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日蓮大聖人・池田大作

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第六章 仏法と宇宙と人生と②…  

「宇宙と仏法を語る」(池田大作全集第10巻)

前後
2  宇宙との対話をした先人たち
 ―― そこで、ちょっとうかがいたいのですが、宇宙を真剣に究め、宇宙への思索を自分自身の目的や人生の糧として活躍した人に、どんな人がいるでしょうか。
 木口 そうですね。古今東西の歴史を問わず自己の可能性を輝かせた人物は、多かれ少なかれ、宇宙に英知を広げていますね。
 たとえば、孔子も荘子も、アルキメデスもプラトンもそうです。近くは、カントもゲーテも、ダ・ヴィンチもベートーベンもシェークスピアもそうです。
 池田 そうですね。
 また古来から、東洋には、「他山の石、以て玉を攻むべし」(『詩経』)とある。
 これは、自らを知るには、他を知ることによって、おのずから明らかになるという意味でしょう。
 ですから人間は、自分より、もっと大きな実在に、とくに大宇宙などと向かい合うとき、閃光が走るような開明と、自己の秘められた力量の開花を遂げることができるのではないでしょうか。
 ともかく、人類史上に輝かしき英知の光をとどめた偉大な人物は、すべてといっていいくらい、宇宙との対話があったと私は思う。
 ―― 近代医学の父といわれているパスツールも、そのようです。
 先日、ある方が言っておりましたが、酵母の発生をコントロールする実験に苦心惨憺していたとき、ふと天文台を訪ねようと思いたち、その地下室を借りて、ついに成功することができたそうです。
 木口 マクロ(極大)の世界とミクロ(極小)の世界を連動させる象徴的な話ですね。
 ―― 「ボーイズ・ビー・アンビシャス」のクラーク博士は、北海道大学(当時は札幌農学校)で八カ月間、講義しただけですが、明治の日本に大きな足跡を残しました。
 このクラーク博士の青春時代も、天体に情熱を向けた毎日だったようです。
 池田 そうですね。クラーク博士は、とくに天与の物質である隕石の研究に熱中し、それで博士号を取った、と聞いたことがあります。
 木口 そうですか。当時(一八五二年ごろ)としては、隕石の研究は、先駆的なことで、その面でもパイオニアであったと思います。
 池田 北海道の開拓に貢献した“クラーク精神”のバックグラウンドですね。
 北海道といえば、明治維新の箱館戦争で、五稜郭にたてこもった榎本武揚がいます。たしか、彼の隕石にまつわるエピソードを、なにかで読んだ記憶があります。
 ―― ええ、のちに海軍大臣になったとき、漬物の押し石になっていた隕石を買い取り、大小三振りの日本刀を作らせた、という話ではないでしょうか。
 池田 そうそう、流星刀といわれていましたね。武揚は、ロシア大使をしていたころ、皇帝の秘宝であった隕石でこしらえた剣を見た。それ以来、自分で鍛錬法を研究し、ついに念願を果たしたわけです。
 木口 そうすると、榎本武揚という人物は、科学者としての才能ももっていたわけですか。
 池田 そうですね。彼は、まことに傑出した人物であったと思います。
3  隕石は人間に最も身近な「天体」
 ―― ちょっと余談になりますが、数年前、司馬遼太郎さんたちと、厚田村を訪ねました。そのとき、江差港に沈んでいる武揚の軍艦「開陽丸」の引き揚げ現場も見に行きましてね。
 流星刀のことも話題になりましたが、世界で十振りもないそうです。
 木口 そうですか、初めて聞きます。隕石は、地上のわれわれが手に取ることができる最も身近な「天体」ですね。
 池田 「隕石」の話を、小学校の五年生のころ教師から聞いて、たいへん感動したことを覚えています。
 帰宅して、すぐ辞書を引いて、調べたものです。すると隕石は、流れ星が燃え尽きないで、地上に落ちてきたものと出ていたという記憶がありますが、どうでしょうか、木口さん。
 木口 ええ、いちおうはそういわれていますが、その起源はよくわかっておりません。考えられていますのは、流れ星は、惑星の間の空間に散らばっている物質が、地球の引力によって猛スピードで大気に突入するとき、摩擦しながら光を出している現象です。これが大規模に起こりますと、流星雨になります。
 池田 古い絵などを見ると、本当にシャワーのように降りそそいでいますね。
