Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第一章 「外なる宇宙」と「内…  

「宇宙と仏法を語る」(池田大作全集第10巻)

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2  天文学は宇宙の始まりをどうみるか
 池田 一般的には、宇宙の始まりに関する議論は、いわゆる「ビッグバン」(大爆発)によって始まったとされています。
 しかし、この大爆発が、「すべての始まり」であったのか、それとも、それ以前に、大宇宙の収縮期間というものがあったのか、大きい議論の分かれ目になっていますね。
 木口 まったく、そのとおりです。宇宙の始まりについての研究は、まだ研究手段を開発する段階であって、学者としても、はっきりしたことは、何も言えないところです。
 ―― 宇宙をめぐるさまざまな、不可思議な問題は、まだまだあるということでしょうか。
 池田 そうですね。
 この宇宙と生命をめぐる課題は、あまりにも大きく広い。アポロが月の旅行に成功したとはいえ、また、いまの長足に進歩する科学をもってしても、ほんの一粒の解明にたどりついたにすぎないといえる。
 木口 そのとおりですね。
 池田 天文学は、想像以上に早く進歩を遂げる学問だと思いますが、どんな方々が、天文学の将来を担っているのですか。
 木口 天文学は、これからの学問です。天文学は、古代エジプト文明に始まったといわれます。
 長い間、どちらかというと政治と結びつきが強く、天の意志を読みとる技術であったわけです。それを科学の一分野として独立させ、宇宙と人間の関係を解き明かそうと人々が試みだしたのは、ごく最近のことです。
 日本では暦学の影響が強く残っていました。ですから、学問としての天文学は、戦後始まったといっても過言ではないと思います。
 ―― なるほど。
 木口 実際、戦後、湯川秀樹先生と伏見康治先生(大阪大名誉教授)が天文学の重要性を言われ、そこから林忠四郎(京大教授)、早川幸男(名大教授)、小田稔(宇宙科学研究所所長)の諸先生が出ました。
 現在は、その弟子たちが活躍されています。
 池田 木口先生は、ずうっと、その十番ぐらいのところにいる……。(爆笑)
 木口 そうあらねば、と思っています。(笑い)
 世界では、アメリカのチャンドラセカール(ノーベル物理学賞受賞、シカゴ大学教授)、ホイラー(プリンストン大学教授)、デンマークにシュトレイムグレン(コペンハーゲン大学名誉教授)、また観測ではサンディジ(パロマ天文台教授)などがいます。太陽系に関しては、カール・セーガン博士が、この分野の進展に貢献してくれました。
 ―― どんな教科書が、使われていますか。
 木口 天文学では、最新の論文(英文)を読み、古典的な書物、たとえばチャンドラセカールの『星の構造』(長田純一訳、講談社刊)とか、エディントン(イギリスの天文学者)の『相対論の数学的理論』などを読みます。また、サンディジの『銀河のハッブルアトラス』という写真集で、銀河系のことを考えます。
 池田 天文学上の知見に、私は期待したいと思っています。
3  天上に輝く星辰とわが内なる道徳律
 木口 私も学者の一人として、その期待に応えたいと思いますが、ただ天文学は、科学がこれまで蓄積した知識と、科学者の推測を基盤にしています。いくら思索の羽を伸ばしてみても、大宇宙の存在をみるとき、ほんのわずかな推測の域を出ないといえるでしょう。
 池田 そうでしょうね。
 いつの日でしたか、作家の井上靖先生と懇談したときに、あの有名なドイツの哲学者、カントの言葉を先生が言われた。そのことが思い出されますね。
 ―― どのような言葉でしたか。
 池田 たしか「考えれば考えるほど、深くわが心をうつものが二つある。それは、天上に輝く星辰と、わが内なる道徳律である」という意味の言葉だったと思います。この一言が、私の心を常にとらえてきました。
 ―― その段は『四季の雁書』(井上靖/池田大作=往復書簡、潮出版社刊)にも出ていましたね。たいへん評判のいい書簡集でした……。
