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日蓮大聖人・池田大作

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理性と信仰  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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1  理性と信仰
 池田 物質主義的な現代世界は、理性の発展とともに生まれました。ある意味で、自然界の事象に目を向けた原始宗教の方向に理性を導入することから自然科学が生まれました。
 古代宗教は人間の集団力に崇拝を捧げましたが、そこに行われた人間集団の統率方法に対して理性による科学的処置を加えられたことから、やがて社会科学が生まれました。
 このようにして、原始宗教は自然科学によって、かなりの部分で信仰としての生きた力を失い、古代宗教は社会科学によって、その宗教性を減少してきております。
 これに対して、高等宗教のうち、人格的な神を立てるものは、近代に入って高まってきた個々の人間の尊厳性への欲求によって、その土台を侵食されつつあります。なぜなら、人格神の尊厳性の前に、個々の人間の尊厳性が、しばしば踏みにじられてきたからです。
 高等宗教のうちでも、法を究極的存在と立てるものは、個々の人間の尊厳を求める欲求と合致しています。なぜなら、法は個々の人間のうちにも平等に存在することが可能ですから、万人が平等に尊厳であることができるからです。
2  ユイグ 宗教の進展や宗教がもたらしたものについて、私はつぎのような解釈を提案します。すなわち、原始社会にあっては、宗教は、人間を取り囲み、いたるところで人間を圧迫してくる世界の神秘を、人間にとって触知できる、また近づきやすいものにしていました。宗教は人間に神話という救いの手をさしのべていたわけです。
 さて、この神話は、人間が深く感じているが、しかしはっきりわからずにいるものの象徴であるイメージから生じています。神話はそのように人間が感じているものを、外にあらわし具体化して一つのイメージや光景につくりあげることによって、気づかせてくれます。象徴的作用をもつ神話の話は、いわば人間がぼんやりと知覚しているものを小説風に描いてくれるのです。それらの話を前にして、人間は触知できる外的真実を前にしているかのように反応することができるのです。
 同じように、劇場や映画館の観客は、自分の秘めた思いを具体化している劇中の人物を見ながら、突如として、それらの人物を通じて自己の中にひそんでいるものに気づくのです。現代の精神分析医は、サイコドラマ(精神療法の一種)においてこの移し替えの力を利用しています。分析医は病人自身に、想像上の投影を行わせることによって、彼の内部で混乱を生じていた幻影を、実質的で知覚できるものにするわけです。
3  原始宗教は、このように、人びとの考えの奥底で、ぼんやりと空しくさまよっていたものを彼らに示してみせたわけです。原始宗教はそれらに生気を与え、知覚できるものにし、はっきり理解できるものにしました。神話というかたちでそれを整理し教えることができたわけです。これは、ギリシャで西紀前六~五世紀にかけて哲学があらわれるまでは、人間の思考の正常な状態であったとさえいえます。神話は、抽象的な概念の助けを借りて魂に関する漠然とした問題を理性的に整理することに席をゆずりました。思想家の省察は、それらの問題を、数学的確実さをめざす論理の普遍的な絆で結ばれた首尾一貫した、いわば理念の鋳型の中にはめこんでしまったのです。ヨーロッパでは、このとき、新しい時代に入りました。これが理性の時代です。
4  理性は前面に押し出され、私たちを取り巻いている、したがって本質的に物理的な世界の研究に適用されましたが、それが神話の生彩ある力を根本から取り除くこととなり、神話を最も深い感受性に結びつけている根を切ってしまいました。理性は、論理的に説明されうるもの、デカルトの表現をふたたび借りれば「明晰かつ明瞭な概念」として表明できるものにその独自の支配の基礎をおいたのです。
 この精神生活をせばめていく仕事は非常に着実に行われました。たとえばギリシャの理性は、まだ詩情をもっています。プラトンは、さまざまな機会に、自分が創り出したイメージや神話に頼ることを厭いません。アリストテレスではすでに縮小が起こっており、彼は、もはや経験的な知覚だけにとどめ、それを理性で整理し、論理で体系化することしかしようとしません。こうして、西洋の抽象的な枯渇のメカニズムは進行していったのです。
