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日蓮大聖人・池田大作

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科学における“個”と“全体”  

「第三の虹の橋」アナトーリ・A・ログノフ(池田大作全集第7巻)

前後
1  池田 ログノフ総長はモスクワ大学の総長であられるとともに、物理学の専門家でもいらっしゃいます。私は自然科学に関してはまったくの素人であり、一般的な知識をもっているにすぎません。しかし、現代文明のあり方と、人類の未来を考えるうえにおいて科学の問題、とくにその基本的あり方の再検討を無視して過ごすことはできないと考えます。そこで私なりに日ごろ疑問に思っている問題について、一問一答の形で総長のお考えをうかがいたいと思います。
 近代科学は“要素還元主義”と“分析加算主義”の二つの方法論を主たる武器にして発展し、今日の物質文明の隆盛を築いてきました。とくに物理学の分野は、そのシンボル的存在であったといえましょう。すなわち物質を分子から原子、さらに素粒子へと、より基本的な要素へと分析、還元していく。その要素は、基本的であるがゆえに普遍性をもつわけですから、要素の従う基本法則を知り、その組み合わせ――加算――によってすべての物質の性質や現象を説明する――こうした方法論は、とくに物理学のように、物質を対象にした学問の分野では、絶大なる効力を発揮しました。
 これが、いわゆるアトミズムであり前近代の科学が“環境論”にあらわれてきているのに対し、近代科学が“要素論”と呼ばれるゆえんも、ここにあります。しかし、素粒子の段階までくると、要素論的方法だけでは説明できない事態に立ちいたっているようです。
 こうした限界は、物質ではなく生命体を対象とする生物学のような分野では、より顕著であるといえましょう。生物学における要素論の最たるものは、いうまでもなく分子生物学であり、それは、生体を細胞から分子レベル、つまり核酸、さらに遺伝子コードへと、より基本的な要素に還元することにより、多大な成果を上げてきました。しかし、このような“個”のみを重視する傾向は、一九七〇年代には早くもかげりを見せ、現在では、行動や環境などの“全体”にスポットを当てる生態学や人間生物学などの分野も、あわせて研究する必要性が叫ばれています。
 私は、科学の分野については素人ですが、こうした“個”を重視しすぎることへの反省は、物理学においても同様であろうと推察しております。
2  かつて読んだハイゼンベルクの『部分と全体』(山崎和夫訳、みすず書房)と題する回顧録の次の一節が、私の脳裏に強く焼きついております。
 「これまで、われわれは、いつもデモクリトスの古い前提を信じてきた。それは『はじめに粒子ありき』という文章に書き換えることができるものであった。目に見える物質は、それ自身より小さい単位の組み合わされたものであり、そしてどこまでも分割をつづけていくと、遂にデモクリトスが“原子”と名づけ、そしてそれを今日ではたまたま“素粒子”と呼んでいる最小単位、たとえば“陽子”とか“電子”等にまで到達するものと人々は仮定してきた。しかし、ひょっとするとこの哲学が全部まちがっているのかもしれない。あるいは、それ以上分割不可能な最小の構成要素などというものは全然存在しないのかもしれない。しかしそれでは、始まりは何であったのか?」と。
 「はじめに粒子ありき」――つまりアトミズム=要素主義へのハイゼンベルクの疑念は、現代の科学、なかんずく物理学のかかえている課題を浮き彫りにしてはいないでしょうか。書名が『部分と全体』と名づけられているだけに、私には、なおさらその感が強いのです。
 それに関連して私が注目しているのは、わが国の学者の集まりである「科学技術の史的展開研究グループ」が、内閣総理大臣の委嘱を受けて検討、提出した報告書に盛られた内容です。同グループはそのなかで「ホロニック・パス」(holonic path)ということを提唱しているのです。
 ホロニックはホロン(holon)からきており、ご存じのとおりホロンとは、全体をあらわすホル(hol)と、個をあらわすオン(on)を組み合わせた言葉です。日本語では全体子と訳されていますが、要するに全体との連帯性をもった個を意味するものといえます。
