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日蓮大聖人・池田大作

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ソ連における東洋と西洋  

「第三の虹の橋」アナトーリ・A・ログノフ(池田大作全集第7巻)

前後
1  池田 東洋と西洋とは、人類文明の長い歴史を通じて、基本的な二つの、異質の流れを形成してきました。この二つの流れは、相互に異質であるだけに、さまざまな点で対立もしてきた反面、互いに与え合うものも多く、その対立と交流が人類文明の内容を、まことに多彩にし、豊かにしてきました。
 もちろん、地球全体を見た場合、人類の文明は、東洋文明と西洋文明だけには収まらない、それぞれに注目されるべき豊かさをもった流れもあります。アメリカ大陸に栄えたマヤ、アステカ、インカの文明、アフリカ大陸の黒人たちが生みだした文明等がそれです。しかし、これらは、いずれも、他の異質の文明等と交流することがなかったため、その盛期を過ぎると衰滅してしまいました。
 さらにまた、東洋文明、西洋文明といっても、それぞれに多様な内容を包含しており、個々に見れば、はたして、東洋文明、西洋文明といった概括が可能なのかという疑問さえ、提起されうるでしょう。その点は私も認めますが、なおかつ、明らかに「東洋文明」「西洋文明」としてとらえうるものが、そこにあると考えるのです。
 たとえば「東洋文明」といった場合、極東の中国文明などがあり、インドの文明、古代ペルシャ文明などがあり、それぞれに別の個性をもっています。また「西洋文明」も、古代のギリシャ文明、ローマ文明から、中世のキリスト教の文明、そして近世・近代にいたっては国民的性格を反映して、フランス文化、ドイツの文化、ロシアの文化、スペイン、イタリア文化等々、多様性を示してきています。
2  しかし、いわゆる「東洋」の内部においては、古代からペルシャとインドの間には民族的起源を同じくする者同士の密接なつながりがあり、インドと中国、そして日本の間にはインド発祥の仏教の流伝によって結ばれた深い融合意識があります。他方「西洋」のほうも、ローマはギリシャ文明をとりいれ、中世ヨーロッパは、このギリシャ、ローマの文明的所産をキリスト教とともに受け入れました。
 ともあれ「東洋」と「西洋」は、ギリシャとペルシャの戦争に代表されるような対立と相克、アレキサンダー大王によるヘレニズム帝国に代表される融合、占星術や製紙法に代表されるような文化の伝播等々を繰り返しながら、互いに刺激し合って、豊かな発展を示してきたのでした。現代においても「西洋」は「東洋」から、「東洋」は「西洋」から学ぶことのできる、あるいは、学ばなければならないものが、たくさんあります。そして、それによって人類の文化は、ますます豊かになり、平衡のとれたものになっていくことが期待されます。
 そうした観点に立った場合、ソビエト連邦はとくに重要な位置を占めていると考えざるを得ません。というのは、ソビエトこそ、「東洋」と「西洋」にまたがった巨大国家であり、そのなかには「西洋」の文明に培われた人々も、「東洋」の文明を伝えている人々も含まれているからです。たんに、人々を含んでいるという点では、アメリカ合衆国も、まさしく人種と文化の坩堝ですが、ソビエト連邦は、人々だけでなく、土地をも包含しています。
 ソビエト連邦を構成する十五の共和国のなかには、ロシア民族以外に数十の民族が含まれています。ウクライナ民族、カザフ民族、キルギス民族、タタール民族、ユダヤ民族その他、たくさんの民族で構成されています。ロシアは帝政の時代から西はヨーロッパ・ロシアから東は太平洋岸にいたるまでの広大な地域を領有し、そうした多民族を統合・支配してきました。そして、十月革命後も、ロシア人が中心となって他の民族を統合しているようですが、ソ連政府は、他の民族に対してどのような施策を行っているのでしょうか。
3  ログノフ あなたが言及された民族問題は、私の観点からも、きわめて重要な問題です。ソビエト国家は誕生以来一貫してこの問題に大きな注意をさいてきました。
 あなたと私の対話が、多民族国家・ソビエト連邦の結成六十周年に始まった点を考慮に入れて、わが国における民族問題解決の歴史について少しばかり詳しく述べることは時宜にかなっていると思います。