 木口 有名な言葉ですね。カントが母校の講義で「諸君は私から哲学を学ぼうとせずに、哲学すること、すなわち自ら思索し、自ら探究することを学んで欲しい」と、あくまでも自分自身の思索が、学生たちにより深められていくことを願っていたようですね。
 池田 そうです。それとカントの科学認識は、ニュートンの科学を基盤としていたようですね。
 そのニュートンの科学を超えて出てきたのが、アインシュタインといえます。
 このアインシュタインの現代物理学、さらには天文学の問題は別にしていただき、この「天上に輝く星辰と、わが内なる道徳律」という有名なカントの言葉は、偉大なる精神性が感じられますね。
 ―― 短い言葉でありながら、深い洞察がありますね。
 池田 そうです。人間が理性をもっても、とらえきれないであろう悠久なる大宇宙と、内なる心とを対象としたところに、素晴らしさがある。詩的な心と、宇宙との対比の絶妙さを感じてならない。
 要するに宇宙は、無限にして玄妙なる時空の広がりをもっており、人間生命もまた、「内なる世界と宇宙」への微妙変化の広がりをもっている。
 一方は、外への、はるか果てしなき広がりであり、他方は、内なる底知れぬ深遠さの広がりをもちながら、ときに両者は、相結び合っている。このことは、詳しくは略しますが、仏法でも、「一念三千」という法理として明確に説いているところです。
4  一念と宇宙との連動性を明かす
 ―― こうした人間の深き次元の論議になりますと、世界に多くの宗教がありますが、アーノルド・トインビーの言にもあるように、やはり高等宗教たる大乗仏教、とりわけ「法華経」を根本とした教えに、その答えを待つ以外にないようですね。名誉会長は、この点についてもトインビー博士とは、たびたび対談されましたね。
5  池田 そうです。
 三千年前、インドに出現した釈尊は、八万法蔵の最高峰として「法華経」二十八品を説いた。そのなかに二処三会というものがあります。まあこれは、一言で言えば人間の一念と宇宙との連動性を明かしたものと考えられます。
 少々むずかしい議論になってしまいますが、その二処三会というのは、霊山会、虚空会、霊山会という儀式のことです。
 この虚空会ということが、わが一念の内なる世界の無限さ、そして大宇宙の広大無辺なる実相と、この一念とを連動させながらとらえた荘厳なる生命観、宇宙観の実体をあらわしていると思われます。
 中国の天台大師は、それを一念三千の法門として確立した。ですから、仏法で説くいわゆる「一念」とは、世間でいう一念とはまったく違うのです。
 またキリスト教では、原罪論のうえから霊魂が地獄、煉獄という幽界をさまよったり、神を信ずる者は救われて天国に入ると説いている。
 だが、仏法では、もっと緻密かつ論理的に十界論というものを立て、「一念」の「生命」の姿をとらえている。その一念の生命とは、百界、千如、さらに、自身と国土と衆生との連関性のうえで三千に広げていく明快なる論理となっているわけです。
 ―― なるほど。少々むずかしい感じがしますが、仏法を学する人からみれば、基本といえるのでしょうね。
 木口 ふつう科学者同士の論議でも素人の人には、難解に思われますが、仏法についてはなおさらですね。(笑い)
 池田 そこで、このようなひとつの生命観に関して、日蓮大聖人が述べられた言葉として、忘れられない一節があります。
 「我が心性を糾せば生ず可き始めも無きが故に死す可き終りも無し既に生死を離れたる心法に非ずや、劫火にも焼けず水災にも朽ちず剣刀にも切られず弓箭にも射られず芥子けしの中に入るれども芥子も広からず心法も縮まらず虚空の中に満つれども虚空も広からず心法も狭からず」というのがそれです。
6  宗教なき科学は不完全である
 木口 たいへんに深遠な御文ですね。仏法は演繹であり、科学はいろいろな原理から出発しますけれど、その原理はつまるところ帰納です。しかし科学者として、深く思索してみると、たしかに仏法には、われらを包みこんでしまうような大きさを感じます。
 池田 そのとおりです。
 科学と仏法は、相反することは絶対にない。
 科学が進めば仏法の理解が早まるし、仏法はまた科学者へ無量の思索を与えていくことができると思っています。ですから、この両者は互いに尊敬し合う真摯な気持ちが必要ではないでしょうか。
