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日蓮大聖人・池田大作

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“小我”から“大我”へ  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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1  “小我”から“大我”へ
 池田 仏教では、生命が永遠であって、私たちには、現在の人生が始まる前にも無数に過去世があり、死んでのちにも、無数の未来の人生を生きていくのだと教えています。
 それは、あなたがいわれるような大海としての生の連続で、個人としての生は、一つの波のように、ただ世代から世代へかわるのみで、一つ一つはこの一生で終わりだというのとは違います。個としての生自体が無限に連続していくとするわけです。
 もちろん、私たちは、そうした連続性を知覚することはできません。私たちの生を形成している精神機能と身体の機能とは、この人生の始まりとともにしだいに形成をつづけ、成人とともに一往の完成に達すると、こんどはしだいに崩壊、衰退をつづけるでしょう。だが、そうした精神機能と身体機能を発現した源として、個人の生命の核があり、この核のようなものを“我”と呼んでいます。そして、この“我”が生と死を超えて、変わらずに存在していくというのです。
2  この“我”は、個人としての核でありながら、あなたが大海にたとえられたような、宇宙生命ともいうべき“大我”をその内奥に秘めています。個の“小我”が宇宙的“大我”をその内に秘めるというのは不合理のようですが、私はこの仏法のとらえ方は正しいと信じています。
 ともあれ、こうした“大我”を内包した“小我”が生死を超えて連続しているというのが仏法の考え方ですが、すでに述べたように私たちは、ということは人間的知能は、生まれる以前の自己の存在を思い出すことはできません。もとより、この前の人生を思い出すこともできません。
 思い出すことができないのだから、それはなかったと同じではないか、という意見もありますが、それは違うと思います。思い出すことはできなくとも、もし、事実があれば、その事実が現在の私たちを束縛し、規制します。意識だけが私たちを規定し動かすのでなく、無意識は、より強力に私たちを規制し、突き動かしていくことは、精神分析学などで、明らかにされているとおりです。
3  それに関して、アメリカやヨーロッパで催眠術を用いて無意識の深層にある記憶を抜き出す実験が行われ、幼時から胎児のころ、さらにさかのぼって過去の人生の記憶まで蘇らせたという報告があります。この実験がどこまで信頼できるものかはわかりませんが、仏法で説いていることから考えて、私は、ありうることであるとみています。
 過去の自分の人生を思い出すことができるということは、個としての“小我”が一貫して存在していることを意味します。仏教の経典には、釈尊が過去の人生において、どこでどのような修行をしたかといったことが多く説かれています。信仰心の篤い仏教徒は、仏陀はたしかにそれを知っていたと信じています。
 凡夫すなわち一般的な人間は、催眠状態という特殊な状況のもとでしか過去の人生を想起することはできませんが、思い出せるか否かということは別にしても、現在の自分が過去の行為の結果であるということが事実であるとすれば、私たちは、原因・結果の法則に対して無関心ではいられません。
 もちろん、過去を修正することはできません。ただ未来に臨んだとき、未来の果のために、現在によい因をつくっておこうという励みになるでしょう。現在をよく生きることそれ自体を尊重しなければならないのは当然ですが、私は、それと同時に、未来のために現在をよく生きることが大切だという視点も確立される必要があると考えます。
4  ユイグ 混乱を避けるために、私の考えを明確にしたいと思います。私は人間の思考にとっては、実在の究極の本質をとらえることは不可能であるといいました。事実その不可能性については、「この世界が、その限界を大きく超えている」ことをあなたも賛同して認められました。事実、人間は、いわば機能上、空間と時間には適応しているわけですが、事物の存在はこの二重の広がりを超えており、人間はそれをとらえる武器をもっていません。
 ですから、人間は、時空間で限定された実在の中にあるものは完全に認識できますし、だからこそ、科学によって発見と征服を進めてきたのです。科学はそこでは完全に適しており、有効であることを示していますが、あくまでも、この限界の中でのことです。その向こうには思惟不可能の世界が始まります。そのうえ、科学はこのことをわきまえており、そこから先へ進むことを拒みます。科学は、認識しうる限界線を超えようと努力し試みをする哲学者に疑いの目を向けます。
