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日蓮大聖人・池田大作

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文化交流のあり方  

「第三の虹の橋」アナトーリ・A・ログノフ(池田大作全集第7巻)

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2  もちろん「ヨーロッパの没落」の背景には、伝統を重んずる精神が停滞というマイナス要因として働いたという面もあるかと思いますが、しかし人間的な生活という視点から見た時、過去の人間の営みを大事にする雰囲気というもののもつ重要な価値を、私は学ばなければならないと痛感したものです。
 また逆にアメリカでは、活力の低下が指摘されてはいますが、建国当時のフロンティア(開拓)精神はまだまだ力強く脈打っていますし、新しい文化現象を生みだすエネルギーに圧倒される思いもしました。新しいものを生みだす背景には、今日のアメリカの混迷、模索の悩みを見ることもできるわけですが、ヨーロッパの荘重さとは違った意味で、力強い創造の波動のようなものを感じました。そしてまた、あらゆる異質の文化を受け入れ消化していく奥深さに、アメリカという国の余裕を見る思いがしたものです。
 隣国・中国は、革命後四十余年、社会主義新中国建設の途上であり、試行錯誤の苦悩は当然のことですが、さすが五千年の歴史をもつ国です。エネルギッシュな創業の戦いのなかにも、自信と余裕が感じられました。中国と日本とは、すでに二千年におよぶ交流があり、数多くのことを日本は中国に学んできました。言葉にしても、思想にしても大きな影響を受けているだけに、祖先の文化を訪ねるような思いがしたものです。
 中国とは違った意味で、インドは日本文化の源流であり、なかんずく、私は仏教徒ですから、釈尊ゆかりの地であり仏教発祥の地であるインドには、特別な感懐をいだきました。ともかくインドには不思議な、人を人生への思索に誘う雰囲気に満ちています。
 細かく論じれば、いろいろな視点がありますが、私はヨーロッパの文化には“洗練された伝統”を感じ、アメリカでは“創造性溢れる活力”を、中国では“人間の智慧と歴史の重み”を、インドでは“思索に誘う哲学性”を感じました。そしてお国を訪れて感じるものを一言でいえば、“人民の生きることへの意志”です。
 ログノフ総長も、数多くの国々をご存じのことと思いますが、各国の文化、風土についての印象と、日本の文化についてのご意見をお聞かせください。
3  ログノフ それぞれの国民、それぞれの国の生活における文化的伝統、また、国際交流において文化交流のおよぼす影響についてのお考えを興味深く拝聴しました。
 この項であなたは多くの問題に言及されています。そのいずれが重要であるかはすぐには言いかねます。しかし、それらのもつ意義からみて、そのいずれもが重要かつ第一義的意義をもっていると思われます。
 たとえば、あなたは、ヨーロッパに比べて日本においては、重要な文化遺産、歴史遺産が「進歩」の名のもとに傷つけられたり、「開発」の名のもとに、しだいに破壊されていることを憂慮されています。それは日本だけにとどまらない今日的な課題です。それは単純なものではなく、生活の多くの側面を包含した問題です。
 私が理解するかぎり、ここで問題になっているのは文化の継承、文化遺産の保存、過去と現在の不可分の結びつきといった事柄だと思います。そうした問題には環境保護、地球上の生活の発展に関連した多くの破壊、生態環境の汚染等の問題も加えられるでしょう。いわば、じつに重大な問題です。それ以外にも人類全体の利害にかかわる焦眉の問題があり、その解決のためには各国共同の努力が要求されます。
4  たとえば、世界の一部地域における飢餓を解消する課題があります。そうした地域では発展を妨げるひどい立ち遅れがいまだに尾を引いています。この複雑きわまる問題を解決するためには、すべての国、すべての国民の努力が必要とされます。
 史跡が進歩によって傷つけられるという問題は、「進歩」の破壊作用によるというよりはむしろ、多くの場合、過去の創造物に対する軽率な、それゆえに犯罪的なあつかい方によると思われます。もちろん歴史は一切をそれなりの場所に置きます。子孫の記憶に値するものは保存され、時には生活に引き戻されます。逆に死産したものはごみ捨て場に投げ捨てられます。
