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日蓮大聖人・池田大作

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第二章 宇宙と人間の「根本法…  

「宇宙と仏法を語る」(池田大作全集第10巻)

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2  仏法では祈る対象が最も重要
 ―― 「漫荼羅」とは、普通には「本尊」となるわけですね。「祈り」の対象としては……。
 池田 そのとおりです。
 本尊とは、根本尊敬という意味です。また、本尊とは梵語でマンダラといいます。訳して「功徳聚」「輪円具足」ともいわれています。
 ―― 一般的に、「祈る」という行為のなかには、人間の精神のいちばん奥深いところを、最大限に高揚していく働きがあるようですが。
 池田 そうですね。動物にその姿はない。祈りは人間の最も尊い行為だけに、仏法では祈る対象が、最も重要になります。
 いわゆる祈る対象の「本尊」は、千差万別であり、高低、浅深がある。回教の祈りは宇宙の、全知全能の創造主「アラー」に、「アラーは偉大なり」と祈ります。
 聖典『コーラン』(イスラム教の教典)によると、アラーは人間に処罰、報復する恐ろしい力ももつといいます。キリスト教やユダヤ教では、「ヤーウェ」を超越神とします。
 ―― ドイツの哲学者フォイエルバッハは、キリスト教の“神”を、たんなる観念上のものとし、その存在を否定し、神の根拠を人間のなかに求めていますね。
 池田 その問題は、別の機会にゆずりましょう。
 “祈り”の対象は、宗教によってさまざまありますが、高等仏教では、「文」「理」「現」の三証の完璧な裏づけをもった、最高にすぐれたものを「本尊」とすべきである、と仏は断言しておられる。
 ―― その神社が、どこの神社か知りませんが、たとえば八幡神社であれば、八幡がまつられている。この八幡などは、仏法ではどうみていますか……。
 池田 日蓮大聖人の御本尊のなかには、宇宙に実在するものすべてが、図顕されているのです。この八幡については、一般には幡織りの神として、あるいは農耕の神として、日本では、古くから全国的に信仰されていた。
 一説には、八幡の「八」とは、「法華八軸」という意味にとる場合がある。
 また「幡」の「巾」偏は衣装という意味で、旁の「番」は「米」と、「田」という字を書きます。
 これは、米穀の類であるということで、「幡」という字には、衣食二つの恩徳がある、というものです。
 御本尊には、この神も諸天善神のひとつとして図顕されています。
 これは、自己の一念に内在する善法のあらわれを示している、と考えられるわけです。
 木口 なるほど。
 「祈りと本尊」と「科学と宇宙」という組み合わせは、いままで、本格的に追究されたことはありませんね。
 池田 そのとおりです。そのほか、御本尊のなかには、外なる宇宙に実在する生命、天体の運行、調和を図る存在の代表として、大日天、大月天、大明星天等々が、同じく図顕されています。このように、すべてが深い意味にもとづいているのです。
 ですから漠然たる祈りでは、「外なる宇宙」と、「内なる宇宙」との「一念」による深き感応はない。
 木口 いわゆるシャーマニズム的な自然崇拝では、浅い祈り、浅い対境となりますね。
3  「生命とは何か」を解明している高等宗教
 池田 そのとおりです。私どもの信仰する仏法の「祈り」とは、根本尊敬の最極の当体である本尊に「南無」することです。「御義口伝」という御文には、「南無とは梵語なり此には帰命と云う」――こうあります。
 また、梵語の「ナマス」が、仏法では「帰命」ですが、帰礼とか恭敬、帰趣とか敬礼、救我、度我等々にも訳されていますね。ともかく「身・口・意」の「三業」という人間の、一切の生命活動が、「祈り」の一念の姿に総結集します。
 木口 「祈り」ということについて、それほど多くの「言葉」があるとは知りませんでした。
 ―― すると「祈り」とは、人間の生命の、最高の発動ということでしょうか。
 池田 そのとおりです。
 ですから祈る対象の「本尊」が、重要となってくるのです。
 日蓮大聖人のあらわされた漫荼羅の御本尊は、「功徳聚」ですから、「祈りのかなはぬ事はあるべからず」(「祈祷抄」)というのは当然なのです。
 ともあれ、さきほどのエピソードは、科学というものに限界のあることを、まざまざと、みせている感じがしますね。
 天文学といい、科学というも、元来、生命の故郷から、無限の、神秘の時空に挑戦していく学問といえますから、どうしても、内なる生命の内奥に迫ることが、同じく必要となってくるのではないかと思います。
 木口 そのとおりだと思います。宇宙の科学は、たしかに進歩してきたが、ただいえることは、科学で解明できる問題のみを扱ってきた点を、そして、解明できない部分を無視してきた点を、知らなければならないと思います。
 池田 その解明できない分野が、生命の問題ではないでしょうか。
