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日蓮大聖人・池田大作

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社会変革と人間革命  

「第三の虹の橋」アナトーリ・A・ログノフ(池田大作全集第7巻)

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2  ログノフ あなたは、ヒューマニズムこそ人間関係を律する普遍的な規範とならねばならないと呼びかけておられます。歓迎すべき発言だと思います。ただ一言いわせていただくなら、社会と人間、社会的抑制と自己抑制を峻別するのは一〇〇パーセント正しいとはいえません。一部のカント派が主張したように、“合法的なもの”と“倫理的なもの”をこのように区別することはそれなりに有意義ではありますが、それは絶対的なものではありません。
 というのは、自己抑制とか倫理は時間を超越したもの、抽象的なものではなく、多くの場合、歴史的に確立された規範によって規定され、そうした規範が事実上、社会のいろいろな関係を規制しているからです。したがって、ここで問題になっている倫理規範を、人間の現実的な生存条件と無関係なものにする必要がはたしてあるでしょうか。私の考えでは、そうすること自体、不可能なのです。
3  池田 それに関連して、マルクスやレーニンの思想も、社会変革を偏重するものであるかのように、しばしば考えられていますが、その本質は、人間優先であり、人間の向上と人間性の尊重に基盤を置いたのではないかと私は理解していますが、いかがでしょうか。
 ログノフ おっしゃるとおりです。ただ、ここで強調しておきたいことは、人間の変革は人間を取り巻く環境の変革と切り離しては考えられないということです。
 私の考えでは、社会の変革・改造とは、その最良手段について観照的に思弁することではなく、人類のため、すべての人々が実践的な変革・改造活動に積極的に参加することです。ソ連邦で現在すすめられているプロセスを分析すると、こうした現象がうかがわれます。もちろん、人間の全き完成は実現不可能です。もしも達成したものに完全に満足したとすれば、その人間に待っているのは、滅亡の運命だけでしょう。
 私たちソ連人は、社会倫理に従いながら、法規範と倫理規範、社会的抑制と自己抑制、社会的判断と個人的良心が、互いに矛盾しないで調和できるような社会機構をつくるべく努めているのです。
 もちろん、人類の歴史において、公に認められた規範が人間自身の良心に矛盾する場合があった事例を私は承知しています。しかし、だからといって、そうした矛盾は避けられないのだということにはなりません。問題は、不公正につくりだされた社会においては倫理規範の悪用がありうるという点にあるのです。そのような社会では“盗むな”とか“殺すな”といった説教が盛んに行われ、民衆の意識に吹き込まれるわけですが、それは、盗みをしたり、人を殺したりすることで良心が痛まない人間集団の社会的安穏やプレステージ(威信)を保つために必要だからなのです。したがって、個々人の自己抑制の必要をいかに保障するかということも重要ですが、それ以上に個人の良心や自己抑制手段と社会的な規範・規則とがうまく調和するような社会をどのようにしてつくりだすかが重要だと思います。
 現在、私たちは、各人の全面的発達に関心をもつ社会、人間一人一人が尊厳をもち、他人の尊厳を大事にするような社会の建設をめざしています。私たちは今、変革という、複雑で困難な課題に取り組んでいます。わが国にはなお未解決の問題がたくさんあります。これらの問題は公開性の精神で明白にされ、民主化をいっそう促進しつつ全社会の努力によって解決していくべき問題です。この点、各人が自分の欠点を自覚し、それを取り除く勇気をもつことがきわめて重要だと思います。それによって初めて実り多い前進の道が開けるのです。
4  池田 もとより、人間は生きているかぎり、完成された状態に達するということはあり得ません。そこで大事なことは、完成された状態をめざして努力することであり、人間とは、カントの言うように、自己完成をめざすべき存在であると私は考えます。先の“尊厳”という概念と関連して言えば、その時その時の、あるがままで“尊厳”であるのでなく、実際に尊厳であるといえる自己の実現をめざすことこそ、人間の一生の最大の課題でなければならないということです。