 しかし人間の使命は、正しい歴史的評価を下すことであり、進歩の代償があまりにも高価につくことがないようにすることです。なぜなら中途半端なプロジェクトの実現を強行するあまり、史跡や記念碑的意味をもつ重要建造物が取り壊され、その跡に陳腐なビルディングが建ち並ぶといった事例が少なくないからです。
 私が日本を訪れて感じた印象を言えば、日本人には、ロシア人の場合もそうですが、自分たちの伝統、歴史遺産を保存し、保護する自然的な要求、切実な希求がきわめて強いことを確信しました。
 史跡や記念碑的意味をもつ文化遺産が「開発」という名分によって破壊されていくことへの「反省」が大事だという先生のご意見に同調します。進歩によって過去が消え去るようなことがなく、それが歴史の教訓として、美的教育、道徳教育の生きた教材として活かされるよう望みます。
5  池田 怖いのは経済的利益の追求が最優先されがちであることです。古い建物は絶えず修理を加えなければならず、出費がかさむ、また、使用するにしても経済的効率が低いといった欠点があります。そのため、修理するよりも新しく建て直したほうがかえって安くつくとか、また庭園などもつぶして建物にして賃貸しすると、利益が上がるなどという理由で壊されてしまうことが多いのです。
 こうして、青少年や未来の世代は、民族や都市の過去とのつながりを失い、文化的、精神的伝統の根を断ち切られた浅薄な人格しか形成できないことになってしまうのです。
 もちろん、あるもののもつ歴史的価値の評価は、人によって千差万別でしょうし、時代によっても変化しますが、できるだけ幅広く人々の意見を吸い上げて、多くの人が歴史的、文化的遺産として残すべきであると考えているもの、また、少数であっても見識ある人が保存すべきだとしているものについては、最大限、保存する方向で取り組まれるべきだと思います。なぜなら、ひとたび破壊され失われたものは、二度と元どおりにはならないのですから。
6  ログノフ あなたはさまざまな国々の印象を述べられました。あなたは多くの国を旅され、外国で見聞したものが長く記憶に残り、思慮と総括を強い、時に自分の考えの再検討を強いることをよく知っておられます。そうした経験から人間は精神的により豊かになり、より明確な目的意識をもつようになり、ヒューマニズムと国際主義の精神が育っていくのです。
 たとえば、あなたはアメリカを見て、“創造性溢れる活力”を感じ、中国を見て、“人間の智慧と歴史の重み”を感じたと言われました。またインドでは目にしたものに感化されて“思索に誘う哲学性”を感じた。そして、ソ連ではその“人民の生きることへの意志”を肌で感じたと言われました。
 あなたはわが国を訪問した印象を驚くほど正確に表現しておられます。事実、ロシア人、すべてのソ連人は困難で悲劇的な時期に、とくに不屈の信念を発揮します。それについてはソ連の歴史、第二次大戦の出来事が如実に物語っています。偉大なトルストイ、そしてわが同時代人のショーロホフはロシア人の信念、ロシア人の性格の描写に多くの紙数をさきました。
7  この前の戦争でソ連は国富の三分の一を失いました。ソ連の中でもヨーロッパ地域の多くの都市村落、農村地帯が破壊されました。しかし国民の信念、人々の生活意欲、そしてソビエト人特有のヒューマニズムが私たちを廃墟から立ち上がらせたのです。侵略者を村から追い払うや否や農村女性――男はすべて前線に出征していましたから――は砲弾で文字どおり穴ぼこだらけになった土地を耕し始めました。タネを蒔き、その実りによって新しい世代を養うためです。都市では廃墟を取り片付けレンガを集めて工場や住居を再建しました。
 こうしたすべてのことが青春時代の私の目の前で行われたのです。「人民の生きることへの意志」はこのようなものです。私はそれが多かれ少なかれ、どの国民にも持ち前の資質だと信じています。
 今日、私たちは平和の時代、科学技術の急速な進歩の時代、宇宙空間の開発の時代に生きています。地球上の生活のため多くのことがなされています。しかし肝心なことを忘れてはなりません。それが、自然や何世紀にもわたる人類文化を破壊しながら科学技術革新をめざして進むのだとすれば、それは罪を犯すようなものだということです。人類の発展は、この地上の平和が保たれてはじめて可能なのです。
8  池田 文化交流の一つを裏づけるものとして言いますと、日本人はロシア文学を深く愛好してきました。プーシキン、トルストイ、ドストエフスキー、ゴーリキー、チェーホフ、ツルゲーネフといった文豪の名前は多くの人が知っていますし、『戦争と平和』『カラマーゾフの兄弟』その他の作品は相当多くの人に愛読されています。チェーホフ生誕百年、ドストエフスキー没後百年は日本でも、各地でさまざまな記念の催しが行われました。演劇などでもチェーホフの「桜の園」などはいつも演じられていますし、民謡などにしても「ヴォルガの舟歌」や「トロイカ」などはよく歌われています。
