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日蓮大聖人・池田大作

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人間とは何か  

「第三の虹の橋」アナトーリ・A・ログノフ(池田大作全集第7巻)

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1  池田 そこで普遍的な意味で人間とはいかなる存在なのか、またいかにあるべきかということについて考えていきたいと思います。きわめて概括的な言い方になりますが、人間は、つねに、いかに生きるべきかという課題を突きつけられながら生きていく存在であるといえましょう。言い換えると、人生とは、自己形成の無限の過程だともいえます。たとえば、社会にあって、さまざまな人々と関係をもちながら生きているわけですが、その他人とのかかわり方は、憎しみや軽蔑である場合もあれば、愛情と尊敬である場合もあります。いずれを選ぶかは、具体的な個々の他人との関係のこれまでの経緯、相手が自分に対して抱いている感情、自分自身のこれまでの生い立ち等に左右される面もありますが、しかし、人間は、そうした条件に一方的に支配されるだけの存在ではありません。
 過去の経緯や相手の感情がどうあれ、あらゆる人に対し、尊敬心と愛情をもって接していこうと主体的に自覚し、また自身をその方向へ導いていくことができるのが人間であるはずです。
 一人の人間の心の中にも、愛と憎しみのように相対立する心の働きがあり、これらが激しい葛藤を演じていることはいうまでもありません。悪にはつねに悪をもって報いるというやり方は、世界をカオス(混沌)に突き落とし、破滅に追いやることになるでしょう。
 釈尊の説いた最高の経として日蓮大聖人が重んじられた法華経には、次のようなエピソードが記されています。
 それは、遠い過去に不軽と呼ばれた菩薩がいた。不軽とは、いかなる人をも軽んじないという意味で、この菩薩は、あらゆる人に尊い仏性があると説き、礼拝をしたのです。この菩薩の振る舞いを人々は嘲笑したり憎んだりし、なかには石を投げ、棒で打つ者さえいた。しかし、そのように激しい憎しみをもって迫害を加えてくる人々に対しても、菩薩は尊敬心を向け、礼拝をやめなかった、という話です。
 経文には、この不軽菩薩とは、じつは釈尊の遠い過去世の姿であると説かれています。法華経がこのエピソードを説いているのは、釈尊滅後の未来に、仏法を実践し弘める者のあるべき姿を教えようとしたのです。しかし、私は、それは、たんに仏法を弘教する姿勢を示したというにとどまるのでなく、広く人間のあり方を教えようとしたものでもあると考えます。
 日本において、この法華経の精神を最も深く、かつ実践的に解明された日蓮大聖人は「法華経修行の肝心を示したのが不軽菩薩のエピソードであり、釈尊がそこで教えようとしたのは、人間としてのあり方である」と強調されています。
 人間は、とかく、周囲の状況や、相手の態度に動かされがちなものです。相手が自分を憎んでいるからといって、こちらも相手を憎む。あるいは、相手が自分に敵意を抱いているのではないかとの憶測から、こちらも相手に対して敵意を抱くということさえ少なくありません。
 このように、関係する相手や周囲の状況に動かされたり、ましてや自分の妄想につき動かされたりするのは、まさに、弱い人間の行き方であるというべきです。ちょうど、自然環境の条件がどんなに厳しくとも、それに打ち勝ってきたところに人間の強さがあるように、人間的環境についても、それがどうであろうと動かされないで、善意と人々への尊敬心をつらぬいていくところに、本当に強い人間のあり方があると思います。
 そして、これをさらに概括して「人間とは何か」ということでいえば、結局、人間とは、いかなる状況的条件であろうと、そこに主体的に友好と尊敬の心をもって結び合っていく存在であるべきだといえると思います。その意味で、戦争は最も人間のあるべき姿に反するものであると思うのです。
2  ログノフ 私の見るところ、いくつものきわめて現実的な問題を私たちは取り上げていると思います。それは人格に関する問題で、人間とはいかなるもので、また、いかにあるべきか、周囲の世界、他の人々に対しては、どうあらねばならないのかといったことです。