 現実に生きている人間は、どんなに利己的な欲望や醜い衝動を排して善行をつらぬこうとしても、そうした欲望や衝動は生命自体に本然のものであり、これらを否定することは生命自体を否定することに他ならなくなります。たとえば、食欲をゼロにしてしまったならば、生命は維持できなくなるでしょう。大切なことは、そのような醜い欲望に支配されるままになるのではなく、尊厳といえる理想像を描き、その理想へ迫ろうとする努力を持続しながら、自己の欲望や衝動への支配者になることです。
 この点に関し、仏教では、十界という原理を説いています。十界とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏をいい、地獄とは怒りや憎しみに支配される状態、餓鬼とは貪欲に覆われた状態、畜生とは恐れや不安に支配される状態、修羅とは闘争本能に振り回されている状態をいいます。天と人とは、以上の欲望や本能的衝動が満たされた喜びの状態をいいますが、この喜びが一時的なものであることはいうまでもありません。
 それに対して、不変の真理を探求し自身に智慧を得ることによって、永続的な喜びを確立しようとするのが声聞と縁覚でありますが、この二つは自己のみの喜びを求めることから、利己主義におちいってしまいます。仏教は、この真理の探求とともに人々を現実の苦悩から救う実践に挺身することこそ正しい道であると説き、これを菩薩行といい、菩薩行を達成した時に得られる完成状態を仏陀と呼んでいます。
5  人すなわち人間の真実の姿は、一方で地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という欲望や本能的衝動に支配される側面をもっているとともに、そこに埋没し安住するのではなく、仏陀という完成状態をめざして、声聞・縁覚・菩薩の生命機能を発現していくところにあるというのです。言い換えれば、人間は、現実には、どこまでいっても未完成であるものの、完成をめざして努力し前進していくところに、真の生き方があるということです。
 さらに言えば、仏の境界を実現している状態が完成された姿であると考えれば、地獄から天までの状態だけしか現していないのが未完成の人間であり、声聞以上の、いわゆる完成をめざす努力をしているのが、完成された人間であるともいうことができるでしょう。つまり、この意味での“完成状態”とは静止的な安定状態ではなく、完成をめざす不断の前進の過程をいうことになります。それは、ちょうど、コマが激しく回転してこそ倒れないで安定して立っていられるのと同じといえましょう。
 さらに、では、いったい、どのような条件と特質をそなえているのが理想像としての仏陀の状態なのかという問題があります。それについては、仏教が菩薩の必須の修行として示している六波羅蜜の内容を見るのが理解しやすいと思われます。
 六波羅蜜行の波羅蜜とは、地獄から天までの状態を“此岸”とし、仏陀の境界を“彼岸”として“此岸”から“彼岸”へ到達することを意味しています。その実践内容が、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つで示されるので「六波羅蜜」というのです。
 そのそれぞれを仏教の専門的な説明で述べると煩雑になりますが、仏陀を人間完成の状態として、一般的にも理解しやすい表現で説明すれば、弱者への思いやり、自己規制、忍耐、努力、思索力、判断力がその内容であるといえましょう。
 私は、この六波羅蜜の内容として示されたものこそ、人間完成への条件であると考えています。
6  ログノフ あなたはこの一連の質問のなかで人間とは何か、人間と人間を取り巻く世界との関係、また対人関係はどうあるべきか、人間の尊厳の本質とは何か、生死観は人間の行為にどのような影響を与えるか、人間の活動を抑制、自己抑制する方法にどのようなものがあるか、など多くの重要な問題にふれられました。
 以上の事柄については、かなり詳しく対話をしてきましたので、先生の今のお話は、これらすべてのことに対する哲学的概念についてのご説明だろうと思います。そして、これらの問題は、私が理解するかぎり、総じて人間、人類、そして世界の運命という現代共通の問題に帰着すると思います。
 とくに現代においては、どんな政治機構、どんな国家制度であるかにかかわらず、またどんな宗教を信じているかにかかわらず、個々人の自己抑制がとくに重要になっていると思います。
