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日蓮大聖人・池田大作

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科学の発達と世界観  

「第三の虹の橋」アナトーリ・A・ログノフ(池田大作全集第7巻)

前後
2  そもそも近代科学といっても、出発点から世界観抜きで始まったと考えることは、大きな誤りという以外にありません。わが国の著名な科学史家は「われわれが近代の延長上に位するにしても、近代科学の父達、つまり科学革命の担い手たちとわれわれとの距離は、もしかするとスコラ哲学者とガリレイやニュートンらの距離よりも大きいかもしれない。その認識なしに、近代を云々することは、どこかで大きな誤りを犯すことになる怖れなしとしない」(村上陽一郎『近代科学と聖俗革命』新曜社)と述べております。
 言うところの趣旨は明らかです。ガリレイやニュートンをはじめ、多くの優れた科学者たちの活躍した十七世紀は、科学史上“偉大な世紀”とか“天才の世紀”とか呼ばれていますが、彼らの業績にしたところで、世界観抜きで行われたわけでは決してありません。それどころか彼らは、自分たちの知的営為を神の意思、神の仕業とどう結びつけるかということに、必死の努力を重ねていたわけです。このことは、たとえばニュートンが聖書の記述と自説との符合に、どれだけ心を労していたかという事実に、よく示されております。
 そうした彼らの世界観は、もとよりスコラ神学の説く世界観とは、大きく異なっていました。スコラのもたらした“聖なる天蓋”はもはや取り払われ、当時の人々は、よるべなき混沌のなかに置かれていました。そこで科学者たちは、神を中心とする新たな世界観、善悪・価値の問題を含む新たな世界観の構築に専心したのでした。
3  こうした世界観への志向は、近代合理主義の祖デカルトにおいて、最も顕著です。「我考える、故に我あり」に始まるデカルトにおいては、たとえパスカルの顰蹙を買ったにせよ、「神あり」ということが、無理なく位置づけられております。またデカルトが諸学を一本の木にたとえ、形而上学を根とし、自然学を幹とする一種の普遍学をめざしていたことは、彼における世界観志向の強さを物語ってあまりあります。つまり、科学といい合理思想といっても、“神”という一点においては、スコラ的世界観とつながっていたわけです。
 前出の科学史家が「近代科学の父達、つまり科学革命の担い手たちとわれわれとの距離は、もしかするとスコラ哲学者とガリレイやニュートンらの距離よりも大きいかもしれない」と言うのもまことに無理からぬ話であります。
 現代科学とは、近代科学の父たちがもっていたこうした世界観への志向が、神の憑きが落ちてくるとともにスッポリと欠落し、物質の世界の論理のみが残っている状態といっても過言ではないでありましょう。機械論的世界観は、あらかじめ世界観として追究されたというよりも、神を中心とする予定調和的世界観から、神が抜け落ちた結果もたらされたものなのです。
4  それでは、今日、新たな世界観が求められなければならないとすれば、その根拠はどこにあるのでしょうか。私は総じて生き物の世界、なかんずく人間生命の内へと、目が向けられなければならないと思っております。神などの外的要因を根拠とする世界観などは、もはや昔日の夢です。それに比べて生き物、生命の世界は、まだまだ未開拓の分野が数多く残されております。生き物や生命は、物質界の法則が主導してきた現代科学の論理に、最もなじみにくい性格をもっているからです。
 もし、この内なる生命の世界に新たな世界観の根拠が求められたならば、それは、機械論的世界観のように、それ自身の論理に閉じこもった“閉じた系”ではなく、動物や植物などにも無限に広がっていく“開いた系”が可能になってくると思います。そして、その世界観の根拠を築き上げるためには、科学はもとより宗教も、あらゆる人間的営為が一致協力して励むべきでありましょう。いわゆる“学際”などという言葉がしきりに問題とされるのも、私には、そうした根拠形成への萌芽のようにも思えてならないのです。
 総長は、科学と世界観のあり方、関係性について、どのような見解をもっておられるでしょうか。
5  ログノフ 尊敬する池田先生、この項であなたが取り上げておられる問題は、研究者として、また、あなたと同様、人類の運命を案ずる同時代人としての私に直接、関係しております。と申しますのは、現代科学の成果を利用する問題が、いかなる世界観によって決定づけられるかということに、私どもの世代の将来のみならず、人類全体の運命が、究極的にかかっているからです。
 今日、世界を認識する分野で科学が収めた成果は限りなく大きく、それは人々の世界観に重大な影響をおよぼさないわけにはまいりません。自然科学や人文科学の発展によって、世界について、そしてそこで人間が占める地位についての、質的に新しい認識が生まれました。それらのすべてが、宗教的・観念論的教義が提起してきたさまざまな理論にも痕跡をとどめずにはおかなかったことは当然です。たとえば、キリスト教の聖職者は今ではもはや、世界は七千年前に創造されたとは申しません。
