Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

生と死  

「第三の虹の橋」アナトーリ・A・ログノフ(池田大作全集第7巻)

前後
3  ログノフ あなたは、人間の生における、死の精神的意義について、重ねて強調されました。
 人間の生と死はおっしゃるとおり、不可分に結びついています。死は生の対立概念であり、この両者は対立するものの断ちがたい合一であり、二つのものの統一です。それは、私の考えでは、人間の生の精神的、社会的不死に自然的に移行するという意味において結びついています。ただし、それは、死んだ者が何か別の、わが現実に対して先験的な生存形態に移行することを意味するのではありません。あくまでも、私たちの意識のなかや、人間の遺伝学的蓄積のなかだけでなく、社会遺伝学的蓄積においても、私たちが用いている言葉のなかでも、私たちのあらゆる思想と行動のなかでも生きつづけるのです。死者は蓄積された労働においても――その結果なしには私たちの労働も考えられないわけですが――、科学や技術の領域においても、文化のさまざまな分野でも存続しているのです。私たち以前に生きた人たちは私ども自身の切っても切れない一部です。
 繰り返しますが、人間は生物学的および社会的存在であり、人類としての総体の中の個体です。そして個体の死は人類の継続、世代の交代の絶対不可欠の条件です。この意味において科学的世界観の立場に立つ私たちにとって、死の事実を絶対化することと、死をグローバルな哲学問題へ転化させることは無縁のものです。
 私たちは個体の生物学的死を客観的必然性としてとらえ、エピクロスやスピノザにならって、正常な人間はつねに死について考えてはならないと思います。しかし、このことは、人間が不死について、つまり、その天才によって世界文化を豊かにした人々のすばらしい不死、また人類によって蓄積された労働の成果を継続した、無名であっても誠実な勤労者の、それに劣らずすばらしい不死について、また同時に永久に記憶に残る欠陥人間、悪と暴力の思想の持ち主の恥ずべき“不死”について考える権利がないということを意味しません。換言すれば、生きた人間は自分の不死、自分が残すであろう記憶について忘れるべきではないでしょう。

1
3