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日蓮大聖人・池田大作

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愛国心と文化の融合  

「第三の虹の橋」アナトーリ・A・ログノフ(池田大作全集第7巻)

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1  池田 ロシアの人々の愛国心の強さは世界的に有名です。その愛国心の強さが、あの“タタールのくびき”といわれるモンゴル民族の数百年におよぶ圧政をはねのけ、ナポレオン軍の侵略を撃退し、十月革命直後に襲いかかった干渉戦争、そしてファシズムの侵略をはねかえして圧倒した原因といわれております。
 しかし、私はむしろ、そうした外敵との粘り強い戦いを通して、あらゆる艱難辛苦に耐え、犠牲をいとわぬロシア人の愛国心はしだいに培われ、強くなっていったのではないかと思います。
 しかも、ソビエト連邦となってからは、たんに各共和国に対する愛国心にとどまるのでなく、ソビエト全体への愛国心となっています。
 私は愛国心とは、決して教え込んだり、押しつけたりするものではなく、自分の郷土を愛し、どこまでも誇りに思い、わが故郷の山河に限りない愛着を感じる人間の素朴な精神から自然に生まれてくるものだと思います。したがって、自分が郷土と感ずる世界が広がれば、それだけ広い世界に自分の愛情を注ぐようになるわけです。その意味で、今日では世界全体が一つの運命共同体となりつつあるのですし、人々も世界各地を旅行するようになっているのですから、世界全体を愛国心の対象とする人々が増えていくのが自然であると考えます。
2  ログノフ 愛国心は全きものであり、自然的なものであり、父母に対する愛情のような、奪うことのできない人間固有のものだと思います。ロシア語で使われる“パトリオチズム(愛国心)”自体、父という意味の語根“パーテル”から成り立っています。“パトリオチズム”とは祖国、父祖の地への愛情、永遠に心にしみこみ、心を生みだした一切のものへの愛情なのです。それは人間の全生涯を決定づける最も明るい幼年時代と結びついています。いったい、自分の幼年時代を裏切ることのできる人間などいるでしょうか。
 私の理解するところでは、日本人にとって祖国とか肉親とかの最初の感覚は母の背に負われた時のやすらぎと庇護感と結びついていると思います。少なくとも、私が日本人の母親を想像する時、必ず、母の背中越しに見え隠れする幼児の小さな頭が思い浮かぶのです。おそらく、日本人は祖国について考える時、なだらかな山並み、日本人にとって聖なる、そして私たちロシア人も本や写真や絵でよく知っている富士山を思い浮かべるのではないでしょうか。私が読んだところでは、日本人ならだれでも伝統に従って一生に一度は富士山に登らなければならないということです。
 池田 いえ、いえ、それは何かの間違いだと思います。富士山が大部分の日本人にとって祖国の象徴のようなイメージをもっていることは事実ですが、山頂にまで登る人はそう多くはありません。
3  ログノフ ロシア人の場合も、彼らが祖国について語る時、独自の、純粋に民族的な連想やイメージが浮かびます。ここで私が“ロシア人”と言ったのは、私自身ロシア人だからです。しかしあなたもご存じのように、私どもの国、ソ連には多くの民族が住んでいます。ですから、祖国という概念はソ連邦という各民族共通のイメージとともに、各民族自身の、いわば“小さい祖国”のイメージをあわせもっています。つまり、後者のほうはロシア人にとってはロシアであり、グルジア人にとってはグルジアであり、ウズベク人にとってはウズベキスタンなのです。
 池田 それは日本人の場合も同様です。伝統的な日本人は、日本全体に対する愛国心とともに、自分の生まれ育った各地方に対する愛郷心をもっています。場合によれば、後者のほうが強いとさえいえます。
4  ログノフ あなたは、ロシア人の愛国心は歴史上つとに有名だと指摘されていますが、そのとおりだと思います。世界文学はロシア人の愛国心について多く語っています。また、トルストイも有名な『セヴァストーポリ物語』や小説『戦争と平和』の中でロシア人の愛国心について書いています。愛国心は、自分たちの戦いが正義に基づいたものであるという自覚と並んで、外敵との困難な戦いで究極的な勝利を不変なものにした巨大な精神力でした。ご指摘のとおり、歴史は民族解放と独立をめざしたわが国民の正義の戦いの実例を数多く伝えています。
 池田 日本のある有名な総合雑誌が、十数年前に、アンケート調査をしたことがあります。そこで「もし日本列島が沈没して地上から消えるとしたらあなたはどうしますか」と聞いたところ、回答者はいずれも、外国でも十分に生活していける人でしたが、六割以上が「日本と運命を共にする」と答えています。
 「愛国心」ということでは、ロシアも日本も、またいずこの国であれ同様であると思います。ただ、歴史を振り返りますと、戦前の日本でもそうだったように、権力者は、民衆の愛国心を利用して侵略戦争を正当化し、人々を死地に追いやり、苛酷な要求を押しつけ、民衆を酷使してきた苦い歴史があります。私は、二度と愛国心が民衆操作の道具とされるようなことがあってはならないし、そのためにも愛国心は閉ざされたものではなく、人類社会へと開かれていなければならないと考えます。