6  あなたの質問にお答えするにあたって、“世界観”なる概念の内容を明確にしておきたいと思います。世界観は、世界の全般的表象についての知識としての理解だけでなく、感覚的、情緒的表象についての把握をも含んでいます。“世界観”なる概念には、また、人間対世界の関係、たとえば、認識論的あるいは実践論的関係もはいっています。
 そうした諸関係のなかに、社会にとって可知世界の部分的変化、世界を人間の願望に沿って改造したいという人間自身の志向が現れるのです。世界観はつねに、価値と評価の広範な体系、たとえば、生の意味とか、世界における人間の使命とかについての問答、それに、人間の理想、社会発展の方途と目的等にかかわる価値・評価体系を内包しています。
 また、世界観のなかでは知識が、取り上げられた命題の正しさを立証すること、知識と現実、人間の実践との一致に立脚した確信と結びついています。つまり、現代人の世界観なるものは、人生観とか、人間の感情、気分といったものを網羅した、かなりダイナミックな体系なのです。
7  しかしながら、時代の精神と内容に合致した世界観の必然的な前提になりうるのは、私の確信するところでは、弁証法に立脚した唯物哲学しかありません。現存する世界観体系について私の知るかぎりでは、弁証法的唯物論および史的唯物論は、現代世界に生起する社会的出来事の複雑なもつれを正しく解きほぐすことができるのです。弁証法的唯物哲学は、人間が生の意義、人間の使命、そして架空ではない、現実の不死の条件といった問題を理解し、それを解決するのを助けます。
 科学的な諸原則に立脚した哲学は、人間こそ、最高の価値であり、進歩の目的であるような社会を築くため、ヒューマニズムにあふれた課題に向けて積極的な人生を方向づけます。したがって、この哲学では平和とヒューマニズム、そして創造が理想とされているのです。ソ連人はこれらの理想にとりつかれているといえますが、そうした理想にとりつかれるのは良いことではないでしょうか。
 わが国では一切の活動が善と社会的平等、そして正義の理想に従っています。このことから見て、戦争や破壊を肯定する思想、人間憎悪の思想を絶対許さないというソ連人の気持ちがおわかりと思います。私たちは、そのような思想を信条とする人たちを理解することを断固拒否します。そのような思想は私どもの世界観、私どもの哲学観とは相容れないのです。
8  もちろん、私どもは観念論者ではありません。したがって、思想がそれ自体としては存在しないことをよく理解しています。思想はつねに一定の社会勢力や階級の利益を反映しており、人々の営為のなかに具現されます。ですから、進歩的な世界観をもっている人なら、その立場をしっかりと守ることができなければなりません。マルクス主義的世界観の科学的根拠や歴史発展の客観的法則性は、哲学思想の革命的性格と有機的に結びつかなければなりません。
 池田先生、あなたは、別の、きわめて重要な問題、すなわち、科学と世界観の相関性にも言及されています。おっしゃるとおり、世界観と科学は太古の時代には、相互に結びついていました。近世や、それにつづく数十年の時代でさえ、科学を“形而上学や倫理学の影響から解放する”ということは幻想にすぎませんでした。
 とはいえ、そうした幻想が、真理を求める科学的思考を、宗教的ドグマ(主義)や自然哲学的なドグマの呪縛から解放しようとする現実的なプロセスに導いたことも指摘しておく必要があります。科学が独自の客体認識法と行為基準をそなえた社会的有機体となったのはまさに近世のことだったのです。そして、こうした方法や基準の大前提となったのが、理論の構築にさいして、実地の観察や実験のデータをよりどころにしようとする要求だったのです。
 同時に、ニュートンの時代に世界観と科学のかかわりあいが客観的に存在したのは事実ですが、私の考えでは、それは、当時の優れた学者の多くが信仰人だったということが本質的な理由ではなかったと思います。たしかに、ニュートンはアポカリプス(黙示録)を注釈し、ケプラーは天宮図によって星占いをし、パスカルは宗教論を書きました。それは、多くの点で宗教が当時の社会思想においてなお支配的な地位を占めていたこと、また宗教理念が整備された手段によって広まっていたことで説明がつきます。さらに、一切の教育が事実上、教会の手に委ねられていたのです。
9  しかしながら、そうした慣習的な制度においても逆の現象、つまり「逆流現象」が生まれていたことも否定できません。ニュートンは、彼の名を不滅のものとした光学や力学に関する著作においては神に言及していません。パスカルの物理学、数学に関する著作においても神の名は見当たりません。また、ガリレイは神を認めなかったことで非難されました。これら優れた学者たちの後輩にあたるラプラスは急進的な無神論の立場を堅持しました。そして、それら一連の学者の立場を基盤にして新しい思考形式、すなわち科学的思考が生まれたのです。それは究極的に宗教世界とたもとを分かっただけではなく、宗教に対立するまでにいたりました。
 ニュートンが力学において神に与えた役割は、宇宙の創造者としての役割だけでした。つまり、創造後の宇宙は宇宙自体の法則に従って発展していったとしているのです。ラプラスの場合は、宇宙創造といった仮説さえ用いませんでした。
 このように、すでに古典時代に質的に異なる世界観の基礎が築かれ、それがやがて従来の神学的世界観にとってかわるようになりました。私たちと同時代の学者がこの新しい世界観的伝統の継承者であることは論をまちません。