 ―― いい話ですね。アインシュタインが「宗教なき科学は不完全であり、科学なき宗教にも欠陥がある」と言った言葉を思い出しますね。
 池田 第二代会長の戸田(城聖)先生は、アインシュタインが、大正年間に来日したそのときの講演を聞いておられる。
 そのもようを、私はよく聞かされたものです。
 ひとつの真理を探究しぬいた人の話は、どこかしら深みがあり、心に沈殿し終生忘れえぬもののようですね。
 ―― そのとおりですね。
 池田 このことは、またこの連載のなかで、詳しく触れる機会もあると思いますが、さきほどのカントのあの有名な言葉は、宇宙に秘められた神秘の深さをば「わが内なる心」と対置したところに偉大さがある。
 だが、仏の悟達の境界から宇宙をとらえたものとは、もとより違うのは当然のことです。
 それであっても彼は、哲学的な思索を超えて“心をうたれた”と言っている。
 この非凡な知性であるカントの謙虚な姿勢は、たいへん立派と思いますが……。
 木口 そう思います。
 池田 ですから私どもは、この神秘さについて、ただ考えていくだけで終わってはならない。そこに仏法の信仰、探究、思索、行動から得る実感が肝要となってくると思うのです。
 もし、人間と社会のドロドロとした現実を避けて、ただ思索するだけであれば、宇宙は好奇心の舞台となりさがってしまうからです。また、個人の知識欲を満たすということで終わってしまう場合もあるからです。
 だからこそ、仏法を持ち、生活のなかに一念を広げながら、人生や社会の苦難を乗り越えながら、宇宙への広がりと自己との関連性、それを把握していくことが、いちばん正しいのではないかと思っています。
 木口 次元は異なりますが、宇宙の姿のなかに、人間的事象との関連もしくは投影をみるというのは、洋の東西を問わず、さまざまな民族にみられますね。
 ―― そうですね。
 たとえば星座の位置が人間の運命に影響を与えるとか、人間の運命が星空に反映されているとかという考え方は、昔から根強くありましたね。
 池田 『三国志』を読むと、その関係がよく出てくる。
 よく知られているのは『三国志』のなかで、司馬懿仲達が星を見て諸葛孔明の死を察知したという場面ですね。
 孔明はそのウラをかいて、遺言して、まだ生きているようにみせて、仲達を仰天させたというのは有名な話ですね。――『三国志』は一千五百年以上も前ですが、いまでも、女性雑誌のほとんどが「星占い」のコーナーを設けています。(笑い)
 池田 「星占い」は、古代バビロニア以来の占星術からきているようですが、詳しい説明ができたのは、ルネサンス以降といわれています。
 現在でも、昔ほど神秘的なものではないにしても、まだ信じられている場合もある。
 木口 つきつめれば、人間の生死という問題は、まだまだ科学では究明できないということに関係してくるといっていいでしょうね。
 人間いつ死ぬなんていうこともわからないし、生命の誕生の問題も、まだまだ不可思議、神秘です。
 大宇宙に、人間と同じような生物が、果たしているのかいないのかの解明も、まだまだこれからでしょうし、天文学の立場でも、これらの追究には、多くの時間がかかります。その意味から仏法の演繹的思想は、私どもにとって、まことに重要な示唆のカギになっていくと思います。
7  生老病死に代表される人間苦
 池田 仏法は元来、人間の生死をみつめ、それを超克していく道を求めた。そして、生老病死の実相を如実に見極めながら、いかに安穏なる一生を送るか。とともに、生死の流転のあいまに、宇宙に融合しゆく「我」の存在をも、明快に説き明かしていると思います。
 つまり仏法とは、宇宙そのものを、あれこれ論議することをせず、「無記」「無作」といって、つくろわず、働かさず、ありのままに見極めていく「法」といえるかもしれません。
 また、ギリシャの思想界でもそうでしたが、東洋においても、古代インドの学派のなかには、天体観測においても、きわめてすぐれた知識をもっていた人々がいたようです。
 だが釈尊は、その天体観測の次元ではなく「人間は、いかに生きゆくべきか」という問題から問いを起こし、いわゆる「生・老・病・死」に代表される人間苦の解決へと取り組んでいったのです。
