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日蓮大聖人・池田大作

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遺伝子工学の進歩について  

「第三の虹の橋」アナトーリ・A・ログノフ(池田大作全集第7巻)

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1  池田 近年、遺伝子の組み替えやクローン生物、人工授精といった生物の遺伝性や生殖方法を人工的にコントロールする技術が盛んに研究・開発されています。これらは一般に遺伝子工学と呼ばれ、生命科学の中心を成しております。
 こうした研究が、生物学や医学で大きな貢献をする可能性を秘めていることは事実でしょう。しかし、その一方でこれらの技術は生物進化への介入、新種生物の汚染、生物兵器の開発といった危険な方向に道を開くことにもなると考えられます。さらに最も基本的な問題としてそれは、人間の尊厳性という基本的な部分にメスを入れることとなり、人間社会の存立基盤を根底から揺り動かす要素をはらんでいます。
 そのようなジレンマ(窮地)をかかえこむこの研究に対して、世界の科学者の間でも賛否両論があるようです。近年、その危険性のゆえに、各国で実験指針、いわゆるガイドラインが定められましたが、最近ではどんどん緩和される方向にあります。日本でも一九七七年に世界で最も厳しいといわれる指針をつくりましたが、その規制はしだいに解かれようとしています。
 そこでおうかがいしたいのですが、ソ連ではこの種の研究は、どのように進められているのでしょうか。また、そのような研究への規制はどのようになされていますか。
 さらに、博士自身、こうした遺伝子工学の進歩に対してどのような所感をおもちでしょうか。
 遺伝子工学の最大の特徴は、人間の生命それ自体が操作の対象になること、あるいは、なりうることです。たれびとも病を克服したいと思いますし、不妊症の人は子どもを得たいと願うことでしょう。その人間の素朴な願望を満たすためにこそ、この科学の意義もあるわけですが、やっかいなことはその方法論それ自体が人間の尊厳性を脅かす危険性をもはらんでいることです。したがって、一歩誤れば人類がこれまで体験したことのない事態が生ずることも予想されます。
2  そうした意味で、この科学技術を人間に適用する場合、少なくとも次の三点が世界的に合意されなければならないと私は考えております。
 第一点は、病気や心身の障害というマイナスを背負った人々――いわゆる弱者の立場にある人々の苦痛を取り除くためにのみその使用を限定すること、第二点は、その技術が国家や特定集団の権力エゴや企業エゴに利用されないような歯止めを講ずること、第三点は、科学技術者を含む社会全体に科学を制御する倫理基盤を確立すること、です。この三点はいずれも生命尊厳の理念に立脚するものです。
 フランシス・ベーコン以来、科学技術の進歩がバラ色の未来をつくるであろうという考え方が支配的でした。しかし、地球的規模で広がる環境汚染などの苦い経験を経て、私どもは科学至上主義の魔性に気がついたわけです。にもかかわらず、現代の科学技術文明はますます巨大化し、生命の価値は一方的に相対化されつつあるように見受けられます。
 このような分子生物学をはじめとする現代の諸科学は、機械論的生命観を背景として発展してきているわけですが、その分析的な手法によって生命の物質的側面のみが先行する形で進み、それが飽くなき人間の欲望と結びついていった結果、種々の禍を招く危険性を増大させてきたように思います。そこには人間のもつ一方の側面である精神や心といったものに対する軽視があり、ゆえに、科学の暴走に歯止めをかける術を失ってしまっているのが現実ではないでしょうか。ここに、生命を、精神をも含めた全体像のうえからとらえ直す哲学や宗教の存在が必要とされる根拠があるように思われます。
3  人類は今や、マンモスがみずからの牙の過度な発達によって滅びていったとの説もあるように、欲望による“過適応の危機”のなかにあるといっても過言ではないように思います。一部の終末論もあるようですが、私はあくまでも人間精神の英知に希望をつなぎたいと考えます。
 「科学のための科学」ではなく「人間のための科学」へと人間の欲望をコントロールしていくこと、またどこまでも弱者を守り救済していく強固な倫理基盤を育んでいくこと――これらの知性と愛情は、つまるところ、人間の心を直視し、その心の変革を通して人間の欲望を制御していくところに発動してくるものではないでしょうか。