 人間心理や、社会、文化、モラル等一切の事象、現象に対して、また、あなたが“内なる人間生命”と名づけられた一切のものに対して、十七―十八世紀の物理学で実証された科学的世界観を適用しようとする試みがあったことは事実ですが、それは、前述の問題とは別個の問題です。たとえば、あなたが言及された“機械論的世界観”を代表する、哲学者であり医師であったラ・メトリは人間の“構造”を、当時の技術的“奇跡”といわれたストラスブルグの時計塔になぞらえました。なるほど、人間の内面世界を把握しようとする以上のような試みは失敗に終わりましたが、そのことが宗教的世界観への回帰の根拠にはなり得ません。
10  あなたは、神などの外的要因に立脚した世界観はもはや昔日の夢であると断じておられますが、そのご指摘には完全に同意します。現代の社会学、心理学、サイバネティクス、経営論、経済学等はこうした研究方法の完成をめざして進んでいます。この方法はまだ緒についたばかりですが、その進展ぶりを見ますと、無生物界をあつかう科学よりも成果が大きいと確信します。と同時に、そうした成果は、人類への大きな福利と並んで、自然科学発展の結果生じる不安よりもさらに重大な不安を人類にもたらすだろうとの予測も成り立ちます。
 現代の科学的成果は工業や農業に応用され、情報の保存と交換を拡大し、真の保健革命を可能にしました。そうした科学的成果によって、高度に発展した国家では、人間のあらゆる生活側面が変わりました。反面、科学的成果が軍国主義に奉仕するようになったため、人類が核戦争で自滅する脅威にさらされるといった危険が生まれたことも否定できません。
 生産の発展それ自体が、環境危機としてしばしば特徴づけられる大自然の変化をもたらし、学者がつくりだしたラジオ、新聞、テレビ、映画などマスコミ手段が人間意識を文字どおり無限に操作する可能性を開きました。精神病学や薬学の最新の成果は、人間の精神状態に直接作用し、それが悪人ないし無責任きわまる人間の手に握られた場合、取り返しのつかない結果をもたらしうるという、たいへんな魔力をそなえているのです。
11  以上述べたことのすべては、学者に対して、発明や開発の成果を活用するさいの道義的責任の問題を提起し、良心的な研究者に向かって市民的立場を訴えています。換言しますと、世界的性格の問題に私たちの注意をうながしているのです。
 もちろん、今日の世界観は一枚岩ではありません。すなわち、世界観的目標は、時として、海洋や国境以上に人々を引き離しています。それは当然でしょう。世界観というのは、人間教育の過程で、現代文化の影響を受けながら形成されていきます。一方、現代文化は、科学やその成果の利用、科学的な大学教育や宗教的な伝道、人々が接触する過程で生まれる国際主義や他国民への敬意、そして、時に人種的憎悪をもたらす狭隘なナショナリズムといったものをすべて包含しています。
 そして、それを認めることがいかに悲しいことであろうと、歴史は、人間愛の思想だけでなく、人間憎悪の思想をも大衆行動の指針にしうることを立証しています。一定の哲学に立脚したファシズムの思想がその確証です。この哲学は理念的になんら豊かな内容ももたず、ただ世界支配のみをめざすという、劣悪きわまるファシズムの目的に似合ったものでした。第二次世界大戦によって世界の諸国民がこうむった無数の災厄がその結果だったのです。
12  ところが、今日、ネオ・ファシズムのイデオロギーを奉ずる人々がいます。このことは、哲学の進歩と人々の世界観形成にかかわる問題への取り組み方がいかに重大かを物語っています。このことに関連して、一部の国で宣伝され、奨励されている民族主義と人種的偏見は大きな危険をはらんでいます。ファシズムがつねにこの種の思想から出発したことを思い起こすだけで十分でしょう。侵略目的を“正当化”するためにはまず人種差別の思想を人々に植えつけなければならなかったのです。
 あなたは現代の世界観がどのようなものでなければならないかを問うておられます。
 なによりもまず、あなたは、人間をみずからの運命の主人公と宣言し、人間相互、諸国民相互の不信を取り除くことができるような新しい思想体系をつくりあげなければならないと情熱的に訴えておられますが、そのご主張に私は完全に同意します。同時に、そうしたヒューマニズムの理想を実現するための現実的な方途を探し求めなければならないことも論をまちません。
13  現代の要請に応える世界観は、現実を科学的に研究するプロセスのなかで取得できる知識をよりどころにしなければならないと思います。私どもはこの課題を、弁証法唯物論的な世界観を構築し、発展させる途上において順調に解決しつつあります。この世界観は、さまざまな国民に固有の文化的・民族的伝統を考慮に入れながら、歴史的発展における一切の人間活動の自然的・社会的現実を科学的に認識し、哲学的に把握することを前提としております。このような知識なしに人間は、自分が直面する諸困難に対処することはおそらくできないでしょう。言い換えますと、現代の世界観は、人類を今日の危機的状況から救い出し、将来ともそのような事態を許さないための人間行為の組織化を助けるよう使命づけられているのです。

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