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日蓮大聖人・池田大作

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人間の責任性と永遠の生命  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

前後
1  人間の責任性と永遠の生命
 池田 過去の宗教が民衆に対して“意識の方向性と意味を与える”ものとして教えてきたことは、死後の世界についての諸問題でした。
 仏教でも、現在の人生における行為の道徳的善悪や宗教的善悪によって、地獄に堕ちたり、浄土へ往生する等の、結果の相違を生ずると教えました。同様の教えは、キリスト教にも、天国や地獄の思想としてあります。こうして、人間の責任性という問題が入ってきたわけです。
 このような、死後の世界に関する考え方について、あなたは、どう思われますか。もし、現代において意味をもちうるように再解釈するとすれば、あなたなら、どう解釈されますか。
2  ユイグ ほとんどすべての宗教は、現在の人生の報いを含む未来の生活を教えます。この見方は人間に、責任の観念をうえつける目的をもっています。子供の教育についても同じことで、罰の警告あるいは褒美の約束というものが釣り合っていなければなりません。
 こうしてキリスト教において、カトリシズムは、その教義の中で、最後の審判(善と悪を計る秤で象徴された絵がよくありますが)によって天国か地獄かが決められるとする来世の教えを示しました。仏教が、生まれかわりながら生命が連続するという教義によって、人はそこで、進歩か退歩かの報いをうけるとするのも、結局は、これと似た効果をもっています。
 物質主義におおわれている現代文明においては、人間の終局とか自分の人生に対する責任とかいう概念は消滅する以外なくなりました。現実にあるもの、現在がまず優先し、技術や社会の進歩への漠然とした信仰がこれに加わります。この進歩は未来におけるよりよい現在を生じさせることが目的です。そして人間は一人で自分の欲望と向き合って立っているという状態です。
 この進歩がめざしているのは人びとの欲求だけであり、快楽の満足をもたらすことだけです。人間は当座のことにのみ追われており、存在の意味や理由をまったく意識しなくなり、その生命の原動力を失っています。そして道徳的空白と苦悩を生み出し、それが現代人すべてをかくも明敏でなくし途方に暮れさせているのです。
3  もし宗教が衰退をつづけていくならば、人類はいったいどのようにしてその巨大な空隙を埋めることができるでしょうか。マルローは、神聖なものに取って代わるものとして芸術をあげましたが、そのとき彼はまさにこの問題を考えていたのです。物質主義の文明にあっては、質の概念を導入できるのは、最も広い意味でいうところの“文化”しか残っていません。文学や美術が価値の度合いの概念を含んでおり、さらに高いところへ到達したいという渇望を引き出すものだということはすでに述べました。
 そして、この完成に向かおうとする衝動の目的とするものが、まさに「無限」と呼ばれるものであることも私たちがよく知っているところです。現代の物質主義的社会は、私たちを脅かす不毛に対しては“文化”によってのみ対抗しうることを認め、ちょうどフランス革命が“理性”を聖化したように“文化”をほとんど聖化しています。そして現代文明は、政府に“文化”のための省さえ設けているわけですが、文化を娯楽やレジャーと混同する現代社会の傾向によって、文化を空白を埋める気晴らしの役割に落としてしまっているのです。
 私たちは、教育が現代世界の空隙や偏見への平衡錘として適用された場合、はたしてその役割を果たしうるかどうかについて検討しました。しかし教育はその方向をたどることはせず、現在のものの考え方をさらに強めるものになっているように思われます。「生活の質」について語ることが、快適な生活を求めることになってしまっている今日、この真の意味や内容から外れてしまった質に対して、どうして信頼をめざめさせられるでしょう。