 木口 そのようです。この流星現象も、彗星が太陽の潮汐力(場所による引力の差)などで分裂しますと、その尾のあたりに、小さな粒子が流されます。それが、地球の軌道と遭遇することによって起こることもあります。
 ―― そうしますと、彗星の残骸でもあるわけですか。
 木口 そうも考えられますし、火星軌道と木星軌道の間に多数存在している小天体、それでも小惑星といわれていますが、この破片とも考えられています。
 さらに、ある種の隕石、とくに有名なものはメキシコのアイェンデに落ちたものですが、これは、逆に惑星をつくるもととなった材料であると考えられています。
 池田 隕石は、宇宙空間から地球に落ちてきた物質にちがいないのに、結論の出ないのはなぜですか。
 木口 どのようにして地球や他の惑星ができたのか、十分にわかっていないからです。
 池田 なるほど。このような隕石は、世界中で、現在までに幾つぐらい見つかっているのですか。
 木口 約七千五百個と聞いています。そのうち約五千個は、南極のヤマト山脈で、日本とアメリカなどの観測隊が採集したものです。
 池田 隕石を分析すると、地球の過去や、太陽系誕生の歴史がわかるといわれていますが。
 木口 ええ、そういわれています。
 池田 どうして、そうしたことがわかるのですか。
4  隕石には太陽系の歴史が刻まれている
 木口 隕石には太陽系の歴史が化石となって、閉じ込められているからです。とくに微量元素の含まれる割合から原始太陽系がどれくらいの放射能を被曝しているかがわかります。また鉱物が、どのような成分をもっているかということから、それが、どのくらいの温度で熱に焼かれたかとか、どれくらいの速度で冷やされたかということがわかります。
 隕石は、鉱物の成分から、隕鉄、石鉄隕石、石質隕石の三種に分けられます。
 ―― これまで発見されたものは、大部分、武揚が流星刀にした隕鉄だそうですね。
 木口 ええ、世界最大の隕石は、南西アフリカに落ちたホーバー隕鉄で、大きさは約三メートル、六十トンもあります。
 こうした隕石は、だいたい四十五億年前に物質が結晶しているという年代を示しています。
 池田 そうすると、地球の誕生とほぼ同じころになりますね。
 木口 そのようです。隕石は、種類によって、地球のコア、マントル、地殻という内部構造に相当するとも考えられています。
 池田 なるほど。一個の岩石にすぎないものでも、たいへんな歴史を背負っているわけですね。昔から、こうした研究は盛んだったのですか。
 木口 いいえ、最近のことです。
 昔の隕石は、ほとんど博物館に陳列されたり、神社の神体になったりしていました。(笑い)
 ―― そうですね。静岡県のある寺では、玉薬師如来という名で、三百年間も信仰の対象にされていたそうです。
 木口 名古屋の近くの神社では、一キロほどの隕石が発見されたという話もあります。
 ―― 昨年(一九八二年)の暮れでしたか、アメリカが南極で採集した隕石は「月からきた」と発表されましたね。
 木口 ええ、アメリカは、月の石の研究が進んでいますから、予備研究の成果を発表しました。
 池田 アポロ計画では、月の石をどのくらい持ち帰ったのですか。
 木口 だいたい四百キロと聞いています。それが二十カ国ぐらいの、数千人の学者にまわされました。
 池田 私も、ある著名な学者から見せていただきました。月の石の研究で、ほかにわかったことがありますか。
 木口 月が約四十五億年前ぐらいにできたこと、隕石がぶつかることによって、月の表面の、百~三百キロぐらいが、掘り返されていることなどです。
 池田 そうすると、月のクレーターが、火山か、隕石のぶつかった跡か、という論争には、決着がついたわけですか。
 木口 ええ、アポロ15号、17号の調査で、隕石という結論のようです。
 ―― われわれが見て、普通の石と隕石を区別するときの、ポイントは何ですか。
 池田 隕石には、指を粘土に押しつけたときできるような跡がついていますが、あれは拇痕ぼこんというそうですね。
 木口 ええ、ゴルフボールのくぼみに似ています。地球の大気圏と摩擦して、表面の一部が溶けて、浅いくぼみになったものです。
 池田 地上の岩石には見られないものですから、隕石かどうかの特徴になりますね。
 木口 そうです。それと、隕石が大気圏に突入したとき、表面全体に、〇・三ミリほどの、薄い膜のようなものができます。
 その膜には、空気の流れの方向を示すシワが見えることもあります。これも、隕石かどうかを判定する基準になります。