 木口 まったく、そのとおりです。
 池田 現代社会ではこの生命を明快に解明しゆく高等仏教までも、数多くの宗教と並列されて、すべてが非合理的なものとして、邪魔もの扱いにされてきたむきがある。それは、大きな過ちであり、アーノルド・トインビーをはじめ、偉大なる知性として人類的な規模で貢献をしてきた学者が、最後に志向しているのは、いわゆる高等宗教への次元になっている。
 その意義から、大乗仏教をはじめとする高等宗教というものに対する真摯な探究の必要性が迫られている時代に入ったといえないでしょうか。
 この一点にめざめないかぎり、最も重要な人間性の完全なる覚醒、完全なる文化の昇華はありえない、と私は思っています。
4  人間の一念にある“幸と平和”
 ―― 最近のマスコミでも、科学がいまだ到達しえない普遍的実在に対応するという「アナロジー」という言葉や、人間意識の深層に注目する「知の変革期」ということが、よく話題になってきていますが……。
 木口 たしかに「知の変革期」にきておりますね。ただ、しからばどうしたらいいのか、という具体論がみあたらない。それが、知識人の大きな迷路となっているようです。
 池田 そう思いますね。大宇宙に、久遠劫初より存在する法則というものは、……科学を支配する電磁気の法則、宇宙の進化を支配する重力の法則等々、それらの法則も、すべて人間の生命のなかに、同じくあったがゆえに科学が解明でき、発見につながったといえるでしょう。
 ですから、せんじつめれば、すべての法則というものは、自身の生命というものを離れて単独に存在しているのではなく、すべて関連性のなかの存在ととらえるのが正しいのではないでしょうか。
 仏法では、「依正不二」と、それらを説いています。
 簡潔に言えば「正報」は主体、「依報」は客体ということになります。また、「一生成仏抄」という御書には、己心の外に法なし、とも説いています。
 したがって久遠劫初より、宇宙には、それ自体の、すべての法則が存在していると同時に、人間自身の内奥にも、同じ法則が存在している。ゆえに、これまでの人類の歴史は、それらを引き出し、発見し、発明してきたのです。ですから、それらの成果のすべてが、人間生命の“幸と平和”のために、活用されていかなければならないのは当然です。
 ―― そうした法は、あくまで人間の一念にあると、こうみてよろしいでしょうか。
 池田 そう思います。
 ですからこの点も、仏法では明確で、具体的です。「総勘文抄」という御書には「此の身の中に具さに天地に倣うことを知る」とも説かれています。そこでは、「我即宇宙」「宇宙即我」という関連性を、わかりやすく譬喩を含めながら人間の身体にあてはめて説いております。
 大きくみると「頭」が円かなのは「天」であり、「足」が方なのは「地」、「身の内」の空間を「虚空」ととらえます。
 「腹」が常に温かい状態は「春夏」で、「背」が剛いのは「秋冬」と、四季にあてはめております。
 また頭、手、胴、足の「四体」を、春夏秋冬の「四時」にのっとっているともとらえています。両手、両足にある、各三つの大節を「十二カ月」、小さな節が三百六十あるのを「三百六十日」。さらに「鼻」の呼吸は「山沢渓谷の中の風」、「口」で呼吸するのを「虚空の中の風」。
 木口 カゼをひいたら、台風ですね。(笑い)
 ―― 竜巻やハリケーンは、自然の病気ということですね(笑い)。……とまれ、宇宙と人間の関係について、鋭く迫っている、ということでしょうか。
 池田 そういえるでしょう。
 さらに「眼」は「日月」、まばたきするのを「昼夜」とみます。
 「髪」は「星辰」であり、「眉」は北斗七星、「脈」は河の流れ、「骨」は「玉石」になり、「皮肉」は「地土」、毛は樹木が繁茂した「叢林」というのです。
 木口 土地が疲弊すると、草木は枯れていきますが、毛も年齢とともに……。(笑い)
 ―― 「アデランス」は、人工芝。(笑い)「温泉」は地球の「小便」(爆笑)。「噴火の溶岩」は「大便」。(爆笑)
 池田 心臓、肝臓、脾臓、肺臓、腎臓の「五臓」は、「天に在つては五星」とありますが、水星、金星、火星、木星、土星とみていいでしょう。
 木口 じつに豊かな直観智といえるとらえ方だと思います。
5  科学は人間から離陸し人間に帰還する
 池田 いわゆる真理を求めゆく人間の知性とか好奇心とかは、その追究しゆく科学が、最も大切な人間の生命とのかかわりあいをまったく失ってしまった場合、まことに不幸であり不自然となる。
 ゆえに、科学は人間から離陸し、また人間に帰還する。
 そしてまた、これを繰り返していくところに、正しい科学観、生命観の樹立がなされるのではないでしょうか。
 木口 そのとおりです。たしかに宇宙の科学は、生命科学にかこまれた環境で育ってきたといえます。
 私も多くの天文学者を知っていますが、多くの学者にとって天文学は、最終的にはこの宇宙のなかで、人間がどのような立場にあるのかを明らかにしなければいけないと考えているようです。
 そこまでいかなければ、天文学は終わらないということです。