4  宗教的基盤は、他のなににもまして、この衝動をめざめさせ確立させる可能性があります。しかし、宗教の行動方法は変わらなければならないでしょう。神聖な歴史とか、教義とか儀式などは、現代人の目には時代遅れに映ります。昔の社会にあっては、儀式は人びと、とくに単純な人びとを魅惑し、教義は人びとの心をとらえたのですが……。人間が再び蘇るためには、宗教的感情が最大限に純化され、それが、とくに、見せかけの世界と自分自身を超えた別の実在への感情を人間に取り戻させ、無限の前進への憧憬を再び起こさせることが必要でしょう。
5  池田 少なくとも、現在の人生の中にいるかぎり、私たちは死後の世界がどのようなものであるかを知ることはできません。仏教によれば、私たちの生命は、生と死を無限に繰り返すはずですから、この人生の前に、死後の世界を経験しているはずですが、この世に生まれてからの私たちに、その記憶は残っていません。仏教のある説によれば、受胎の瞬間と産道を通るときの苦しみによって、それ以前の記憶を失ってしまうというのです。
6  さて、生死を無限に繰り返すとするにせよ、人生を一回かぎりとするにせよ、死んでのちも、自己というものはつづいており、現在の人生において行ったことの善悪の結果をそこで受けるとするのは、仏教にかぎらず、ほとんどすべての宗教に共通した教えのようです。
 私は、この考え方のもつ第一の意義は、あなたも指摘されているように、人間に責任の観念をもたせてくれることにあると思っています。未来の結果をよりよくするために、人間は、現在の自分の人生をよく生きなければなりません。自分の未来に対して、現在の自分が責任をもっているというこの思想は、人間の尊厳性のために、きわめて重要な意味をもっていると私は思います。
7  もしも、死後の未来が完全に無であったり、それが存在するとしても、その内容に関して自分の現在の人生が無関係で、神の恣意によって決められるものだとするなら、現在の人生をよりよく生きようという努力は生じがたいでしょう。現代人が、自分のこの人生を、欲望の追求のみに生き、自己の存在理由や意味を意識しなくなっているのは、死後を空白視する考え方の一つの反映であるように思われます。
 文化、芸術は、たしかに、この人生を一回かぎりのものとし、死後が無であるとしても、それゆえにこそ、自己がこの世に存在した証拠としてなにかを残そうとする意欲に刺激を与えることができるでしょう。しかし、それはそれだけの才能をもち、しかも、自分の才能に自信をもっている人に限られます。大部分の人にとっては、自分の死後も残っていくような芸術作品を生み出すことは不可能なことですし、同じくなにかの文化的創造をすることも、ほとんどその条件をもっていません。
8  しかも、優れた芸術作品を残して、この世に名前が残り、自分についての記憶が人びとの胸のうちに伝えられるとしても、それが死後の自分自身にとって、はたして、どのような意味をもつかは、わかりません。現代人は、死後の自身を空白視していますが、もとよりなにかの確実な証拠があってそうしているのではなく、ただ、判断ができないから、死後の存在を考えることを放棄しているだけです。
 客観的に認識し、その認識した根拠によって判断できることだけを考え、そうでないものについては、考察しようとさえしない、この傾向は、科学的思考のみを確実なものとする近代人に独特のものではないでしょうか。しかし、そのような思考法に習熟し、科学の発達に寄与してきた人びとは、だからといって客観的に認識できない事象について、その存在自体を否定したのではないはずです。むしろ、自らの思考し扱っている問題は、複雑で多様な現実の中の一部分でしかないことを承知しており、自分の思考できない分野に対して、謙虚な姿勢で臨んだのではないでしょうか。
9  ところが、科学的思考とはどのようなもので、その思考でとらえられるものが世界の中で、どのような位置を占めるのかを知らない人びとは、盲信的に科学的思考法を用いようとして、科学的にとらえられないものの存在自体を否定してしまうのです。その意味で、私は、人びとが科学的思考法に正しく習熟し、その位置を正しくわきまえることが、たとえば宗教的思考についても目を開くことになると信じます。
 宗教的思考とは、自己の人生そのもの、自己の存在についての質的なとらえ方といえると思っています。現在のこの生命をより長く維持し、より快適にするための思考や努力ではなく、この人生や自己の存在を超えたところに支点をおいて、この人生と自己の存在を秤皿にのせることです。これまでの宗教は、仏教も含めて、死後の未来にその支点をおき、死後に受ける苦楽という説話的な表現によって、その針の指すところを教え示しました。