 そしてそこに悟ったものは、簡単に言えば「内なる心の世界」の“真理”であったわけです。
 ―― 仏教にも、十方の仏土とか、須弥山を中心に四大州があるとか、いわゆる宇宙観、世界観が説かれていますが……。
 池田 そのとおりです。
 それは、仏の悟りを説明するうえの素材として、当時の古代インドの天文学の立場からみた宇宙観、世界観を用いたものが多いように思われます。
 ですから、それ自体は、経典の中心軸をなすものではなかったと、私は考えます。ゆえに、さきほど話した『三国志』の例のような次元の問題は、決して論じていない。ただ言えることは、仏典に用いられている宇宙観そして世界観は、きわめて豊かなイメージと、深くして広い洞察が含まれていることに驚かざるをえない。
 今日の天文学や理論物理学等と根本的には合致してくることは、間違いないようです。
 木口 すると、さきほどのお話の展開からいえば、釈尊の宇宙観等は、生老病死を解決しゆく、その教義の導入門として用いられた、そうみてよいわけですか。
 池田 そのとおりです。
 ただ、お断わりしておきたいことは、仏法が鋭く探究した対象は「内なる心の世界」であり、人間の心と相関しゆく世界であり宇宙であったことを、胸にとどめていただきたいと思います。
 要するに、宇宙について論ずるにしても、あくまでも、それを主観視すれば「自分自身の心」、客観視すれば「自分自身の生活、生き方」を考えていくための手だてととらえていくことが、基本になっていることをお断わりしておきます。
 ―― よくわかりました。いま言われた宇宙を見る目から、ひるがえって人間を見つめるという点では、その立場を多くの天文学者も、意外といっては失礼ですが(笑い)、貫いているようです。
 木口 そうみてもいいでしょう。(笑い)
 たとえば、セーガン博士は『COSMOS』(前出)のなかで「私たちは生き残らなければならない。その生存の義務は、私たち自身のためだけのものではない。私たちは、その義務を宇宙に対しても負っている。時間的には永遠、空間的には無限の、その宇宙から私たちは生まれてきたのだから……」と言っています。
 また他の多くの天文学者が、大なり小なりこうした思考性をもっています。
8  知性では越えられない死の問題
 ―― 「生老病死」を解決していくところに仏法の立場がある、とのお話をうかがいましたが、近年、日本で生と死の問題を直視したものとして――宗教人は別として――印象に残った本なり、人なりはございますか。
 池田 小林秀雄さんですね。
 小林さんとは昭和四十六年(一九七一年)、桜の咲くころ、昼食をとりながら、ゆっくり懇談しました。そのときは作家の里見弴さん、中村光夫さんもご一緒でした。
 小林さんの本(『思索』)の思想的な変遷と評価は、天台の理の一念三千の範疇に近づいておったように感じます。段階的には、儒教や神道(『古事記』や本居宣長)も思索の手がかりとしておられたようですが……。真の英知の方を失ったことは残念なことです。
 ―― 小林さんは、『潮』(一九六四年新年号)で二十年ほど前、「思索の世界」というテーマでインタビューをさせていただき、そのときの人間観も印象的でした。
 そのほか、なにか小林さんのエピソードがありますか。
 池田 そうですね。たしか私が後日、使いにことづけ、桜の花をお届けしたことがあります。そのとき雑談のなかで、「六十歳になったときから、死の準備をしてきた」と話しておられたという。これを聞いて私は、瞬間的に、小林さんは「死」と真正面から向かい合おうとしておられると思った。
 ―― 最近ある方から、たまたまうかがったことですが、小林さんは、現実の「死」に直面し、その厳しさに対して、見舞いにきたその方に「むしろ“死”に逆襲されたような感じだ」ともらされていたそうです。
 池田 なるほど、「死」への挑戦は、理性だけでは乗り越えられなかったのでしょう。トインビー博士の場合も同じであったと思います。「死」の問題を知性では、考えていた。
 しかし現実の問題になると、知性の範疇では乗り越えられないのが、「死」の問題であったということを考えさせられました。