 また、これは専門的な研究で重要になることなのですが、地球や隕石のもとになったガスが、宇宙空間をただよっているとき、近くで二回ほど星が大爆発しています。
 そのため放射能を被曝している、ということもいわれています。ただし、地上に落下したものは人体に影響ありません。
 ―― 星が爆発すると、放射能が出るのですか。
 木口 星の爆発とは、水爆そのものです。
 この爆発で、宇宙は重金属で汚染されてしまいました。ところが、この汚染物質がないと、生命の因子は生じません。
 池田 原子力は宇宙の力だ――という定義は、そういう意義からいわれたのでしょうね。
 木口 そうですね。ですから、みだりに原子力に手をつけると、宇宙のリズムを破壊してしまいます。
 ―― 隕石を見つけたら、どうしたらいいのですか。
 木口 どちらかの科学博物館に連絡しますと、感謝されます。(笑い)
 池田 たとえば、星図にない天体を発見したときは、どうすればいいですか。
 木口 一刻も早く、東京天文台に連絡することですね。連絡がありますと、木曾にある百五センチのシュミット望遠鏡で確認が行われます。
 そのとおり確認されると、すぐ国際天文連合(IAU)の天文電報局に連絡されることになります。
 池田 すると、IAUというものは、世界的なセンターになっているわけですか。
 木口 ええ、新発見が、その年の何番目の発見かということで、発見者の名前が、すぐその天体に命名され、公表されます。
 ―― 彗星の場合も同じですか。
 木口 手続きは同じですが、彗星の場合は発見の早い順に、たとえば今年(一九八三年)の四月、赤外線天文衛星(IRAS)が発見した彗星は、その後、日本とイギリスのアマチュア天文学者が発見しましたので、「アイラス・荒貴・オルコック彗星」というように、発見者三人までの姓をつけることになっています。
5  国連旗と各国旗について
 ―― ところで、宇宙への思いは個人ばかりか、民族や国家にとっても憧憬への標章になっていますが。
 池田 そうです。
 宇宙というものは瞬時たりとも、停滞することない無限の時の流れをもっている。そのなかを、限りある旅をつづけているのが、個人であり、民族、国家であるといえるでしょう。
 ですから本然的に何か、永遠不滅のシンボル、かけがえのない栄光の象徴というものを、個人なり、民族なり、国家がもちたいという心情は、ごく自然なことではないでしょうか。
 木口 世界の国々のさまざまな国旗の模様を見ると、いまのお話がよくわかりますね。
 池田 そうなんですね。天体は無限に高い。そして、永遠に輝いている。
 そこで国家にしても、民族にしても、その理想を追究するときに、その反映として国旗を天体になぞらえていこう、ということになってきたのではないでしょうか。
 ―― このたび、国連本部から池田名誉会長に国連旗が、スイスのチューリヒで、国連広報局長アンソニー・カーノウ氏を通じて届けられたようですね。
 池田 ええ、SGI会長として受け取りました。
 木口 国連旗は、たいへん意義のある旗のようですね。
 池田 そのようです。それには、「国際連合規程」というものがあって、旗の大きさやマークの位置、掲揚する際の規程などに、厳しい決まりがありますね。
 ―― 加盟国の信頼を象徴するものだからですね。
 池田 そのとおりです。第二回の国連総会(一九四七年)で、決議されているわけですから……。
 木口 実際の旗はよく見たことがありませんが、どんな絵柄が描かれているのですか。
 池田 全体は、淡い青の布地。この意味は宇宙空間をあらわしているようです。
 その中央に、北極を中心にした地球が白ヌキに描かれている。さらに子午線が入っておりますね。さらにまた、地球を包むように、両側をオリーブの枝が囲んでいます。
 ―― 国連が平和推進の世界的機構であることを、簡潔にシンボル化しているわけですね。
 池田 そう思います。また、そうあらねばならない国連の使命が、よくわかります。私が国連を大事にしている理由は、道遠くとも、また矛盾もあり、欠陥もあるかもしれないが、現実には国連を全世界の国家ならびに人々が支えていく以外、確実なる平和への秩序はえられないからです。
 木口 フランスのトレッツでは、第一回SGI文化祭が開催されましたが、その会場に掲揚するために、届けられたのですか。
 池田 そうです。
 私どもの世界文化祭では、必ず参加した各国の国旗を掲揚します。
 それを見上げながらいつも思うことですが、太陽、月、星などをシンボル化したものが多いですね。
