Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

戦争体験  

「第三の虹の橋」アナトーリ・A・ログノフ(池田大作全集第7巻)

前後
1  池田 これまでの人生で、最も苦しかったことは何ですか。今までのお話から感ずることは、総長はご自身のお力は当然ですが、ご両親の理解もあり、優れた師にも会えて、すべてが順調に人生行路を歩んでこられたように思えますが。
 ログノフ 私の人生において最も苦しかったことといえば、それは戦争の時代だと答えます。第二次大戦の厳しい時代からすでに四十年の歳月が経っていますが、人類はいまだにその苛酷な傷あとを忘れ得ずにおります。日本の人にこのことを言う必要はないと思います。なぜなら、今もって広島郊外の丘にある病院では原爆症患者が死の床にふせっているからです。死につつある人は死の灰を直接浴びた人たちだけではなく、その人たちの子どもや孫まで生命を絶たれようとしているのです。
 わが国、ソ連はファシズムとの戦いのいちばん大きな負担を自分の肩に背負い込みました。だからこそ、私たちは何度も何度も過去の戦争のテーマ、あれほど貴重な人命を奪い去り、両親や子どもたちを天涯孤独の身にさせ、多くの婦人を寄る辺なき身にさせた問題に立ち戻っていくのです。ソ連人作家の本や映画、テレビは戦争の時代に大きなスペースをさいています。これは正しいと思います。人々に対して戦争とはいかなるものか、戦争はどのような苦しみをもたらすかをつねに想起させるべきです。私の見るところでは、それは反戦機運を高めるのに役立つと思います。
 池田 私はソビエトの人々が、おそらく他のいかなる国の人々以上に戦争を恐れ、戦争を憎んでいるのではないかと考えています。
 第二次大戦後の米ソ二大強国の対立、核兵器の開発競争、また東欧諸国での不幸な出来事等のために、自由主義諸国民の心には、ソ連人は好戦的というイメージがしみついていて、ソ連に対して強い疑惑をいだいています。これは非常に不幸なことです。あの第二次世界大戦で最も多くの犠牲者を出したのがソ連であることを忘れてはならないと思うのです。
 ログノフ 戦争の時期、私は青年でした。私の見ている前で人々は寒さや飢えのため、また困難だが、前線にとって必要な労働のために苦しみました。銃後は当時“第二戦線”と呼ばれていました。しかし銃後の人々にとって最も恐ろしかったのは毎日のように届けられる戦死公報でした。私の両親は生き残りましたが、いとこたちは戦死しました。それでも、厳しい戦時、困苦欠乏にもかかわらず、私たちはみな勝利を信じていました。
 蒔いた種は刈りとらなければなりません。つまり、ファシズムはその性格上、最初から断罪されていたのです。私たちは勝利を信じ、正義――報いの正しさ、未来世界の正しさを固く信じました。ロシア人というのは、そもそもそういう人間なのです。ドストエフスキーは、そのようなロシア人の誠実な人柄、昔から正義を渇望する心根を自著のなかで深く解明しました。
 繰り返して言いますが、私の人生にとって最も困難な時代は戦争の歳月でした。
2  池田 私が戦争を心の底から憎むのは、非暴力と絶対平和主義をその根本理念の一つとする仏法の信奉者として当然といえば当然のことですが、もう一つ、なんといっても多感な青春時代を破壊された、悲惨な戦争の思い出が大きな原因になっています。
 私が生まれた一九二八年から、十七歳になった一九四五年まで、日本は戦争、動乱に明け暮れ、私の少年・青春時代は、あらゆる面で戦争と結びついていました。私は高等小学校を卒業すると同時に軍需工場で働き、戦時中の激しい労働で体をこわしてしまいました。四人の兄が出征し、長兄は二十六歳の若さでビルマで戦死しております。それが伝えられたのは戦死から二年も経ってからで、その時の母の悲しみに耐える姿は見るのもかわいそうなほどでした。
 また、戦争中に、わが家は強制疎開で取り壊され、引っ越し先の親類の家も、一九四五年五月の米軍機による東京大空襲で全焼。私の目の前ですべてが失われてしまいました。「明日からどうすればいいのか」と、子ども心にも、ぼう然と立ちすくんでいたのを覚えています。
 戦争の無残さが津波のようにわが家を襲い、すべてをめちゃめちゃにしてしまいました。何のための戦争なのかと、戦争の無意味さを思い知らされたものです。戦争の悲惨さ、残酷さがこの五体に刻まれ、その原体験から反戦平和へと向かっていったわけです。
 ログノフ総長も、その青年時代に、ナチス・ドイツがソ連を席捲し、二千万人もの犠牲者をだした、あの大祖国戦争(第二次世界大戦)の戦争体験がおありだと思います。
 第二次大戦におけるドイツ・ナチズムとの戦いにおいて、ソ連はじつに多くの尊い犠牲を強いられました。現在のソ連が、その尊い犠牲のうえにあがなわれていることを、実感として知ったのは、訪ソして以来でした。

1
1