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日蓮大聖人・池田大作

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人間性の探求と文学  

「第三の虹の橋」アナトーリ・A・ログノフ(池田大作全集第7巻)

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2  池田 古今東西を問わず、優れた文学は人間性を深くとらえているところに特質がありますが、とくにドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』や『白痴』などは、愛情や思いやりといった人間性のもつ美しい面とその反対の憎悪や敵対心という醜い面との相克を、きわめて鋭く描きだしています。その背景には、ロシア人自体、この両面性を他の民族には見られないほど際立ってそなえている事実があるのではないかという気がします。
 このことに関連して、フランスのアンドレ・シーグフリードは、その著『l’ame des Peuples(民族の魂)』(邦題『西欧の精神』福永英二訳、角川文庫)の中で「ロシア人のなかにはいつでも、相対立する能力が融和されないために、幻想的な、過度のものが何かある。……ロシア人のなかには、一人の個人のなかにさえ、謙遜と高慢、理想主義と犬儒主義、高徳と悪徳の共存がみられる」と述べています。
 ロシア人について手厳しいこの文を挙げることは、失礼なことかもしれませんが、とくにドストエフスキーの作品を読む時、ロシアの人々自身、こうした特色に気づいているし、また、そのためにこそ、人間性という問題について深い思索をこらし、今日においてもなお世界の人々に考察をうながすような偉大な作品が生まれたのであろうと考えさせられます。
 これに対して、日本文学の場合、人間のそうした内面的葛藤をえぐりだした作品というのは、あまり見られません。日本文学が描いたのは、おもに自然の美しさや、その移り変わりのはかなさ、それと対応する人間の情趣、人生の無常です。また、人間の生き方を左右し動かしている力としては、衝動や欲望というよりも“業”であり“因縁”であるとする見方が一般的のようです。
 ロシア文学に登場する人物が、みずからの善意や悪意によって一切を動かしていく、巨人のような激しさと強さをもっているのに対し、日本文学の人物は、全般的にみると、つねに周囲の状況や、目に見えない因果の絆によって振り回される弱さをあらわしているように思えます。
 そして、日本文学の場合は、人間は結局、業や因縁に動かされていく以外にないのだという諦めのなかに、あるいは自然の中に溶け込んで一体化していくなかに、心の清澄さを得ていくのが理想とされます。これに対し、ロシア文学の場合は、少なくとも革命前の作品では、神を求める修道僧的な克己のなかに救いが求められます。革命後のソビエトにあっては、祖国の防衛や民衆への奉仕という社会主義的理想に殉ずることが、それにとってかわったといえましょう。
 日本文学が人間の内面的葛藤の激しさを描くことが少ないのは、日本社会が個々人を強い倫理規範で縛ってきたため、自身の内に対立するものの葛藤に苦しむよりも、つねに外の世界と自身との葛藤に苦しめられてきたからであると解釈できます。その意味では、近代社会は、そうした倫理規範の束縛が急速に弱まっており、これは世界のあらゆる国に共通の傾向であることから、ロシア文学が追究したものは、今後の人類にとって、ますます深刻な関心を集めていくのではないかとも思えます。
3  ログノフ 人間は多くの場合、文学を通してヒューマニズムの精神に導かれるというあなたの見解、また、ヒューマニズムは文学作品における優れた形象の最も重要な構成要素であり、本質であるとするあなたの見解にまったく同感です。あなたが正しく指摘されているように、ロシア文学の主要な特徴は、愛、同苦、憎しみといったさまざまな感情を解明していることです。ヒューマニズムの深遠な実体をとりわけ鮮やかに描きだしているのは、ドストエフスキーとトルストイの作品であるというあなたの見解にも同意します。