 ―― アメリカの星条旗は、ワシントン初代大統領の家紋を参考にしてつくったそうですが、五十の星がある。
 ちょっと見ましても、ビルマ(現ミャンマー)十四個、中国は五個、イラクは三個。日本は太陽そのものですが、ウルグアイ、マラウイ、アルゼンチンなどの国旗にも、太陽が絵柄のなかに組み合わされています。
 木口 どちらかというと、イスラム圏諸国は三日月が多いようですね。
 ―― やはり砂漠の国は、昼間のギラつく太陽より、夜の月に安らぎを求めたのでしょうか。
 池田 そういえるかもしれませんね。その太陽と月の関係で国というものをみたとき、次元を変えた、別の観点も生まれます。
 木口 具体的には、どういうことになりますか。
 池田 たとえば、昔のインドを、中国や日本では「月氏国」と呼称していました。
 ですから、釈迦仏法を「妙法」の垂迹としてとらえ、「月氏の仏法」というような場合が、それにあたります。
 木口 よくわかります。宇宙と人間との深い交感は、すべてを物理的にみていくには、ムリがあると思います。
 ―― 人間の心は、深層なものですから……。
 池田 そうです。宇宙大です。
 ですから、国旗を見てもわかるように、この世の自分たちの存在を象徴させようと思うとき、壮大な宇宙の力に、それを求めたのです。
 ―― 同時に、宇宙の実在にあやかることによって、永遠の時間、空間との調和、そしてこれらとの融合を遂げたいという思いも、あるのではないでしょうか。
 池田 そう思います。
 人間は、決していつまでも、混乱や混迷に耐えられるものではない。
 常にその生命的な傾向性からいっても、あくまで調和や融合をめざしていく存在といっていいでしょう。
 木口 そのとおりだと思います。またそうあらねばならないとも思います。
 いまの点について、池田先生は、ブカレスト大学の講演でも披瀝されていましたが……。
 池田 ええ、話しました。
 あの講演では、伝統と近代化との融合という問題について、日ごろの考えを申し上げましたが、たとえば、音楽や絵についてみれば、もっとわかりやすいでしょう。
6  “生命のハーモニー”を奏でる名画、名曲
 ―― そういえば、今秋、フランスからたいへんな名画を招来されますね。
 池田 ええ、東京の八王子にできた東京富士美術館で開催する「近世フランス絵画展」(一九八三年十一月三日から八四年二月二十六日まで開催)です。
 旧知のルネ・ユイグ氏(フランス・アカデミー会員)との友情から、フランス八大美術館の秘蔵のものを出展することになりました。そのためもあって、今回はパリで、氏からこの門外不出になっている数々の作品について、ていねいな解説をうけました。実際に見る名画は、あらためて色彩の美的調和の極致と思いました。
 木口 調和ということを、全体と部分という関係性では、どのようにとらえることができますか。
 池田 そうですね。絵を見て、いくら絵の具やキャンバスを問題にしても、名画が訴えかける美的価値を説明することはできないものです。
 ―― なるほど、音楽もまた同じですね。
 池田 そうです。音符のひとつひとつを取り出して、音響学的に研究してみても、名曲の調べは伝わってこないでしょう。
 名画、名曲には、すぐれた画家や音楽家によって、普遍的な“生命のハーモニー”が奏でられている。
 ここに生命の一念と、自然、宇宙とを貫くハーモニーをとらえ、はずませゆく、たえなる「妙」がありますね。
 ―― 時代を超えて、人の心を打つのは、そのためですね。
 木口 そうですね。私の専門のほうでも、近代天文学の父といわれているケプラーに、『世界の調和』という著書があります。その“生命のハーモニー”を深く思索するなかで彼は、宇宙の秩序を考えました。
 いまから三百五十年も前に、彼は、「天文学は物理学の一部である」と言って、宇宙をキリスト教などの神秘主義から初めて解き放しました。
7  ガリレオなどが作った望遠鏡
 池田 「ケプラーの法則」は有名ですが、彼は望遠鏡も作っていますね。
 木口 ええ、凸レンズと凸レンズを組み合わせたものです。彼の望遠鏡以来、天体は上下さかさまに見えるようになりました。
 池田 写真で見る月面図も、以前は南のほうが上になっていましたが、いつからか、北を上にするように変わりましたね。
 木口 普通はわからないものですが、よくご覧になっていますね。
 池田 いや、私の三男坊が、子供のころから天体狂であったもので、自然に視点がそこにいき、あるとき見比べてみたものです。
