私の恩師、戸田(城聖)先生も、教育者でした。
 その恩師が身をもって、教育の大切さを教えてくれた。私もまた、私なりにそれを受け継いでいる、ともいえるのかもしれませんが……。
 木口 なるほど。よくわかります。
3  宇宙と歴史と大自然との融和
 ―― 夕方六時ごろからは学園で、「交野・秋の夕べ」の催しがありましてね。
 木口 そうですか。昨夜ですと、ちょうど十六夜の月だったと思いますが。
 池田 ええ、見事な「大月天子」との出会いとなりました。
 ―― 六百メートルもの高さの峰々を皓々と照らしながらの満月は、生まれて初めて見ました。
 はるか万葉の時代を思わせるがごとき、あのような月の光景は、一生涯で何度も見ることはできないでしょう。
 池田 そうですね……。ともかく見事な満月でした。文学的にいえば(笑い)、古の万葉、白鳳の峰々の波が、現在と過去のへだたりを瞬間的に乗り越え、悠久の詩情をただよわせた演出であった、といってよいかもしれない。
 それは、宇宙と歴史と大自然とが、完璧なまでに一つに融和した、別世界のような絶妙の時空であった、といえるでしょう。
 ―― 私も端のほうにおりましたが、まったくそのとおりでしたね。あたりにはススキや萩も見え、自分も詩人であったらな、と思いました。(爆笑)
 池田 十六夜の月とはよくいったもので、たしかに、山の端をたどり、美女が美しい顔を恥ずかしそうにまた、優雅に見せていくような姿でしたね。
 ―― 学園の寮生も、地元の交野の方々も、本当に心から喜んで拍手していましたね。
 池田 ええ、学園には寮生、下宿生たちが三百数十人おります。
 故郷を離れ、父母から離れ、勉学に勤しんでいる生徒たちに、少しでも一緒に楽しみ、思い出をつくらせてあげたいという気持ちでやりました。
 まえにも、こうした「月見の宴」をやったのですが、なにぶん多忙なため、今回は十年ぶりだったのです。
 木口 ああ、そうですか。
 本当に、素晴らしいことですね。月も喜んでいたことでしょう。(笑い)
 ―― そこで、満月が昇ったあの山の端は、『古事記』(現存する日本最古の歴史書)や『日本書紀』に出てくる「竜王山」といわれているようですね。
 池田 ええ、学園の先生方からそう説明をうけました。
 この山頂に、物部氏の先祖が降臨したという伝説があるそうです。
 ―― ええ、たしか『旧事本紀』という文献の「天孫本記」にも、「河内国河上哮峰」に「磐船」に乗って降臨したとあります。それがいまの学園のある交野のあたりだ、というのが研究者の間では通説になっているようです。
 池田 私も、そのようにうかがっている。たしかに学園の近くには「磐船」という地名が、いまでも残っているようです。
 最近、その竜王山の裏のほうで、小学生が偶然に五~六世紀ごろの古墳群を発見した、ということも聞きました。
 ―― 天皇家は、この地で独自の文化を築いていた物部氏から、太陽信仰と同時に、天孫降臨の伝説も受け継いだのでしょうか。
 木口 なるほど。そういうことも考えられますね。つまり交野は、古代日本の文化揺籃の地であったわけですね。
 池田 そうです。ですから平安時代になっても、桓武天皇が交野の一角に離宮をつくったりしている。
 また大宮人が観桜、観月、観楓の宴をはる地であったともいわれていますね。
 木口 いまでも交野近辺には、「天野川」という川が流れています。また、「星田」という地名も残っています。なにか太陽とか、星とかに所縁のある土地柄だったんでしょうかね。
 ―― 興味ぶかいことですね。そういえば、業平が交野でつくったといわれる和歌がありますね。
 池田 ええ、『古今和歌集』(勅撰和歌集のはじまり。九〇五年または九一四年ごろ成る)に載っています。
 「飽かなくに
 まだきも月の隠るるか
 山の端にげて入れずもあらなむ」
 この和歌は、歌人業平が惟喬皇子の供をして交野にきたとき、詠んだものですね。
 ―― 昨夜の月は十六夜ですが、そのあとの月も、風流な呼び方をされていますね。
 池田 ええ、立待月、居待月、臥待月といわれるように、月の出の時間によって、それを眺める姿と見合った名がついています。
 木口 そうですね。
4  生命の状態で多彩に映ずる天体
 ―― ところで、よく、夕日が実際より赤く大きく見える場合がある、と聞いたことがありますが、本当でしょうか。
 木口 それは、目の錯覚でしょうか(笑い)。どの空で見るのも、大きさは同じです。
 ―― 当然のことですね。大きく見えるのは大気との関係や、目の錯覚でしょうね。
 池田 私は、夕日や月を、写真に収めることがあります。素晴らしく大きく、美しく感じることがありますが。
 木口 そうですか。池田先生の撮られた、「夕陽」と「月」の写真集を拝見したことがあります。たいへんに感銘しました。