3  同グループの指摘によると、前近代の科学の基調は、人間が自然環境に適合して、たとえば、薪を燃料として生活する「ソフト・パス」であり、それに対し、近代産業社会を支える科学の基調は、石炭を掘り石油を汲み、それらを燃料とする巨大科学、巨大設備を生んだ「ハード・パス」の時代であったというのです。個と全体との枠組みでいえば「ソフト・パス」においては“全体”に、「ハード・パス」においては“個”に、それぞれウエートが置かれるということになります。
 それらに比べて「ホロニック・パス」とは、ともすれば自然環境とのバランスを損ないがちな「ハード・パス」の弊害を改め、かといって個の全体への埋没になりかねない「ソフト・パス」の復古調でもなく、ホロンという言葉が示すように、個と全体との調和ある発展をうながしているのです。同グループの報告書は、まだまだ、方向づけといった程度の大まかなものでしかありませんが、私は、非常に重要な意義をもっていると思います。
4  ところで、個が個として独立して存在しているのではなく、全体とのつながり、連帯性のうえに成立しているという考え方は、仏法には非常に親しいものであります。なぜなら、個の独立存在を志向する要素主義的な考え方が、物事が最初の一つの原因、要因から成り立つ、はじめに粒子ありきという“一因説”に依拠しているのに対し、仏法では“二因説”をとるからです。
 仏法における“二因説”とは、その本来の呼称でいえば“縁起論”ということなのですが、簡単にいえば、A、B二つの要因があったとすると、AありてBあり、BありてAありと、互いの関係性のうえから物事が成り立っているというとらえ方です。その関係性を基盤として、個と個が相互に依存し合う全体性、つまり個と全体とのバランス、調和も可能となってくるわけです。仏法では、人間界、自然界を問わず、こうした“二因説”がつらぬかれていると説いております。したがって私は、仏法のこうした透徹した哲理は、科学に限らず広く現代文明が直面している個と全体との調和という課題に、必ずや資するところ大であると信じております。
 ログノフ総長は、要素主義の行き詰まりという、科学の今日的課題について、どうお考えでしょうか。また、私の申し上げた「一因説」「二因説」についても、ご意見をお聞かせください。
5  ログノフ あなたがこの項で取り上げておられる問題は、現代哲学の最も興味深い問題の一つです。
 おっしゃるとおり、自然科学の探求にあたって要素的方法論を用いた結果、きわめて大きな成果が得られました。この方法論は複雑な現象をより単純な基本要素に還元していくので“要素還元主義”と名づけることができます。理論的にはこの方法によって得られたデータを総合すると、複雑な組織体の特徴が把握できると思われていました。
 この方法を用いる過程で生まれた周知の諸発見については、別に詳述する必要はないでしょう。しかし、ここで注目していただきたいのは、この要素論的方法の一貫した活用はそもそも最初の段階から大きな障害にぶつかったという事実です。
 たとえば、生物や人間社会の機能について、その個々の成分を総合して特徴づけようとすることは科学の歴史ではたんに試みとしてしか記録されていません。すなわち、現実には生物学、医学、社会学の研究分野では要素論的方法と並んで現象についての、違った“全体的把握”が常時用いられました。
 私の専門である物理学の領域についていえば、その発展は、より単純な客体“個”の特性の総合が与えるものと比べて、複雑な系“全体”では質的に新しい特性が存在することを明らかにしています。たとえば、多段階の自由度の乗が高い系においてその行為を解明するため、予想概念論を用いますと、“要素論的方法”はその適用性が限られることが立証されています。世界についての宇宙モデルを体系づけた歴史も同じような実例を私たちに提供してくれます。宇宙の静的モデルを理論づける方法は観測データと明らかに矛盾することが判明しました。
 このことは今では周知の事実です。このモデルの解明の試みは、フリードマンによって初めて成功しました。フリードマンは、宇宙がその始源から無数の静的な天文物理学的物体およびその集積をたんに総合化したものではなく、ある種の複雑かつ進行する系であるとの仮説から出発しました。
 かつては原子が物質の最小単位と考えられていましたが、のちに素粒子が最小単位であることがわかりました。現在は素粒子がクォークから成っていることがわかりましたが、このような物質単位でさえ、始源的なものと考えてはならないでしょう。素粒子の相互変換性を理論づけるさいに用いられてきた“要素論”的方法を根本的に修正する必要があることは明らかです。