 木口 そうですか。アポロ宇宙船が月に着陸してから、月の地図も地球の地図と同じように、東西南北を採用しています。
 池田 なるほど、なるほど。望遠鏡についてですが、ケプラーのものと、ガリレオが使ったものでは、どのくらいの違いがあるのですか。
 木口 ガリレオのは、たいへん簡単なものです。オランダのメガネ屋さんが、望遠鏡を発明したばかりのものを、すぐ取り寄せて自分で工夫したようです。
 望遠鏡の前のほうについているレンズ(対物レンズ)を凸レンズにし、接眼レンズに凹レンズを使っただけです。
 ―― イタリアのフィレンツェの博物館に、ガリレオが使っていた望遠鏡がありますが、長さが一メートル、倍率三十倍のもので、架台にくくりつけただけのものでした。
 池田 私も見た記憶がありますが、よくこれで、月のクレーターや、土星の輪や、木星の四大衛星まで発見できたものと思います。
 ―― 太陽の観測で、初めて黒点を発見していますが、ガリレオは、失明を覚悟して太陽を見つづけたといわれていますね。
 池田 それは有名な話ですね。
 ガリレオの、あくまでも真理を究めようとする強靭な決意と、キリスト教の弾圧にも屈しなかった意志とは、共通のものがある。
 木口さん、いまでは、どのくらいの大きさの望遠鏡があれば、木星の衛星まで見ることができますか。
 木口 レンズの直径が十センチほどの望遠鏡があれば、十分ですね。あるということを確認するだけなら、もっと小さくても大丈夫です。
 ―― 望遠鏡で星を見るための、やさしい解説をしてください。
 木口 そうですね。光は波動になっていますから、望遠鏡の口径があまり小さいと、像がぼけてしまいます。人間の瞳にも同じようなことがいえます。物をはっきり識別することを分解能、あるいは分解するといいますが、望遠鏡は、レンズの直径によって有効な倍率が出ます。
 それで、木星の場合、地球から約八億キロ、木星の衛星イオの直径は四千キロ、その比は二十万対一です。
 そこで、この比に人間がいちばん感じる光の波長=二万分の一センチをかけ、直径十センチの望遠鏡でいいことになるわけです。
 池田 なるほど、そういう計算になりますか。ところで、望遠鏡はどこのものがいちばんいいのですか。
 木口 アマチュア向けなら、日本のものといわれています。東京光学とか、日本光学といった会社が、戦時中、レンズを徹底的に研究しましたから……。
 それに、日本のアマチュアは世界一です。ずいぶん前ですが、BBC(イギリス国営放送)が、日本の天文学者を取材したとき、本職をぜんぜん無視して、アマチュアばかり追っていたそうです。(笑い)
 大きな望遠鏡の場合は、天文学の研究用になりますので、いちがいに比べることはできなくなります。
 東京天文台の望遠鏡は、カール・ツァイス社製です。
8  未知なる宇宙をとらえる眼
 ―― 現在、天体を観測するのに、どのような種類の望遠鏡があるのですか。
 木口 地球は、天空から届く幾つかの光の波長に対して、窓をもっています。一つの窓は電波、もう一つの窓は赤外線、そして普通の光。これらの波長に対しては、電波望遠鏡、赤外線望遠鏡、普通の望遠鏡があります。
 池田 最近は、ロケットや人工衛星に望遠鏡を積んで、紫外線やX線、γ(ガンマ)線でも観測しているようですが。
 木口 ええ、大気圏の障害物がなくなりますので、観測できるようになります。
 それに、近ごろでは、光のような電磁波だけではなく、重力波やニュートリノでも、宇宙を見ています。
 ―― これは作家の埴谷雄高さんが紹介していますが、第二次大戦中、カリフォルニアの太平洋沿岸は、日本の空襲を恐れて灯火管制をしていたので、パロマ天文台の二百インチ望遠鏡(最近まで世界一)は、暗闇が幸いして、多くの星雲が観測できた。
 それが、戦後の天文学の画期的な発達をうながしたというのですが、そういうものですか。
 木口 ええ、観測は条件に左右されますので、灯火管制などは、絶好のチャンスだったと思います。最近は、近くにあるサンジエゴ市の明るさで観測しにくくなっているそうです。
 池田 望遠鏡は、どれも筒形と思っている人も多いようですが、アンテナのようなものも望遠鏡と呼んでいるようですね。
 木口 そうです。赤外線望遠鏡は、普通の筒形ですが、他のものはずいぶん違います。
 電波望遠鏡は、パラボラ・アンテナです。重力波望遠鏡はアルミのかたまりや、サファイアの単結晶です。いまハワイ沖の深海でつくられているニュートリノ望遠鏡は、数千メートルもの厚さの海水が、写真乾板の役目をします。
 池田 おもしろいですね。