 ですから、宇宙を究明する科学者は、なにか超越的なもの、人知を超えたなにものかに手を合わせるということに、一般の人が考えるほど抵抗はありません。厄年には、お祓いに行く科学者も少なくありませんし……。(笑い)
 ―― ただ科学の粋を結集した人工衛星と神社では、やはり、一種のブラック・ユーモアですね。(笑い)
 池田 そうですね。
 宗教心のあらわれではありましょうが、厳密に論ずるなら、それらは、ただの習慣的なものとみたいですね。
 ―― 最先端にたつ科学者でも、もはや「祈る」以外にないわけですからね。(笑い)
 木口 多くの学者は、深遠な仏法を知らない。
 ですから、理論や分析を徹底的に駆使はしていくが、最後は、僥倖を祈る以外には、なくなってくるわけです。(笑い)
 ―― 先日も宇宙連絡船チャレンジャーは、〇・〇〇八秒、「一秒の千分の八」だけの遅れで打ち上げられました。驚くべき精度です。
 アメリカでは、トップレベルの研究者が、みな宇宙開発の分野に独占されたので、鉄鋼や家庭電器、自動車などが、いずれも停滞産業になった、という人もおりますが……。
 木口 ええ、宇宙連絡船に積み込まれている、さほど大きくない有人宇宙実験室、よくテレビに映りますが――この技術に、先端企業が千社も参加しています。
 ―― テレビの中継を見ていますと、インタビューに応じる宇宙飛行士や関係者、第一線の科学者ですら「あとは成功を祈るだけ」「無事に帰還することを祈る」とか、ずいぶん“祈る”という言葉を発していたのが、たいへん印象に残りました。
 池田 つい最近まで、宇宙空間というものは、われわれ生物にとって「死の環境」でしかなかったといえますね。
 大気は、宇宙空間へ向かって五キロ上昇するごとに半分になっていく。
 だんだん減っていって、まったく空気のない大気圏外まで、地表から約六万キロでしょうか。地上の距離にすると、ナイル川の約九倍。空気の層は、薄いといえば薄いものですね。
 ―― いままで死の空間であった宇宙が、人間にとって「生の環境」に変わっていくわけである、と。
 その第一歩を、現代の科学が印したわけですね。
 池田 そうですね……。
 宇宙への進出は、地球上の生命発生以来の進化の歴史からみて、たしかに何十億年に一回あるかないかの画期的な出来事といえるでしょう。
 ―― 名誉会長が、かつて、二十一世紀を「生命の世紀」と言われたのは、こうした人類の歴史の、一大転換点という意味においてでしょうか。
 池田 それは、もちろん人間の「生死」という、根本問題の世紀という意味も含んだつもりですが……。
 宇宙と生命という次元からいえば、空前の時代環境に突入した、ともいえるでしょう。
 木口 その意味で、われわれ天文学者の任務は、まことにたいへんになってくると思います。そして、その解明が、人間をしていかなる開化とドラマを演じさせていくかの大きなカギとなっていくような気がします。
6  生命は無始無終の実在
 ―― そこでまえに名誉会長が、“忘れられない一節”として「総勘文抄」の、「我が心性を糾せば生ず可き始めも無きが故に死す可き終りも無し」という御文を示されましたが、簡単に言えば、どういうことなのでしょうか。
 池田 そうですね。簡単に言えば、わが心性、すなわち一念の生命というものは無始無終で、死によってこの地球上、この宇宙から消滅するものではない。
 もともと、生死を超えた永遠にわたる生命の実在がある。全世界を焼尽する大火にも焼けず、水が災いして朽ちらせることもできない。剣に切られるものでもなく、弓をもって射られることもできない。
 きわめて小さい微塵のような芥子粒に入れても、芥子粒が広がることはなく、また広大無辺なる宇宙のなかに遍満しても、宇宙自体が広すぎるということもない、というのです。つまり一念の生命というものは、生死、生滅、大小、広狭の相対性を超えた不変の実在である、ということなのです。これが生命の実像であると思いますが……。また、むずかしくなって申し訳ありませんが……。(笑い)
 木口 生命の不可思議さですね。物理学でも、時間や空間はなめらかにつながっているという事実だけが絶対で、時間も空間も、その量的な側面に関しては観測に対して相対的なもの、つまり、立場を変えれば変わってしまうものになってしまいます。
 池田 ですから、生命というものは「時間」「空間」を貫いている無始無終の実在といえる。これを、仏法では“我”と論じます。
 ―― この生命の最も中核になる“我”を明かしたことが、仏法の核心ではないでしょうか。
 池田 そのとおりです。
 仏法では“我”の内容を、「其の身は有に非ず亦無に非ず 因に非ず縁に非ず自他に非ず 方に非ず円に非ず……」と、三十四も「非」を並べて説いている。厳然と実在している「我」の存在を、「法華経」の開経である「無量義経」という経典で論じたものですが……。
 これは、たんなる否定ではなく、一方的表現では断定しきれないということです。つまり直截な形容では、表現しきれない、宇宙の生命の輪郭は、否定し否定を重ねたうえで、その究極において肯定するかたちでしかあらわせない、「其の身」として説き明かした、ということです。