 このメカニズムに対して平衡を与えたのが、キリスト教によって生じた宗教の湧き水です。そこにもスコラ哲学の神学を育てたギリシャの合理主義がたちまち入り込んできてスコラ神学を育てましたが、それでも内的生命の生き生きした源泉と、その跳躍、熱情、法悦への根本的な回帰が行われました。
5  しかし、合理主義の歩みは抑えられず、それは宗教の失墜をもたらします。十七世紀以来、フランシス・ベーコンを先導者として、デカルト、ライプニッツをはじめとし、ニュートンにいたるまでの偉大な思想家たちによって、精神生活をもっぱら合理主義で占有することが行われました。精神生活は、科学とその方法の厳密な確立を推進することしかせず、物理的実験と確認された論理に根拠をおいていないすべてのものに対する非妥協性を強調するだけでした。世界の神秘に対して、一般的法則網(この法則でとらえられないものはすべて否定してしまおうとする法則)がこれに取って代わりました。
6  ここから人間精神の危険な偏向が生ぜずにはいませんでした。宗教は、世界や人間の中にある理性でとらえることのできないものを理解しようと試みたことによって非難されるようになったのです。しかしながら、“神秘”の概念は、理解できなくなっていったものの、十七世紀においては依然として根強いものでした。なぜなら、ボシュエ(フランスの神学者)は、まだ、われわれは右手と左手にそれぞれロープのはじを握り、二本のロープがそれぞれ反対の視界の彼方に消えていっているのを眺めながら、それらが無限の彼方で一つになることを認めるのを拒否しようとしているもののようであるといっていました。ここにデカルトより少し後の時代の人でしたが教会の人間であった偉大な精神の持ち主ボシュエは、理性を超えるなにものかが存在し、それらの境界はおそらく物質的経験の境界と一致することを信じていたのです。
 しかし、やがて、宇宙の創造主、調整者としての唯一神に対する信仰は弱まっていきました。組織的科学の形成につれて、無神論がヨーロッパに広がっていきました。
7  物質科学の進展と、その発見したものの確かさやその応用性の豊かさ、それらが授けてくれた宇宙の力に対抗していく新しい能力、そうした力の物質的起源を理解して、これを支配したり、再生したり、利用したりする能力等によって強まった現代人の傲慢は、古代の神話を受け継いで人格化された神の前にひざまずくことに嫌悪を覚えさせました。現代人は、法によって説明することのできる、すなわち物質的原因と物質的結果の関係によって説明できる、もっぱら物質的世界に自分自身で立ち向かっていけば十分であると考えたのです。
 こうして何世紀ものあいだ、原動力である“精神”の絶対に確かな英知を称賛してきたのに、現代人は、それを理性で理解できる規律や法則のメカニズムを摘出します。あなたは人間の“尊厳”といわれましたが、そこには“傲慢”が付け加わったのです。
8  合理的物質主義の流れは、究極のものとして人格的な神の概念を押しつけるのでなく、“法”を打ち立てる仏教のような宗教によって、現在よりも高揚されるチャンスがあります。
 しかしながら、“法”の意味は、ヨーロッパ人にとってあまりはっきりしていないようです。私としては、何度も申したことを繰り返しますが、つぎのように解釈したいと思います。表面にあらわれている現象を超えて、とくにその存在の根源にまで遡る内省をとおして、各自の心の底に、より普遍的真実を理解する力があるということを、それぞれの人間に認識させなければなりません。私たちはすでに大海の比喩を用いましたが、これがわかりやすいでしょう。一人ひとりの人間は一つひとつの波でしかなく、その波は、表面的な、一時的なもので、大海そのものではないということです。大海は、深いところに存在し、そこに海の全体をつくり一つになっているのです。表面的な認識を超えて、したがって自我を超えて、人間は自己自身の内部へと降りていかなければなりません。そして、ついには宇宙やその究極性の意味である、深奥の認識へと近づかなければなりません。
9  なにに向かって世界は進んでいるのでしょうか? 宇宙にはなにか意味があるのでしょうか? どこかへ行くのでしょうか? 世界を引っぱり、認識できる進展によってこの世界を変えているこの持続的な力はどこへ向かっているのでしょうか?