 木口 太陽の中心で核燃料が燃えているところを、直接見るニュートリノ望遠鏡は、六百十トンの四塩化炭素です。
 ―― どこにあるのですか。
 木口 サウス・ダコタの金山の奥深く、地下四百四十メートルのところに置かれ、太陽を観測しています。
 池田 私は太陽の写真を見て、いつも不思議に思っているのですが、それは表面が燃焼状態の黒点や、コロナや、ガスのわきあがってくるのが、じつによく写っているからです。いまでは、もっと中心部まで見えるわけですね。
 木口 そうです。
 ―― 世界で初めて天体の写真を撮ったのは、だれですか。
 木口 いまから百五十年ほど前、アメリカのJ・W・ドレーバーという人が、月にカメラを向けたのが最初だといわれています。
 池田 ずいぶんまえから撮っているわけですね。太陽も、カメラを望遠鏡にセットすると、きれいに写せますか。
 木口 写せますが、強烈な光ですから、特定の波長だけを通すフィルターをかけて、露出を工夫します。
 ―― 先日も太陽系を離れて飛行をつづけているパイオニア号から、牽牛星の写真を送ってきましたが、あの程度の写真でも、いろいろわかることがあるのでしょうね。
 木口 ええ、たいへんに重要な資料になります。
 火星や金星の表面写真を専門的に分析して地質がわかり、生物がいるかいないかも、ほぼ決着をつけましたし……。
 ―― たとえ一枚の写真でも、事実がわかれば百の議論も沈黙しますね。
 池田 そうですね。どんなにデータをつくり、理論をつくりあげても、事実にまさるものはないわけです。ゆえに、仏法は「現証」を最も重んじます。
 御文にも、「道理証文よりも現証にはすぎず」、また「文理真正の経王なれば文字即実相なり」とあります。さらに「近き現証を引いて遠き信を取るべし」とも説いています。
 木口 なるほど……。まさに、科学が進歩していく筋道ですね。
 ―― お医者さんの場合も、最近は、診断を下すのに、最終的には写真ですね。
 木口 とにかく、私どもの世界は、どんな立派な理論でも、実際に実験して、そのとおりの現象がなければだれも認めません。
 池田 最もわかりやすい科学性でしょう。
 仏法では、宗教の優劣、浅深を定める基準として「三証」を挙げ、それは「文証」「理証」「現証」といいますが、もともと大乗仏教は、常に科学性をふまえていると思っています。
 木口 たいへんよく理解できるお話だと思います。
 ―― ところで天体との距離ですが、見ていても無限の遠さを思うだけで、実際の距離感覚は、どうしても実感できないのが普通ですが。
 池田 距離は物差しで測るという常識からすれば、たしかに不思議だ。
 しかし、どんな単位でも、しょせんは人間の感覚がつくったものと思いますが。
 木口 そのとおりです。地球と星との距離も、日本地図や、世界地図をつくる三角測量と同じ原理で測ります。
 ―― そうですか。人間には二つの眼がありますが、だいたい六センチ離れています。この六センチの幅で、三角測量すると、どのへんまで見えますか。
 木口 約十キロ先まで感じることができるとされています。
 池田 なるほど、人間は、十キロ先を感じることはむずかしいかもしれないが、しかし不可能なことではない、ともいえるわけですね。
 木口 天体の距離は、ちょうど半年間隔で、たとえば春分の日と秋分の日に、その天体が、はるかに遠い星に比べ何度動いたかを測り計算します。この方法で、約百光年先まで距離が測れます。
 ―― それ以上遠くの天体は、どうするのですか。
 木口 近くの天体を実測し、それをふまえて理論的に出すわけです。
 ですから、一ケタ大きいかもしれませんし、小さいかもしれません。それくらいの精度です。
 池田 そんな“ケタ違い”があっても、天文学者は困りませんか。(笑い)
 木口 ええ、天文学者というのは、たいていは、一ケタぐらい違っても、つぶれないような理論を考えだします(笑い)。しかも、誤差によってどれだけ結果が変わるかについて、いつも十分注意していますから……。
9  仏法で説く「天眼」とは
 木口 それにしても望遠鏡を、よく「天眼鏡」と名づけたものだと感心します。
 ―― 「天眼」とは、仏教の言葉ですね。
 池田 そうです。
 仏法では、「眼には五あり所謂・肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼なり」と説いています。「眼は心の窓」ともいいますが、「見る」ということは、どんな場合でも、知・情・意の働きといえるでしょう。