 木口 哲理としても非常に深い教えと思います。
7  科学的頭脳で仏法の思索を
 池田 ただ、地球というひとつの小さな惑星だけをみても、「有限」であるし、生物を豊饒ならしめゆくガス体の太陽といえども、その寿命は、あと五十億年といわれている。
 ですから、カントの思索や、またガモフの宇宙論などからみてきたように、現代の天体核物理学や量子力学など、多くの学問が実証しようとしている「無限の宇宙」こそが、生命を思索する舞台としてその準備をようやく整えた、と私はみたい。
 木口 なるほど、私も科学を、さらに深く広く探究していく立場にありますが、生命の不可思議さも、さらに深く探究する必要を感じますね。
 科学がさらに進歩しゆけば、仏法が理解される速度も、さらに早まることになるのではないでしょうか。
 池田 そのとおりです。
 仏法には、よく「一念三千」「六万恒河沙」「三千塵点劫」「五百塵点劫」「十界互具」「百界千如」「空仮中の三諦」「十不二門」「十二因縁」等々、明快な数量で生命観、宇宙観に対して、精密に迫っている。
 ですから“科学的頭脳”による仏法の思索、探究は、たいへん必要なことなのです。
 ―― 文学も仏法でいう「十界互具」の変化の世界です。森羅万象を、企画や取材の対象として観察していくマスコミ人の立場としても、重要な発想の基盤があることを感じますね。
8  仏法からみた地球外生物の存在
 池田 二十数年ほど前ですが……、あるとき、戸田先生が、「いま人類は、地球上に三十億いる。しかし百年後には、自分も含めて、いま実在する人は、一人もいなくなる」「それを深刻に思ったときに、恐ろしくなった」と言いながら、「どうしても、宗教なかんずく、高等仏教への研究、行動が、必要課題となった」と言われ、それが先生の一つの入信の動機となったと聞かされたものです。
 木口 なるほど。たしかに、そのとおりですね。現代人はそれぞれの仕事に追われて、なかなか、ひとり厳しくそのような深刻さを、感じなくなったのでしょうか。(笑い)
 池田 ともかく、この大宇宙のなかで、人間という存在は、まことに微小であるかもしれない。ですから、真摯に自分をみつめ真摯に宇宙をみていきたい。
 人間が、人間を殺すという戦争などは、絶対にあってはならない。
 いわんや、原爆や水爆を使用するなどということは、極悪中の極悪ですね。
 木口 そのとおりと思います。
 ―― 同感ですね。
 池田 大宇宙からみれば、まことに稀少な人類は楽しく平和に、なんの悔いもなくともどもに一生を送っていく努力をしなければならない。
 有名なフランスの哲学者であり、数学者でもあるパスカルは、「この無限の空間の永遠の沈黙は、私に恐怖をおこさせる」と言っていますね。
 木口 ええ、彼の『パンセ』という本にある、その言葉を、三百年たった今日、月に立った飛行士が、口にしていました。
 ―― ずばり言って、この宇宙に、人類と同じような生物がいると思われますか。
 池田 存在しても不思議ではないと思うし、さきほど申し上げた“我”という実在は、電磁波、重力波等と同様に、宇宙に遍満し、存在していることは考えられる。ですから、その生物発生の諸条件が整った惑星があるとするなら、間違いなく発生するとみたいですが……。
 この点については、モスクワ大学のログノフ総長は「その可能性はある」とし、またソ連、モスクワ科学省の方も、「それは可能である」と……、先日お会いしたアメリカの社会学者も「いると思う」と言い、トインビー博士も「いると思う」と語っておられた。科学者、社会学者ともに、いることが可能だと言っている。
 この点については、木口さん、どうでしょうか。
 木口 条件がそろえば当然ですね。
 ただ「E・T」(地球外知的生物)は、太陽系のなかには、いないようですが。(笑い)
 ―― 無限大の宇宙からみれば、月までの距離は、わずか一光秒強(光速で一・三秒)です。
 地球から、最も近い恒星(アルファ・ケンタウルス)までの距離は、四・三光年です。
 人類が月まで行ったといっても、太陽系外のいちばん近い星へ行くのに比べますと、なんと一億分の一にもならない。まだ、それしか飛び上がっていないわけですね。
 池田 最近ある方から、地球の人類が残したもので一つだけ、月から肉眼で見えるものがある、……それは「万里の長城」であると聞きましたが……。
 木口さん、「光年」という単位をキロに直すと、どのくらいになるのですか。
 木口 ケタちがいの大きな数を、俗に“天文学的数字”といいますが(笑い)。宇宙に関する数字は、一般の日常生活からおよそかけ離れた大きな数字になってしまいます。有限の地球的な感覚では戸惑ってしまいます。無限大の宇宙のことですから、しようがありませんが……。(笑い)
 一光年とは、光が一秒間に三十万キロ進みますから、一年ですと、九兆五千億キロになります。
 具体的には、地球の半径は六千四百キロですから、一秒間に、地球を七周半する距離です。
 池田 地球がでてくると、とたんに人間くさい。(笑い)