5  ログノフ 私にとって愛国心の概念はインタナショナリズムという、重要な概念と不可分に結びついています。私が深く確信するところでは、祖国への愛情に燃えた人だけが、換言すれば、深い民族的自覚をそなえもった人だけが真の国際主義者たりうるのであり、他国民の伝統、他国民の歴史、他国民の文化に対して、しかるべき敬意を払うことができるのです。なぜなら、そうした敬意なしには相互理解の達成など考えられず、したがって、この地上の平和を確立することは不可能だからです。
 モスクワ大学には多くの民族の学生が学んでいます。それはソビエトの青年男女だけではなく、世界各国の人々でもあります。私たちはソビエト人たると外国人たるとを問わず、すべての学生に愛国心と、そして国際主義の精神、相互理解と平和の精神を教え育てています。
 あなたは愛国心とは教え込んだり、押しつけたりするものではないと言われました。そのとおりで、愛国心や国際主義の理念は、父母への愛情を押しつけることが不可能であり、友人に対して尊敬を押しつけることが不可能であるのと同様、それを“押しつける”ことはできません。
 同時に、あなたは、人々に対してさまざまな感情や理解を植えつけることが可能だということを否定されないと思いますが、もしも子どものころからシェークスピアや、オマール・ハイヤム、シラーや、トルストイ、ガンジーの思想、ハイネ、ドストエフスキーなど世界の偉大な文化人の思想を教え込まれるならば、その人間はヒューマニズムやそれと一致した生命観、人間観、人間関係の理解、最高の価値観を身につけることができるでしょう。
 逆に、もしも幼少時から暴力を教え込まれ、他人に対する優越観を植えつけられるならば、その人間は例外なくそうした考えを生涯もちつづけるでしょう。それはファッショ・ドイツで見られたとおりです。当時のドイツは他のすべての国民に対して“ドイツ民族”の優越性を信じ込ませようとやっきになっていたのです。このような教育は世界の多くの国民に対して高価な代価を払わせました。そのためファシズム宣伝の犠牲になったドイツ国民自身も報いを受けました。
6  池田 私も、日本が軍国主義の道を、ちょうど坂道を岩がころげ落ちていくように突っ走り、悲惨な敗北を喫した時代に少年期、青年期を過ごしました。当時の軍部政府が、いかに国民の眼を狭い世界に限定し、偏狭な愛国心へかりたてていったか、それが、どんなに無残な悲劇であるかを身をもって知ることができました。このような愚かなことは、二度と繰り返されてはならないと思っています。
 ログノフ 私は学問に仕える者ですが、私の年代のすべての人と同様、社会の生活、戦争と平和の問題について考えます。まだ根絶されていないファシズムのテーマにたちかえって、私は次のことが言いたいのです。過去の歴史体験からわかるように、新たな破壊的戦争を許さないよう努力している私たちはなんらかの国際機関――行動や宣伝によって世界を新たな流血の大量殺戮へ押しやろうとする政治家やイデオローグたちを裁くことができる国際法廷といったものを設立する必要性があるのではないでしょうか。
 あなたは愛国心にふれ、総合雑誌のアンケート調査のエピソードをあげられました。そしてその結果、六割以上の人々が「日本と運命を共にする」と答えたと述べられていますが、それは興味あることだと思います。
 ところで、日本で製作された「日本沈没」という映画がソ連でも広く公開されました。この映画は世界のすべての国民が日本人に援助の手をさしのべるという結末で終わっています。私自身もこの映画を見ました。この映画の作者が、日本からのSOSに応えた国のなかに私の祖国ソ連をも加えたという事実が私にはとてもうれしいことでした。率直にいって、この仮説的な問題のこのような解決、つまり“SOS”の信号を受け取った外国の船はどの航路を進んでいるかにかかわらず、ただちにコースを変え、被災者の援助に急行するといった結末が私にはたいへん気に入りました。
7  わが国には「真の友は不幸の時にわかる」という諺があります。日本語にも同じような意味の諺があると思います。それは必ずあると思います。なぜなら、日本人は不幸とは何か、互助とは何かをよく知っているからです。それをあなたがた日本人に教えたのは、作家や学者ではなく、地震とか火災とか津波との戦いでした。
 だれが人々に未来への確信をいだかせ、人々に愛国心と国際主義の調和した精神を教えることができるでしょうか。現実に悲劇が起こった時、日本人は孤立化するようなことはありません。必ず他の国民が日本人の救援にやってきます。それはまったく明らかなことです。諸国民はわが地球の一部である主権国日本の運命に無関心たり得ないのです。それは、世界文化の不可分の一部分である日本独特の文化の運命に、そして世界共同体の不可分の一部である日本国民の運命に、他のどの国民たりといえども無関心たり得ないのと同様です。なぜといって、世界――それは船であり、私たちのすべてはその乗員だからです。私たちは、勤勉な働き手としての日本人をよく知っています。すでに長年にわたって私が描いている日本人像は、労働の汗のシンボルとしてのハチマキ姿をした農民や労働者です。雑誌の質問が広範な住民、生活苦と戦うことに慣れた日本人の一般民衆に向けられたものであるとすれば、彼らは「われわれはなお自分を守る――これは日本語では《がんばろう》というそうですが――。そしてわれわれの民族や文化が滅びたり、子孫が未来をなくしたりすることを許さない」と答えるでしょう。

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