 天国や地獄の想像図は、その具体性のゆえに、広く人びとに訴えかけるものをもっていました。しかし、現代人は、そのような想像図を信じようとはしません。しかし、人生そのものの質の高低、優劣ということは理解もできるし、納得もできるでしょう。むしろ、私は、諸宗教の示そうとしたほんとうの意味は、ここにあったのではないかと考えます。
10  仏教がこの問題に、永遠の生命観を立てることによって答えているのに対し、キリスト教の場合、人間個々の生命が過去も未来も永遠であるという考え方は否定されるように思います。根本的に、宇宙万物は神が創造したという考え方がありますから、その創造の時より以前にはさかのぼることができません。一般的に、現在のこの人生が神によって創られたものと受けとめられているようですから、過去の人生というものはないということになると私は理解しますが、これは正しいでしょうか。
 仏教では、一人ひとりの生命は永遠の過去から永遠の未来にわたってつづいており、生と死を無限に繰り返していくと教えます。そして、そのつづいていく生命の流れの中で、原因と結果の連鎖が形成されていくとするのです。いいかえると、現在の自分をつくった原因は、神の意志ではなく、自分自身の過去(現在のこの人生の範囲内の過去にせよ、過去の人生のことにせよ)の行為にあるとします。
 これは、私は、人間に、自らの運命についての自らの責任性を明確にする教えであり、人間の尊厳性を打ち立てるために重要な考え方であると思っています。あなたは、こうした生命の永遠性という問題について、どのようにお考えになりますか。
11  ユイグ 永遠性の問題は、私にとっては、無限の問題と同様、人間精神の探究能力と理解力を超えています。私たちは、時間においても空間においても、有限なものしか理解することはできません。そこでは、すべてに限界がありますので、それを超えて向こうにある問題については、その限界線を移すことになります。こうして目まいがするまで、これを繰り返していくのです。この“目まい”が、空間に関係している場合は“無限”であり、時間に関係しているときは“永遠”なのです。
 しかし、それには義務の回避があります。それは、解決をつぎつぎ先へ延ばすことによって、自分に理解できないものについては、否定することだけにとどまっていることです。一つ確定できるものとして、私たちは“空虚”をおきます。――これは不可解なものということです。そこに、とりもなおさず、人間の精神的能力からくる義務の回避があると私はみます。私たちの精神的能力は、私たちを取りかこんでいる現実を理解するのには適していても、万能ではなく、残念ながら、大脳の大部分にとっては“無限”や“永遠”を理解することは不可能なのです。
12  疑いもなく、生きている人間にとって、未来において存在することをやめうることを理解するのは難しいことです。彼にとっては、過去に存在しえなかったことを認めることもまったく同様に困難です。宗教は、この謎を解くことを義務として負っていました。なぜなら、哲学がそれを問題提起するだけにとどめることができるのに対し、一つの答えを与えることは宗教の義務だからです。宗教は“覚った”ことを特色として自ら認めているのですから。しかも、宗教は、人間の道徳的規範を打ち立てることをめざしました。そして、そのために、永遠性を説き、現在の人生のあと、そこで達成されるであろう行動の責任を自らに見いだすことを教えたのです。
13  キリスト教の解答は、未来の生をいわば決定的なものであろうとします。これは、西洋がその奥にもっている固定性と絶対への到達、したがって不変性を好む傾向のあらわれです。キリスト教は――これは強調しておく必要があることです――それほど確定的とはいえない教典(とくに聖ヨハネ書と黙示録)から出発しながら、死後には審判があると規定するようになったのです。それが「最後の審判」で、このことばには意味深いものがあります。そこで人間はとらえられて、神から授けられたその存在を、善悪どのように使ったかを裁かれ、つぎに、こうして関わった責任性によって、褒賞か処罰かの永遠の運命が定められるのです。宗教画の中にこのテーマが描かれた必然性は、本来はそれがもっていなかった具体的な明確さを与えることにあったわけです。