 私が“法”の認識と呼ぶのは、現象世界の背後にあってひきおこし、方向づけている、この力を認識することです。
10  池田 現代においては、本来、信仰というものの占める位置が、不当に低められているように思われます。
 それは、あなたも指摘されているように、理性への過信が、原因の一つになっています。私は、理性への過信こそ、現代文明を毒している、誤った信仰であると思うのです。
 理性は、信をおく対象が正しいかどうか、信をおくにふさわしい対象であるかどうかを吟味するために働くべきものであって、理性を信の対象とすることも、また、理性は信を否定するものであると考えるのも、誤りであると思います。
 信仰と理性との、この問題について、あなたのお考えをうかがいたいと思います。
11  ユイグ ご指摘の点は、本質的なものであり、問題の核心に触れるものだと思います。あなたがいわれたことは、あらゆる時代の人間についてあてはまりますが、私たちが直面している危機においては特別な鋭さをもっています。
 しかしながら、理性に対抗させて用いられている「信仰」ということばについて、まず明らかにしてみたいと思います。「信仰」ということばを、啓示とかあるいはある押しつけられた考えとかを受け身の立場で絶対的に信じこんでしまうことと同義であるとして、軽蔑的な意味に解釈されることが往々にしてありますが、このような卑しめた意味で理解してはならないと思います。実際には、この「信仰」ということばを通じて「理性」というもう一つのことばに対抗しているのは深い直観です。
12  私たちは現実を理解するのに二つの方法を所有していることを思い起こしましょう。一つは本質的に私たちの感覚からくるもので、これは理性によって明快に整理されます。もう一つは事物の神秘に触れ一種の注入をすることで、そこから井戸を掘り当てたときに地底から水がほとばしるように、神秘の深遠が光に向かって噴出してくるのです。
 この二つの認識の方法、すなわち客観性の有用性だけにとどめておこうとする理性的方法と、それより不確かではあるがもっと深いところへ入り込んでいく直観的方法とを比較対照すると、基本的な二元性が立てられるでしょう。
13  これら二つの認識方法のあいだには、つねに多かれ少なかれ争いがありましたが、現代においては、理性がすべてを解決するものとして、独占的地位を占める傾向にあり、この敵対関係はいっそう強まっています。もっと古い時代の、信仰が盲信となっていたときは、信仰が逆に支配的かつ有害な役割を演じました。私たちがもっている力がしばしば敵対関係にある場合、これらの力のあいだに協調と均衡と相互補完性をどう打ち立てるかが、つねに問題となるのです。
14  池田 「信仰」ということばは、あるもの、あるいは、ある人を絶対的に信頼することを意味します。この信ずる相手が現実に生きている人間である場合、信仰することは、ある特定の人物を絶対化し、多くの人びとの隷属化をもたらすことがあるため、人間の平等の尊厳という理念に反し、それが広範にわたり、盲目的になった場合は、民主主義を脅かすことになるゆえに、現代社会においては警戒されます。
 また、信じ従う対象が現在生きている人間でなく、ある人の教えである場合、信じ従うということは、理性による検討の放棄であるとして、これもまた、軽蔑的にみられる傾向が現代では強いようです。さらに、だれか他人の教えでなく、自身が予感したり直観したことについても、信じ従う場合がありますが、これもまた、予感や直観がしばしば誤りを犯すことがあるため、それにかんたんに従うことは愚かであり、ときには危険であるとされます。
15  これらの信仰に対する軽視や警戒の態度には、たしかに歴史の教訓から得られた慎重さもありますから、それを軽々しく否定することはできません。しかし、その半面、理性それ自体も、それほど信頼できるものでないことも明らかです。いわんや、この世界のすべてについて、人生のあらゆる問題について、理性によって検討ができ、判断を下すことができると思い込むのは、あまりにも現実を無視しているというべきでしょう。
 根本的にいって、私たち人間は、まったく誤りを犯さないということはできません。これを大前提にしてかかることが、誤りを最小限に食いとめ、また誤りによる弊害をできるだけ軽くするために大切です。
16  つぎに、そうした誤りを防止するために理性は、きわめて有効な働きをしますから、できうるかぎり、これを駆使すべきです。もとより、理性が正しく働くためには、磨き、鍛錬することが必要です。
 しかし、どんなに鍛え、磨いて強靭にしても、理性が働きうるのは、右の場面においてであって、私たちが、人間として人間らしく生きていくためには、理性の及ばない場面につねに足を踏み出していかなければなりません。すなわち、つねに現在の生がそこへ向かっていく“未来”がそれです。
 もちろん、さまざまな事象には、あるていど恒常的な法則が働いていますから、過去がどうであったかを理性によって吟味することによって、あるていど見通すことができます。しかし、事象の中に働いている法則のすべてを自分の理性で知ることはできませんから、だれかがそれをすでに解明している場合、その解明の結果としての教えを信ずることが、未来へ向かって事態に対処するための有利な手段になります。
