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日蓮大聖人・池田大作

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幸福の追求  

「第三の虹の橋」アナトーリ・A・ログノフ(池田大作全集第7巻)

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1  池田 人間だれしも、自己の幸福を求めます。幸福とは、端的にいえば欲求が満たされることであり、“満足”“充足感”といってよいでしょう。ただし、いかなる欲求をもつかは、人によって相違があり、同じ人についてみても、その置かれた状況によって、またさまざまに変わります。
 飢えている人は食物を得られれば幸福を感じますし、渇いている人は水を得た時に幸福を感じます。病気に苦しむ人は健康を回復することをなにより望み、それが達せられる時に幸せをおぼえるでしょう。研究に打ち込み真理を探究している人にとっては、求める真理が解明できることが幸福であり、人々の幸せのために、社会のために貢献したいと願っている人にとっては、そうした機会や立場が与えられることが幸福でしょう。
 このように“幸福”の内容は、じつに千差万別であるにもかかわらず、“幸福”という一つの言葉で表現され、しかも、万人は自身の“幸福”を追求する権利があるといった考え方が現代社会を支配しているところに、私は一つの根本的な問題があると思っています。
 すなわち“幸福”のさまざまな内容を見れば明らかなように、自己の幸福を無限に追求することが許されないものも数多くあります。たとえば物質的欲望、肉体的欲求、また社会的・権力的欲望などは、これを無限に追求するということは他の人々の犠牲を招くことになります。したがって、そうした欲望の放縦な追求は、激しい争いを惹き起こし、弱者を苦しみにおとしいれて省みないという、獣性の面を増長させる結果を招きます。
 しかも、大部分の人間にとって最大の比重を占めているのがこうした物質的・肉体的・社会的欲望であり、人口が急増し、資源が枯渇していくにつれて、争いはますます熾烈になっていくにちがいありません。もとより、人類は、人口増加を調整し、また資源の枯渇を食い止めるために、その再生利用のシステムの確立などに最大の努力をしていかなければなりませんが、そのためにも“幸福”観の正しいとらえ方が不可欠であると考えます。
2  ログノフ “幸福”の内容については一言や二言でそれを解明することは無理でしょう。しかし人間たるもの、魅力的な仕事をもつことが重要だと私には思われます。その仕事が規模が大きいことは必ずしも必要ではありません。
 人生は人それぞれ違います。私の場合、最も主要なことは研究作業です。研究に熱中していると私は時間に気づかず、疲れもしません。学術組織の活動も私の仕事です。研究活動にたずさわる者はたいてい森の散歩、狩猟、魚釣り、また仲間や友人の間で時を過ごしながら休息をとります。私の場合は違っています。大学で働き、自分の公共活動であるソ連最高会議の代議員(日本の国会議員)活動を果たすと、私は研究に戻りますが、それで私は十分満足感をおぼえていますし、さらに、私の成功と失敗のすべてを私とともに分かち合う家族があることで、それはいっそう充実したものとなります。
 池田 なるほど。たいへんすばらしいことです。ところで、かつて、イマヌエル・カントは、その著『道徳哲学』(白井成允・小倉貞秀訳、岩波文庫)の中で「同時に義務であるところの人間の目的は、他人の幸福と自己の完成である」と述べ、これを逆転して“自己の幸福”と“他人の完成”を求めてはならない、と断っています。“自己の幸福”を目的にすると、利己主義におちいるからであり、“他人の完成”を求めると、そこには不満しか得られないからであると。
 カントは、人々のおちいりがちな傾向を見抜いて、とくに、このように断りをつけたわけですが、まさに至言であると思います。自己の物質的・肉体的欲望の充足による“幸福”を至上目的とするのでなく、むしろ、そうした幸福については、他の人々に振り向け、人々の幸福のために尽くしていこうとする生き方は、仏教においても慈悲の精神として説いているところです。