14  仏教の立場は、東洋精神の論理の中に位置づけられます。それは西洋人とは逆に、事物を固定化せず、その持続性の中に求めます。西洋人は、すべてについてきっぱりと空間の中にかたちを成し、定めるように、論理の不変性の中で認識することを好みます。その思想は一つの合理的構築物です。東洋人は、時間の感覚とその流動するリズムに身をゆだねることを好みます(このようなあまりにも一般的に定義づけることが、まさに西洋的で断定的であること、それがいかに事実の中では種々のニュアンスをもっていなければならないかは、私もよく知っています。しかし、それはそれなりに価値があるのです)。
 ですから、キリスト教とは反対に、仏教が、一つの事件を、現在の人生ばかりでなく、これまでの、あらゆる人生の結論であり、それが永遠性の立場を各人に課するとは考えないことがわかります。仏教は、反対に、時間の中への一種の参画を考え、この時間の流れの中で、すべての生命はつねに責任性をもち、個人はこの責任性の連続の中にある、この責任性は生死の流転の中で働き、そこで、善か悪か、上昇か堕落かの推移が行われるのである――こう考えるのです。
 しかしながら、完全な成功とは、この時間の中での流転から“離脱”することであると同時に、個人的自我からの解放、輪廻と同時に個人的状態から逃れること、そして“絶対”つまり空間と持続性の外にあるものへの融合を意味します。それがあなた方のいわれる“悟り”であると思います。
15  つけ加えて申し上げれば、私は、これら二つの解決のどちらの一方をも選ぶものではありません。私は、そこに妥当性があることがわかりますし、強い興味も感じます。しかし、私の哲学的立場では、人間の頭脳はこの問題を解決する能力も、その内容をよく理解する能力さえもっているとは思いません。宗教は自分が一つの啓示をもたらすと反論します。しかし、すべての啓示は、信仰を前提とし、私は、これら二つの啓示のどちらかに私を従わせる信仰はもっていないのです。
 私の考えでは、“根源のもの”“不可思議の存在”から、この宇宙を構成する物質と空間と時間の三項式が抜き出されます。この三つについて、現代の物理学は、その密接な関わり合いを示しました。
16  ここに、あえていえば“創造”があります。しかし、明らかにこの宇宙によってかたちづくられた私たちの精神的概念を除いてだれが、それ以前に時間が存在していたと私たちに告げてくれるでしょうか? 「太初はじめにことばありき」――その秘密は、たぶん、この一句の奥底にあります。この“ことば”がすなわち“原初的なもの”で、そこから物質と空間と時間が出てくるのであり、これらはこの不可解なものの中には存在しないことをあらわしています。
 ここでは思考は、その限界つまり、それがよりどころとしているものにつまずいてしまうのですから、どのような方法が他にあるでしょうか? “理性”は現実にあるものを超えることはできません。ただ“精神”だけが、さらに進んで、その彼方を知覚し、極限のところで、可知の世界の向こうを垣間見ることを可能にしてくれます。精神は、質の経験で強化され、ただ質にもとづくことによって、未来をとおして、すべての創造がその引力と吸着力に従っている“無限”に位置づけられたこの一点へ向かう人間の進歩を予見します。そこから、人間の責任性、人類全体の責任性に参画している各個人の責任性が生ずるのです。
17  しかし、この責任性の意識は、宗教が社会的有効力という理由で当然のこととして導入する賞罰の予想によって強化されるのではなく、それ自体で完結していなければなりません。私は、自分の個人というかたちのもとでの存在は一時的ななにかであること、そして、私の人格は誕生によって初めて無から抜き出されたのであり、見習い期間ともいえる少年期に確立され、責任の意識が与えられたのであるとみることが十分できます。しかし、この物理的、生物学的、心理学的、精神的な、さまざまのエネルギーの収束と結合は、その統合された束が私の自我を基礎づけているのですが、やがて消失し、私の死ぬときには、神秘なその源に還っていくのです。それは、ちょうど、火打ち石の一撃で発した火花が、たちまち夜の闇の中に消えるのに似ています。
18  老化はその証拠を私たちの周りにもっており、たぶん私たち自身が証明することでしょうが、しばしば、この分離の始まりを示しているのではないでしょうか? ある要素は維持されていますが、硬化しており、他のものは消え、記憶となります。責任性の感覚は、ときとして不明瞭になり、それを満たす手段そのものが衰えます。この前兆は示唆的ではないでしょうか?