 ご指摘のように『カラマーゾフの兄弟』や『白痴』では、人間の感情や心的体験、そして激発的な感情の吐露に見られるデリケートさ、複雑さといったものが深く掘り下げて究明されています。西側作家の間では、ロシア的性格に通暁した人間と自認するためには、『カラマーゾフの兄弟』を読むだけで十分だという意見さえ聞かれますが、これは正しくないと思います。
 たとえ、どのように優れた作品であろうと、一つの作品だけで人間の性格のすべてを完全に解明することはできません。しばしば入念に蔽い隠され、心の片隅に秘められたものをあますことなく解明することは不可能なのです。このことはなにもロシア人に限らず、すべての民族にも言えることです。なぜならば、人間は生きた存在であり、絶えず変化し、成長し、向上するものであり、最終的に固まってしまったり、完成されてしまう存在ではないからです。
 人間の感情が火花を散らすのは、電気のプラス・マイナスの二極のように、感情のなかで相対立する両極が互いにぶつかり合う時です。私がこのようなことを言うのは、池田先生、あなたがアンドレ・シーグフリードを引用して、ロシア人はだれもが、謙遜と高慢、理想主義と犬儒主義、高徳と悪徳をあわせもっていると言われたからに他なりません。ですが、こうした性向は、日本人も含めてあらゆる民族にも、もともとそなわったものです。そのことと、人間は己心に内在する否定的な素質を超克できるか、そして結果的に徳義や社会意識をもった人間になりうるかどうかという問題は別の問題です。
4  池田 もちろん、そのとおりです。いかなる人にも相対立する両面がそなわっていることは、私の信奉している仏教が明快に説いているところです。したがって、それをロシア人だけの特色であるなどと言うつもりはありません。私がシーグフリードの言葉をあえて引用したのは、ロシア人の場合、この人間性の本来の姿が際立って顕著に見られるという彼の指摘を用いて人間性の探求に優れた特色をもつロシア文学の基盤を明らかにしたかったのに他なりません。
 ログノフ シーグフリード氏の“民族の魂”はさておいて、この問題をもう少し広く考えてみましょう。これまでの歴史において、人類の記憶に長い間とどまっていたいという意欲に燃えた人物が、道義について盛んに云々する一方、実際には、手におえない破廉恥漢であり、極度の非道徳者であったという例はいくらでも挙げることができます。
 ロシア文学においてヒューマニズムをはかる最高の尺度、そしてヒューマニズムの具象的な表現となったのは一貫して市民性でした。ソビエト文学はその優れた形象のなかにこの市民性という崇高かつヒューマンな伝統を受け継ぎ、それをさらに伸ばそうと努めています。それは当然です。国民に奉仕することを願う作家ならだれしも、社会、国家、民衆にとって重大かつ焦眉の問題に無関心ではあり得ないからです。
 このことは、わが国の詩人の作品に見事にあらわされていると思います。「君は詩人にならないかもしれない。だが、市民たる義務がある……」この詩の一行は闘争に明け暮れた革命期に高々と響いたのですが、この呼びかけは、人々を動かす迫力を少しも失っていないと思います。ソビエト社会は、今、新しい発展段階に入りました。その規模において未聞の社会・経済的・科学的、そして文化的課題の解決に取り組んだのです。
 ですから当然、わが国の歴史でこれまでもそうであったように、作家はその先頭を進んでいかなければなりません。
5  池田 ところで、ログノフ総長ご自身は日本文学について、どのような知識をおもちですか。日本では明治以来、多くのロシア文学が翻訳され紹介されてきましたが、日本文学はロシアの人々に紹介されているのでしょうか。
 ログノフ 私は日本文学には詳しくありませんが、それでも多少は日本の文学作品をロシア語訳で読みました。白状しますが、主として私の子どもたちの本棚にあったものを読んだのですが、だいたいわが国では、若い人たちが日本文学に深い関心を抱いている傾向が見られます。
 このことは、象徴的かつ意義深い現象ではないかと考えます。そのなかで、いちばん印象に残ったのは夏目漱石と芥川龍之介です。この二人は、明治開国後の日本が欧化していく過程で経験した急激な意識変革の深い悲劇性を理解させてくれました。