 これに対し、日本の文学や芸術などについてソ連の人々はどのような形でふれる機会があるのでしょうか。あるいは、日本のものでソ連の人々のなかに浸透しているようなものが何かあるでしょうか。
9  ログノフ ソ連の読者は日本の文学作品を知っているかとのお尋ねですが、もちろん知っているだけでなく、わが国では日本の作家の多くの作品が、西側流にいってベストセラーになっています。
 ソ連では日本の俳句集がヴェーラ・マルコワ女史の名訳で出版されました。仄聞したところでは、日本のロシア語通はこの訳文を高く評価しているとのことです。川端康成の作品は何度となく再版されました。日本のアンソロジー(歌集)である『万葉集』や古代日本文学の傑作『平家物語』『源氏物語』も訳され、出版されました。いちいち作品名はあげませんが、前にもふれました大江健三郎など現代日本文学の作品も多く紹介され、多くの読者に人気をかち得ています。
 文学のほか、わが国では日本の各種芸術がよく知られています。たとえば生け花です。この芸術の愛好者はモスクワだけでなく、他の諸都市にも多数います。ですから、「生け花」という言葉は今ではロシア語になってしまいました。
10  ところで、日本人がわが国の芸術をどう受け止めているかを知ることは、私たちにとっていつも大きな関心事です。あなたは日本ではロシア文学がよく知られていると述べられました。他方、日本人の古い世代はまことに幅の広い教養を身につけているが、若い世代は外国の古典作品はおろか、自分の国の古典文学さえ知らないという声を耳にします。
 日本は教育水準がきわめて高い国です。しかし教育のカリキュラムはあくまでカリキュラムであり、文学作品を味読することは別問題です。若者はその視野からいって、往々にして偉人の思想を完全に深く受容することができません。しかし青年時代に正しい美的教育を受け、優れた作品を読んでいれば、熟年になって必ずそれらの作品にもう一度立ち戻ることがあるでしょう。そしてそれらの作品の中に若いころ読んだものとは違った重要な意味を見いだすでしょう。
 チェーホフ生誕百年やドストエフスキー没後百年の記念行事が、日本の各地でも行われたというのは、ドストエフスキーやチェーホフがその作品の中で言わんとした考えが多くの点で日本の観客に身近なものであり、日本人の心を深く打つものだからでしょう。
 本物の芸術、本物の創作は宣伝や補足的な説明を必要としません。そうした芸術はそれ自体が価値であり、世界共通の文化遺産となるのです。したがってトルストイやドストエフスキーの作品はシェークスピア、ゲーテ、シラーといった巨匠と並んで全人類の共有財産となりました。どの国もいろいろな芸術分野、技量の領域で優れた手本を世界に示した天才的な同胞を当然誇りにしています。たしかにそれはすばらしい誇りであり、よい意味で愛国心の模範例だといえます。
11  池田 ところで、世界の歴史において、東洋と西洋とを結ぶ文化交流の大動脈となったのがシルクロードでした。
 シルクロードは、中国の洛陽あるいは長安からローマにいたる長遠な複数の交易路をいうわけですが、シルクロードといっても、もちろん中国のシルクだけが運ばれたのではなく、西方からも宝石、玉などが運ばれましたし、さらにそうした経済的交易と同時に、仏教、キリスト教、イスラム教などの宗教も、人々とともに伝えられました。したがってシルクロードは壮大な文化交流の道でもあったわけで、東西文化に大きな刺激を与えています。
 シルクロードによってもたらされたものは、ローマと長安の間に限らず、東方のものが北欧やイギリスにまで伝わり、西方のものが東は日本まで伝えられています。日本の正倉院にはペルシャ起源の流麗な意匠を施された漆胡瓶や白瑠璃瓶、あるいは織物類、また琵琶などが収められており、シルクロードを通じていかに華やかな文化交流が行われていたかを物語っています。このヨーロッパとアジアを結んで行われた壮大な文化交流を見る時、これを推し進めたエネルギーはいったい何であったのかを考えざるを得ません。もちろん交易路ですから、利益追求の欲望がその推進力となったのでしょうが、そこには未知のものへの飽くなき探求心があったと思います。