5  宗教は、私たちに、一つの“啓示”すなわち、神から人間へ、不可知のものから理解しうるものへ、という一つの“翻訳”を提示します。事物の神秘に直面している私たちの思考の立場は、私にとってはこのようなものです。事物の究極に到達できないとしても、それは私にとって、可能なかぎり進むことを妨げる十分な理由にはなりません。できないと確認しても、それは、理性を絶えず柔軟にすることによって“近づく”努力の放棄を意味するものではありませんし、もしかそれが、私たちの力では不可能であれば、“待つ”ことです。人間は、いろいろな理由で太陽に着陸することは絶対にできないだろうということが原因で、月にまで行くことを諦めはしませんでした。
 他方、このように確信するからといって、“自分の固有の存在(生存)しか確定も求めもしない”ようになり、個のエゴイズムに閉じこもることになるわけでもまったくありません。むしろ反対です。私の考えでは、ただ彼だけが知っているこの人格的存在をとおして、人間は、もう一つのより広大な存在を予感し、それに従い、それと一体化するはずです。人間は、たんなる自己を超え、より大きな目的のために自分の幸福や、さらには自分の生命をさえ捨てる、すばらしい素質を示しているではありませんか。
6  歴史は、一つの理想のために自己をなげうつ最も高尚な人びとがつねにいることを示してくれます。祖国のために死んでいく市民は、その最もよくみられる例ではないでしょうか? もっと強い理由では、個人は、人類の運命に貢献するという理念によって情熱をかきたてられることもあります。宗教は、これまでみてきたように、この人生のあいだにおいては無償であっても、処罰と褒賞の見通しによって、それを奨励します。
 しかし、それほど高尚になっていなくとも、人間の心は、褒賞の希望や処罰の恐怖によって善をなしたり悪を避けたりするのでなく、一つの信念によってするように私にはみえます。“時”の流れの中で、一つの進行としてあらわれている圧力をたどることができます。それは、物質から出発して生命にまで高まり、生命によって意識に到達し、意識を通じて、それがますます洗練されて、人間とともに精神性にまで達するわけです。
7  私たちは、この運動に自分が加わっていることを感じなければなりません。しかし、私たちはそれを確認すればよいのであって、理由を理解する必要はありません(この“理由”ということばは人間に限られたなにかをもっているのです)。この運動は、自然法の強制的な性格をもっています。宇宙の分子、しかも最も明敏な分子として、私たちは、その明敏さに応じて、この運動に参画し、それに貢献さえしなければならない義務を負っています。なぜなら、それが、時間の流れを通じて強まっていく方向であり目的地であるからです。これは私たちの責任であり、この上昇に加わっているときに、私は自分のうちに一つの成就を感じ、より完全に自分自身になります。私の生命がめざしているのは、これではないでしょうか?
8  しかし、その責任は、あなたが強調される“因果論”の問題と結びついています。その“因”は、神の意志にあるのでしょうか? 私たちの行動にあるのでしょうか? これは、キリスト教の課題であり、神の恩寵の問題で、プロテスタンティズムをカトリックから分けた重大問題であり、カトリックの内部においても、十七世紀のポール・ロワイアルとの紛争をひきおこしたのです。複雑な問題であるため、不信仰者たちのあいだでさえ、決定論と自由意思の問題として、新しい波紋を呼んでいるのです。
 この問題は、人間の人格の出現とともに入ってきます。私たちは、人間の人格が、どのように物質的な身体に接ぎ木されているかをみました。物質的身体において働いているのは生理学の因果律であり、遺伝因子によって先祖の特質が伝えられる遺伝のそれは、その小さからぬものです。こうして、まず性格的な素材が提供され、それが私たちの自我に影響を及ぼしています。このことは、自我がその進路を打ち立てなければならないのは、この先天的条件との関係においてであるということに他なりません。それが奨励の働きをするにせよ、障害の働きをするにせよ、です。
9  しかし、この遺伝因子の伝達は、仏教の信条である三世にわたる宿業と同じ意味で働くのではないということですね? 科学から生じた西洋の考え方は、生理学的であり、したがって、より物質主義的です。こうして、医学は、大酒飲みとか性病患者は、自分の子供たちに、やがて償わなければならない欠陥を残すであろうと教えています。この医学のいっていることは、その独自のことばでではありますが、仏教の信条と似た内容をいっているのではないでしょうか? つまり、仏教によると、連続する生を通じて、私たちはいわば先行の生の特質が後の生に伝えられ、そのなされた行為の責任が運命としてのしかかっていくということです。これと医学のそれとは論じている局面と表現のことばが違っているので、その関係が厄介なのではないでしょうか?