 仏法では、抽象的で、言い表しにくい事柄、難解な法門などを、だれにも、わかりやすく理解できるよう、多くの「譬喩」が使われています。
 その法の真義を、わかりやすく説き明かすため、事物、事象、事柄を借りながら、説明しているのが譬喩です。この譬喩も重要な仏説になっています。「三車火宅の譬え」「長者窮子の譬え」「譬如良医の譬え」など「法華経」にも七譬といって、七つの譬えがあります。
9  「法華経」こそ仏教の最高峰
 ―― なるほど。ふくらみを感じますね。仏法には「五時八教」というものもありますね。専門家である名誉会長に、ぜひうかがいたいと思います。
 池田 そうですね。簡単に触れますと、仏教の立て方の流れは、「華厳」「阿含」「方等」「般若」「法華」になり、衆生の機根に応じて、宇宙の実像の一端と生命の部分像を説き明かしています。それが、いわゆる小乗教とか権大乗教といわれるものです。
 その究極が、完全なる生命観、宇宙観を説き明かした法門の「法華経」となる。それを実大乗教といっていますが……。
 「法華経」は八巻二十八品で構成され、なかでも「四要品」のうちの「寿量品」が中枢になります。
 そしてこの「寿量品」にも、経文を文字どおりに読む「文上」と、元意を読み取る「文底」とがあります。
 その「寿量品」の「文底秘沈」、つまり文の底に沈められた「無始無終」「無量無辺」「円融円満」の大法が、われらの信奉する「妙法」なのです。
 ―― ちょっと教えていただきたいのですが、「方便品」では、智慧第一の舎利弗(釈尊十大弟子の一人)に、「諸仏の智慧は甚深無量なり」と説きますが、非常に深く、量ることができないとは、どういうことでしょうか。
 池田 むずかしいことは略させてもらいますが……。
 外なる宇宙が無限であるのと同じく、小宇宙である人間の生命もまた、境界線などはない。
 それを「境淵無辺」といいます。果てしのない広さと深さです。
 「境」となる「淵」もない、無限の広さと深さをもつこの宇宙生命を、仏の智慧は、あますところなく満たしている。
 水にたとえるなら、その「智水」の量は、量ることもできないほどであるから「無量」と説くわけです。
 ―― 要するに、仏教の最高峰は、「法華経」となりますね。
 池田 そのとおりです。
 ―― その根幹をなすものは、「寿量品」であるということですね。
 池田 そうです。
 「寿量品」は、端的に言うならば、永遠の生命を説き示された経典といえるでしょう。とくに「寿量品」のなかに「自我偈」という有名な文がある。その「自我偈」の初めは「自我得仏来」から始まり、「速成就仏身」で終わります。その初めの「自」と最後の「身」で「自身」の生命の長遠を意味しているわけです。
 木口 「法華経」には、完全なる生命観・宇宙観が説かれているといわれますが……。
 池田 そうです。自分自身という次元からは「法報応の三身」ととらえ、また宇宙観的次元からは「空仮中の三諦」とも論じられるという一考察があります。
 ―― すると、「法報応の三身」とは?
 池田 本来、三身とは仏の身にそなわった三つの働き、力用をいいます。「法身」「報身(般若)」「応身(解脱)」といって、「法身」は根源の法の当体それ自身。
 「報身」とは、深い智慧のこと。
 「応身」とは、自在の境地への力用を起こすこと。
 ひとことで言うならば、そのようにいえると思います。
 木口 すると「空仮中の三諦」は?
 池田 これは諦観すなわち諦らかに観るということで、たとえば「法華経」それ自体が、生命それ自体の「内なる世界」の実相を、あますところなく説き明かしており、また宇宙全体を一個の生命体として、その実相と力用を明かしているということです。
 ですから、少しわかりやすく言えば、「空諦」とは、大宇宙それ自体を一つの本尊ととらえることができる。
 「仮諦」とは、自分自身も、小宇宙の、一個の本尊に等しき生命体であるととらえる。
 「中諦」とは、それらを本源的に合致せしめゆく「法」すなわち「南無妙法蓮華経」と開顕した、仏の出世の本懐である中道一実の……すなわち「中諦」の根本的法、すなわち、中諦の本尊ともとらえることができると思います。
 木口 なるほど、少々わかるような気がしますが……。
10  人間の傲慢さが地球までも滅ぼす
 池田 したがって、その中道一実の本尊に、われわれ凡夫は南無し帰命していく以外に、「外なる宇宙」の世界のリズムと、自らの「内なる世界」のリズムとを合一させ躍動させゆく方法はないということになります。
 ―― ともかく、宇宙とか大自然のなかでは、人間の位置はたいへんに小さいと思うし、それだけに、謙虚さをもっての思索が、たしかに必要な時代になっていると思いますね。
 池田 そのとおりです。人間の傲慢さは、やがて自らを滅ぼし、地球までも滅ぼしてしまうかもしれません。
 木口 まえに仏法で説く宇宙観は、「無記」であり「無作」である、とお話しされましたが、たしかに私も認識を深めていかねばと思います。
 池田 宇宙観も、時代によって千変万化していますね。
 ―― たしかに、その時代時代での人々の、思索の糧になっていたようです。
