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日蓮大聖人・池田大作

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自己抑制の基盤  

「第三の虹の橋」アナトーリ・A・ログノフ(池田大作全集第7巻)

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1  池田 人間が一方で激しい欲望や感情に支配されがちな存在であるとともに、他方で、人間とは他者に対する思いやりをもち、あるいは尊敬し合って協調していかなければならない生き物であるという要請があります。このことから、いかに自己を抑制し、正しく導いていくかということが人間にとって、不断の課題であることは明らかです。
 古来、人間社会は、この人間の自己抑制のために、さまざまな仕組みをそなえてきました。その極端な例が刑罰です。これは、エゴイスチックな欲望や感情から他の人に苦痛や死をもたらしたり、社会的秩序を乱したりした人間を権力によって拘束し、処罰するものです。この刑罰への恐れが、人々に自己抑制の心を強めさせる機能を果たしていることは、一般的に認められているところといえましょう。
 しかし、一般的な法制があらゆるケースを網羅することは不可能であり、悪知恵にたけた人間は、権力が定めた犯罪にまでいたらない程度に、他の人々を苦しめながら、みずからの欲望を充足し、平然としている場合も、少なからずあります。また、そうした悪事に対して、法律に照らして処罰を与えるには、悪事を立証する必要があり、悪賢い人間は、証拠をつかまれないようにして犯罪を行う者もいます。
 ドストエフスキーは『罪と罰』のなかで、そうした巧みな犯罪に成功しながら、みずからの良心の呵責に耐えきれず、犯罪を告白し、進んで刑に服する経緯を描きました。たしかに、人間の心には、そうした良心の呵責があるし、現代の日本でも、犯罪者が、処罰を受けて初めて、精神的苦悩から解放されたと感慨をもらす例が見られます。
 とはいえ、全般的には、そういった良心の呵責は希薄化しており、法律にさえふれなければ何をやってもかまわないとか、証拠さえ残さなければ、どんな悪事を行ってもよいのだ、といった風潮が強くなってきていることも事実です。
 私は、権力による法律的制裁と、それに対する恐怖によって人間の自己抑制力を補強することも、社会生活の維持のために不可欠であることを認めますが、しかし、それだけでは不十分でもあるし、人間の尊厳性を失う行き方になってしまうと考えます。外からの社会的・権力的力によって人間の野蛮性を切り取るというのは、人間個々の内面からの抑制力を無視した行き方にならざるを得ないからです。
2  ログノフ そこで大事なことは、先生のお考えでは個人の良心や自己抑制手段と、社会的な規範や規則とが、うまく調和していくような社会をどのようにしてつくりだすか、ということでしょうか。
 池田 まさしくそのとおりです。すなわち、以上に述べた、権力によって外から規制する行き方とは別に、人間個々の内面からの抑制力を培おうとしたものとして、倫理的訓練があります。倫理的訓練は、古代以来、洋の東西を問わず、いずれの文明社会でも重んじられましたが、とくに中国文明は、人間生活のあらゆる面にわたる倫理体系をつくりあげ、これを宗教的信念にまで強めて、伝統化してきました。いわゆる儒教思想がそれであり、その基本は、仁・義・礼・智・信の五つに要約されます。
 仁とは他者に対する思いやりをいい、義とは人間として踏むべき正しい道、礼とは人間相互の間で守るべき礼儀、智とは物事の道理・善悪をわきまえる能力、信とは偽りのないことをいいます。
 儒教は、これらの五常を守る人は、周囲の人々からも敬われるとともに、神々からも称賛され、幸福な人生を全うできると説きました。事実そのとおりであったことも少なくなかったのでしょうが、そうでない場合もあったようで、この点に関して疑問を提起した中国古代の“歴史の父”である司馬遷の言葉はあまりにも有名です。つまり、彼は、中国の歴史上の人物を調べるうちに、五常に適った正しい人が必ずしも幸福ではなく、五常に外れた悪い人物が幸運な人生を全うしている例も少なからずあることに気づいたのです。
 これに対し、仏教は、現在の人生を生きるうえでの規範としては、この儒教の説くところと、ほぼ合致した内容を説いていますが、生命存在を現在の一生だけに限らず、過去と未来の連続性と、そこに因果の連鎖が働いていることを示すことによって、この司馬遷の疑問に答えるものをもっています。すなわち、現在の幸・不幸を左右しているのは、現在の行いだけでなく、過去の人生での行いも要因になっており、現在の善行は現在の人生のなかで結果をもたらさなくとも、未来の人生に結果が現れるとします。