 異常に肥大化した欲望や反感は往々にして破壊的・反社会的行為を生むという点であなたと同感です。しかし、そうした欲望や反感をすべて、人間の生活から取り除いてしまうことは不可能です。私たちの周囲の環境は決して平凡なものではなく、穏やかなものでもありません。反感は時に、周囲の環境に現れる悪に対抗する手段として役立ちます。なぜなら、私たちは、悪に反応しないとなると、結局はそうした無関心な態度によって、悪を、人々の滅亡を助長することになるからです。
 このように、欲望や反感といった否定的な感情は、人間生命における不可避かつ有益な同伴者なのです。それは、肯定的感情と必然的に結びついて弁証法的統一をつくりあげ、この統一が人間の精神財を決定するのです。失敗の苦さを味わわない者には、成功の喜びもわからないでしょう。生命はそれがそなえもつ複雑な資質の二者択一的な不断の選択から成っており、そうした選択がくだす善悪の判断においては、理性だけでなく、感情も同伴します。
 生活においては新しいものが古いものと、成長するものがすたれたものと相争います。相争うことに終止符を打ってはいけないと思います。ただ重要なことは、相互の尊敬であり、寛容です。
7  ところで寛容とはことのほか内容の深い概念であって、私の考えでは、少なくとも次の四つの事柄を包含していると思います。①必要(不可欠)への自覚、②志向、③心構え、④人々の分散ではなく接近を助成するものを丹念に集める能力。これを実行するのはつねに容易なことではありませんし、それはつねに、なんらかの譲歩をし、自分自身の「我」の当座の欲求に対立する何かを行うことを意味します。しかし選択の余地はありません。なぜなら、社会のいちばん小さな細胞であれ、あるいは、池田先生、あなたと私を含めた人類の共同体であれ、それなくしてはどんな人間共同体もあり得ないからです。
 善意の、はたから見てもうらやましいような教養のある家庭で、祖先から受け継いだものを、さらに豊かにして、それをそっくりそのまま子どもたちに引き渡すのと同様に、どの国民も、自己の伝統、史的遺産を保存し、いろいろな領域において収めた成果を倍加して、それを子孫に伝えることです。今、私たちみんなの前に、全人類の前に提起されている焦眉の課題は、私たちの住むすばらしい惑星、地球を大事に保存し、それを完全無欠の形で私たちの子どもに引き渡して、どうか平和に暮らしてください、生の喜びを十分に味わってください、といえるようにすることです。
 今日、私たちすべての人類は、おそらく歴史上最大の危機的瞬間を体験しています。私たちには、生き残るか、それとも全滅するか以外の選択はないでしょう。地球上の人々の大半がこのことを自覚し始めています。現在、私たちに要求されているのは、効果的な意欲であり、地上の生命をなんとしても守ろうとする決意です。さらには、不和の種でなく、平和の種を丁寧に拾うことが要求されているのです。
8  平和の建物は一つ一つの煉瓦からつくられます。緊張緩和の資本は小さなお金を集めてつくられます。この対談を通じて私は貴国の、日本、そして日本人について多くを知り、理解することができました。多くの事柄があらためて私を自分の国、ソ連やソビエト人に思いを向けさせました。
 交流が心をはずませ、実りあるものである時にはいつもそうです。相手を知り合うということは、必ずや人間を豊かにし、別の世界観、別の人生観を知る機会を与えてくれます。
 あなたとの対談は、私が日本精神のユニークな雰囲気を知り、それをロシア精神、ソビエト人の心と比較することを可能にしました。日本の世界は私にとってより近く、より理解しやすいものになりました。私たち地球上の人間が、過去・現在・未来を含めてすべていかに不可分に結びついているかをあらためて深く自覚するにいたりました。ともあれ、私たちを結びつけている糸を断ち切るようなことがあってはなりません。平和を守り、人間の生きた心を守りましょう。私たちは今このように豊かですが、もしかすると、すべてを失ってしまうかもしれないのです。
 これについては、モスクワで行われた『核のない世界と人類生存のためのフォーラム』で、ソ連邦の指導者ゴルバチョフ氏が述べた「新しい政治思考は、質的に新しい段階に文明を高めよと訴えている。このこと一つだけですでに、新しい政治思考は、そのポジションのたんに一度限りの訂正ではなく、国際問題処理に関する方法論である」という言葉を繰り返し引用させてもらいたいと思います。

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