 私は、これ以上遠くへ行くことを可能にしてくれる啓示をもっていません。そのうえに、未来に報いをうける、どんな必要があるでしょうか? 個人が、ただその価値のために、自己の内に道徳的責任性をめざしていけるということは、より高貴なことです。その行為の美しさ以外のいかなる褒賞もなしに、美しさをもってのみ行動するということは正常なことではないでしょうか? かつてカントが、このことに気づいて、その思考を開いたことを考えてみましょう。
19  道徳的質は、たぶん、生きるに値する真の理由です。したがって、人が生きるのは、その生を完成するためであり、もし、道徳的質、精神的質が、その自己完成のための十分な力であるなら、私の考えでは、それは、そこに到達しようと人が試みるのに必要かつ十分な理由です。いうなれば、そのためにこそ、人はそこにいるのではないでしょうか? ですから、私たちがそのために人間として、形成されたこの道徳的質を、“創造”のまだ達せられていない最終段階において完成しようではありませんか。
 私が、とくに仏教とキリスト教が、それぞれにその独自の立場で、この問題を社会的な段階で、極度に有効なやり方で解決していることを認めながらも、一つの宗教的解決に従う必要性を何ら感じない理由は、そこにあるのです。今日の物質主義が求めるように、現実的なものにしか関心を向けない人間は、精神的向上へのこの責任を見失います。それに対して、宗教は、それが予告する未来の処罰によって、あまりにも多くの人びとを恐怖で身動きできないまでにしてしまうのです。
20  しかし、自分自身に関して、一つの絶対的な要求をもつことのできる人なら誰でも、他の人びとにとってはその仕事を完成するために不可欠である来世が自分にはないのではないかという恐れをもたないですませられます。私は自分が美に存在の質のかたちの一つを感ずるがゆえに、生涯を美にささげてきましたが、それと同様に、行動の規制の厳格さが、そこに到達するもう一つ別の手段であると思っています。そのうえ、仏教は連続する生命の最高の境界が“第九識”に見いだされること、この第九識において人間は宇宙の生命と合体し、その個我を消滅させることが可能であることを予想しているのではないでしょうか?
21  ですから、私は、宇宙が巨大なエネルギーの流れによって形成され、永続しているとみる仏教の思想に背いてはいないように思います。個人的には、私は宇宙に終わりがあるとは思いませんし、ましてや「宇宙の中のすべては神によって創造された」とは思っていません。私は別なふうに問題を立てます。私は、最初から天地創造ということを信じません。私は一種の永遠性、絶対を信じます。この“絶対”は、私たちの“広がり”も空間も時間も認めず、私たちの理解を超えたもので、私たちの知っている世界の存在は、そこから出てきています。この“絶対”が多くの人間にとって、神と名づけられるものなのです。しかし、この神という名は、たいていの場合、人間的な、あまりにも人間的な概念をまとっており、私たちの思考に合わせたものであるので、私は使いたくありません。
22  私がこのことばを使うのを避けるのは、一つの宗教の支持者にとって、それが特定の概念と一致し、そのために限定されたなにかになってしまって、私を当惑させるからです。そのうえ「神」ということばを避けることによって、高い権威に守られることもできるわけです。といいますのは、たとえば聖トマス・アキナスは、神は“意味……想像……意見……理性……学問”によって追いつきうるものではなく、それ(神)に向かい合っては「定義の不可知論」しかないと教えました。私もそれに賛成です。
 しかし、現代の物理学の最先端でも、ディラック(イギリスの理論物理学者)はわれわれが「現実」と呼んでいるものの、近づきうる現象の背後にわれわれの計量的方法、したがってまたわれわれの精神的概念作用ではとらえられない、空間と時間の広がりの中におさまらない基体があると想定しているようです。これも私は同感です。なぜなら、時代の隔りによってことばは違っても、この思考は、聖トマス・アキナスのそれと、そんなに違ってはいないからです。