 遺伝子工学にみる倫理の問題、および生命の尊厳についてのログノフ総長の見解をおうかがいしたいと思います。
4  ログノフ 私の推測では、生物学プロセスを生産分野に応用した生物工学は近い将来、世界経済において重要な役割を果たすことになると思います。この分野は、すでに現在、農業、医療など各種産業部門の原材料、実験用の材料等を生産する目的でますます広く利用されています。
 この生物工学において重要な地位を占めているのが遺伝子工学、細胞工学であり、それらの方法は、人間の経済活動にとって有益な兆候をそなえたバクテリアや動植物の多産性新種の製造を可能にしています。人工的につくりだされた遺伝子を用いて生体の遺伝性を一定方向に変えることは人類の前に新しい時代を開くことになります。
 遺伝子工学の発展は、地球人類の食糧、原材料、エネルギーの再生、資源の確保、多くの病気からの人間の解放、産業廃棄物の加工処理、汚染からの自然界の保護といった世界的課題の解決に寄与します。こうしたことのすべては、文明を発展させるため、地球上により良い生活条件をつくりだすための重要な前提の一つなのです。だからこそ遺伝子工学に対して大きな期待がかけられているわけで、多くの国ではこの学問分野の発展を早めるため多大の努力を払っています。
 遺伝子工学が自然の謎を探り、世界観、哲学観から見て重大な意味をもつ自然科学の基本法則を知るうえで大きな展望を開いていることは明らかです。
 同時に、遺伝子工学は、他の新技術、事実上、他の一切の新知識分野と同様、肯定的側面だけでなく、否定的側面ももっています。したがって、それを導入するにあたってはひとしお慎重でなければならず、自然界や人間に与えかねない有害な影響を考慮することがとくに重要といえましょう。
5  遺伝子工学の発展に付随する潜在的脅威の二つの側面について述べる必要があると思います。その一つは、新種のバクテリア等、好ましくない性質をもつ微生物が自然界や人間界に偶然的に伝播する危険性で、その際起こりうる結果はとりわけ否定的なものになりかねません。生態系バランスの予測し得ない悲惨な破壊、人間の健康に対する脅威等がそれにあたります。
 このような危険をなくすためには、遺伝子工学の作業を厳重な管理下におく必要があります。この点で学者の提案により一定の規則が作成されましたが、そこでは、環境に対するそうした危険の度合いが解明されるまで、ある種の実験は急がないよう勧告されています。世界の大半の試験所ではこの規則を指針としており、ソ連でも遺伝子工学の研究は、特別の科学委員会が提案した一定の規則に従って進められています。とりわけ、潜在的な危険となりうる微生物が実験室から流出するリスクをなくす方法の開発に注意がさかれています。私の知るかぎり、日本を含めた多くの国でもこのような規則が義務的なものとなっているようです。
6  ところが、最近この種の規制が大幅に緩められる傾向が見られます。このことは、一部の学者が、潜在的危険についての当初の判断を、過大視だとか、科学の進歩を妨げるなどと考えた結果生じたものです。各大学で実験作業を進めるさい、規則を手直しすることにそれほど問題はありませんが、私の考えでは、私営企業の商業ベースによる研究室における規制の効果的な管理が欠如していることに、より大きい危険性がひそんでいるように思われます。
 今日、遺伝子工学のテクノロジーの発展テンポが遺伝子の人工組み替えがもたらす結果に関する知識の蓄積速度を上まわるといった状況がつくりだされています。たとえば、遺伝子工学の方法によって複雑な薬剤、さらには人間の遺伝子そのものまでつくりだすことができます。しかしながら、患者を治療するさい、そうした薬剤についての十分な知識なしにそれを人体に適用することは、一見その試みがいかにセンセーショナルなものに見えようとも、失敗を免れ得ないでしょう。
 遺伝子工学の進歩に付随する第二の危険は、この種の科学的成果が、社会全体の利益に従わない個々の階級や集団によって非人道的な目的、利己的な利害のために悪用される可能性です。他の多くの近代技術と同様、あるいは、化学や核物理学に比べて、遺伝子工学のほうが大量殺戮兵器の製造が原則的に可能なことは今では秘密ではありません。この非人道的兵器が、社会的ないし人種的に特定のエリート集団の特権や特典のため人間絶滅や人間性の選別的な改造手段として使われる危険をはらんでいます。
 あなたが理解されているとおり、ここで問題となるのは社会的、倫理的な意味合いをもった一連の問題です。これらの問題の審議にさいして、一部の学者が感じている深刻な精神的不安が明るみに出ることがしばしばで、時として一部の研究者が遺伝子工学の諸問題の研究にたずさわることを拒否する理由もそこにあるのです。