 ―― ぼやっとしているのを、「うつろな眼」といいますから……。(笑い)
 木口 「光のない眼」とか、「眼は口ほどにモノを言う」とも言いますね。
 池田 そうですね。「光」とは智慧で、口ほどにモノを言うのは、感情や意思が、眼にこもっているということでしょう。
 そこで、仏法は「五眼は五智なり」とも説いている。
 木口 「五眼」とは、それぞれどういう意味になるのでしょうか。
 池田 そうですね。「肉眼」とは、普通の人間の眼のことであり、現実の姿、現象を、表面的に認識できる知覚です。
 木口 たとえば星が出ていれば、経験的に星とわかることですね。
 池田 そうです。ところが、星は夜ばかりではなく、じつは昼間も出ているということを見通せるような一種の透視能力が「天眼」になります。
 ―― 必ずしも、理論を知っているということではないですね。モノが見えるのは、光が粒子の流れであって、眼に入る量によって、明るさや色が知覚できるということ、また昼間の星は、太陽の光のほうが多いから見えないだけだ、という知識がなくても……。
 池田 そうです。遠方の出来事や表面的でない現象も直覚できる才能といってもいいでしょう。
 木口 人によっては、訓練や鍛錬でもつことのできる才能ではないでしょうか。
 池田 そういえるかもしれませんね。
 生まれつきの人もいますし、超能力と騒がれる人もいます。
 ―― 最近も、空間に浮いたヨガの行者の連続写真を撮って、載せていた雑誌がありましたが……。
 池田 「利根」とか「通力」とか、昔は少々狂人的なふるまいをしても、人を惑わせたが、現代のような合理主義、科学万能主義の時代では、そのような欺瞞は、絶対に許されないでしょう。
 あくまでも、生命の法則、真実の法則にのっとった思想・哲学・宗教でなければ、だれからも信用されない。
 「唱法華題目抄」という御文には、「利根と通力とにはよるべからず」と喝破されています。
 ―― 「天眼」については、目連尊者と母親にまつわる故事がありますが。
 池田 それは有名な仏法説話です。
 木口 どのような内容ですか。
 池田 簡単に説明しますと、まえにも触れましたが、目連は釈尊の十大弟子の一人で神通第一といわれていました。
 あるとき、自らの天眼で、餓鬼道に堕ち、苦しんでいる亡母を見つけ、救おうとします。
 ところが、飢えている母親に、食物を与えても火になり、水をかけると、その水が薪となって、ますます燃えさかってしまいます。
 ―― 目連の天眼は、苦しんでいる亡母の因果の姿は見通すことができた、ということですか。
 池田 そうです。生前の母親が慳貪の業で――強欲で、意地悪ということですが、餓鬼道で、五百生という長い間、苦しんでいることを見通すことができたわけです。
 しかし目連は、天眼をもち、神通という特殊な才能をもっていましたが、母親の悲惨さをどうすることもできず、仏の智慧にすがって、やっと救うことができた。
 これが、いわゆる盂蘭盆の起源とされております。
10  「慧眼」とは法則を見いだす英知の眼
 木口 そうですか。よくわかります。昔の人が、肉眼では見えないものを見るための道具を、天眼鏡と称したのも、ピッタリだと思います。
 しかし、望遠鏡でいくら宇宙の現象世界をさぐりだしても、その真理を、いまだ究めたとはいえません。
 ―― 「天眼」で人一倍ものが見えても、それをどう判断するかという智慧ですね。
 池田 そうです。そこで、「慧眼」とは、事物、事象を深く洞察し、正しく判断して、法則を見いだしていく英知の眼ということになります。
 木口 たとえば、さきほども話題になりましたが、ケプラーは、独自の望遠鏡を考案しました。ところが、本人は弱視で、天体観察をしない天文学者といわれました。
 池田 そうですね。なにかで読んだことがありますね……。
 ケプラーは、自分の師匠が生涯をかけてつくりあげたデータを、そっくり受け継ぎ、紙とペンだけで「ケプラーの法則」を導き出すのに見事に成功した、といわれていますが。
 木口 そのとおりです。ニュートンも、その法則から「万有引力の法則」を発見しました。
 池田 みな、仏法で説く「慧眼」の持ち主とみることができます。
 ―― たしかに「慧眼」の認識が、文明の進歩に寄与したことは事実ですが、その認識が、そのまま人類の幸福に、すべてつながっていくとはかぎらないわけですね。
 池田 どうしても、「慧眼」だけでは、大きな価値の自覚や、生き生きとした英知になることはむずかしいといっていいでしょう。