 池田 いや、どうもどうも。
 ―― 人間と天体の関係については、おもしろい研究をしている人を知っていますが。
 木口 どういうことをやっているのですか。
 ―― たとえば、日中の太陽が人によって、何センチぐらいに見えるか、というようなことです。
 木口 たいへん、興味があります。天文学者はそこまで手がまわりませんでしたが、今後の重要テーマの一つだと思っています。
 ―― その研究によると、普通の人の場合、日中の太陽は平均三、四十センチぐらいの大きさに見えるそうです。しかし、気持ちの大きい人、創造的な仕事をしている人はどちらかといえば、より大きく見えるそうです。
 また、細かい計算などを職業としているような人や、あるいは、理屈の多い人などは、逆に小さく見える場合があるようだ、といっています。(笑い)
 木口 心の状態が太陽を見る働きにも影響するのですね。
 ―― 調査の対象になった人のなかには、一メートルほどにも見える、と答えた人がいるそうです。
 池田 いやいや、これはおもしろい話ですね。
 人それぞれの生命の一念の状態、生命の一念の境界、この大小によって、同じものを見てもそのように多彩に変化して映ずるのですね。
 ―― そうですね。月も同じことがいえるかもしれません。
 「月がとっても青いから 遠まわりして帰ろう」などと歌われる月は、たぶん楽しい、ロマンチックな気分で、大きな月に見えたのでしょうね。(笑い)
 木口 物理的にいえば、地平線から昇ったばかりの月も、高い空に昇った月も、また、さまざまな条件の月も、大きさはまったく同じです。たとえば、月に五円玉をあて、腕を伸ばして穴からのぞいてみます。すると、同じように穴の中に入り、大きさが同じであることがわかります。
 池田 なるほど。
 ところで、なぜ月は昼間見ると白く、夜見ると黄色に見えるのですか。
 木口 夜は太陽の光が、直接私たちには届かず、月の表面で反射された太陽の光だけがとどきますので黄色く見えます。
 昼は、空気が太陽の光を散乱し、青い光が黄色い光に加わりますと、青い光も黄色い光もスペクトルの広がりをもっていますので、黄色プラス青で白に見えることになります。
5  人間の生理に影響を与える月の満ち欠け
 ―― たとえば、ライアル・ワトソンの『スーパー・ネーチャー』のなかの文献などに、黄色い満月といえば、米国の医学気候研究所が報告した「人間行動に対する満月」という研究資料が出ていたのを読んだことがあります。
 その資料には、放火、盗癖、無謀運転、殺人等々、激しい精神的行動をともなう犯罪は、すべて満月のときにピークになると出ていました。
 木口 そうですか。二百年前、イギリスでは、法律のなかに、慢性で不治の精神病によるものと、月によって錯乱した場合とで、犯罪をはっきり区別した一項があったと聞いたことがあります。
 池田 満月の夜の犯罪には寛大であった、ということですね。(笑い)
 木口 ええ、たぶんそうなんでしょう(笑い)。また収容所の管理者たちは、満月の夜は持ち場を離れてはいけない、という決まりもあったそうです。
 ―― ええ、私もなにかで読んだことがあります。
 木口 また十八世紀ごろには、犯罪者が満月の夜に暴れることを恐れて、その予防策として、前の日にムチ打ったこともあったそうですね。
 ―― 人間と月には、直接的な生理的関連があるのでしょうか。
 池田 あると考えざるをえないことがありますね。先日、そういう資料があるかどうか調べてもらったのですが、アメリカの精神科医が長い間、患者の頭と胸との電位差を測定していた。その結果、満月のときに、その差が最大値を示していることがわかった、という話です。
 木口 そうですか。月の満ち欠けにともなう地球、月、太陽の位置関係の変化によって重力の大きさや方向が変わる。
 それにともなって血液の流れ方などが変わり、電位差が変化するのかもしれません。とくに精神病患者のように精神的なバランスの不安定な人たちでは、そうした傾向が顕著になるのでしょうか。
 ―― また、満月の夜には医者は手術をしたがらなかった、となにかで読んだことがあります。
 木口 迷信として、私も聞いたことがあります。
 ―― これに似たようなことで、医学の専門雑誌に論文が載っていたことがあります。
 それによると、手術における出血のピークは満月のときで、月は潮汐をコントロールしているのと同じ方法で、血液の流れをコントロールしている、といっています。
 ですから、よくわかりませんが、手術を避けたがったというのも、うなずけるような気もしますが。
 木口 そうですか。月と人間の出血の関係を示す話ですね。
 ―― 人間と月との研究は、まだこれからの段階のようですが、関係すると思われる現象を挙げていくとたくさんあり、どうしても、そのつながりを考えざるをえないようです。
