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幼児期の思い出  

「第三の虹の橋」アナトーリ・A・ログノフ(池田大作全集第7巻)

前後
1  池田 この対談を始めるにあたって、読者のためにも、対談者相互の理解のためにも、互いの人生経歴を明らかにしておきたいと思います。
 というのは、ログノフ総長のお国であるソビエト連邦について、日本人は、あまりにも知るところが少なく、そのために、ソビエトの人については具体的な人間像が描けないというきらいがあります。その生の人間像が浮かび上がってこないことが、ソ連に対する日本人の無用な警戒心を惹き起こす要因にもなっていると考えます。ログノフ総長の生い立ちを語っていただくことによって、具体的な人間像が浮かび上がってくれば、それだけでも、私たちのこの対談は、日本人のソ連観になんらかの貢献ができることになるでしょうから。
 ログノフ 私もそう思います。もっとも私の人生が、あらゆるソビエト人の一般像といえないことは、いうまでもないことですが。私は、自分のこれまでの人生が、個人的には幸福だったと考えています。それは、私が十月革命後ほどない時期、つまり、わが国で新しい生活が生まれ始めた時期に生を享けたということです。
 池田 一九二六年にお生まれになったわけですね。ちなみに私は一九二八年ですから、総長のほうが二歳お兄さんということになります。
 ログノフ 私の経歴は、新しいもの、新しい人間関係の出現、新しい人生観や人間形成の新しい条件の誕生と結びついています。
 私は、もうそれほど若くはありません。六十年の人生の歩みがあるわけで、これまでに私はある程度の成功を収め、ある程度の困難にも打ち勝ってきました。
 池田 モスクワ大学の総長であられ、ソビエト科学アカデミーの副総裁であられるのですから、たいへん謙遜されたお言葉であると受けとめました。
 ところで、ご両親について、お話しいただけませんか。
 ログノフ 私の両親は同じ一九〇四年生まれですが、今なお健在でいるのは母だけで、父は今年、他界しました。しかし両親は、自分たちのただ一人の息子が、人生でなにがしかのものをかち得たことを見ることができたわけで、この点でも私は幸運だったといえます。
 このようにいうのは、あまり謙虚でないという人もいるかもしれません。しかし、人間の生活において、両親の喜びに匹敵するものが、はたしてあるでしょうか。また、両親が子どもたちの愛につつまれることは大きな幸せです。
 池田 おっしゃるとおりです。両親をなにより大切にすることは、人間として、最も大事なことの一つです。東洋においては、両親を大切にすべきことを教えた儒教がありますが、私の信奉している日蓮大聖人も、仏道修行の根本として、親への孝養を強調されています。そして、親がなによりも喜んでくれるのは、自分自身が人間として立派になることであると教えられています。
 経済的・物質的孝養は、最低限の条件です。しかし、それにしても、総長のご両親は、お幸せでいらっしゃる。私の父は、私が三十歳の時に亡くなりました。母は長生きしましたが、私が四十八歳の時に亡くなりました。
 ログノフ 私には、二人の子どもがいますが、彼らが幸せであるようにというのが、最大の願いです。息子は物理学者であり、娘は歴史学者の道を歩んでいます。ところで、つい最近、三番目の孫が生まれました。
 池田 息子さんは、総長のあとを受け継がれているわけですね。
 ログノフ ちなみに、歴史は私がつねに好きだった第二の学科なのです。その理由が何であるかは、いわく言いがたいのですが、祖父が、長く暗い冬の夜な夜な、私に語って聞かせた歴史物語が私の心をとらえたことにも一因があると思います。祖父の語り口は、まさしく名人芸でした。彼が語る歴史の話はつねに興味深く、明るく、ユーモアに富んでいて、その一つ一つが孫である私になんらかの教訓を垂れるものでした。
 池田 歴史をたんなる知識に終わらせたなら、無味乾燥なものになってしまいます。お祖父さんは、おそらく、ご自分が人生経験から得られた知恵をもって、お孫さんである総長の人生の宝として、教訓を添えて授けられたのでしょう。
2  ログノフ 快活で、輝いた目の祖父でしたが、時には厳しく思えました。とても頑健で、両親の会話から、私は、祖父が謝肉祭の折、よく村の若者同士の拳闘の試合に出場して、何回か優勝したほど頑丈な体の持ち主だったことを知りました。だから、私はレールモントフの『商人カラーシニコフ』を読むたびに祖父を思い出すのです。