 一つの国には一つの憲法しかないというのは当然のことのように考えられていますが、ソ連ではそうではありません。わが国には全連邦の憲法のほか、さらに三十五の連邦構成共和国や自治共和国の憲法が存在しています。
 今日のソ連邦機構の基礎を築いたのは一九一七年十一月七日(旧暦では十月二十五日)に遂行された十月社会主義大革命でした。革命後、第一回全ロシア・ソビエト大会はロシア社会主義連邦ソビエト共和国の結成を宣言しました。この共和国がソ連邦の原型となったのです。わが国の最初の法律文書の一つとなったのが「ロシア諸民族の権利宣言」(一九一七年十一月二日)でした。この「文書」は一切の民族的特権や制約の廃止、旧ロシア帝国に居住するあらゆる民族の平等と主権を宣言しました。この「宣言」によって各民族の自決権が確立されたのです。
 池田 それは非常に大きな変革だったわけですね。帝政ロシア時代の文学作品には、少数民族の反乱がしばしば取り上げられています。このことは彼ら少数民族がいかに虐げられていたかを物語るといえます。
 ログノフ 一八九七年の国勢調査によりますと、旧ロシアにはロシア人のほかに百四十五のさまざまな民族、亜民族・人種的グループが数えられ、その数は全人口の約五七パーセントを占めていました。帝政ロシアは非ロシア人の権利を侵害しただけでなく、彼らをけしかけて互いに反目させました。とくにひどい目にあったのは国の辺境地方、すなわち中央アジアやコーカサス、そして極北地方に住む人たちでした。これらの原住民はロシア貴族と地方貴族の双方による二重の圧政に苦しみました。こうした辺境地域は旧ロシア国土の五分の四を占めていたのですが、工業は全国のわずか八パーセントしかありませんでした。
 非ロシア人の大半は自分の民族語で新聞、雑誌を出版したり、自分の言葉で教育を受けたりすることを禁じられていました。多くの民族は文字すらもっていませんでした。
 少数民族の抑圧は宗教面にもあらわれていました。一切の特権がロシア正教会の手に握られ、カトリック、ユダヤ教、イスラム教、そして仏教は、あらゆる手段で権利が侵害されていたのです。
 一九一七年、人民委員会議(閣僚会議)は異教徒へのアピールを発表し、あらゆる民族の信仰や慣習は自由かつ不可侵であると宣言しました。
4  池田 いかなる国家体制においても信教の自由が保障されることが人間として生きるうえにおいて最も重要な条件の一つであると私は考えています。信教の自由こそ人間の精神的自由の中核をなすものです。もし信教の自由が侵されるならば、思想、信条、言論、表現、結社等の他の自由も必然的に認められないことになりましょう。
 ログノフ まさにそのとおりです。帝政ロシアにおいては、ロシア正教会と国家権力が緊密に結びついていました。十月革命後ただちに教会と国家、学校と教会との分離に関する特別政令が採択され、教会は法律のもとに置かれて、信仰をもつ人々に対する憎悪と敵意をかきたてること、宗教的信念ゆえに信者を迫害することには厳しい処罰が加えられることになりました。現代もそれに変わりはありません。
 一九七七年に採択されたソ連邦憲法は、その前の三つの憲法(一九一八年、一九二四年、一九三六年の憲法)の理念と原則を保ち、その第五十二条でも、信教の自由の原則が確認され、どのような宗教をも信仰し、宗教的儀式を行う権利が、人間の最大の精神的自由、科学的世界観の自由な発展、いかなる宗教をもまったく信奉しない権利、そしてまた無神論的宣伝を行う可能性とも結びついて認められています。
5  池田 なるほど。ソビエト連邦を構成している少数民族には、今では仏教といってもラマ教徒がいるだけのようですが、かつては大乗仏教の栄えた地域が広がっていました。
 私は一九七五年にソ連科学アカデミー東洋学研究所レニングラード(現サンクト・ペテルブルグ)支部に所蔵されているN・F・ペトロフスキー本の法華経の複写を贈呈していただきました。ソ連においては、百年ほど前からレニングラードを中心に仏教に対する研究が盛んであると聞いています。仏教といっても八万法蔵といわれているように、膨大な経典が残されていますが、法華経こそ究極の経典といわれています。
 その理由は、第一に法華経はあらゆる人々を仏にする法を説いていることです。仏とは宇宙全体を含んで実在する法を悟り、その法と一体化して宇宙的、普遍的自我ともいうべき“大我”を悟った人格のことをいいます。釈尊もそういう人格を得た人であったわけですが、釈尊は他のあらゆる人々をも自己と等しい境涯にいたらしめるために、さまざまな教えを説いたのですが、仏に成るための根本の法は法華経に説いたのです。