 イギリスではかつて、月を「偉大なる助産婦」とも呼んでいたことがあるそうです。
 これなどは、月の周期と、人間の出産時間とが密接に関係しているという、人々の昔からの経験から出た言葉ではないでしょうか。
 池田 なるほど。死の場合については、ドイツの医学者が結核患者の死亡時刻についても、人間と月との相関関係がある、と報告しているのを、なにかで読んだことがあります。
 ―― イギリスのペーターソンという医学博士も、結核による死亡は満月の十日前が最も高い、というような研究を発表しています。
 博士は、血液中の酸とアルカリの比が、月の周期とつながりがあるかもしれない、と推定しています。
 木口 なるほど。そうですか。たいへんに興味ぶかい研究ですね。
 ―― そういえば、月夜のカニは食べるなといいます。これもなにか関係があるのですかね。(笑い)
 木口 満月になるとカニの活動が活発になり、そのぶん、身が少なくなるからだという説もあります。これをカニの夜遊びというらしいのですが。(笑い)
6  「死」と対決した文学者たち
 ―― 昔のギリシャの哲人の言葉に「常に死ぬ覚悟でいる者のみが真の自由な人間である」というのがあります。これは、ひとつの理想論かもしれませんが、しかし、だれびとにも、いつかは死が訪れるわけです。
 池田 「死」ということは、「生」あるかぎり、だれもが避けることができない絶対の理です。ゆえに人は、死の姿を直視しようとする姿が生まれてこなければならないのですが……。
 ―― そのとおりだと思います。たとえば、明治の文豪、島崎藤村のエピソードなどは、その例にあてはまるかもしれません。
 木口 そうですか。藤村といえば『若菜集』など、私もよく読みましたけれど、どのような話ですか。
 ―― あるとき、藤村は、死期の迫った作家田山花袋を見舞うわけです。
 ところがそのとき、枕元で、「田山君、人間、死ぬときは、どんな気持ちがするものか」と聞いて、家族やまわりの人から顰蹙をかってしまった。
 後日、藤村は、お互いに文学をやっている仲間なのだから、他の人には聞けない真実を聞いておきたかった、と弁解しています。
 木口 なるほど。やはり藤村も文学者として、少しでも「死」の実像をかいまみておきたかったのでしょうね。
 池田 たしかに、「死」と対決しようとした文学者は多い。
 外国でも、たとえば、いま思いつくだけでもフランスのプルースト、ロシアのドストエフスキー、アメリカのヘミングウェーなどがいます。
 ―― そうですね。日本でも夏目漱石、芥川龍之介、志賀直哉などの作品にもありますね。
 池田 歌人、斎藤茂吉にも、有名な歌がある。
 「死に近き母に添寝のしんしんと 遠田のかはづ天に聞ゆる」
 これは、母の「死」の床のあたりにただよう沈んだ気配と、かわずの荒々しい鳴き声にたとえた「生」の息吹とを対照させている。
 ―― やはり、母だからこそ、子だからこそ、そうした実感がおのずからかもしだされてくるのでしょうね。
 木口 私もかつて、池田先生の「母」という長編詩を読ませていただいたことがあります。その詩のなかで、
 「その母子の伴奏のなかにのみ
  人間という人間の
  深い心性が光沢にみがかれ」
 という一節を、印象深く覚えております。
 ―― この詩には、名誉会長の詩境が美しく、力強く奏でられているような感じがいたしますが。
 池田 いやいや、私の詩はともかくとして、茂吉の詩は、母と子の生命の共鳴でしょう。
 ―― なるほど。最愛の人が、いままさに死にゆかんとする。そのかたわらに結晶された「生死」の境目の瞬間を、茂吉は見事にうたいこんでいますね。
 池田 すぐれた文学を志す作家の詩魂は、この厳粛なる瞬間に感じとった「生」と「死」との間の深き状況を、決して見逃すことはできなかったのでしょう。
 木口 なるほど。茂吉は医者でもあったわけですから、幾度か、死の瞬間に立ち会ってきたことにもよるのでしょうね。
 ―― 最近も、ある医者が、身近にみた患者の死の姿を一冊の本にまとめ、べストセラーになりました。
 それは「死」が、いかに深刻なものであるかをリポートしたものです。
 木口 どんな内容でしたか。
 ―― たしか、社会的な地位や名誉があり、日ごろは冷静な人でも、いざ死を迎えたときには、
 「神さま、助けてください」
 「死にたくない。やり残したことが、たくさんある」
 「恐ろしい……」
 等々、かなり取り乱してしまう、ということが載っていました。
 木口 現代医学は患者の死への不安、恐怖感を取り除くことには無力ですね。
 ―― どのように死を客観的に観察しても、またその認識を深めたとしても、そこから死の解決策を見いだすことには、つながらないような気がしますが。