23  私たちの感覚が知覚している物質世界の背後に、私は無限に広大で深遠な一つの存在を感じます。物質はたぶん、その最も次元の低いと同時に最も具体的な状態でしかありえません。しかしこの深遠な存在が、私が「本源的」と呼ぶもの、最も奥深い経験のすべてを私に課してくるのです。事実、それは、私が世界について知っているように外界からやってくるのではなく、奥深く秘められた源泉からきます。この深い源泉で、私は“存在”“実在”と結合します。なぜなら“存在”と“実在”は、この体験されたものの本源的な場で一つになっているからです。
 いずれにしても、私たちの精神は、組み上げられたままでいて、生命的本源と結合しようとする脱皮の努力をしなかったならば、事物の深い実在に接することはほとんどできません。精神は概念によって事物を表現するための理解の手段は与えられています。これらの概念はことばで覆われているからです。また精神は、これらの概念を有効に組み立てるために、「論理」と呼んでいるものによって体系化しようとしてきましたが、そうした精神的構造を与えられており、しかも、この論理自体が固定的ではないことを理解しています。
 そこには、すべてが一つの統一に導かれなければならないと考えているアリストテレス的な論理とともに、現代においてステファン・ルパスコのような哲学者によって発展をみた、弁証法と矛盾の論理もあります。そしてまた同様に、はっきりした数学的論理その他があります。
24  結局、個人により、民族により、時代によって異なるこの概念の多様性の中に、その概念を組み合わせ構築する合理的体系のこの多様性の中に、私は、理解のためにぜひ必要な体系を人間が与えられていることの証拠をみるのです。それは「理解のメカニズム」とさえいってよいもので、人間はこのメカニズムに相応した“理解”しかできません。明らかなことは、私たちが非常に漠然と「実在」と呼ぶものと私たち自身のあいだに一つのメカニズムが入ったときから、私たちは自身を理解することが望めなくなるのです。なぜなら、このメカニズムが私たちと“実在”とのあいだにつくる前線が、透明ではあるがハエが“向こう側”へ行くのを妨げるガラスの役割を演ずるからです。
25  この障壁を少しは破っていけるのは、たぶん、ただ非常に深い、ある種の直観だけです。それは、知性とか論理、概念的知識とかいったものから起こるものではまったくありません。それは、多くの宗教において、神秘的傾向を鼓舞し、そこで絶頂に達しながら、種々に異なる教義や神の表現の違いを超えて、互いに近づいていきます。
 その神秘の特性は、えもいわれぬものであるということにあります。それがもたらす感覚は本質的に“参画”の感覚であり、流れから分かれた滴りが流れの中に戻り、その水と一体になるそれです。そのとき、人びとは思議できるものの彼方へ戻るわけですが、概念的なメカニズムの中に入ってこられるようなものはなに一つ、そこから持ち帰ることはできません。そのとき知覚あるいはむしろ感受できるものは、思議できるものを破裂させるでしょう。それについて人びとが説明するものは、せいぜい、私たちの精神的機械設備に対してなされる一つの払い下げであり、一種のインチキな翻訳です。それは網ではとらえられない水のようなもので、私たちは合理的思考という“網”しか持ち合わせていないのです。
26  「神」ということばが私にとって不十分であるのはこのためで、一つの概念をどうしても包含することになるからです。私も、人びとが神の概念を通じて求めているものがよくわかります。しかし、私としては、この画面構成に限定しないようにしたいのです。ある種の初歩的な信者にとって、神はキリスト教の聖像にみられる、白鬚の老人として姿をあらわすでしょう。こうした表象を超えているけれども一つの神の“概念”を自らつくる人びとは、非常に高い次元でではありますが、それでも人間のかたちをしたものの変形し限定されたなにかをそこに描いているようです。そこで、彼は、象徴もことばも概念も使わないようにしながら、無限の中にさまようだけです。