 ―― たいへん印象ぶかいお話だと思います。
9  人間性原理の解釈とガモフの宇宙論
 ―― ところで「星雲」という言葉は、カントがつくったものですね。
 池田 ニュートンの思索も、カントの哲学により、初めて学問的に位置づけられているといえますね。
 またカントは、ニュートン力学によって宇宙生成から、人間の根本的な理解までしようとした。
 ―― つまり、カントの哲学の成立が、同時にニュートン力学を世に出した、ということになっているわけですね。
 池田 そうですね。そればかりか、カントの哲学は、仏法が悟りの極致として説いた「我即宇宙」「宇宙即我」という宇宙観、世界観への一段階ととらえうるとも思います。
 木口 ちょっとむずかしくなりますが、最近の理論物理学では「アンソロピック・プリンシプル」(人間性原理)と呼ばれる理論の解釈がありまして“われわれの生命が存在するから、この宇宙が存在する”という見解が、多くの物理学者の心をとらえています。
 ―― おもしろいですね。もっとわかりやすくいうと、どういうことになりますか。また今後、理論物理学などの分野では、どのように体系化されそうですか。
 木口 そうですね。宇宙は、いろんな可能性の集合体で、人間が、その一つを選んだにすぎない。いまある宇宙は、たまたま一つの宇宙であり他の可能性もあった、という考え方です。それは極微のスケール、たとえば湯川秀樹博士などが研究された素粒子などの世界では、人間が素粒子を観察するということと、素粒子が存在するということは、不可分の関係をもっています。
 宇宙のような大きなスケールでもこのような関係はあるはずで、当然、この解釈は、将来はきちんとしたデータにもとづいた理論として、完成されていくと思います。
 池田 いまは「人間性原理」という“解釈”は、アメリカの理論物理学者、ガモフ博士の宇宙論が、ある役割を果たしているように考えられますが。
 木口 そのとおりです。その発展のなかでできたものです。
 ―― ガモフも、日本にみえたことがありましたね。
 池田 ああ、そうそう、一九五九年(昭和三十四年)秋だったと思う。ちょうど伊勢湾台風と重なり、救護や激励のために動きまわっていたので、ゆっくり講演の載った新聞の記事などを読むひまもありませんでしたが……。
 ただそれよりまえ、数学者でもあった戸田先生のもとで、ガモフの科学書を中心として、毎朝勉強の機会をもってくださったことを、懐かしく思い出します。
 ―― ガモフを、思索のテキストとされたわけですね。
 池田 ガモフの宇宙膨張説というのは、そもそも宇宙を無限の広がりとして考えるところから出発している。その点が、宇宙と生命を考える前提になった。ともかく斬新性がありましたね。
 アインシュタインも、宇宙の空間を考え抜いたとき、そのことを考えているアインシュタイン自身の「内なる心」という、この果てしなき無限の広がりに、思いいたらざるをえなかったといわれている。考えても考えても、限りない「心」の世界のあまりの厳粛さに、アインシュタインは、そのことを「宇宙的宗教感情」という言葉で表現せざるをえなかったのだと思います。
 アインシュタインが「外なる宇宙」と「内なる心」を思索しぬき、その究極のところから生み出した理論をヒントに、ガモフの宇宙論はできあがった、このように私は考えています。たとえば、無限大の広がりをもっているのでなければ、宇宙が、果てしなく膨張をつづけていく、というような見解も成り立たないわけですね。
 木口 そのとおりです。学問の世界はむずかしく、専門的な理論になっていますが、いまのお話は、まさに理論構成の中心にある考え方、その核心に触れていると思います。端的に言えば、「内なる心」の無限の広がりとともに、「外なる宇宙」も無限の空間であるという考え方が、そして、この無限がどのような性質をもっているかを調べることが、あるていど一般的になっているというのが、今日の理論物理学や生命科学の実情です。
10  はるかに遅れている「内なる心」の解明
 ―― たしかに「外なる宇宙」の無限の広がりは、実際の観測によって、どんどん裏づけられているようですね。