 また、自身については“完成”を目的とすべきであるというのがカントの主張ですが、これも、仏教で「仏陀になること(成仏)」を理想として教えているのと軌を一にしているといえます。なぜなら、仏陀とは“尊極の衆生”と位置づけられ、最も完成された境涯をさすからです。
 他人の幸福のため、社会全体のために貢献したいということも、自己の完成をめざそうとするのも、広い意味での“欲望”といえるかもしれません。もし、そうとすれば、大事なことは“欲望”そのものを否定することではなく、いかなる欲望を根本とするかの問題になりましょう。そして、その欲望の質によって“幸福”の内容や深さ、高さも異なってくるわけです。
 だからといって、物質的・肉体的欲望も、生命体である以上、なくすことはできませんし、これらを否定するような考え方はすべきでないことは当然ですが、少なくとも、欲望と幸福にも、さまざまな内容があり、人間として生きていくうえで、いかなる欲望・幸福を重んずべきかの明確な考え方がなされることが、ますます大切になってくると私は思っています。
3  ログノフ 人間にとって重要なのは、何かを知り、何かを会得することです。それは、その人間以前に多くの人が努力し、その問題について考えたような領域においてさえありうることです。
 さらに、たとえばある人が一つの分野で長い間働き、その人がそのことに通暁し、すべてがずっと以前から明らかだと思われ始めたとします。しかし突然その人は古いもののなかに新しい側面を発見し、事物がより明らかとなり、その事物に関するその人の理解がより深くなります。新たな問題が生まれ、新たな転向が明るみに出てきます。トルストイの作品を読みかえす時、私自身そのことをよく経験します。一定期間を経て私はふたたび彼の作品に立ち戻るのですが、そのつど自分にとって何か新しいものを発見します。そうすると、人生がより興味深く、より意義深く、より含蓄あるものになります。
 もしも人がなんらかの仕事に真剣に取り組み、それに多くの労力を捧げるならば、その結果としてなにがしかのものを受け取ることができるでしょう。いや、たとえ受け取らないとしても、どっちみち、その人はある新しい知的段階を乗り越えたのです。その知的段階が新しい理念と方向をつくりだす可能性をその人に与えるのです。
 総じて学問においては、研究しているもののすべてが使い物になるとはかぎりません。何かについて考え始める時、往々にしてその考えがどのような方向に進むかわからないことさえあります。最初は見たこともない道が次第に輪郭をくっきり現し始めます。したがって私の考えでは、科学にせよ、また他のどの労働にせよ、必要なのはなによりもまず労働能力です。これが大前提です。ちなみに、私は、この素質を両親、とりわけ母親から受け継いでいると思います。母は驚くべき労働能力を備えていました。
 適性、いうなれば才能が重要なことはいうまでもありません。適性があれば、人は仕事をもてあますことはなく、彼を仕事へ押しやったり、方向づけしたり、また強制する必要はありません。彼は自然な形で労働の状態に入り、労働のない自分の存在など考えられなくなります。しかし、ここで重要になるのは、人生における正しい選択です。どこで、どのような分野ないし領域で働くべきか、何のために力を尽くすか、自分の一生、自分のすべてを何に捧げるべきかといった選択です。おそらく、これは個々の人間の問題でもあり、また人類全体の問題でもあります。もし人類がこの問題を解決したとすれば、人類は太古からめざしていた調和そのものへ近づいたことになるでしょう。
 しかし、重ねて言いますが、何事においても多くの労働と粘り強さが要求されます。どんなに大きな才能があっても労働なしには成果を収めることはできません。張りつめた労働なしには。労働のなかに、まずなによりも人間の力のなかに、彼の熱意と失意のなかに、勝利と敗北のなかに人間の最高の幸福があり、最高の苦しみがあるのです。ですから、人は好きな仕事に打ち込んでいる時、そして、家庭もすべて順調で安泰である時を幸福だということを重ねて強調したいのです。

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