27  神についていえることは“創造”の概念についてもまったく同じです。なぜなら、人間がその特有の思考の習慣をそこに持ち込んでいることは、あまりにも明白だからです。人間はその日常の経験から、もしそれが自発的でよく考慮された行動の結果でないなら、なにごとも知的創造の真の新しい、組み上げられたものとしてあらわれえないことを知っています。そして、私の感覚では、因果の法(すべての現象には一つの原因がなければならないとする)は、もしそれが私たちの経験の中で普遍的なものであるとすると、もはや“私たちの世界”、物質と空間と時間が連結している世界、私たちを“今”“ここに”位置させている世界を超えた意味はもっていません。
28  カントは、そのなみはずれた天分によって「真理」や「存在」といわれるものは、こうした“範疇”から遠く離れたところにあり、私たちの精神的手段では知覚不能であることを予感していました。このあくまで人間的な認識が、なぜ人間以外のところで価値をもつ必要があるのでしょうか? それは“創造”の概念自体、私にとって理解できないからでなく――というのは、むしろ反対に、それがあまりにも説明的であるのを非難しているくらいですから――私たちの固有の限界からそれを超えているものにまで間違った拡大をしているからです。この世界の万物が、その組み立てを“思考”し計算する「一つの究極の叡智」によって、無から生じたとみることは、私にとっては、技術者の仕事をほうふつさせます。
 「無限」とか「永遠」という概念も同じで、これはまさしく“不可思議”ですが、これは私たちにはとらえられない実在を、はっきりしないことばで、おおっているだけではないでしょうか? 私たちはそれらを、絶えず新しい限界を仮定的に取り除くことによって、「初め」とか「終わり」といったことばを専断的に抹殺しながら、しかも、そのかわりになにものをもおかないという、消極的な方法でしか、それをつかまえることはできません。これは、私たちを超えているなにかに対する予感を隠させるためにつくられた一つのレッテルにすぎないのです。
29  さらにいえることは、私たちがあえて「存在」と名づけているこの“不可思議”のものから、一種の凝縮によって、空間と時間の中への“登場”が行われます。現代物理学は、より緻密な探究の必要性から、時空間を考え、それが変形し湾曲していると考えましたが、それ以来、人間的経験の世界は根底からくつがえされるようになったのではないでしょうか?
 さらにまた、否定的にいえば(ということは、私たちの思考の理解方法に疑いをかけつつということです)「時間でないもの」と「空間でないもの」ということもできます。ときとして私たちは、私たちには思考できてもイヌにはできないものに、なんとかイヌにわからせようと苦労することがあります。ですから、そうしたムダな努力をしないためには、イヌの立場になってみるようにすることであり、そして、こんどは、私たちが人間の本性からいって限界があってとらえることのできないものの前に自分をおいてみることです。
30  私たちがなじんでいる二つの広がりである時間と空間が裁断されている神秘な織物の中で、凝集の中心・焦点になる点々の“鉤裂き”のようななにかが生ずると想像してみましょう。こうしてあらわれたのが、無限に小さいほうでは原子であり、他方の知られている極大のものが星雲や星、太陽系なのです。物質の次元で自己創造をしているものが生命へと変革し、それは、一つの組織の中に入った、種々の要素を調整する中心をそこにつくり、繰り返し更新していきます。
 同じように、心の働きの次元では、感覚のもたらすものがそこに集中する“焦点”に意識があらわれます。そして“自我”という一つの引力の中心がそこに形成されるのです。それは動物の段階から人間にいたるまで登るにしたがって確固たるものになり、人間はこれまでにあらわれた最も達成された状態にあります。そこには、光学レンズの働きで散乱した光をとらえ、それを集め、“焦点”と呼ばれる一点に集中したときに、一つの像が形成されるといった類比でなければ示せないなにかがあります。
