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日蓮大聖人・池田大作

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大学の未来はどうあるべきか  

「第三の虹の橋」アナトーリ・A・ログノフ(池田大作全集第7巻)

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2  ログノフ ナチス・ドイツとの戦争においては、開戦の当初からモスクワ大学の教員と学生はすべてのソ連人と同様、戦時のテンポで生活し、働きました。早くも一九四一年の七月に大学のコムソモール(共産主義者青年同盟)は他の大学の学生と一緒に学生部隊を編成して、モスクワへの進路にあたるロスラブリ東方の地区で防御陣地の構築に着手しました。作業は一日十二時間交代でした。敵がスモレンスク市に突入したとの報を受けてからは日中だけでなく、夜も働きました。
 生存者の話によりますと、学生たちの愛国心の盛り上がりはたいへんなもので、彼らは休息とか睡眠、食物とか飲み水といった言葉さえ忘れてしまうほどでした。塹壕の土掘り作業は一日七立方メートルと、平時のノルマ四立方メートルに比べてとても困難なノルマでしたが、ある学生などは二十二立方メートルも掘り出したのです。
 池田 一九三九年九月一日にはナチス・ドイツは背信的にポーランドに侵攻し、わずか三週間で首都ワルシャワを落としてしまいました。ポーランドは主権国家として存在しなくなりました。
 一九四一年六月には、ドイツが不可侵条約(一九三九年八月に結ばれた)を破ってソビエトへ進撃を開始し、同年九月にはキエフを占領、十月にモスクワ近郊にまで進撃してきました。セバストポリを占領したのが一九四二年七月で、八月にはスターリングラード(現サンクト・ペテルブルグ)に突入してきたのでしたね。
 当時、ドイツは、西部戦線では一九四〇年にイギリス軍をダンケルクから撤退させ、パリを陥落させて破竹の勢いでした。
3  ログノフ ソ連国民、知識人、学生のすべてがロシアの文化・教育の中枢としてモスクワ大学が担っている大きな役割や意義をよく認識していました。ですから、開戦の日から、モスクワ大学がプラハ、ワルシャワ、ソルボンヌの各大学その他ヨーロッパの多くの高等教育施設がたどったような悲劇的運命をたどらないようにするため、あらゆる措置がとられました。
 新聞は、一八一二年のナポレオン侵略軍との戦いにモスクワ大学の学生がすべてのロシア国民と一緒に立ち上がった故事を報道しました。十月革命につづく国内戦争ではモスクワ大学の多くの教員や学生が最前線で戦い、若いソビエト連邦共和国を死守し、その独立を守り通しました。こうした輝ける伝統をモスクワ大学は大祖国戦争の厳しい時代にも継承し、教員や高学年の学生のほとんど全員が、ソ連軍、国民義勇軍の隊列に馳せ参じ、あとに残った学生は戦時法に従って祖国解放の戦いに献身したのです。
 池田 第二次大戦の時は、日本でも大学生は学徒動員で徴兵され、戦線に送られましたが、地続きで攻めてくる優勢な敵を迎え撃つ苦しみは、私たち日本人には想像もおよばないものでしょうね。
 ログノフ ご存じのようにモスクワにとっていちばん苦しかった時期は一九四一年の十月でした。十月十三日にドイツ軍は攻撃の主力をモスクワに向けたのです。月半ばにモスクワに通じる街道沿いで激しい戦闘が始まり、極度の危険が迫りました。モスクワでは戒厳令が敷かれました。
 モスクワ大学は当時は今と違って市の中心部にあり、戦争のため、モスクワ大学の教員、研究者、学生の大半、それに多くの教育施設や図書を疎開させる必要が生じました。ソ連政府は大学をアシハバード市(中央アジア、トルクメン共和国の首都)に疎開させることを決定しました。疎開は計画に従って行われました。それでも、モスクワにおける大学の生活は寸時も中断されませんでした。モスクワに残った教員や学生は建物の警備にあたり、敵機の爆撃に備えて消火本部を設置し、授業をつづけました。
 一九四一年十月二十九日、ドイツ空軍は二〇〇キロ爆弾を大学の建物に投下し、教室棟、ゴーリキー図書館、心理学科の建物やクラブを破壊しました。その日の深夜、ドイツ軍の爆撃機が一機マネージナヤ広場(クレムリンに隣接)上空に侵入したのです。爆弾の炸裂によって図書館の屋根がはぎとられ、窓やドアが飛び散りました。教員と学生は堆雪の中から本や教材を取り出し、瓦礫を取り除き、全力をあげて学術図書を守りました。火災が起こり、建物が倒壊の危険にさらされ、上下水道、送電設備の損傷で歩行さえできない有様でした。目撃者は、あのような蛮行は心の痛みなしには見ることができなかったと語っています。
 それでも、ソビエト人は負けませんでした。敵の攻撃の一つ一つが彼らに新たな勇気を与えたのです。このようにして戦争の最初の日々からわが国の抵抗力が培われ、蛮行と人間憎悪の勢力に対する困難な勝利が鍛え上げられていったのです。
4  池田 東京はじめ日本の主要都市も、あの戦争では悲惨な爆撃を受けました。広島、長崎の原子爆弾による破壊はいうまでもありませんが、東京や大阪などの被害、犠牲者の数も、広島や長崎に劣らないものがあったのです。ただ、米軍の東京大空襲では、貴国のモスクワ大学に相当する東京大学周辺は爆撃目標から外されていました。大都市の中でも京都と奈良も爆撃を受けませんでした。重要文化財の密集するこれら古都は目標から外されたのです。