7  しかし、あなたご自身ご承知のとおり、人間の思考を禁ずることはできません。学者の好奇心は限界を知らないのです。したがって、倫理規制の対象とならなければならないのは、なによりもまず学術研究の応用の領域でしょう。それは、科学的探究の非人間的な結果を許さないようにするため必要なのです。このことに関連して生じる問題は、私の考えでは、決して単純なものではありません。最小限の保障として私が指摘したいのは、遺伝子工学分野の研究を完全に公開することです。
 あらゆる遺伝子兵器開発――どんな小規模なものであっても――につながる研究ならびに悪辣な目的で人間とその生物学的環境に大量に、あるいは個々の規模で作用するような研究は、これを禁止しなければならないのはいうまでもありません。前述した非科学的見解の助けを借りて人種差別を論拠づけ、生物学的理由から社会的不平等を正当化しようとする例が多々あります。ここでは、科学知識の宣伝、非科学的見解に反対する啓蒙活動において科学者が果たすべき役割は大きいと思います。
 このような場合、重要なのは科学者の個人的責任感であり、その社会的立場であり、そして自尊心であります。科学者は、科学を非人道的目的に使おうとする者の共犯者であってはなりません。
8  遺伝子工学は、人間生命の物質的側面に大きな影響を与えるでしょう。しかし遺伝子工学の特徴は、究極的にはそれが人間の遺伝学において新しい可能性を開いてくれるという点にあります。近い将来、照準的な「遺伝子療法」、遺伝子異常の矯正、人体の機能組織の改善といった医療分野が多分、可能になるでしょう。
 こうした倫理的側面のほかに、進歩の過程で形成された複雑かつ一貫した生物学的・個性的存在としての人間について科学者が現在もっている知識の水準で遺伝子工学のテクノロジーを活用する問題も起こり得ます。したがって、このシステムをマスターもしないで、それになんらかの修正を加えたり、あるいは何かと組み替えたりしようとすることは向こう見ずといわざるを得ません。ですから、遺伝学的変化に関連した一切の実験は、それが損失をもたらさず、肉体的あるいは精神的疾患に悩む人々を苦悩から解放することが明らかな場合に限って、できるかぎり慎重に行わなければなりません。このことは自明の理です。
 私の考えでは、こうしたアプローチは原則的には認識の対象としての人間の研究を制約すべきものではなく、逆に迷路に似た人体のより入念かつより深い理解を助けるものでなければならないと思います。それゆえ、不慮の結果が起こりうるという危惧だけで、最新技術(遺伝子工学も含む)の利用を全面禁止しようとするのは、科学に対する恐れ、人間理性への不信のなせるわざといえましょう。すべてこうしたことは、結局は科学の発達に対する人間の否定的態度を強めるだけです。
 周知のように、宗教の公準はこのことに準拠して立てられています。この公準の本質は、人間は理性に頼るだけでは自己の運命に対する責任を引き受けることはできないということです。人類は科学の無統制の発達が生んだ深刻な危機に引きずり込まれつつあるといった非科学的判断も、このことに立脚しています。つまり、彼らは、このような科学の統制なき発達にともなって、人間生命の価値はしだいに相対的な概念になりつつあるかのように主張しています。今日、人間生命の価値は中世あるいは産業革命の初期に比べて低下していないばかりか、疑いなくいちだんと高まっていると私は確信します。
9  つまるところ、問題は、科学の進歩が人間の限りない欲求に起因する人格の危機を助長しているということにあるのではありません。人間の限りない知識欲つまり向上心には、なんら誤りはないのです。私の考えでは、危険は別のところ、すなわち人間の物質的欲求と精神的欲求との間、科学技術進歩の可能性と社会発展の具体的条件との間の調和が破られるところにあるように思われます。科学思想そのものを、あるものは研究してもいいが、別のものは研究してはならないというふうにコントロールすることには同意しかねます。
 私が言いたいのは、科学思想ではなく、科学を社会に応用する方向が人間共通の関心事、そして行動の対象とならなければならないということです。人間理性の無限性を認める楽観主義哲学だけが、すべての人々の幸福希求に根ざした人道主義哲学だけが、科学の今日の成果を活用するさいに生ずる危険を除去するうえで正しい選択をするのを助けることができるのです。

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