31  しかし、この心の働きの整序、この“自我”は、太陽系と同じように、始まりと終わりが、たぶんあります。つまり、宇宙の塵が、一つの星雲の誕生をもたらし、そこに集中作用が起こって一つの太陽系ができるわけです。しかし、この太陽系は消耗し死滅して宇宙塵に戻り、散乱したエネルギーとなります。私たちの身体も、心の働きの発現が付け加わりますが、この天体と同じ組織化のリズムに従っていて、それによって、成長し、そして分解のリズムによって、死ぬのではないでしょうか。
 人間存在も同様に、その構成要素を結合したり分解させたりしながら、あらわれ、そして消えていきます。この構成要素とは、物質の次元では身体をつくっているものであり、生命の次元では、その生存に与えられた一つの存在であり、心の働きの次元では“自我”です。しかも、これら三つは、一つの共通の事業の中に一体となっているのです。
32  宇宙の万物が宇宙塵の漠然としたものから生じたように、人間存在の出現、意識の出現も、類推的にいえば、心の塵とでもいえるようなものの凝集に似た一つの現象として理解できないでしょうか? しかし、それがこの焦点に組織化されて個人となる以前や、この集中化の時が過ぎた死後は、たぶん、漠然としたものしかありません。私は、すべての人間生命は永遠の過去から永劫の未来にわたってつづくといわれるあなたのお考えに同意します。しかし、個としての連続であるとは私は信じられないのです。その理由、意味は、ここにあります。
33  波と大洋の比喩をあえて、もう一度、ここで取り上げてみましょう。波は大洋と別のものではありません。しかし、波の一つ一つが区別されるように、波と大洋も区別されます。波の一つ一つが空間の中に一つの場を占めており、時間の中に広がっています。波は生まれ、消えていきます。大洋の水だけがそのままであり、そこから波が生じ、また、そこへ還るのです。
 “創造”も同じです。“創造”は何千年、何百年、何十日と、同じように行われていきます。“存在”の主質から万物があらわれ、消えていきます。それは、波がその移り変わるかたちをもち、自身の冒険をし、広がりと波頭と泡をもっているのと同じです。……私は、エネルギーの大洋も同様であるとみます。それは、時間と空間の“無限”を包含しながら、動き、相次いであらわれる波と渦をそこに生じます。その最も低い次元にあるのが“物質”であり、最も高い次元にあるのが“思考する存在”です。それはたぶん、異なった次元ではエネルギーのあらわれ方が異なるということです。
34  しかし、この働きは、波をつくった働きと変わりません。無限の集団的な大洋の広がりの中に飲み込まれた分子は、突如として、共通の一つの運動と、発展する一つのかたちの中に互いに結合します。それは生まれ、増大し、その完成に到達します。それから、再び低下し、破損し、そして消滅するのです。こうして分子はその全体的な貯蔵庫に戻り、やがてまた他の分子と結びつき、新しい波を生じさせるためにそなえるのです。
 しかしながら、それぞれの波は、自分のあとに、もう一つの別の波をひきおこしてきました。生きているものも同様です。生き物も、まったく同じではない、他の分子を集めた他の波を生みます。その質量とかたちと動きは、構成分子の一部分と、先行の波の衝撃の一部を引きついでいます。しかし、ある時間がたつと、この相続と痕は消えるでしょう。
 このことは、私たちの仕事(作品)についても同じく真実です。作品によって、私たちは自分がつくった波の躍動がつづいていくと信じています。一つの芸術作品とか著作の中に刻み込まれた私たちの思想は、たぶん、未来の波を動かし、そこに一つの衝撃をもたらし、その波の形成を助けるでしょう。私の考えでは、そこにたぶん、波の場合のように、私たち自身を超え、死ののちもつづいていく反響があります。しかし、それは、いつまでつづくでしょうか?

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