 池田 そうですね。
 「死」についてだけは、それを客観的に認識する次元と、解決する次元とは、おのずから違うことになるでしょう。その人自身の生命というか、我というか、それが感じとる以外ない。
 ―― なるほど。
 木口 「死」の瞬間の不安、恐怖がいかなるものか、それは、死に直面した人しかわからない。
 ただ九死に一生をえた人が語る、死の体験というのはありますね。
 ―― たまたまあります。とくに死の衝撃について、驚くような話がたくさんありますね。
7  ドストエフスキーの「死」の体験
 木口 私も聞いたり、読んだりしたことがあります。銃殺台に立たされたが、銃から弾丸が出ずに助かった。しかし、その一瞬の恐怖で白髪になり、身体も老いてしまった、という人の話もありますね。
 ―― そうですね。たしかドストエフスキーに、そうした体験があったと思いますが……。
 池田 たしかにそうでしたね。
 ドストエフスキーの場合は、あまりにも強烈な体験であったようです。それが一人のすぐれた文豪を生む、大きなきっかけになっている。
 ―― そういえば、名誉会長はかつて「ある文豪の生命」という詩で、ドストエフスキーの文学と人間像に、鋭く迫っておられましたね。
 池田 ずいぶん前のことでしたが……。
 木口 そうですか。ドストエフスキーの体験とは、どのようなものだったのでしょうか。
 ―― 青年ドストエフスキーが当時、ロシアで発禁になっていた社会主義思想家ベリンスキーの『ゴーゴリへの手紙』を、人前で朗読したことなどによって逮捕された。
 そして危険分子の一人として、死刑に処される話だったと思います。
 池田 そうです。
 彼らは順番に目隠しされ、銃殺されることになった。
 最初の三人がクイにしばられ、いままさに射たれんとする寸前に、皇帝からの処刑中止の指令が届く。そして、それを伝える白いハンカチが一人の将校の手で振られた。死をまえにした、このたった数分の間に、そのなかの一人はその場で発狂した。他の一人は、髪の毛がみるみる白髪になってしまった。
 ドストエフスキーは三番目の組にいたが、彼自身もこのとき、言語に絶する衝撃をうけたと言っている……。
 ―― ところが、この処刑は民衆に皇帝の情け深さを示すために、わざと仕組まれた芝居だったのですね。
 池田 そうそう。
 たしかに窮地に立たされた政治家、権力者たちが、青年たちの生命を政治の手段として利用した話ですね。
 ―― そのとおりです。
 池田 いまも大なり小なり、このような姿があると思う。
 われわれは常にめざめ、常に強く、常に連帯を組まなければならない。いつの時代にもみられる、権力の奥の手といっていいでしょう。
 そこからドストエフスキーは、人間にとっての「死」や、権力の魔性といったことを描きつづける作家へと、大きく変貌していくわけです。
 木口 なるほど。『罪と罰』をはじめ、『白痴』や『悪霊』など、彼の名作の生まれてきた背景がよくわかりました。
 ―― 名誉会長の詩を拝見しますと、その後のドストエフスキーを、苦しみ喘ぐ社会の只中に全存在をささげて、「静かに ますます充実した姿を没するのだ その余影で限りなく後世を震撼させながら――」とうたっておられますね。
 池田 ドストエフスキーは、机上だけで「人生」や「死」を考えるようなことは、できなかったのでしょう。
 木口 それにしても、死についていろいろな話がありますが……。つくづく、生命というものは不思議なものと思いますね。
 ―― 九死に一生をえた人でさえこうなのですから、実際の「死」というのは、普通、想像することさえできないと思いますが、いかがでしょうか。
8  仏法で説いている「死」の瞬間
 池田 そう思います。苦しみの「死」の瞬間について、次のように述べている御書もある。偽書説もあるようだが、参考として挙げておきましょう。
 「先人一期の命尽て死門に趣んとする時、断末魔の苦とて八万四千の塵労門より色々の病起て、競ひ責る事、百千の鉾剣を以て其身を切割が如し。之に依て眼闇く成て見たき者をも見得ず、舌の根すくんで云ひたき事をも云ひ得ざる也」(「十王讃歎鈔」)と説かれています。
 木口 すごい御文ですね。
 池田 そうです。
 またさらに、
 「又荘厳論に、命尽終る時は大黒闇を見て深岸に堕るが如く、独り広野を逝て伴侶有ること無しと云て正く魂の去る時は目に黒闇を見て、高き処より底へ落入るが如くして終る。さて死してゆく時、唯独り渺々たる広き野原に迷ふ。此を中有の旅と名くる也」(同御書)
 ―― まったく厳しい御文ですね。
 池田 ですから、こうした姿で死にゆく人は、もはや言葉をもたないといっていいでしょう。ただただ、姿でその苦しみを訴えているだけです。