 しかし、こうした私たち自身の内側に働いている原因に加えて、私たちを確定してくるものとして、外側から働いてくるものがあります。それは社会の圧力で、それが私たちの性格や思考、またそこから出てくる行動を左右します。教育、環境、時代の思潮といったものが、その力をそこで結合させます。西洋は、とくに十九世紀以来、大いにこの社会の決定論を強調し、マルキシズムは社会を構成している階級と経済とにこの優位の役割を認めました。
10  人間の演ずる部分は、戦争用語でいうと、まさしく両面作戦をとることであり、そこで自分の自由性の運命を演ずることです。“自我”によって承認された人間の“人格”は、単純に自らに働きかけるこれらの力の結果であるわけではありません。人格は、これらの力を明確にし、これらの力に対して自らの指導性を確たるものにするにしたがって、より確固たるものとなります。そこに、人間に与えられた自由の余白があるのです。私たちが戦える分野、したがって責任性も、そこにあります。
 このゆえに、私は、人間の尊厳の感覚を再興し打ち立てなければならないということに関して、あなたに深く同意するものです。仏教が人間の尊厳性を、その責任性と向かい合わせておいていることを深く尊重もし感嘆もします。しかし、この責任性を、私は、これまで申し上げたように、別の仕方で定義します。それは、私の研究と個人的経験に合致しているもので、そして既存のある宗教を受け入れようとしなかったことも“私の”責任性で、たぶん、責任というものへの鋭い感覚にまさに合致していることなのです。
11  事実、私は、最も高度な宗教のもっている向上と救済の積極的な力に対しては非常に深く賛嘆しますが、それにもかかわらず、私が疑いを払拭しきれないのは、そうした宗教は、来世の理念の圧力のもとに褒賞か懲罰かという組み合わせによって私たちの運命が実現されるという押しつけをすることによって、この責任性の十分な働きを限定する恐れがあるのではないかということです。この点は、仏教の思想のように、別の生を通じてであるか、あるいはカトリシズムが考えているように、最後の審判のあとの永遠の生を通じてであるか、ということは、たいして重大ではありません。
 私たちがなんらかの自由をもっているとすれば、その自由を私たちは、宇宙万物がそこに参加していると思われるこの上昇に参画するために十分に使うべきであり、また、それを私たちは独自の力でなすべきであると私は思っています。それが数年前から“自由思想”と呼ばれているものとなんの関係もないことを、今さらいう必要はないと思います。こちらのほうは、宗教思想の一つの否定として考えられたものだからです。
12  逆に、真実の“自由思想”は、私にとっては、宗教思想と親戚関係にあることを自覚している一つの思想であり、それらの精神的な探究に加わりはしますが、いわば側衛として、大道とは別に独自の狭い道をあえてたどるものです。それは違う道ですが、たぶん、同じ目的地に向かっています。
 要するに、私の哲学の帰着するところは、こうです。
 この世界の究極の真理は、機能上、そしてほとんどもっぱら時空間の直接的な実在に適している私たちの精神的手段にとっては、なるほど近寄りがたいものですが(神秘家がよりどころとしており、彼方にまで向かうことのできる“認識”のことは別にして)、私たちは少なくとも、何千年、何万年にわたって行われてきた、物質から知性へ、そして精神へと高まっていく世界の進化から、一つの上昇の方向を演繹することができます。それについては、何度も繰り返して私は申し上げました。
13  その究極の目的は私たちにはとらえられないとしても、この飛躍に参画することはできますし、それがたどる道をより遠くへ行くよう助けながら、それに貢献することだってできます。個人にとって、人類の運命という、自分を包含している最も高い全体に自らをささげること以上に、心を高揚させてくれることがありましょうか? この人類の運命自体、私たちが知っており、私たちがそこに投入されている宇宙という、より高次元のものを実現するものとしてあらわれたのです。
 この絶頂を極めようとする人間の努力を通じて宇宙の自己実現を助けること、それのみがこの力を“覚知する”ことを可能にしてくれるのであり、その終着点は人間にとらえられず、個人であるかぎり私にはとらえられないとしても、ここにこそ自らに課す、心を高鳴らせる存在理由があるのではないでしょうか。そこには、失望させるものはなにもありません。自己自身についてあまりにも高い理念を描かないかぎり、エゴイスティックな個人主義や小児性の奇形へ私たちをおちいらせる危険も、そこにはありません。むしろ、その反対です。
14  それに加えて、この思考の過程は、仏教のそれとまったく離れているものではありません。つまり、あなたが示されたように“個人の核である小我”と“宇宙生命と合致する大我”との関係です。この上昇にいっそう密接に参画するためには、その流れの中に人類を運んでいるこの“大我”の飛躍、その前進的な跳躍を私たちの内に再び結合し知覚することが大事です。そして、この意味で、他方では、小我は大我の一部分であり、その全体の中に消えるものでありながら、あなたの表現を借りると、「小我は大我を秘めている」のです。
 こうしてみると、私たちの考えは、その説明の仕方は別々の理念によっていますが、基本的には、互いにそんなに隔っていないことがわかります。そこに、私たちが触れ合わなければならない本質的なものがあります。もともと、これほど違った道をたどり、こんなにも異なった精神構造をうけながら、こうして類似した信念に一致したということこそ、どこまでもとらえがたく、どこまでも隠されていようと、一つの真理を、私たちがともに予感しているということのしるしではないでしょうか?

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