 法華経が優れている第二の理由は、法華経以外の諸経に説かれている思想、教えを包含し、生かしていく経典であるということです。あたかも陸を流れるすべての河川が大海に流入していくようなものです。諸経においても、生命の法の部分観という意味での真理は説かれています。法華経に説かれた生命の全体観を根底にすえて諸経を見ていくならば、さまざまな教えが妙法という法に向かっていることが理解できるのです。
6  ログノフ 率直に申し上げますが、私には法華経を読む機会がありませんでした(私が言いたいのは、私にわかる言葉に直された法華経の訳本のことです)。私が法華経の若干の理念を知ることができたのはわずかにその説明書によってだけです。したがって、先生が簡潔に、しかも表現豊かに法華経の要点を私にご説明してくださり、創価学会の立場から、それのもつ意義を評価してくださったことに深く感謝いたします。
 池田先生にはご理解いただけると思いますが、私には古代および現代の仏教の諸哲学流派の視点からする法華経の意義について意見を述べることは困難です。ですから、この問題は専門家に任せることにします。ただ、世界の文化、文学、歴史、宗教、そして哲学の遺産の意義について私の見解からして本質的に重要ないくつかの考えを述べさせていただきます。
 仏教経典、ウパニシャッド、ヴェーダ、バイブル、コーランは疑いの余地なく文化的価値をもっており、深い歴史的遺産を内包しています。しかしながら、これらすべての遺産は宗教文学の産物、換言すれば思想的文献であります。したがって、それは歴史において矛盾した役割を果たす可能性があります。すべては、具体的な組織やイデオローグがそれをどう解釈するかということにかかっています。すなわち、上述の諸宗教法典から、社会進歩、人類のより良い、ヒューマニスチックな未来に寄与する行動のための論拠を汲み取ることができるか、それともそれとは反対の目的のための弁明を探しだそうとしているのかという点にかかっています。キリスト教、イスラム教、仏教その他諸宗教の歴史は、私たちに対して、そのいずれにも該当する多くの実例を与えています。
7  どうしたら仏陀になれるかという教えに関しては、私は次のように言いたいと思います。すなわち、法華経に説かれている人間の精神的完成というヒューマニスチックな理念に対しては共感せざるを得ません。と同時に、唯物主義者として私が深く確信するところは次のとおりです。すなわち、社会関係を変革し、真にヒューマニスチックな社会を創出する過程においてのみ、全人類のより良い未来をめざす戦いにおいてのみ、人間は自由な活動体としての真の人間本性をかち得ることができ、最大限に可能な精神的完成の達成も含めて自己の能力を全面的に発達させることができるのです。
 私の考えでは、人間の社会的本性を示すきわめて重要かつ本質的な特徴は、労働能力であると思います。まさにこの能力こそ、さまざまな信念をもつ能力をも含めた精神的能力の根底をなすものであり、まさにこの能力こそが人間を人間としているのです。
 ですから、自由の、内的精神生活の基礎となるべきものは、社会的進歩を助成するような結果をもたらすべき創造活動――学術、社会的実践的活動――の自由でなければならないと考えます。ソ連における仏教の問題について申し上げれば、ソ連における研究者は、すでに革命前にロシアの偉大な学者たちによって着手された基礎的な研究を効果的に引き継いでいると申し上げることができます。
 仏教研究の重要な側面は文献史料の蒐集(これら史料についてはソ連科学アカデミー図書館が有名です)ならびに仏教祭式品と仏教芸術品の収集です。すでに革命前に、あるオリエント学者大会の委任によりロシア科学アカデミーは北伝仏教・大乗教《マハヤナ》の文献の大規模な翻訳出版を行いました。一八九七年に「仏教教典の原本および訳本集」(“Biblio‐theca Buddhida”)シリーズの第一巻が出版され、このシリーズとして一九〇九年から一九一二年にかけて“Saddharmapundarika”が出版されました。