 その瞬間をかたわらで見守る人が、こうした苦しみを、自己の想像力でうけとめているのです。
 ―― いわば、代理体験をしているわけですね。
 池田 そのとおりです。
 本当の死の苦しみは、死んでいく人しかわからないものです。
 ですから、死という現実をまえにしては、財産も、名誉も、地位もなんの意味ももたなくなってしまう。まことに、厳しき人生の法則である。
 ―― 次元は異なりますが、死の実像に迫ろうとして思索した人には、それなりの「死の思想」というものがありますね。
 池田 そうですね。
 トインビー博士なども、その一人でしょう。たとえば博士は、『死について』(筑摩書房刊)の中で「『生のさなかにわれわれは死のなかにいる。』誕生の瞬間から、つねに人間にはいつ死ぬかわからない可能性がある。そしてこの可能性は、必然的におそかれ早かれ既成事実になる。理想的には、すべての人間が人生の一瞬一瞬を、つぎの瞬間が最後の瞬間となるかのように生きなければならない」(橋口稔訳)と言っている。
 木口 非常に、考えさせられる話ですね。
 池田 ただ博士も、こうした考え方は理想論であり、普通はむずかしい、とも言われている。
 しかし博士は、思索の果てに、次のように結論づけられていた。
 「人間がこの理想の精神状態を手にいれるところへ近づけば近づくほど、それだけ立派な、そして幸福な人間になるということである」(前出)と。
 ―― なるほど。深い洞察ですね。かつて小林秀雄さんが、死を解決する一つの手段として、「人間の生と死に、じかに向かい合うことだ」と言っていました。懇談した折、それは、どういう意味かとたずねたことがあります。
 木口 何と言っておられましたか。
 ―― それは、「普通、個人が、死を理解することはむずかしい。だから、まず、人間のことをいちばんよく知っている人、また、死の問題をいちばんよくわかっている人のことを、まず研究することだ。それが第一歩だ」と言っていました。
 木口 なるほど。だれもが、個人の限られた一生のうちで、「死」を実感することはむずかしいですからね。
 池田 そうです。
 釈尊の出家の動機も「四門遊観」といって、生老病死の解決をどうしたらよいか、であった。そのために、厳しい修行と思索を約十年間つづけ、「出離生死の法」というものを見いだしている。
 釈尊は、その自身の悟達をもって、民衆を救済しようと発願たわけです。
 木口 なるほど。その釈尊が悟達したその「法」とは、何でしょうか。
 池田 それが、二十八品の「法華経」となるわけです。
9  生死を解明した妙法
 ―― 釈尊の時代の悟達と発願については、そういうことになりますが、現代すなわち、末法という時代の仏法では、「出離生死の法」とはどのようになるでしょうか。
 池田 御文には「生死も唯妙法蓮華経の生死なり」と、人間生命のみならず、宇宙森羅万象の一切を貫き、生と死にわたる根源の「法」を示されている。
 木口 なるほど。生と死を貫く根源の法とは、すごい現実的な法となるわけですね。
 池田 そのとおりです。三世永遠にわたる大法則です。この生死の二法を貫く「法」とは、具体的かつ明快に言うならば、「南無妙法蓮華経」となります。この「妙法」こそが、「過去遠遠劫より已来このかた寸時も離れざる血脈なり」とも、説かれているわけです。
 木口 すると、好むと好まざるとにかかわらず、この「妙法」にのっとる以外に、「生」も「死」も、根本的かつ完全なる解決はできなくなってしまう、という結論になるわけですね。
 ―― そうしますと、末法の仏法では、この「生死」という問題をどのように示されているのでしょうか。
 池田 簡単に言いますと、普通、生命は「生」で始まり、「死」で終わると考えられている。
 しかし日蓮大聖人は、生命とは三世永遠にわたるものであり、「生」も「死」も、生命にもともとそなわった「本有」の理であると説かれている。
 木口 なるほど。
 池田 ですから、この仏法の永遠の生命観について、御文では、「自身法性の大地を生死生死とぐり行くなり」、また、「我等が生死は今始めたる生死に非ず本来本有の生死なり、始覚の思縛解くるなり云云」と説かれております。
 ―― なるほど。なるほど。
 池田 そこでまた御文には、「妙は死法は生なり」とも説かれています。
 木口 なるほど。これは、たいへん深遠な哲理ですね。しかも、断定されて異論をはさむ余地はありませんね。
 池田 わかりやすく言いますと、「生まれる」「死んでいく」……この生死という厳然たる、生命に存在する働きそのままが妙法であるというのです。
 ですから、この一個の生命が、具体的にあらわれた状態を「生」とし、隠れた状態を「死」とみるわけです。
 ―― なるほど。死後の生命が、たとえば、宇宙のなかに溶け込んでいると聞かされても、思議し、実感することができない。ゆえに、「妙は死」ということになるわけですね。