 これについて私はこう考えます。
 これらの問題は、人間、人類、そして世界の将来という現代の包括的な問題である、と。
 私が、何はさておいても、いちばん注目しなければならないのは、人間が他の人々、人間を取り巻く世界に対するその関係は、その世界がどんな世界であり、それらの人々がどんな人々であるかによって大きく左右されるということです。今、言われた、釈迦が法華経を説いた古代の世界と現代とでは、それぞれの世界が提起する課題が質的にも異なっており、また、それぞれが当該時代の人間に対して要求する個性や資質も違っています。宇宙的なスピードと、驀進的なプロセスを特徴とする二十世紀においては、人間の前に、より複雑な問題が立ちはだかり、人間の生存や社会の基盤そのものの、より深い意義づけを必要とする質的に新しい条件が生まれています。こうしたことは、人間そのものや人間の観念、理想、価値観の形成に影響を与えずにはおきません。
 他でもなくこうした見地から、私は現代人のしかるべき行動規範を検討したいのです。それは、他の人々とのかかわり方、ひとえにその人間の個人的特性と質によってだけで決められるべきものではありません。
 今日だれもが膨大な量のつながりのなかに、どうしても置かれてしまうわけですが、そうしたつながりも、一国の枠内であろうと世界共同体のなかであろうとを問わず、もしその社会が交流の文化というものによって保障されないかぎり、効果ある実現をもたらすことはできないでしょう。
 悪には悪をもって報いるというやり方は、世界をカオスに突き落とし、破滅に追いやるであろうとの先生のお考えを私も支持します。同時に私たちを取り巻いている世界は矛盾に満ちています。そこでは常時、弱者と強者、抑圧者と被抑圧者、真実と嘘との間にたたかいが起こっています。教養や文明は総じて、善と悪、抑圧者と被抑圧者の関係を冷静に判断するとはかぎりません。人類の全経験が教えているように、悪に勝つためには悪に対して道義的に否定的評価を下すだけでは不十分です。
 第二次世界大戦は、わが国の歴史上最も破壊的な戦争体験となりました。この戦争でソ連国民は二千万以上の人命を失いました。もし私たちが銃を手に取って自分自身の自由と独立の権利、突き詰めれば生存の権利を守らなかったら、この戦争は、わが国、ソ連を構成する多民族共同体だけでなく、世界文明全体を破滅に追いやったでしょう。
3  池田 よくわかります。第二次大戦は、日本の場合、軍国主義にリードされ、踊らされてしまい、そのため、国民が受けた被害は、やはり日本の歴史上かつてない大きく悲惨なものでした。あの大戦は、ソ連やアメリカ、フランス、イギリス等にしてみれば、文明を守るための戦争であったということができました。しかし、今後もし万が一、第三次大戦が起こったならば、もはや人類は絶滅してしまうでしょう。
 ログノフ だからこそ、ゴルバチョフ書記長はアメリカ国民へのメッセージのなかで「ソ連の人々は生命の贈り物に等しい最高の価値あるものとしての平和に忠実であります。平和の理念は苦難、苦労の結果、私たちによって得られたものであり、癒えることのない傷の痛み、取り返しのつかない損失とともに、私たちの身についています」と述べたのです。
 今日、私たちはきわめて深刻かつ重大な問題に直面しています。であればこそ、武装悪に直面して無関心でいること、その悪に対決する勇気をもたないことは、結局は人類の破滅に手を貸すことになるでしょう。地球上に核戦争つまり一切の滅亡の脅威が差し迫っている時、このことは明々白々な事実なのです。
 同時に、人類はこれまでのいつの時代にもまして寛容の精神を学びとらなければなりません。二十一世紀を前にして、矛盾に満ちた複雑な情勢をかもしだしている世界に住む私たちは、平和に生きる術を学びとらなければなりませんし、私たちの世代は人類に覆いかぶさった脅威を根絶する使命をみずから引き受けなければなりません。私たちには、この事業を子どもたちの肩に背負わせる権利などないのです。

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