 木口 江戸時代でも、後期のころになりますと、ヨーロッパからガリレオの地動説や、ニュートン力学なども紹介されましたね。
 ―― 幕末の開明家、佐久間象山などは、西欧の天文学の書物を原書で読み、自分で天体望遠鏡までつくっていたといわれています。
 池田 広大な宇宙に思いを馳せながら、地球のなかの世界と日本を思索していた……、いいですね。(笑い)
 木口 いまの政治家はどうでしょうか……。(笑い)
 池田 象山の、開明性、独創性は、そこから生まれたという人がいますね。そして維新の志士も、至誠あふれる提言を求めて、全国から、彼のもとにやってきた。
 ―― 象山が幕末勤皇の志士である久坂玄瑞や中岡慎太郎らと交わした議論を、かの高杉晋作は「豪談」と称していますが、おもしろいですね。
 池田 火花を散らしている。
 木口 幕末より、少し時代がさかのぼりますが、宇宙観では、仏教の須弥山説をめぐって、激しい論争があったようですね。
 池田 仏法の本流にとっては、枝葉末節の議論とみていいでしょう。仏典によく出てくる宇宙観は、さまざまな次元と角度から説かれています。
 たとえば、古代インドの世界観をふまえた「須弥山」を中心とする世界は小世界。その千個の小世界を小千世界、小千世界の千倍を中千世界、さらにその千倍を、広大無辺を示唆する「三千大千世界」。
 一方、無時限の時間の流れ、永遠性をあらわすとみられる「塵点劫」。
 無数、無尽数という、数かぎりのなさを志向する「那由佗」「阿僧祇」などがある。これらには、真理への鋭い洞察と深い把握があり、そこから展開されているのです。ですから、譬喩それ自体を議論しても意味がないのです。
11  木口 そこを違えると、主客が転倒してしまうわけですね。
 私が思いますのに、科学の分野でも、一つの論理を、私たちの身近なものにおきかえることによって、その論理の有力な武器になり、さらに科学する人間自身の発想に貢献します。このようにして認識が深まりますと、科学を推進する大きな力になっていきます。
12  ブラック・ホールと地獄界
 ―― ところで、よく最近、宇宙の「ブラック・ホール」というものが話題になりますが……。
 池田 仏法で地獄というのは、ブラック・ホールのようですし、一致しますね。(笑い)
 ―― 木口さん、ブラック・ホールについて、少し説明してください。
 木口 そうですね。簡単に言いますと、星が自分の中心の一点に向かって落ちつづけ、すべてのものを破壊しつづけている状態です。星の終末化したときに起こる現象とされていますね。
 ―― ある西洋の詩人が、ブラック・ホールに近づくすべての物質を吸い込んでしまうのを「地獄」と言っていますが……。
 木口 イギリスの天体核物理学者、N・コールダー博士は『宇宙を解く鍵』(山口嘉夫、岡村浩、中澤宣也訳、みすず書房刊)のなかで、ブラック・ホールを科学の理論で地獄をかいまみたという趣旨のことを言っています。
 そして、まことにリアルに重力の本質を描いています。
 ―― 具体的には、どのようにですか。
 木口 たとえば、こんな表現です。「宇宙飛行士がブラック・ホールにつまずいたと想像してみよう。(中略)(ものすごい重力に)捕えられ、つぶれてしまう前に、この軽率な宇宙飛行士はまずスパゲッティのように引き伸ばされるであろう。災難のきざしはまず彼の髪が逆立ち、手足を重く感じ、頭を軽く感じることから始まるだろう。血液は手足に行き、幸いにも意識がなくなり、それから身体が肉へ、分子へ、原子へと分解し、最後にはブラック・ホールに落ちてゆく長い粒子線となるだろう」(前出)。
 身体がスパゲティのようになり、引き裂かれてしまう現象は、アインシュタインの重力理論から正確に導き出せます。
 たしかに、宇宙の地獄界になります。
 池田先生の言われた、仏法の地獄にも相通じますね。
 池田 私はよくわかりませんが、以前聞いたところによると、このブラック・ホールは、宇宙のいたるところに、重力の穴をあけて待っているそうですね。
 木口 そうです。
 池田 しかもこの穴の中に落ち込むと、重力に押しつぶされて、われわれの知らない忘却のかなたに追いやられてしまう。またその穴の中心では、時間も空間の広がりもなくなるといわれていますね。
 木口 そのとおりです。一日も早く、ブラック・ホールの実体をさぐりだすのが、私どもの研究課題になりますけれど……。
 池田 最後は、ブラック・ホール自体が、重力波の強烈な爆発を起こしてしまう。そして自分自身が、大宇宙のなかに消滅し去っていく、といわれていますね……。
 木口 ええ、イギリスの天文学者ホーキングの、いわゆる蒸発理論によると、そうなりますね。
13  生命には十種類の変化相
 ―― このブラック・ホールの問題は、宇宙の時空、重力波エネルギーなどの関連から、またなにかの機会に、論じてもらえればと思います。
 それにしても、地獄へ堕ちる人間は、息をのむような凄惨なものですね。
 ところで「地獄」「餓鬼」「畜生」の三悪道の住人は、中国の古典『十八史略』では、「大姦は忠に似たり。大詐は信に似たり」の姿をとるのが、常のようですが。(笑い)