 池田 まあ、簡単に言えば、そうとっていただいてけっこうでしょう。経釈には「生死の二法は一心の妙用」(「天台法華宗牛頭法門要纂」)ともあります。
 木口 それは、どういう意味でしょうか。
 池田 これも簡単に言いますと、この一個の「生」というものを発動させていくのが「妙」である。「妙」という力が原動力になっている。そして、この「生」が燃焼しきって、やがて、休息のために死におもむいていく。それも「妙」の働きの結果である。すなわち、「生」といい「死」といっても生命の妙なる働きなのだということです。
 御文には、「法界に開くは去の義なり」とあります。「去」つまり「死」それ自体は、宇宙の大生命に冥伏することである。
 そしてその宇宙根源の力、すなわち「妙」によって、新しいエネルギーを充電させながら、再び「生」として誕生する。
 その間を「死」というわけです。
 木口 わかるような気がします。もう一つうかがわせていただきたいと思います。
 池田 どうぞ。
 木口 「妙」が生を発動させる原動力ということは、どういうことですか。
10  「妙の三義」と人間の蘇生
 池田 日蓮大聖人は、それを、「妙の三義」として説かれております。
 三義とは、「開」「具足・円満」「蘇生」ということになります。
 木口 「開」とは、どういう意味になりますか。
 池田 わかりやすく言いますと、無限の可能性がしまわれた部屋の扉を開くことのできる力、というようなことです。
 つまり、「妙法」を信じ、行ずることにより、溌剌と生命が躍動し、この宇宙をつかさどっている本源的な生命を、自己の生命力に開示していくことができる、という意義になるでしょう。
 また宇宙が、無限に膨張しているといわれるのも、この「開」の義といえるでしょう。
 ―― なるほど。「具足・円満」の義とは、どういうことでしょうか。
 池田 これも簡単に申し上げれば、わずか一滴の水のなかにも大海の水と同じ成分、性質がある。大宇宙のなかの一個の生命にも、大宇宙の全素質がそなわっているという意味にもとれるでしょう。
 木口 なるほど。わかるような気がします。アメリカの宇宙飛行士が、月世界から持って帰ってきた一塵にも、月全体の成分が含まれております。
 宇宙を解明する、科学の基本的な考え方も、そこにあると思います。
 われわれを取り巻く、どんな小さな空間にも、大宇宙と同じ法則や、力が支配しているというのが、アインシュタインの相対性理論の出発点になっていますからね。
 池田 また、この「具足・円満」の義について、経釈には、「治し難きを能く治す所以に妙と称す」とある。つまり、いかなる悩みや苦しみの人生であっても、希望へ、楽しみの人生へと転換せしめゆく無量無辺の力用がこの妙法に備わっている、という意義もあるわけです。
 ―― なるほど。
 「妙とは蘇生の義なり」とは、たいへん有名な御文ですね。
 池田 そうですね。
 「蘇生」とは、活力を失った状態から、再び生き生きとした根源の力がみなぎり、よみがえってくる意義です。
 木口 宿命に泣く人、行き詰まった人類には、たいへん希望にあふれる話であり、法理ですね。
 池田 「蘇生の義」とは、妙法を持つことにより、一人も残さず生き生きと、限りなく生命変革を成し遂げていくということになります。
 それが、自己の人格完成の根本にもなる。さらにまた、長き宿命の道を転換しゆく力にもなる。
 戦後有名な言葉になった、東大の南原繁総長(一九四五年十二月、東京大学総長となり、占領下にあって学問の独立を主張。その訓示や講演は警世の言として注目を浴びた)の「人間革命」の意義も、ここにあるのではないでしょうか。この「人間革命」を軸として、社会に時代に、地域に世界へと貢献しゆくことが、私どもの眼目であり、使命であると思っております。
 木口 すると、仏法を基調とした、また正法の信仰からなる、個人の目的観、社会への運動観、平和への方法論となるわけですね。
 池田 そう思っていただいてけっこうです。
 ―― 南原総長は、昭和二十二年(一九四七年)の卒業式のときに「人間革命」ということを言ったわけですが、その具体的方途はありませんでしたね。
 木口 ええ、そうでしたね。
 ―― いま徳川家康のテレビドラマが評判になっていますが、原作者の山岡荘八さんも、なにかの本の「はしがき」に、「人間革命」という言葉を使っておりましたね。
 池田 人々が心奥ふかく希求するのは、無限の価値創造といえるでしょう。
 その限りなき可能性を生むのは、人間それ自体です。
 ですから、無限に行き詰まることのない法を持つことが、人類の願望であり、要請となってくるのではないでしょうか。
 木口 学問や、研究の世界も、そうです。
