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日蓮大聖人・池田大作

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勉学時代  

「第三の虹の橋」アナトーリ・A・ログノフ(池田大作全集第7巻)

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3  池田 うまい教え方ですね。生徒に、いかに自分で考えさせるか、もっとはっきり言えば、考えようという意欲をいかにして起こさせるか――これが教育の基本といってよいと思います。コルパコーフ先生という人は、そうした意味での教育の達人だったのでしょう。
 ログノフ そんなわけでクイヴィシェフ航空技術大学のエンジン製作学部に入学することにしました。一年と二年の時には、私は夢中になって勉強しました。とくに好きな課目は理論学科でした。実習課目が始まった時、私は、航空技術が私に向いていないことがわかりました。学部長のプチャータ教授から航空機製作学部へ転部するよう勧められました。しかし、私がすでに、モスクワ航空大学への転学について考えていた、ちょうどその時、父から手紙がきました。父はモスクワ郊外の軍隊に勤務しており、私と母に彼の勤務地へ越してくるように言ってきたのです。そんなわけで私はモスクワ航空大学の無線技術学部に入りました。
 モスクワで私はあらためて三年生をやりました。つまり一つの学問から別の学問へ移ったからです。フェリド・Ya・N教授はカリキュラムで予定されていたものより多くの研究課題を提出して私を電気力学へ誘いました。しかし四年生の時、工作機械、器具、生産組織といった課目が加えられ、実習が始まった時、私はふたたびこれは自分には向いていないということを感じました。基礎理論的な学科に心が惹かれたのです。
 ところが、またもや私は幸運に恵まれました。当時モスクワ大学の機械数学部にエクステルナート(校外者の卒業検定試験受験を認める制度)があったのです。そこで私はモスクワ航空大学の四年生在学中、並行してモスクワ大学機械数学部で試験を受けることになりました。物理学部の四年編入試験に合格してモスクワ大学に転学することにしました。
 モスクワ航空大学のイシムバエフ副学部長は私を思いとどまらせようとしました。「君はすでにあれほど多くの努力を注ぎ込んだではないか、それに君の希望にはつねに応じてきたはずだ」と言うのです。
 しかし、それでもなんとか私は彼を説得することに成功しました。こうして、私は書類を携えると、翼が生えたようにしてモスクワ大学に飛んでいきました。大学の建物に入ると、「一大学から他大学へ、一学部から他学部への転学は厳禁する」というばかでかいポスターが目に入りました。私は胸がどきんとしました。なんともはや、苦労したあげくがこのざまだと思いました。
 生きた心地もせずG・D・ヴォフチェンコ副総長の部屋に入りました。「この大学で学びたいのです」と頼むためです。私たちは小一時間、話し合いました。私はヴォフチェンコ副総長に四学年に編入させてほしいと懇願しました。というのは、教材をしっかり覚え込み、また大学の空気を感じ取るためにはそのほうがいいと思ったからです。
 どうやら私はだんだん古いロシアの“万年学生”のようになっていくように思われました。両親の側からの不満を予期して当然でした。しかし、両親との関係では私は幸運でした。両親はいつも私を信じてくれたのです。
 池田 人生においてなによりもありがたいことは、信じてくれる人の存在です。ご両親は、総長のことを心から信頼されていたのでしょう。

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