 もし、現在の人生だけに限った儒教的考え方によるとすれば、未解決のままで、その倫理的要請は無力化してしまいますが、仏教は、それに、さらに大きい視野から倫理的行為の大切さを支える基盤を提供したといえましょう。もちろん、仏教は宗教であり、信仰を前提とするものであって、たんに倫理規範をのみ教えたものではありません。そこには、より根本的に、自己主体を確立し、欲望や本能的衝動を超克していく道が明かされています。こうした自己の内面的な欲望や感情的衝動の抑制という問題について、ログノフ総長は、どのようにお考えになっていますか。
3  ログノフ 第一に、あの世で賞罰の判決を受けるから現代の行動を慎めと訴えることは、はたして合理的といえるでしょうか。私は、まず、真の道義性ということは賞罰をあてにしたものであってはならない、ということを言っておきたいと思います。次にあの世が存在するという現実的な証明がなければ、そうした論拠によって人間の行為を倫理的に規制することはできないでしょう。
 ソ連社会の倫理形成の土台に置かれている社会主義的モラルが求めているのは人間の死への志向ではなく、生への志向です。しかし、それは、不死すなわち不滅の可能性やそれへの願望を否定しないばかりか、まさにそのことを前提にしているのです。人間の肉体、その意識は死にます。しかし、私たちは、人間というのは社会的存在であるとみています。物質の一部を成しているものはすべて永遠ではありません。終わりがあります。永遠なのはただ物質そのものです。
 つまり、私たち共産主義者が解釈する不死は別の意味の不死です。生物学的存在としての人間は必ず死を迎えます。生理的死の後に残るのは、その人間が成し遂げたもの、つまり彼が育てあげた子どもとか、彼が植えた樹木とか、彼が建てた家とか、換言すれば、彼によってつくりだされた一切の物質的、文化的、学術的財産なのです。
 したがって、人間の社会的な死や不死は、その人間が生物的存在としてではなく、人類の代表者として成し遂げたものによってつねに判断されてきました。またこれからも判断されていくでしょう。人間が成し遂げたものを測る物差しは、その人間の不死を測る物差しでもあるのです。レーニンやガンジー、シェークスピアやプーシキン、レオナルド・ダ・ヴィンチやニュートン、ベートーヴェンやチャイコフスキー、トルストイやドストエフスキー、ゴーリキーやショーロホフ、安藤広重や紫式部は不死です。
 徳育の面で最も重要なのは、人間を社会のための創造へ志向させること、人間を全人類文化に寄与させる方向に導くことであると私は確信します。
 いうまでもなく、人間行動を規制する文化を人間が会得する尺度は、その人間の住む社会によって大きく左右されますが、他方、社会発展の度合いは、その社会が個々の人間を、そして文化へのその人の貢献をどの程度しかるべく評価する能力をもっているかによっていちじるしく左右されます。くだらぬ輩が高い地位に祭りあげられる一方、天才が、偉大な人物が日陰におかれるという例は、これまでの歴史に数多くあったことにふれる必要はないでしょう。
 大切なのは、いかなる不運にも耐えぬき、困難に襲われても断固としてそれを乗り切っていくとともに、喜びや祝賀のさいには賛美や栄光におぼれることのないような素質です。総体的にみて、「尊厳」とは、こうした素質のことをいうのではないでしょうか。
4  池田 死後の因果応報が現在の生きている人間にとって不明であることから、それが、この世での賞罰よりも本質的に重大な影響を人間の行為に対して与えうるとは期待しがたいと言われるお気持ちは、よく理解できます。
 かつて、死後の因果応報の考え方は、日本でもヨーロッパでも、人々の悪行を戒める力をもっていましたが、近代以後は、影響力を大幅に失いました。人々が仏教やキリスト教の死後への戒めを受けつけなくなった原因は、現実の人生や社会において、これらの宗教信仰の効果が見られないことによります。私の信ずる日蓮大聖人の教えでは、死後のことは不明であっても、現在の人生において現れる効果によって、死後の応報についても信じなさいと説いており、現実のうえでの証拠を重んじています。
 それはともかく、ログノフ総長が今、言われた社会的不死という考え方は、それなりに意味があることは認めます。しかし、社会が与える評価は、時代によって移り変わります。文学や芸術、学術上の業績に対する評価は、それほど大きく変動することはないでしょうが、政治的、外交的業績についての評価は、百八十度変わってしまうことも少なくありません。また、優れた業績であっても、他人に奪われたり、認められないまま、埋もれてしまうこともあります。
 概して、その人が成し遂げたものが“不死”を約束するという考え方は、人々に仕事への励みを与えはしますが、人々を苦悩から救うことはできませんし、むしろ、大部分の人には絶望感を与えることになるでしょう。やはり、生命自体の永遠性の問題、そのうえでの因果応報観と、ログノフ総長の言われる社会的不死ということとは、まったく別の問題であると言わざるを得ません。

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