 ―― 事業や団体においてもそうです。
 池田 その意味で、私どもの信仰活動が、客観視すれば、すべての根本である生命蘇生の大運動ととらえていくことも、一次元としてできうるでしょうね。
 木口 なるほど。よくわかりました。たしかに仏法は、「生と死」を宇宙大に広がる目でとらえておりますね。私自身、まったく新鮮な、深い示唆をうけることができました。
 ―― 私も同感です。また、多くのすぐれた識者も、それを感じはじめているようです。
 たとえば、アメリカの有名な生態学者、ルネ・デュボス博士もその一人だと思います。かつて、名誉会長と懇談されたことがありましたね。
 池田 ええ、素晴らしい方でした。博士とは文通もありました。先年亡くなられましたが、忘れえぬ真摯で立派な大学者と、いまでも胸に残っています。
 対談したのはもう、十年も前のことだったでしょうか。来日された折、ご夫妻で訪ねてこられました。
 ―― いやじつは、私はその翌日であったと記憶していますが、博士のホテルにうかがったのです。そのとき、開口一番に、「池田先生は宇宙的、地球的にものごとを考え、そして、個人的、地域的に行動、実践されている方だ」と、感慨ぶかげに語っておられました。
11  宇宙に地球型生命の可能性
 ―― ところで、今年(一九八三年)は例年になく、天文関係の新しいニュースが相次ぎましたね。
 木口 ええ、私も研究者の一人として、たいへんに張り合いのある一年でした。
 ―― なかでも木口さんが最も関心をもたれ、現在の研究に力づけられたのは何でしょうか。
 木口 そうですね。やはり、宇宙に他の「地球型生命」が存在する可能性を追究するうえで、重大な手がかりとなったS・ポナムペルマ教授(アメリカ・メリーランド大学)の実験の成功です。
 池田 教授の研究は、生命の起源に関する一歩前進の成果といえるわけですね。
 ―― 私たちは新聞報道の範囲でしか知りませんが、わかりやすく言えばどういうことなのですか。
 木口 あの研究はたいへんむずかしいものですが、じつは、私が京都大学で教えをうけている林(忠四郎)先生の研究と関連してくる面があります。
 池田 どのような点ですか。
 木口 林先生は、われわれの地球がどうやってできてきたかを研究されています。
 林先生の説は、地球誕生のドラマを、最も明快に解明しているといわれています。
 ―― 世界的にも、最も信用されている理論ですね。
 木口 ええ、この宇宙には無数の銀河系が存在することを理論的に説いた、カント=ラプラスの星雲説を直接継承しています。
 当時、この理論はデータ不足で、ひとつの予見であったわけです。
 しかし現在は、惑星間探査の進展により膨大な量のデータが集まってきています。ですから、この理論が節目、節目で検証できるようになりました。
 ―― なるほど。そうしますと宇宙や天体の解明も、すでにわかっている物理法則から演繹的に未知の現象を推定し、そこからすべてを研究していくわけですね。
 木口 そのとおりです。ガスやチリの集まりである星間雲が重力やさまざまな運動により、詳しくは省略しますが、原始惑星という星の卵のようなものになります。
 この原始惑星は、さらに百万年ぐらいかかり、引力によって星間ガス(原始大気)を取り込みます。この濃い大気は毛布効果と呼ばれ、保温作用をもちます。
 ―― そこに微惑星が落下し、この惑星を熱くしていくわけですね。
 木口 ええ、そのために原始惑星を構成している岩石や金属がすべて溶融し、重い金属は底に沈み、比重の軽い岩石は浮き上がり、しだいに分離が進みます。
 池田 なるほど。地球もその一つですね。
 これがコア(核)とマントル(外套部)の二重層をつくったのですか。
 木口 そのとおりです。地球の場合、ちょうどそのころ、太陽がいまの千倍の明るさをもって輝きだすわけです。その結果、太陽からくる紫外線が地球の大気を吹き飛ばしました。
 ―― その影響で、地球が冷えるにしたがい水分(HO)は海となり、二酸化炭素(C O)は石灰岩として海に溶け、光合成の作用で二酸化炭素から酸素(O)をつくり、現在の姿になったわけですね。
 木口 その間、地球の表面には薄い地殻ができます。地下では溶岩が煮えかえっています。大気中はイオンも多く、いたるところで雷鳴がとどろき、隕石は頻繁に落下していたようです。しかしじつは、その最中に生命体の発生の準備が着々となされていたとみられているわけです。
 ―― なるほど。
 木口 さきほどのポナムペルマ教授の実験では、いまお話しした地球の「原始大気」を想定しています。その混合気体に放電をすることにより、生物の遺伝暗号を担っている五種類の塩基を、ぜんぶ同時につくることに成功したわけです。