12  ログノフ あなたは東西の接近について言及されています。接近というのは、文化とか人類の遺産や各種成果の交流から、地球の東半部と西半部に住む人々の間の交流によって伝統や慣習が形成されたことまで含むと解します。いうまでもなく東西の概念は条件的なものです。どの方面から見て東か、西か、相互関係においてどこが東で、どこが西かということが問題になります。しかしここではそうしたむずかしい概念規定はさておいて、私たち以前に生まれた条件的な意味に従いましょう。
 人間は閉ざされた空間では生きることはできません。世界についての理解を広げたいという願望がつねに人々を互いに近づけてきました。私たちの遠い祖先が勇敢な旅を敢行し、非常な困難に打ち勝ったのも宇宙――太古から私たちの惑星はそう呼ばれていました――についての知識を広げるためだったのです。こうして前二世紀から航海術が発達する十六世紀にいたるまでの期間にかの有名なシルクロードが生まれ育ち、人々に幸福や悲しみ、知る喜びや失う悲しみをもたらしました。いずれにせよ、シルクロードは東西を結ぶ最初の隊商路として、同時に世界の向こう側やこちら側で発達したさまざまな文化、さまざまな文明を互いに近づける道として歴史的な役割を果たしました。
13  池田 古代シルクロードが通っていた西トルキスタンの西部には、ずいぶん多くの都市遺跡があります。まだ未整理のものや未発掘のものも数多くあると思いますが、それらの発掘、研究によって、古代国家の様相もかなり明らかになってくると思います。私どもにとってたいへん興味があるのは、仏教を保護したことで有名なカニシカ王が出たクシャーナ王朝、いわゆる月氏国です。
 カニシカ王のもとで仏教は大きく発展流布したと考えられますし、それ以前にも以後にも仏教はシルクロードを通る人々によって東へ東へと伝えられていったわけですが、西トルキスタン西部地方ではテルメズやフルンゼなどから仏教遺跡が発見されております。
 そうした方面の考古学的研究もソ連ではずいぶん進んでいると思いますが、現在のソ連領内でいえば、どのあたりまでクシャーナ王朝の影響がおよんでいたのでしょうか。また仏教はどの地方まで伝わっていたと考えられているのでしょうか。日本の学者の研究も進んでいるようですが、ソ連におけるシルクロード研究の現状を通してご紹介いただければと思います。
14  ログノフ あなたが尋ねられているクシャーナ帝国は一世紀から三世紀にかけて、シルクロードと呼ばれるこの隊商路沿いに存在しました。それは現在の中央アジア、アフガニスタン、パキスタンおよび北インドを包含する巨大な地域を占めていました。
 歴史家の証言によると、この帝国の版図は中国の新疆まで広がっていたということです。私の知るかぎり、クシャーナ帝国は古代世界史上大きな役割を果たしたにもかかわらず、あまり深く研究されていません。クシャーナ帝国の歴史については中国およびローマの史実から、またクシャーナ貨幣やわずかな碑文の分析結果からうかがい知られる程度です。
 クシャーナ帝国の正確な年代は今もって定かではありません。歴史学者の推定では、クシャーナ帝国は世紀前にグレコ・バクトリア国が遊牧民によって粉砕され、そのあとに多くの独立した公国が組織され、世紀前と世紀後の境目から約百年経った時代に起こったとされています。かつてのバクトリアの版図だったこれらの公国の一つがクシャーナ族に率いられたクシャーナ帝国なのです。
 クシャーナ帝国の主だった成果は、クジュラ・カドフィセス帝およびその子でとりわけ有名なビーマ・カドフィセスと最も有名だったカニシカ帝の名と結びついています。クシャーナ帝国の繁栄はカニシカ帝とその息子の統治時代のことです。クシャーナ帝国の版図での主要な発掘がバクラムとバクラン(アフガニスタン)、タキシル(パキスタン)、それにソ連のウズベク共和国とタジク共和国の多くの地点で行われました。
 考古学者の推定では、クシャーナ時代にその国土では大規模な建設が行われ、大都市が生まれ、潅漑や手工業が大いに発達したとされています。クシャーナと中国、パルファン、ローマとの関係が明らかにされました。ちなみにクシャーナとローマとは大使を交換しています。こうした関係は中国の首都からクシャーナを経てシリアにいたる大シルクロードと、エジプトからインド西海岸の諸港にいたる海路によって実現されたのです。