8  この出版はソ連科学アカデミーによって継続されました。一九五九年以来、ソ連科学アカデミーは「東方諸民族文学遺産」シリーズを刊行、それを一九六五年からは「東方文学史料」シリーズが継承しています。これらのシリーズでは仏教の文献史料も発行されています。たとえば、一九六〇年にはパーリ語(古代インドの俗語)の『ダンマパダ』がV・N・トポローフの訳によって出ました。ソ連の学者は仏教の起源と歴史、――初期仏教を生みだした基盤、さまざまな歴史的時期における仏教進化の原因となった社会的条件を研究しています。また過去および現在における仏教の社会的役割も明確化され、仏教の宗教思想の評価がなされています。
 ソ連における仏教研究は総合的な性格を帯びており、さまざまな学問分野(文献学、文学研究、歴史、社会学、哲学)と緊密に協力し合いながら進められています。仏教諸学説の翻訳、研究と並んで民俗学的、芸術学的および考古学的資料の幅広い研究が行われています。
9  池田 そうした研究の成果が、たんに学術研究の分野にとどまるのでなく、東西文明の融合と偉大な文化の発展に結びついていくことを期待します。ところで、民族問題に戻りますが、そうした少数民族のなかには、独立の悲願を保ちつづけている人々も少なくないと聞いています。
 世界的にみても、たとえばフランス系住民が多いカナダのケベック州が、英国系中心のカナダから分離・独立する動きをつづけていますし、また、スペインのバスク分離・独立運動や、アジアにおいてはクルド族の独立運動、エチオピアのエリトリア独立運動など、少数民族独立の動きは枚挙にいとまがないほどです。
 私は、民族解放、民族自決の大原則は当然のことと考えますし、その民族独自の文化、言語、風俗、習慣はどこまでも尊重されなければならないと考えます。私たち仏法者は、仏法の信仰によって、人間をしばりつけているあらゆる宿命、不平等、不自由、不幸から根本的に人間を解放することを重大な使命としております。
 社会主義も民族解放を一つの重大な目標としていたと理解していますが……。
10  ログノフ ソビエト政府は、一九一七年十二月、フィンランドの独立を承認し、フィンランド国民は自分自身の主権国家を建国する可能性を与えられました。特別の法令によって、その他の地方の民族自決権が確認されました。
 一九二二年、各ソビエト共和国間の将来の相互関係についての問題を研究するため委員会が設置され、一九二二年十二月三十日に第一回全ロシア・ソビエト大会はソビエト社会主義共和国連邦の成立に関する宣言と条約を採択しました。そして、ロシア社会主義連邦共和国、ウクライナ共和国、ベロルシア共和国、それにグルジア、アルメニア、アゼルバイジャンを統合したザカフカス連邦が自由意思に基づいてソ連邦に加盟したのです。この宣言と条約を土台として一九二四年に制定された最初のソ連憲法はソビエト国家機構、各共和国の主権と独立、経済・政治・文化生活における各共和国間の協力を法的に認証しました。
 すべての加盟共和国に対しては、人口の多少にかかわらず、連邦の国家権力機関での同等の代表権が確立され、内外政策の立案に平等の権利で参加する可能性がすべての共和国に対して保障されました。ソ連邦憲法は連邦国家の基本的全権を制定しました。そして中央の所管となったのは、対外政策、中央集権的計画化、国民経済の最重要部門の指導等でした。他の問題はすべて構成共和国の所管として残されました。
 一九二二年十二月三十日の第一回全ロシア・ソビエト大会――そこでソ連邦建国に関する宣言と条約が採択されたのですが――で国家元首たる全露中央執行委員会幹部会(ソ連最高会議幹部会)議長M・I・カリーニンが発言し、「われわれは真に兄弟的共同体の礎石を置いたのである。なぜなら人類の優れた有識者が、大きな苦しみなしに、相克なしに人々が友好・親密な関係で暮らせるような国家形態を探し求め、理論的解明に着手しだしてから数千年たって、今それが実現されたからである」と演説をしました。
11  池田 ソビエト連邦は、そのなかに東洋と西洋を包含しているだけでなく、現代の、そしておそらくこれからもますます重要性を加えると思われる、南北問題も含んでいるといえます。
 その意味で、ソビエト連邦は、世界の人類が一つの共同体を形成し平和世界を実現していくための、一つのテストケースともなるのではないでしょうか。
 ログノフ 私はソ連邦最高会議の代議員としてソ連の最高国家権力機構について簡単にふれたいと思います。
 わが社会主義国家は連邦(もしくは結合)の原則に立ってつくられています。その構成には十五の連邦共和国と二十の自治共和国、八つの自治州、そして十の自治管区が入っています。連邦、自治を問わず、すべての共和国は自分の憲法をもっています。