 ログノフ ここで一つ付け加えておくことがあります。それは、この厳しい時期に大学に学んだ若者の大半が女子学生だったということです。モスクワに残留した十学部の教員は女子学生を相手に講義をつづけました。アシハバードに疎開した本校の支部として各種講座が設けられ、疎開先からモスクワへ呼び戻された学者がそれらの講座を指導しました。
 一九四一年十二月六日、モスクワ戦線でソ連軍は攻勢に転じました。わが軍は敵に壊滅的な打撃を与え、敵を首都圏ならびにその隣接地域から放逐しました。一九四二年二月、政府はモスクワ大学における正規の講義再開の特別決定を下しました。その後一九四五年五月の完全な勝利まで授業は中断することなくつづけられました。
 以上が大祖国戦争初期の厳しい日々におけるモスクワ大学の生活とたたかいの断章の一つです。戦時中、モスクワ大学の教員と学生はずっと不滅の栄光につつまれてきました。彼らについての思い出は私たちによって今日まで深く保持されています。それは私たちの子孫によって末代まで保持されていくでしょう。
5  池田 大学は祖国を守り平和を守る砦であるべきではあっても、戦争を推進する人間を生みだしたり、武力開発の研究所になるようなことがあっては断じてなりません。だからこそ、私は創価大学のモットーとして「平和を守るフォートレスたれ」を掲げ、学生諸君に、あくまで平和を守る人材たれと訴えているのです。
 その観点から創価大学はアメリカではアリゾナ大学、中国では北京・復旦・武漢大学、ブルガリアのソフィア大学と、幅広く学生、教員の交換交流を行っています。とくにモスクワ大学と創価大学との教育交流は、そうした未来を担う人材を生みだす原動力となっていくことでしょう。両大学に懸けられた平和の橋を渡る人が多くなればなるほど、国際性・世界性をもったスケールの大きな人間が出てくることは間違いないと私は確信します。
 大学のあり方が世界に開かれたものであればあるほど、そのキャンパスでともどもに学んだ学生たちは、お互いの国の歴史や国民性の違いを十分にわきまえたうえで、人類の平和を生みだす方向で手を取り合っていけることでしょう。
 モスクワ大学には世界各国の青年が学びに来ており、ログノフ総長は多くの留学生に会われていることでしょう。ご専門の量子力学の研究者はもとより、世界に開かれた大学教育の未来を模索する多くの識者と語り合われてきたことと思います。そのようなご経験のうえから、大学の未来はどうあるべきか、大学はどのような人材を輩出していくべきか、といった点について、お考えをお聞かせください。
 ログノフ 大学教育はそれぞれの国の科学・教育・文化興隆の母体でなければならないというあなたのお考えに賛同します。私の深く確信するところでは、社会生活に果たす大学の役割は絶えず高まっています。それは、まず第一に人間の生活のあらゆる側面に対して科学がおよぼしている影響が増大していることとかかわりをもっています。私たちはすでに今日、科学が工業生産、農業、運輸の基盤になっていることを感じとっています。科学なしには情報を蓄積・伝達することや、人間の健康を守ることは不可能です。芸術の領域でさえ、今では科学の成果なしにはすまされません。
 こうしたことから人間の全面的かつ幅広い教育、ヒューマニズムをめざす文化全体の興隆に対する社会の要求が高まっています。そしてこの面で大学が果たすべき役割はとりわけ大きいといわなければなりません。それは、科学技術の進歩における基礎学問の役割の不断の高まり、科学の進歩の過程で見られるさまざまな学問分野間の共同作業によって規定されます。現代科学が解決しなければならない多くの問題は、きわめて総合的な性格を帯びるようになっています。
6  池田 学問の発達は、細かく専門分化する傾向にあり、事実、今日にいたるまで、そうした細分化をたどってきましたが、今日、いわゆる学術間の協力ということが、さまざまな面で求められ、また事実、行われて、幾多の成果を上げています。その機縁になったのは、かつては戦争――私たちにはそうした機縁はまったく必要ありませんが――であったわけですが、最近は環境破壊等の深刻化が要因になっています。私は、さらに、一人一人の人間が幅広い見識をもつことが必要になっており、大学教育もその方向をめざしていくべきではないかと考えています。
 ログノフ 学問と教育の中枢機関たる大学の任務は、何よりもまず、広く、深く思索することができる人間、深遠な理論的知識と、科学的研究の成果の実施応用を展望する能力とを結びつけることができる、全面的に訓練された人間を不断に育成することであります。そのようなスペシャリストの養成は学部学生の水準でも、大学院生の水準でも、さらにはまた、教師の水準でも明確な目的意識をもって行われなければなりません。とくに教師の専門能力の向上は今日ますます重要視されています。
 私の考えでは、将来、社会生活の全領域にわたって大学の影響力が強まるにつれて、その役割も高まると思います。

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