15  この時代、シリアとエジプトはローマに属していました。クシャーナ期に仏教が大いに普及し、その影響はインドから中央アジア、そして極東地方へ広がりました。クシャーナ美術が、その時代までにすでに確立されていたバクトリア、パロパミーズ(北西アフガニスタン)、ガンダーラ、マトゥラ(北インド)諸美術の枠内で発展した事実は興味深いと思います。それは総じて中東のヘレニズム(古代ギリシャ)美術という文化現象なのです。このように、古代の文化交流は高い水準にあったと結論づけるのが理にかなっているでしょう。
 ある民族が他の民族によって征服されたり、また一つの国家が没落の状況下におちいった時にもその民族文化は消えてなくなりはしませんでした。概して、征服者である遊牧民は襲撃した国の民族、種族より文化の面で劣っているのが通常でした。
 征服された民族の文化はその後、征服者の間に広まり、こうしてその文化は征服者を“征服”したといえましょう。ギリシャ、ローマの影響の濃いクシャーナ期の彫刻――粘土、石膏、石彫――にはクシャーナ諸帝をたたえるテーマや神話的主題が圧倒的に多く、仏陀像、菩薩像が彫られています。クシャーナ帝国の彫刻、絵画では写実的なものが象形的なものに漸次席を譲っています。クシャーナ美術は中央アジア、アフガニスタン、インドの美術文化の発展に大きな影響を与えました。
16  池田 シルクロードの衰退には、チンギスハンによるオアシス都市の破壊と同時に、当時、海路の開発が進んでいたということもあるようです。陸路が危険であり、さらに中継のオアシス都市が破壊されたために、ますます海路が要請されたわけです。そこで文化交流は海路が中心となり、近代に入ると空路が加わり、より早く異国の文化が伝えられるようになりました。
 そしてさらに、近年における科学技術の驚異的な発達によって通信手段が大きく進歩し、かつてのシルクロードとは比較にならないほど、質量ともに交流が可能になっています。熱砂も峻険な山脈も、今ではなんの障害にもなりません。にもかかわらず、今もって真実の交流はしばしば妨げられています。それは人間の心に巣くう偏見、敵意、反目、猜疑心、侮蔑、傲慢などが、最後の障壁として残っているからです。
 熱砂や険難な山脈や波涛乱れる大海等の障壁は科学技術によって乗り越え、次々と新たなシルクロードを開拓することができました。今、克服すべき障壁は人間の心に巣くう悪であり、私たちは「精神のシルクロード」を開拓すべき時を迎えています。
17  私はかつてモスクワ大学を訪問したさい、「東西文化交流の新しい道」と題して講演し、そこで「民族、体制、イデオロギーの壁を超えて、文化の全領域にわたる民衆という底流からの交わり、つまり人間と人間との心をつなぐ“精神のシルクロード”が、今ほど要請されている時代はない」(本全集第1巻収録)ということを申し上げました。そして「いかに抜きがたい歴史的対立の背景が存しようとも、現在に生きる民衆が過去の憎悪を背負う義務は全くない。相手のなかに“人間”を発見した時こそ、お互いの間に立ちふさがる一切の障壁はまたたくうちに瓦解することであろう」(同前)と述べました。
 人間と人間の間にある障壁は、すべて幻想にすぎません。民族的敵意や人種的差別や、それら一切はすべて人間の心がつくりだしたものであり、真実の障壁は自分の中にこそあることに私たちは気づくべきです。私たちは、心の中にあまりにも多くの色メガネをもちすぎています。これをまず取り外さなければなりません。そして、ありのままに、相手の人間を見ることです。すなわちイデオロギーや政治性で見るのでなく、まず人間自身を直視すべきであると思います。
 その意味で私は、今日、人類が最も必要としているのは、ヒューマニズムであり、人間を人間として見ることのできる眼を育てる「人間学」であろうと思います。
 ログノフ 人間関係の歴史は漸進的なプロセスです。今では数千キロの距離も人々の交流の妨げにはなりません。たとえば、モスクワで機上の人となり、そこで夕食をとり、翌朝には東京で朝食をとる時代です。諸国民間の接近の速度もこのような速さに負けてはならないはずです。
 しかし、すべてが満足とは今のところいえません。今もって、ある人々は、力だけが一切の解決を可能にすると考えています。こうした考えはその人が知的発達の点で未開人と大差ないことを意味します。でも私は人間の理性を信じ、ゴルバチョフ氏が根気づよく呼びかけている新しい政治的思考を、そして究極的には理性が勝利することを信じます。
 人類は唯一正しい選択をすることでしょう。そして諸国民間の交流を妨げるようないかなる政治的冒険も人々を互いに近づけ、進歩と和合に導く「シルクロード」から人間をそらすことはないでしょう。

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