 最高国家権力機関であるソビエト最高会議の構成はすべてのソビエト共和国に対して同一の権利を保障しています。最高会議は平等の権利をもつ連邦会議と民族会議の両院から成っています。連邦・民族両院とも代議員は七百五十人ずつです。千五百人の代議員(両院合わせて)の内訳は、労働者五百二十七人(三五・二%)、コルホーズ農民二百四十二人(一六・一%)で、あとは学者、芸術家、社会活動家、政治家です。全代議員のうち四百九十二人(三二・八%)が婦人議員、三百三十一人の代議員(二二%)は三十歳未満です。
 連邦会議は民族の所属に関係なくすべての国民の利益を代表し、民族会議は各民族や亜民族の利益を代表します。連邦会議は同数の住民をもった選挙区制に従って選出されます。民族会議の方は別の制度で、各連邦構成共和国から三十二人、各自治共和国から十一人、各自治州から五人および各自治管区から一人の代議員という基準に従って、たとえば、グルジアとロシア共和国は、両共和国の住民人口がいちじるしく違っているにもかかわらず、民族会議では同数の代議員をもっています。最高会議代議員は六十三の民族の代表から成っています。最高会議の両院は立法機関として同権です。全連邦の法律は、両院の代議員総数の多数の賛成投票を得た時、採択されたものとされます。
12  池田 そうした政治的権利の問題とともに、より以上に各民族が平等の権利を行使し繁栄していけるためには、教育の普及、文化の発展ということが重要であると思います。
 日本が近代西洋文明の流入、さらにいえば西洋列強の帝国主義的侵略の波がアジア各地を侵蝕した時に、その波に飲まれないですんだのは、日本人の多くが教育を受けてきており、それらに対抗できる知力をもっていたことが主要な原因であったことは周知のとおりです。ソビエト連邦内においてそのような意図的な侵略、侵食はあり得ないかもしれませんが、ある民族共和国が、他の国に文化的に圧倒されてしまうことは、なきにしもあらずです。この点については、どのような努力がなされているのでしょうか。
 ログノフ あなたはご自分の発言や著作のなかで文化の問題に大きな関心を示されています。ソビエト人の文化的発展の問題については、わが国に新しい社会主義社会を創設した時からずっと特別の注意が払われてきました。十月革命後、私たちは非識学者をなくす運動から始めましたが、その数字をあげてみましょう。一九一七年以前、旧ロシアでは四人のうち三人が非識学者でした。少数民族が基本的住民だった辺境地域では事実上読み書きのできない人が一〇〇パーセントという有様でした。
 一九一九年、つまり国内戦争の最中に「文盲撲滅について」の法律が採択され、その法律に従って、ソビエト国家のすべての非識学者、すなわち八歳から五十歳までの全国民が学習を義務づけられました。一九四〇年までにはソ連では約六千万人の人々が学習を受けました。現在、ソ連ではすべての共和国がほとんど一〇〇パーセントの識字率をもっています。
 そして一九七七年に現行憲法が採択された結果、十年制の一般義務中等教育への移行が完了しました。
 おそらくあなたは、わが国のアジア諸共和国の文化発展の問題に特別に興味をおもちのことと思います。これらの共和国は日本でもよく知られているように「シルクロード」と名づけられた古代の有名な街道沿いにあります。ここで申し述べなければならないのは、中央アジアではすでに一九四〇年までに識字率が八〇パーセントにまで高まったということです。一九一七年以前、そこには高等教育施設が皆無でしたが、今ではタジキスタンだけをとってみても住民一万人当たり大学生数は百十八人、ウズベキスタンでは百五十四人、トルクメニアでは百十九人となっています。
13  池田 東洋と西洋という問題が、どちらかといえば文化的伝統の違いに中心があるのに対し、いわゆる南北問題は科学技術の先進性と後進性、さらにいえば経済的発展の度合いに焦点がしぼられてくると思われます。教育の普及、文化の発展といっても、経済力の向上という前提がなければ不可能ではないかと思います。
 ログノフ まさしく、文化的発展は経済的基盤なしには不可能、もしくは不完全だといえます。だからこそ、旧帝政時代の辺境地域に形成された各共和国の経済発展テンポは全連邦的テンポをはるかに上まわっているのです。たとえば、一九二四年から一九八四年までの期間に工業生産の成長率はソ連全体で五百倍余でしたが、それに対してキルギジアでは六百倍、タジキスタンでは約九百倍という増え方です。たとえば、革命前、中央アジアは釘ですら輸入しなければなりませんでしたが、現在、そこの工業部門は百種を上まわっています。これらの工業部門は国全体の科学技術の発展テンポを左右するほどの大きなものになっており、文化発展の必要な基盤ともなっています。