6  現在の“要素論”的方法では「何が何から成り立っているか」といった問いに対してどう答えるべきかが、まったく明らかではありません。なぜならば、相互に作用し合う粒子のエネルギーいかんによって、別の粒子のさまざまな“組み合わせ”が生まれるからです。
 このように、科学知識の一分野である物理学の経験でも、実際に諸現象を研究するにあたっては、個と全体を弁証法的統一としてのみ取り上げなければならないということを私たちに教えてくれます。あるものを別のものと対立させること、あるいは、現象に内在する一つの側面の役割を他の側面と比べて、必要以上に過大視することは正しいとはいえないでしょう。
 現代科学は全体の視点からする実在の研究をますます重視しているというあなたの説は正しいと思います。
 このような方法論は、今日の地球的規模の問題を分析するさい、とくに重要です。つまり、一国経済と世界経済の発展、農業、世界貿易、エネルギー論、生態学、社会統計学の発展にかかる問題を研究するさいには、全体性という概念が前面に押し出されてきます。これらの問題の本質を理解し、問題を解決するためには全体的アプローチによる以外に方法がないのです。たとえば、海洋や大気の国際的な汚染の防止、動植物界の保護、ひいては人体の保健についての対策は、一国の規模ではとうてい解決できず、人類全体の計画的に結集された努力が不可欠でしょう。
 近い将来、多くの学問分野において全体的方法論を優先する傾向が強まることが予想されます。しかしながら、このことは、デカルト的発想が新発見の効力を失うことを意味するものではありません。反対に、その発想から、なお多くの成果を期待することができるでしょう。
 もちろん、この発想自体はおそらく、一定の修正を余儀なくされるでしょう。すでに今日、原則的にはどの全体の組成要素も単一組成とは考えられていません。ある一定の関係では「単一組成要素」として作用しながら、同じ組成要素が別の関係ではその複合性を発揮します。そのうえ、いわゆる「大きな系」の研究において、それらの単一要素は単純な条件のもとでさえ、粒子としては考えられない大きな系によって“分解”されてしまうのです。
 以上の事柄を総括して、私が指摘したいのは“要素論”的方法と全体的視点からの方法はともに、この二つを合理的に総合するという条件においてのみ、実効性が生まれるということです。
 したがって、あなたの問題提起は、現代科学にとり、また現代社会の発展にとってきわめて重要なものと考えます。
7  人間の営為が志向すべき、個と全体の統一という概念はすでに太古の昔に表明されています。このことからみても、あなたのお考えが正しいのは当然です。ただ私が留意したいのは、そうした概念が特徴的なのはひとり仏教だけではないということです。それは、古来多くの哲学者によって表明されてきました。たとえば、古代ギリシャの大哲学者アリストテレスはこの分野で深遠な理念を発展させた一人でした。
 さまざまな分野の客観的現実における個と全体の調和ある相互関係についていえば、この問題に対して一義的な答えを出すことはできません。あらゆる現象において私たちは、個と全体との間に、調和した関係や、調和しない関係を見ることができます。全体を組成する個々の要素は互いに矛盾した行動をとります。まさにこの矛盾こそが安定した全体をもたらすのです。そのほか、全体が個と矛盾することもあります。個と全体に見られるこの矛盾は自然的な現実や社会的な現実における一切の発展過程に固有のものなのです。
 私たちは社会の発展のなかにこのような矛盾の最も鮮やかな実例を見ることができます。とりわけ、今日、一方で、人類は、現代社会の生活、物心両面の文化において起こっている激しい統合過程の結果、統一性なるものをかつてなく感じ、他方で、私たちはきわめて不当な現実を明白に見てとります。すなわち、巨大な科学技術力をもつ現代の文明世界において、十億を超える人々が極貧に生き、数百万人が飢えのために死んでおり、また初歩的な医療施設がないためにひどい生活環境におかれています。
 今日、私たちは、社会と自然の相互作用の調和が崩れた結果として、自然環境が取り返しのつかないほど破壊されるのではないかといった危惧を鋭く感じとっています。まさに今日、全人類を破滅させかねない戦争の危険が、とりわけ私たちを不安にさせています。

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