 木口 そのとおりだと思います。
 たとえば、宇宙の力が原子力だ、とわかっても、それが最初に利用されたのは、戦争のためでした。そしていま、世界中が核兵器漬けになっているほどです。
11  「仏眼」とは究極的な悟りの境界
 池田 そこで「法眼」「仏眼」が、大事になってくるのです。
 ―― 「法眼」とは、どのように説かれているのでしょうか──。
 池田 ひとことで言えば、「菩薩の眼」ということになりましょうか──。
 人々を、あくまでも済度していくという、仏法の立場、その次元から、一切を見抜き、行動していくということです。またすべての行動の規範にあって、あくまでも、生命の尊厳観をもっていること。
 とともに、内なる生命の世界にあっては、常に生き生きと、楽しく、くずれざる幸福の大海を遊戯していくような自身を確立していく英知の眼ということになるでしょうか。また少々抽象的な表現になりますが、外にあっては、絶対平和主義の行動。
 木口 その究極的な境界として「仏眼」が、あるわけですか。
 池田 そう言ってもよいでしょう。
 端的にいえば、仏眼とは「宇宙即我」、「我即宇宙」と覚知する境地です。「法華経」の「寿量品」には、「如来如実知見。三界之相。無有生死」と説かれています。
 ―― この「寿量品」の意味は、どのようになるのでしょうか。
 池田 そうですね――。
 まず通途の仏法では、「如来」つまり「仏」という、清浄で、力強く、なにものにも左右されない大人格が、すぐれた直観智で、宇宙および森羅万象の究極の法を「一切皆是仏法」すなわち「妙法」と覚知するのを「仏の眼」ということになります。
 木口 普通、「悟り」といわれる心的過程の最高レベルのことと、とらえることができますね。
 池田 結論としていえばいえるでしょう。
 釈迦仏法では、その境地へ、出世間、脱世俗の立場、つまり、わかりやすく言いますと、実社会を離れて、長い仏道修行と実践によって初めて到達することができるわけです。
 だが日蓮大聖人の仏法では、すべての衆生に、もともと仏眼をはじめ五眼が具することを明示しています。その覚知は、妙法の信によって獲得されるわけです。
 それを、「直達正観」「受持即観心」と説くわけですが……。
 ―― すると「如実に、三界の相を知見す」とは、どのような意味になるのでしょうか。
 池田 仏法で「三界」とは「欲界」「色界」「無色界」のこと、つまりこの現実の世界のことです。「三界の相」とは、この悩み多き迷いの世界の姿のことです。
 その「生老病死」の四苦や「成住壊空」の四劫、「生住異滅」の四相という、有為転変の無常、変化、仮有のこの世界を貫き支え、かくあらしめている大法を覚知するのが「仏眼」といっていいでしょう。
 つまり仏の眼は、そうした社会的に揺れ動いたり、避けがたい変化相の中に、本有常住の大法則、すなわち妙法を見、そして常に、全社会、全世界、全宇宙の実相の深理の中に寂光の確たるリズムの世界を見通している、ということになるでしょう。
 木口 たいへんに深い哲理を感じますが、さらに、「寿量品」の「生死有ること無し」(無有生死)とは、どういう意味でしょうか。
 池田 これは、仏法の生命論の極説であり、仏法の宇宙観の核心になります。
 簡潔に言えば、全宇宙の法則をつまびらかにし、わきまえることによって、「生死有ること無し」すなわち、人間の根本問題である「生死」の理を超越した、永遠不滅の生命の当体を覚知した悠然たる境地に立つということです。
 木口 なるほど、いちだんと仏法からみた生命観に対して、理解を深めることができたような気持ちがします。そうしますと、どこまでも真実の仏法は、現実に「生きる」なかにある、「動」の社会の現実のなかにある、自分の身近な生活のなかにあると、とらえてよいわけですね。そして、そのなかにあってこそ「法眼」「仏眼」を発揮し、薫発させることができるわけですか。
 池田 そのとおりです。
 そこで、御文にも「此の五眼は法華経より出生せさせ給う」と説かれています。
 ですから「妙法」を受持し、信行し、人間革命しゆくところに、おのずから「平和」「幸福」「よき社会」「よき生活」が具現し、また「眼」と「智」と「光」が開覚され、顕示されていくということになるでしょう。
 木口 わかるような気がします。すばらしい仏法の法理であると感銘します。われわれ天文学者の眼は、「天眼」の域を出ていないわけですね。(笑い)

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