 もし、そうした先人の教えを知らないか、または、教えたものがない場合は、自ら予感ないし直観することが、未来へ進むための案内役になるでしょう。この場合も、私たちは、自らの予感や直観を信ずるのです。いや、未来に関しての予感や直観ばかりではありません。現在、自分が見、聞くことについても、私たちは、自分の目、耳を信じてそれを受け入れているのではないでしょうか。
17  このように考えると、信ということは、理性と対立したり、同じ次元にあって互いの領分を争い合うものではなく、あらゆるものが信を経て私たちのうちに取り入れられるのであり、理性もまた信の対象の一つであるということになります。ただし、理性は、この信ずるものについての正否の吟味をする役目もします。したがって、往々にして、理性そのものは吟味の対象から漏れてしまうことがありますが、理性は自身をも吟味の対象としなければなりませんし、理性は自らを吟味する明晰さと知恵をもっているのです。信仰は、現にあるだけの自分を超えて、さらに遠く、深く進んでいこうとする人間にとって、それなしではすまされないものです。もとより、可能なかぎりの理性による吟味はなされなければなりません。しかし、理性の及ばない世界へ進み、精神的な高みへ到達するには、信仰がなければならないことを私たち現代人は認識していくべきでしょう。そしてその信仰の対象は、仏陀のような優れた先人の教えであるとともに、私たち自身の生命の深奥に直観されるものであるということができましょう。
18  ユイグ 理性を盲信するのは、まさにご指摘のとおり、問題の方向を誤らせる矛盾です。理性は、創造しませんし、啓示もしません。それは理性に従うすべてのもの、また理性を育むすべてのものを明快に恒常的に統制することを可能にするというかぎりで価値あるものです。したがって、理性は本来的に信仰を否定するものとはなりえません。私たちの認識が合理的と呼ばれるメカニズムや対象に限定されてしまうものではないということを理解するのに十分な明晰さと賢明さとを、理性はもっているはずです。
 理性の根は深く、論理的な体系が理解できるだけのものをはるかに超えてさらに深くまで及びます。信仰の弱さは、それとは反対に、客観的なコントロールの方法をもっていないということです。信仰は、不正な手段によって、盲信や精神機能の衰弱をひきおこし、権力をもってなにかを断言されるとそれに盲目的に従ってしまうようなことにもなりかねません。
19  信仰が価値あるものであるためには、内的な努力から起こったものであることが必要です。理性についても同じことがいえます。というのは、忘れがちなことですが、理性のほうでは、どのような主張においても理屈づけと証明をみつけることができるからです。そのことは、ギリシャのソフィストが十分に証明しました。したがって本質的なことは、確かな啓示に直面させてくれる深い直観的な誠実さへの偉大な努力です。科学自体のあらゆる大発見の根源も、これだったのではないでしょうか。理性は、その発見をコントロールしたり、それを利用したりするためにのみ介入するのです。問題は、“明証”に到達することです。
20  池田 現代人が信じているのは別の“真理”です。現代の人びとは欲望を満たすことが人間的自由の本質であるかのように考え、人びとの欲望を満足させることが人間尊重ということの本義であるかのように考える傾向があります。この欲望を全面的に是認する思考法が、現代社会の病根になっていることは、きわめて明瞭です。
 しかし、だからといって、社会的権力によって個人の欲望を抑制することは、人間の自由を抑圧することになりますし、また、貧困のために欲望が満たされないような状態は悲惨という以外にありません。欲望を抑制するのは、あくまで欲望をもつ主体者としての個々人の良識・意志力でなくてはなりません。その良識と意志力を個人個人が自らの内に築くため、源泉となり原動力となるのが、私は、検討しぬかれたうえで信をおいた宗教であると思っています。
21  ユイグ 人間が欲望を満たすことへと向かっていることは、現代文明が根拠をおいている物質主義の避けがたい結果です。欲望は本質的に人間と他のものとのあいだの渇望の関係で、この“他のもの”が物質的環境にかわると、欲望は最も具体的な、すなわち最も低いかたちをとることになります。これは治療しなければならない欠陥です。
 そして、人間を再教育することなしには、すなわち人間を物質の世界に向けさせる欲望以外の欲望を人間に与えることなしには、この治療はできないでしょう。ここに、私たちがすでに何度も繰り返して語り合い、いまや共通の考えに立っている本質的な問題があります。すなわち根本的なこととして質の探求を教えなければならないということです。教育に与えられ、教育を修正すべき方向については、以前に概略を示しました。それは、厳密にいいますと、具体的で物質的な事物の研究に限定するのでなく、質への感覚を養成するために“事物”を教えるようにし、そこから、あらゆる広がりを認識できるようにすることです。すでにいったことですが、芸術は、そのためのとてもいい出発点となるでしょう。
22  こうした教育によって、最も広い意味での宗教的精神のルネサンスがもたらされるはずです。何度もいいますが、宗教の意義は教義や儀式の中にあるのではなく、私たちを包含しながら、しかも私たちを超えているなにものか、ふつう「神」ということばに要約されるものへの飛翔を私たちの内にめざめさせてくれることでなければなりません。