 かつてある時、祖父にこっけいな出来事が起こりました。友人仲間が祖父を飲み屋に引っぱりこんだのです。祖父はお酒は嫌いでした。ちなみに、昔のロシアでは健全な家庭なら、子どもができるまでウォツカは飲まないといった慣習があったのです。それは、子どもをあらゆる病弊から守らなければならないという強い願いによるものでした。祖父はこの習慣を生涯守り通しました。ですから、その時も、飲み屋に入っても祖父は酒を飲もうとはしませんでした。入り口近くに腰をおろして、仲間が飲み終えるのを静かに待っていたのです。
 しかし、よく言うでしょう。「職場とは仕事をするところだ。何もせずぶらぶらするところじゃない」と。祖父のところへばかでかい男――いわゆる“用心棒”――がやってきて、「なんだって何もせず座り込んでいるのだ。さっさと金を払い、酒を注文して飲め。さもないと、叩き出すぞ」とおどしました。祖父は彼をちょっと見つめたあと、彼のえりがみをつかんで、後ろ向きにさせ、足でけとばすと、落ち着き払ったしぐさで元の場所に座り、仲間を待ちつづけました。けとばされた男は入り口の敷居を越えて雪の通りへすっとんでしまいました。それを見ていた飲み屋の主人は感嘆のあまり、すぐさま祖父のところに駆け寄って“用心棒”の職を祖父に申し出たほどでした。
 池田 なるほど。それはたいへん愉快な話です。人並みはずれた力をもっておられたのでしょうね。
 ログノフ しかし、祖父はあくまで自分の信念に忠実でした。彼は決して安易な儲け仕事に誘惑されるようなことはありませんでした。ですから、彼は苦労のしどおしでした。祖父は大家族を養うため生涯働きつづけました。彼は妻を二度亡くし、あとに多くの子どもが残されました。よく言うように、次から次へと小さな子どもがつづいたのです。女の子ばかりでした。そうこうするうちにやっと初めて男児が生まれました。その息子がやがて私の父親になるわけです。
 私の父は私ほどは運に恵まれませんでした。彼はずっと向学心をもちつづけ、私に、自分には知識が足りない、もっと多くのことを知りたいと口ぐせのように言っていましたが、彼の人生はそうした運命だったのでしょう。
 池田 私の父も不運の連続でしたから、共通するものがあります。父は、代々受け継いできた東京湾での海苔生産業を引き継いだのですが、日本全体の近代化の激動、世界経済の波浪のために、失敗に失敗を重ねました。しかも、戦争で家も焼かれてしまったのですから。しかし、どんなに苦難がつづいても毅然としていて、近所の人々からは「強情さま」と渾名されていました。
 ログノフ 教育がなくても天賦の才能に恵まれた人々がいます。彼らは生活そのものを自分のなかに摂取しながら、たいへん魅力のある人間になっていくのです。私は自分の父親もそういった人間だと思っています。
 彼は七歳で小さな子ども用ブーツをつくりました。父は幼少のころから労働の習慣を身につけ、十―十二歳のころには早くも一家の事実上の柱になっていました。十四歳の時、彼はやすやすとソリを手づくりし、巧みに大鎌を研いだりしました。じつのところ、手仕事というのはかなりむずかしい作業で、一生かかってもそれをマスターできない人もたくさんいるのです。
 父親も祖父と同様、自制心、がまん強さ、器用さ、勤勉さ、つねに中庸を探し求める能力といった農民固有の素質をもち合わせていました。父は少年時代の困難な境遇に負けたり、またそれを恨みに思ったりしませんでした。父は生涯、善良で柔和な人間でありつづけました。
 ですから私は子どものころ、どちらかというと厳格で、いつも私に対して規律と良い成績を要求した母親から私をかばってくれるよう父に求めたことも一度や二度ではありませんでした。
 私の学校でのいたずらを耳にすると、父はよくこう言ったものでした。「息子よ、あまり私を困らせないでおくれ。よく勉強すれば、万事うまくいくのだから」
 池田 総長が少年時代、いたずらっ子であったとは想像しがたい思いです。しかし、男の子というものは、大なり小なり、いたずら好きなもので、とくに人生のさまざまな難関を乗り越えていける精神力、知力に恵まれている人ほど、その幼少年期はいたずら好きであることが多いようです。
 大人になってからの謹厳ぶりから、子どものころの姿を想像することはできないものです。

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