 それぞれの連邦加盟共和国には科学アカデミーがあり、それに付属した多くの研究所があります。アルメニアにあるビュラカン天体物理学天文台、ウクライナのパトン名称電気溶接研究所、エストニアの天体物理・大気圏研究所、カザフスタンの天山山脈宇宙線研究所、その他多数の民族科学センターの学者の研究は世界的に広く有名です。
14  ロシア人は、信じがたいほどの困苦欠乏を体験し、食べるものも食べられなかった、国内戦争の困難な日々に、ロシア辺境地域のソビエト政権をめざす戦いや、新生活建設の困難な日々に、過去において仮借なく搾取された諸民族に対して援助の手をさしのべ、彼らとともに兄弟的諸民族の家庭をつくりだすために全力を注ぎました。私はロシア人としてこのようなロシア民族を誇りに思っています。
 大祖国戦争はこの絆がいかに強固なものであったかを立証しました。この戦争の時代、全ソビエト国民――ロシア人、ウクライナ人、ベロルシア人、カザフ人、ウズベク人、グルジア人、アルメニア人その他きわめて多くの民族の人々が社会主義祖国を防衛するため立ち上がりました。過ぎ去った戦争は二千万を上まわるソビエト人の生命を奪い去り、わが国全土に計り知れない災厄をもたらしました。しかし多民族からなる兄弟的団結はそれに耐え、この戦いで鍛え上げられたのです。
15  池田 そのように一つの目的のもとに、一つのソビエト国民として、協力し合っていくためには言葉が通じ合うことが必要不可欠でしょう。ソビエト連邦を構成する多数の共和国は、言葉もそれぞれに違っているわけですから、この問題を乗り越えることは容易ではないと思うのですが、どのようにして取り組まれているのでしょうか。
 ログノフ モスクワ大学総長という私の職責は教育事業にかかわりをもっていますので、ここでもう一つ複雑な課題の首尾よい解決を物語るある問題にふれたいと思います。
 周知のように、ソ連邦は、単一の国語の国ではありません。それぞれの共和国の立法機関や執行機関(行政機関)はその業務において民族語を使っております。わが国の憲法は基本的人権の一つとして各人が母国語で学ぶ権利を保障しています。しかし生活は生活です。生活は必然的に人々が何か一つの言語で交流する必要性を教えます。たとえば、ダゲスタン(コーカサスの一自治共和国)には百五十万の人々が住んでおり、彼らは二十七の言語と七十の方言を使っていますが、人々は必要な場合、お互いにロシア語を使ってうまく相互の意思を疎通させています。こうした目的のため、ロシア語はいわゆる“第二言語”として諸民族の学校で四年クラスから教えられているのです。初等教育はどこでも母国語で授業が行われます。
 ソ連はロシア語を使ってすべてのソビエト人をロシア化しようともくろんでいるといった声が西側でよく聞かれますが、これは正しくありません。わが国では六百三十ある劇場の出し物は五十の言葉で上演されています。モスクワのトベルスキーブリワにはやがて国立「民族友好」劇場が開かれますが、この劇場の舞台では、ソ連邦に住むいろいろな民族劇団が公演するようになります。書籍は八十九の言葉で出版されています。たとえば、ラトビアで一九四〇年に出版された書籍数は二百九十万部でしたが、一九八五年には千七百三十万部を数え、新聞発行部数は同じ時期に三千三百七十万部から三億四千百万部に増えました。しかも、この出版物は主としてラトビア語によるものです。エストニア共和国は住民一人当たりの書籍出版で年十二冊という世界最高の数字を示しています。出版総数千七百三十万冊のうち、千二百二十万冊はエストニア語で出版されています。
 ソビエト社会の文化的発展は少なからず諸民族文化の接近とその全面的発展の結果、達成されたものです。なぜならば、文化の宝庫へのそれぞれの寄与は、それを行うのが多数民族か、少数民族かに関係なく、このうえなく重要であり、貴重だからです。それは二度と繰り返されるものでなく、独特のものです。そこには、一つ一つの民族の過去の一切の体験、当該民族の精神的な財産のすべてが内に秘められているのです。

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