 先にも私はもっと自由な表現として「無限・アンフイニ」ということばを使いました。これは、この物質の世界、具体的世界があらわしている、「終わったフイニ」様態から解放してくれる、限りない暗示をもっています。この「無限」ということばは、目的は、手をさしのべて物をとらえるようには“到達”できないということを示しています。これは、絶えずさらに遠くへといかなければならない実際的な一つの方向でしかないのです。人間を超えるもの、神性と呼ばれるもの、そして、哲学者が「即自存在」「絶対」として示すものは、限界のあるものしか厳密にはとらえられない私たちの知的理解力の射程にはありません。この「存在」に達したいという憧憬は、終わりのない努力を暗示しており、それは進むにつれて、それだけ、さらに自分を超えて遠くへ行こうという願いを強めさせるのです。
23  そういうわけで、すでにみましたように、宗教は、変わらずに有益である最初の衝動を別にすれば、規定され確立された教義や変えられない儀式といった拘束的な形式主義の中に硬化してしまわない場合にのみ、効果があるのです。宗教は、人間に規則や組織化を押しつけるよりも、精神的推進力をもっていてこそ、より価値があります。そしてたしかに、仏教は、とくにあなた方がそれを受けとり、表現されているかたちにおいては、私たちを拘束するこの束縛から解放されているようにみえます。仏教はとくに、人間を高めて、限界のない道に人間を導くこの本質的飛躍を叶えてくれるでしょう。
24  結論として、人間の概念についてつぎのように要約できるでしょう。まず第一に本質的な必要性すなわち、生きることがあります。人間はその生命を維持しなければなりません。したがって人間は、その体質に由来する物質的欲求、たとえば生命を保つための食物、性などを満足させなければなりません。そして生命は事実、やがてその後の完成を達成するために存続していく義務があります。ここに、つねにめざめた意識が、しっかりした意志に支えられて確立されなければならない理由があります。というのは、生活に不可欠かつ必要なもので満足してしまうことは、まちがいなく人間に課せられた歩みを妨げることになるからです。
25  しかしこの歩みは、行き当たりばったりであってはなりません。生命やその条件についての確かな意識のうえに根拠をおかなければなりません。知性が働かなければならないのはそこです。私たちが存在によって投げ出されている状況を理解し、正確にそれがわかるために知性があるのです。したがってこの認識は、繰り返していいますが、私たちの生命を確保する外的世界だけでなく、内的世界の認識へも向かっていかなければならないでしょう。この内的世界の認識こそ、生命が確保されるや、その存在理由とその活動をも満たしてくれるものです。私たちは知性によって、それらを明晰にとらえられるようになるのです。
26  こうして、私たちは、この歩みの第三段階に到達します。いまや認識によって保証されたこの歩みは、正しい方向へと向けられなければなりません。そして、そのためには、人間は“創造”全体や、その創造に加わるためにきた生命や、その中で最も完成されたかたちである人間の生命や、さらには、それを構成する要素である個々人の生命などの本来の方向を予感し、さらに理解さえしなければなりません。こうして私たちの究極的な存在理由を覚知することによって、私たちは精神の広大な分野に導かれます。
 したがってまず私たちの存在を確保するための物質があり、つぎに生活の場や私たち自身についての行動を明らかに理解させてくれる知性があり、そして最後に、生命と私たち自身の存在理由を垣間見させてくれるために精神があります。宗教は、この精神の分野においてその本質的役割を果たしうるのです。
27  しかしながら、宗教が人間の能力の多様性に適応するものでなければならないことは明らかです。精神的にそれほど発展していない人びとに対するときは教義や儀式をまとっていることも必要でしょう。もっと大きく発展した素質を示す人びとには、教義や儀式、戒律は、本質的使命として人間に示される神秘的飛躍を前にしたとき、消えてしまうでしょう。
 しかし、さらに高い段階にいる、ある種の人びとは、自分自身で、もっぱら自らの人格の努力によって前方への歩みを試み、それが導いてくれる地平線のかなたの天啓への歩みを試みることができるし、また試みるべきでしょう。私は、それこそ、高遠な義務であると思います。また、これは、歩みというより上昇というべきです。山登りと同じように、あまり上手でない人びとはロープを結びつけて、それに導いてもらわなければなりませんが、自己の努力に責任をもつ孤独な登山家もいるはずです。彼らは孤独であることによってそれだけ称賛に値するのです。
 人間一人ひとりがさらに遠くへ行こうとする野心をもつべきですし、また自己にあまり多くを要求しないよう気をつけることも必要です。人間は、さまざまな段階の可能性の中から、自分に合ったもの、自己の開花のために最も効果的な段階をみつけることができなければなりません。

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