 木口 ええ、ガモフの、宇宙は無限に広がっているという理論は、一九四〇年代に成立していたわけですが、その理論にもとづいて、宇宙が無限であるという考え方の正しさが、ある側面で実証されたのは、わずか十数年ほど前です。
 アメリカのベル研究所の二人の電子工学者が証明しましたが、この研究で彼らはノーベル賞をもらっています。これによって、データや実験にもとづいた学問として、宇宙論が成立したといえます。さらにいまでは、エレクトロニクスの進歩による光学的観測手段の発達によって、三十億光年という広がりまで見ることができます。
 そこにわかっているだけで十億以上の銀河系があり、一つの銀河には千億個以上の星がありますから、星の数にすると、かるく兆の千万倍を超します。
 ―― なるほど。
 池田 こうした「外なる宇宙」の探究に比べ、「内なる心」の解明は、はるかに遅れていると言わざるをえませんね。
 「外なる宇宙」への挑戦が、科学技術の進歩をもたらし、それが文明の花や実になって、たしかに、現実の暮らしを豊かにはしている。
 コンピューターからインスタント食品まで、ロボットからクローン抗体まで、私たちの生活を大きく変えようとしています。
 ところが、人間の「内なる心」の解明が、取り残されているがゆえに、“主役”であるべき人間が、科学の“脇役”にされてしまっている。昨今は、その感がますます強くなっているといっていいでしょう。
 ―― そのとおりですね。人々は、みなそのことを実感しており、一見、時代が華やかにみえても、心の底では不安をおぼえているのではないでしょうか。
11  「宇宙的宗教感情」への願望
 池田 それが二十世紀の、“世紀末”の時代としての特徴といえるでしょう。
 十九世紀の世紀末は、とくに文明の中心としてみられていたヨーロッパで、「内なる心」を担っていたキリスト教が、ドイツの哲学者ニーチェなどによって「神の死」を宣告されたことは、よく知られていますね。
 「神の死」とは、比喩的な言い方で、じつは、それまでのキリスト教神学や価値観の破産であったといえます。
 しかし、キリスト教の世界観にしばられていた学問の世界、とりわけ科学は、神の呪縛を解かれるやいなや、目を見はらんばかりの進歩を遂げたわけです。
 ところが、神の死の枕辺に「内なる心」を担う相続人がだれもいなかった。
 ―― なるほど。そうしますと、アインシュタインはそこに着目し、相続人のイメージを考えぬき、むしろ願望を込めて「宇宙的宗教感情」という言葉をつくりだしたのではないでしょうか。
 池田 そうでしょう。
 一般的にいって、すぐれた科学者は、同時にすぐれた思想家でもあった、ということがいえます。
 仏法を究める機会のなかったアインシュタインは、科学者としての思索の果てに、抽象的で漠然とした言葉だったけれど、「宇宙的宗教感情」という、一種の祈りにも似た感情を訴えかけたのだと思います。
 話は変わりますが、木口さん、地球は、いちおうまるいといえますね。多少、楕円形ともいわれますが……。
 他の一千億個以上(銀河系だけで)もある星は、ぜんぶ同じようにまるくなっているのでしょうか。
 木口 いや、そうとはいえません。円盤状に見える星もあります。四角く見えるものもあります。とくに生まれたての星には、いろいろな刺が見えます。これらは、すべて光の屈折の関係でしょうか……。
 しかし大多数の星は、まるいといっていいのではないでしょうか。まるが、いちばん重力、つまり自分の重みを支えやすいからです。
 池田 なるほど。仏法でも円融円満という言葉があり、これこそ、人格の最高の理想とされているわけですが。
 木口 「ガウスの定理」というのがあります。これは、物理学者が、みな不思議な法則と言っていますが、ひとことで言えば、まるくなっているということで、まるのなかの、すべての重みがムダなく重力となって、他からの影響をうけにくい、という定理です。
 池田 団結ですね。(爆笑)
 定理とか法則とかいうものは、必ず理にかなっている。不合理はない。
 仏法もまた道理であり、宇宙の大法則にのっとった生命の法を開き、展開されたものを「経」と言っております。

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