 戦後の日本は意識変革の悲劇を味わいました。そして日本には、犯行を重ねた軍国主義からの浄化の火が燃えあがりました。私は安部公房と大江健三郎の作品を読みました。ソ連では、この二人の作家の作品は広く知られており、人気があります。
 初めは読むのにかなり緊張を要しました。というのは、私たちの世代はロシア・古典文学の写実主義的伝統で教育されてきたからでしょう。でも、作品の作風になれ、精読していくうちに、眼前に二十世紀における最も残虐な悲劇の一つが再現されていくのを感じ取りました。
 芭蕉の俳句に見事に描写された古池の鏡のような水面が広島の悲劇のあとは、静かに澄んでいることができなくなった、ということを明確に受けとめました。
 お国の現代作家の作品には、作者も共に関与するという市民的自覚がこもっていますし、人類滅亡の破局を防ぎ止めようという全地球的呼びかけがそこにはあると思います。それには、私は共感しますし、また貴重だと思います。
 日本人であれ、ソ連人であれ、市民意識の強い人ならだれもが、現代世界で起こりつつある破滅的な現象を認めないわけにはいかないでしょう。マスコミ文化の暴力、個性を喪失した人間の官僚化、平均化され、自制力を失った人間の輩出がそれであり、押しつけられた意識、心神症候群、いつ人間に襲いかかるかわからない予測不能な事態への恐怖感がそれです。さらには暴力崇拝があります。人格の破壊、人間を目的視せず手段視する社会での個性の完全な喪失――これらは今や限界ぎりぎりのところまできているのではないでしょうか。以上のような現象に立ち向かう文学思潮の作家は、現代人の関心や不安にできるだけ応えようとしており、二十世紀の人々を互いに引き離すのではなく、逆に連帯させるため戦っており、そのことによって世界のすべての人間主義文学に合流しています。
 民族文学の傑作は、それが未来性をもったものであるかぎり、後の世代への関与を宿命づけられています。そうした作品は、過去、現在、未来、いずれの時代をテーマとしたものであれ、すべて自分の時代を反映しています。同時にまた、そうした作品は、民族文化の栄養源である民族の芸術的伝統と深く結びついています。
6  池田 おっしゃるとおりです。とくに日本文学における古典的な手法は、花や鳥、風、月といった自然の事物に仮託して感情を間接的に表現します。ですから、この花はどういう感情をあらわすかという一種の約束事があり、その知識がなければ、何を表現しようとしているのか、作者の真意を読み取ることができない場合も少なくありません。
 ログノフ 私はロシア語に訳された日本の古典文学から少なからず貴重なものを得ました。たとえば、日本人は自分の情緒的な心の動きを抑えるというか、心の中に閉じ込めて外に出さないように私には思えました。もしかすると、主観的、あるいは客観的なさまざまな理由から、むき出しの感情表現を慎むのかもしれません。
 日本文学が重点をおいているのは、人間存在の情操的深さ、人間行為による決められたプロセス(過程)というよりは、むしろ自然の美しさ、その変化の無限性ということではないでしょうか。ロシア文学は、人の心の微妙な動きを解明するため人間の内面世界に深く入り込みます。そのようなロシア文学の伝統によって育てられた私どもロシア人には、初め、日本文学の筆法になじめないのではないかと危惧しましたが、それは杞憂でした。逆に、日本文学を読むたびに、私は、人間と自然との切っても切れない見事な結びつきというすばらしい思いにかられます。現代作家に課せられた一つの重要な使命がそこにあると思います。それは、現代生活の狂ったような激しいリズムのなかにあっても、人間性――善、愛、誠意――つまり、ヒューマニズムのもつ特徴のすべてを失わないということです。
 ドストエフスキーの言葉「美は世界を救う」、そして川端康成の言葉「宇宙の心が一つであるなら、一つ一つの心は、即宇宙である」を思い出してみましょう。調和の探究・外的内的均衡――美の探究こそ大事です。日本の作家が世界に呼びかけている言葉は、現代世界を脅かしている万事手詰まりの状況、人間と自然、そして東と西が分裂した状況、人間自身の意識が分散し、心がバラバラになってしまった状況に対する警告であると思います。今日、いつにもまして忘れてならないのは、人間行為はあくまでも最高度に道徳的なものでなければならないということです。