 池田 これらの姿は、われわれが、よく見ているところです。(爆笑)
 いまのは地獄の話ですが、「観心本尊抄」という御書に「夫れ一心に十法界を具す」とあります。
 端的に言えば、生命自体の十種類の変化相、生命が内より感じている境地を、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏と説いています。人間の生命の具体的な姿、幸、不幸という境涯のことです。
 なお、「総勘文抄」という御書には、「草木・樹林・山河・大地にも一微塵の中にも互に各十法界の法を具足す」とあります。宇宙のありとあらゆる存在に、十界が厳然とそなわっているというのです。
 この十界の衆生の住む所は同じ界で、たとえば地獄の生命の人が住むところは、そこもまた地獄ということです。
 木口 地獄界には、多くの種類があると聞いていますが。
 池田 そうです。一説によれば、「八大地獄」には、おのおのに十六の小地獄があって、全部で「百三十六」になります。
 おおまかな分け方は、等活、黒縄、衆合、叫喚、大叫喚、焦熱、大焦熱、大阿鼻(無間)となり、それぞれに十六地獄がある。
 とくに大阿鼻(無間)地獄の状態を、「顕謗法抄」という御書には、「若し仏・此の地獄の苦をつぶさに説かせ給はば人聴いて血をはいて死すべき故にくわしく仏説き給はずとみへたり」と説かれている。
 木口 ブラック・ホールは、私たち研究者のなかでもまだナゾですが、さきほどのN・コールダー博士は、地獄のひとつの姿である、身体がバラバラになる凄惨な姿を、科学の理論によって解明したことになります。
 ―― よく胸が裂けるほどの悲痛といいますが、最近、アメリカのある医学者が、強烈なある悲しみが原因で心臓が破裂した患者の例を報告しています。
 池田 なるほど。それは、精神的に耐えがたい激痛とみられます。宇宙も人間も、まだまだ不可思議の当体といっていいでしょう。
 木口 餓鬼界から仏界まで、簡単に言うと、どうなりますか。
 池田 大聖人の眼は、生命の本質を明快にとらえられています。
 「観心本尊抄」という御書に「しばしば他面を見るに或時は喜び或時はいかり或時はたいらかに或時はむさぼりり現じ或時はおろか現じ或時は諂曲てんごくなり、瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生・諂曲てんごくなるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり」と簡潔に説かれています。
 この「我」の実体を究明するのも、科学の大切な課題ですね。
 木口 そのとおりです。さきほど池田先生が指摘されたように、科学はもっと人間に帰還しなければと思います。
 ―― 最近、フランスの民族学者の書いた『伝統社会における肉体』(F・ルークス著)という本が、ちょっと注目されています。
 その著者は“宇宙の中心としての肉体”を考察し、肉体を「宇宙を貫いて、日常的な土地への定着」ととらえ、「天空世界をつなぐ架橋」ととらえた、なかなかユニークな研究です。
 池田 人間探究は、学問の世界はもとより、時代それ自体の勢いになった、と私はみたい。
 仏法は「人間」を、「色心不二」の当体ととらえます。簡単に言えば、「色」とは肉体、「心」とは「精神」になります。この一体化が生命であり、「人間」です。
 木口 ところが、この人間存在を、これまではトータルにではなく、バラバラに究明しようとしてきましたね。
 池田 ともかく、科学も医学も「人間」の基準を模索し、模索しながら今日まできたのではないでしょうか。フランスの哲学者ベルクソンや、スイスの精神病理学者ユングは、むしろ精神面でしたね。
 ―― そのへんの問題は、また詳しくお聞きしたいと思います。
 ところで、餓鬼道については、釈尊の弟子、目連と母親の話がよく知られていますが。
 池田 そうです。
 神通第一といわれた目連尊者が、天眼でみた餓鬼の姿ですね。
 これは「盂蘭盆御書」に、「餓鬼道と申すところに我が母あり、む事なし食うことなし、皮はきんてう金鳥むしれるがごとく骨はまろき石をならべたるがごとし、頭はまりのごとく頸はいとのごとし腹は大海のごとし、口をはり手を合せて物をこへる形は・へたるひるの人のをかげるがごとし」と説かれています。
 目連尊者が、食を与えようとすると、火となって燃えてしまう。
 これは餓鬼道に堕ちた者の生命の奥から突き上げてくる焦燥感を、火炎という表現にしたのだと思います。
 木口 満足をしらない生命の状態ですね。
 ―― 現代の、異常な消費文化は、果てしなき欲望の世界ですね。(笑い)
 池田 畜生界は「新池御書」に「畜生は残害とて互に殺しあふ」と説かれており、また、この生命傾向を「佐渡御書」には「畜生の心は弱きをおどし強きをおそる」と説かれています。
 目先のことにとらわれ、最も大事なこと、本質的なことを知ろうとしない愚かな境界のことです。
 ―― さきほどの御文の「諂曲なるは修羅」とは、へつらい、曲がった心根ですか。