 ―― 教授はこの実験の結果、宇宙に「地球型生命」が存在する可能性が高まったと述べているわけですね。
 木口 そのとおりです。
12  生命の発生は絶妙の自然作用
 池田 ところで地球誕生の初期には、生物に有害な紫外線はどうなっていましたか。
 木口 さきほどお話ししたように、大気がなくなってしまったので、そのまま防御されることなく海面下十メートルまで達していました。
 池田 現在でも、その有害な紫外線などの影響で、飛行機が飛べる高さには制限があるわけですね。
 木口 そのとおりです。飛行機の場合は、さらに高エネルギーの宇宙線なども害になるので非常に危険です。乗客にとっては問題はありませんが、長時間滞空する乗員にとっては問題となり、これはきちんと検討されています。
 初期の地球では、この紫外線により水を分解し、わずかにオゾンができます。また、太陽の光による光合成で二酸化炭素から酸素ができ、酸素が現在の百分の一ぐらいまで増えてきます。そのためオゾンが多量になり、紫外線は海面下十センチ以上は入らなくなります。
 ―― そこで、最初の生物が海中に発生するわけですね。
 木口 ええ、大発生します。たちまち光合成で、酸素が現在の十分の一にまで増え、オゾンによる紫外線の遮蔽が完成するからです。
 池田 なるほど。
 本当に壮大であり、また絶妙のなかの絶妙の自然作用という以外ありませんね。溜息が出ます。不可思議という賛嘆の言葉しかない……。
 こうして一切の自然の条件が整えられ、地上に生物が進出したわけですね。
 木口 そのとおりです。地上の生物は、海から生まれたわけです。
 その時期はプレカンブリア代で、現在では六億年以上前といわれています。
 ―― 何もないようにみえる宇宙空間に、地球というかけがえのない天体ができた。そしてその地球に、ありとあらゆる要素がからみあい生命が発生する……。考えれば考えるほど、厳粛な気持ちになります。
 木口 まったく、そのとおりです。
 しかもこの地球も、遠い未来には太陽とともに消滅してしまうわけです。
 池田 まさに地球の「生」と「死」ということになる。
 宇宙に存在する森羅万象、ありとあらゆる生物も、物質も、この厳しき法則にのっとっている。
13  すべてが「生死」を繰り返す宇宙観
 木口 ええ、ですから天文学者は星の進化を研究しているうちに、思わぬひとつのことに気がつきました。
 ―― どういうことでしょうか。
 木口 つまり、われわれの太陽系が死んでも、それで終わりではない。今度はそれがもととなり、また、想像もつかないような時間を経て、再び新しい恒星が生まれ、惑星ができるわけです。
 ―― 再び、太陽系のような構造ができる。
 木口 そのとおりです。その繰り返された太陽系のような惑星に、人間と同じような高等動物が出現するかもしれないと考える科学者もおります。
 池田 なるほど。まことに興味ぶかい話ですね。
 木口 多くの天文学者は、こう考えています。
 星の成り立ちの研究は、現代科学の偉大なる成果である。しかし、その導き出された一つの答えは、じつは、すべてのものは「生死」を繰り返すという東洋仏法の宇宙観だったと……。
 ―― なるほど。たしかに、「生死」が繰り返されるという概念は、西洋哲学には、厳密な意味ではありませんからね。
 木口 しかも、元素の起源の理論からいって、われわれの地球の土も植物も動物も人間も、すべてその淵源は、初期の宇宙にあった簡単な構造の元素にあるわけです。
 またこの宇宙のいろいろな構造、たとえば銀河や星も、その源はビッグバン以降の初期宇宙のウズだった。
 ―― つまり、このわれわれの手や足もそのウズだった(笑い)。気が遠くなるような話ですね。(笑い)
 木口 科学者は、そう考えるわけです。
 たとえば、NASAの宇宙科学研究所の初代所長として有名なジャストロウ教授は、この大宇宙では、無生物界が生物界と相互に密接な関係を結んでいると主張しています。
 ―― なるほど。
 木口 そして教授は、「天文学者たちが語る『創世記』は、西洋の科学とその精神がもたらしたものであるにもかかわらず、なんと東洋の仏教徒や哲学者が考えていたことと、きわめてよく似ている」(『壮大なる宇宙の誕生』小尾信爾監訳、集英社刊)と述べています。
 池田 なるほど。たしかに仏法は、正報と依報を密接不可分なものとしてとらえている。また、御文には「正報をば依報をもつて此れをつく」ともあります。戸田先生はよく、「真実の宗教は、科学と相反したり、矛盾したりしない」と言われていました。まったく、そのとおりと思います。
 木口 ジャストロウ教授はもちろん、仏法の全体を把握しているわけではないでしょうが、原始宇宙のガス雲から人類も生まれた、という革命的発見が、こうした一つの結論をもたらしているわけです。

1
1