 二十世紀末に生きる私たちにとってこの感覚はとりわけ重要です。日本の文学・芸術に対するソ連人の理解と関心はここから出ていると思います。ロシア文学を愛好する日本人もまた、同じような思いを抱いているのではないでしょうか。
 私が知るかぎり、日本社会の一定層、とくに年長の世代はロシアの古典文学に通じており、それを正しく感じ取り、理解しています。ドストエフスキー、トルストイ、ツルゲーネフ、ゴーゴリ、チェーホフ、ゴーリキー、ショーロホフなどを読んで経験する熱情やエモーション(感情)は日本人にとって無縁なものではないと思います。私はまた、日本人がロシア・クラシック音楽の愛好者であると聞きました。そうしたことはすべて、異なった民族の間の相互理解を助け、双方の民族を近づけ、政治的見解の相違やその他の障害を取り除くための共通基盤を見いだす可能性を与えます。
7  池田 まったく同感です。しかし、先にも述べましたが、残念なことに、私たち日本人にとって、革命前のロシアは、ちかしいものでしたが、革命後のロシアは、どちらかというと遠い存在であるという印象があります。革命後のロシア文学で日本に紹介されたのは、かろうじてショーロホフぐらいで、しかも、読者の数は、革命前のドストエフスキーやトルストイなどと比べものになりません。
 現実には、日本とソ連とは距離的にも近く、漁業問題や産業開発、また貿易関係、さらにいえば文化交流など、相互接触の機会は、きわめて多くなっているにもかかわらず、人間的理解がうすれていることは憂うべき事態です。私は、現代の世界がおかれている事態のなかで、それらに協力して立ち向かうべき同じ人間として、両国民の相互理解がもっと深められなければならないと考えています。
 ログノフ 総じて、人類は、諸民族の文化を近づける方向で発展しています。このことは疑う余地がありません。近年来、文化的統合のプロセスは、マスメディアの未曾有の発達、文化交流の活性化にともない、また人類全体の努力を結集せずしては解決不能な多くの緊急問題の発生によって、とみに早まっています。文化的統合のプロセスは、当然ながら、人々の接近、相互認識、同異の解明をうながさずにはおきません。このプロセスは長期にわたりますが、それでもすでに私たちの目の前で肯定的な結果を生んでいます。
 今日、日本も含めて多くの国で、かつての社会生活上の制約が弱まり、人間の行為を律する伝統的な倫理規範に、ある種の乱れが見受けられます。私が理解するかぎり、先生はこのプロセスが作家に対して、いや作家だけでなく、その他すべての文化活動家に対して、その創作にあたっていやおうなしに人間そのものを凝視し、したがって、人間精神の偉大なる宝庫に細心の目を向けさせるようになっていると言っておられるのですね。
 池田 そのとおりです。日本の伝統的文学は、どちらかといえば、現実の社会的・政治的問題に対して超然として、いうなれば個人の感傷の世界に沈潜する傾向が強かったといえます。それに対して第二次大戦後の文学は、現実の政治や社会の問題に目を向けていこうとする行き方を強めてきました。それは現実への無関心が軍国主義化を許してしまったという反省によります。大江氏や安部氏は、そうした戦後文学の動向をリードした旗手といってよいでしょう。
 ログノフ つねに人間そのものを配慮の中心に置いた文学は、現代の文化的プロセスにおいて重要な役割を果たすよう使命づけられているという点であなたと同感です。それに関連して、私は次のことを申し上げておきたいと思います。私の考えでは、ロシア・ソビエト文学は、それがおかれた地球的・史的特殊性ゆえに東洋と西洋のさまざまな文化的・人間主義的伝統を摂取することができたのであり、この事実そのものが、人類に対して解決を迫っているヒューマンな課題の達成に大きく寄与しています。私には、世界のさまざまな地域の人々を結びつけた往時のシルクロードのように、ロシア文学が、東西を精神的に結びつける一種の糸のように、また、今日さまざまな文化的伝統をもつ人々の人間主義的志向を結びつける堅固な橋、金の橋のように思えます。
 池田先生、先生とのこの対話は、そのような橋を懸ける作業へのささやかな貢献となるのを信じたいと思います。

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