 池田 利己心、慢心ということです。
 一説には、「修羅は身長八万四千由旬、四大海の水も膝に過ぎず」(「三重秘伝抄」)ともあります。
 これは、さも自分が大きい存在であるように錯覚し、おごりたかぶる生命の状態のことです。
 木口 「阿修羅」とも、よくいいますが。
 池田 小心、無力さをむしろ荒々しくふるまうことによって、カムフラージュすることでしょう。(笑い)
 ―― 醜い自己顕示の姿ですね。
14  六道輪廻と四聖
 池田 そうです。地獄・餓鬼・畜生は「三悪道」、修羅界を入れて「四悪趣」です。不幸といわれる人間の姿を、仏法はこのように詳細に説き明かしているわけです。
 また「人界」とは、「平かなるは人」とあります。人間的な自我の大地に立脚した境界になりますか。
 仏法では、人間について、「聡明」「勝」「微妙な意識」(意微細)、「正しく物事を判断」(正覚)、「智慧増上」「虚と実をよく判別」(能別虚実)、「仏道を成ずる正しい度量」(聖道正器)、「過去世からの福運に満ちている」(聡慧業所生)と、以上の八義があるとしています。
 木口 なるほど。そうしますと、天界はどうでしょうか。
 池田 そうですね。
 簡潔な言い方になりますが、「天界」は「喜ぶは天」とあり、一説では欲望の世界に「六天」、物質の世界に「十八天」、精神の世界に「四天」で計二十八天に、喜びを感じる生命感情を分類しています。
 本能的欲望の充足感より、もっと生命の充実感をさしているといえましょう。
 一説には「天は宮殿」(「三重秘伝抄」)とあり、恵まれた環境のことです。
 ―― しかし「天人五衰」ではないでしょうか。
 池田 そうです。
 永続的なものではなく、崩れさる運命にある、瞬間的な境界でしょうね。
 仏法では、以上を「六道」といい、通常、この境界を「輪廻」し、生死、生死と、巡りゆくと説かれています。
 ただし、人間は六道輪廻だけに満足せず、学問、努力を重ね、「声聞」「縁覚」といわれる境界をめざしている。さらに人類、社会のためにと一身をなげうって、その救済に励む力用、すなわち「菩薩」「仏」の「四聖」を深く求めていく。これこそ生命的“我”の本性といっていいでしょう。
 この「四聖」は、また機会をみつけて述べたいと思います。
15  光速宇宙船での旅
 ―― ところで、話題を少々変えたいと思いますが……。先日、おもしろいエッセーを書く画家の方から、こんな話を聞きました。
 人間がインフルエンザにかかって、寝込んでしまうのは、人間を地球の大きさにすると、インフルエンザのウイルスは、フットボールの球ほどになる。
 ですから、カゼをひくのは、地球がそのボールに当たって、ひっくり返ったようなものだ(笑い)、というわけです。
 このたとえはどうでしょう木口さん、正確でしょうか。(笑い)
 木口 そうですね。ウイルスは、〇・四から〇・〇一ミクロンで、最も小さな病原体です。一ミクロンとは、一ミリの千分の一ですから、だいたいその比較のとおりの関係になりますね。
 ちなみにウイルスは、光学顕微鏡では見ることもできませんが、電子顕微鏡ですと写真にまで写せます。
 ―― オランダのR・ハウインという人が、こんな意表をついた思考ばかりを集めています。そのおもしろいデータを参照しながら、さきほどの「光年」をもう少し考えてみたいと思いますが。
 木口 おもしろいですね。
 ―― たとえば、マゼラン星雲のなかで輝く恒星から、今夜、私たちのところに届いた光は「北京原人が洞穴で木を燃やしていた時期(数十万年前)から、いわば“視覚的挨拶”をもたらした」そうですから、じつに長い旅を重ねてきているわけです。
 池田 光速の宇宙船(秒速三十万キロ)で、天の川へ向かうと、地球を出発して「太陽を横切るのにわずか八分後」と聞いたことがありますが、本当ですか。
 木口 ええ、そのとおりになりますね。
 池田 また出発から四十五分後には、木星の重力圏を突っきり、八十分で土星まで行く、五時間もたてば冥王星、そのあとは、果てしなき宇宙の海原をただよい、四年あまり飛びつづけて、アルファ・ケンタウルス(太陽系から最も近い恒星)があらわれ、オリオン座のリゲル(青い一等星)を目の当たりにするのに六百年、ともなにかで読んだことがありますが……。ともかく光の速さでもこれだけかかる。まことに、広大無辺の宇宙としかいいようがない。
 木口 そうです。宇宙船では何世代もが交代し、子々孫々にわたり乗り継いでいくことになります。そうしますと、事実上、光より速いロケットができないかぎり、宇宙の大航海は不可能のようにみえます。
 ところが、アインシュタインの特殊相対性理論では、決して不可能ではないことになります。
 池田 なるほど、「ウラシマ効果」のことですね。スピードが上がることによって、地球からみて宇宙船内の時間の進み方が変化してくる。
 木口 ええ、そうです。
 ―― その点についても、のちほど詳しく論じていただきたいと思います。

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